堀川くんに渡された水を飲み干し、ヘルメットを持ってグラウンドへ飛び出た。
審判に注意されないうちに、せわしなくネクストサークルに向かう。
グラウンドではまだ横浜港洋のボール回し、及び投球練習が続いている。
勿論、中島はキャッチャーボックスでデンと構えて雰囲気を醸し出している。
試合前には意識しなかったが、中島とは「あの時以来」になるか。
中島とは小学生の頃から、よくキャッチボールをしていた。世間にサッカーブームが押し寄せる中、俺と中島は「野球」というスポーツに魅せられ、その虜になった。
中学になって二人とも同じ学校に進むと、迷わず野球部に入部。
希望に胸を膨らませて門戸を叩いたが、現実はそう甘くなかった。
それまでは野球を遊びでしかやった事の無い俺達は、少年野球やリトルリーグで鳴らしていた同級生たちにあっという間に差を広げられ、レベルの一回り劣る俺達は邪魔者扱いされるようになった。
見かねた監督から「特別メニュー」として言い渡されたのは、グラウンドの隅で毎日筋トレとストレッチ、それからキャッチボール。それが唯一許された練習だった。
先輩はそんな落ちこぼれの俺達を可笑しく囃し立て
『お前ら2人は野球部じゃない。キャッチボール部だ』
と揶揄した。それが悔しくて不快で仕方なかった。
それでも野球部を辞めることはなかった。どんな形であれ、野球に触れていることが幸せだったからだ。
ある日のこと、同級生が先輩に交じってノックを受けているのを傍目に、中島はこんな事を聞いてきた。
「なぁ、磯野はどのポジションをやりたい?」
試合はおろか通常の練習に参加することすらままならない自分にとって、どのポジションに就くかなんてことはまるで考えたことが無かった。
「そうだなあ・・・。やっぱりピッチャーかな」
「そうか」
そう言うと中島はグラブを持って、距離を計るように歩数を数えながら大股で歩き出した。
「17、18っと。よし、磯野!投げてこい!」
中島がキャッチャーさながらに座り、グラブをこちらに構える。
「いいのか?俺達キャッチボールしか許されてないだろう?」
「ボールを投げることに変わりはないんだから大丈夫だよ。それに監督は俺達の事なんか気にしちゃいないさ」
グラウンドを気にする。誰一人こちらの事など気にしていない。蚊帳の外という言葉がピッタリな有様だ。
「それもそうだな。よし、行くぞ!」
その日から、俺と中島でのピッチング練習が始まった。
「脚に開きが早いよ、それじゃあスピードは安定しない」
「踏み出した足跡を見れば、体重移動が出来てるかどうか分かるよ」
「磯野のスライダーは絶対高めに浮かないのが特徴だね。これは武器になるよ」
どこで得たのか、中島は豊富な知識で俺を指導してくれた。その指摘もまた的確で、そこに運よく成長期が重なったこともあって日に日にボールの質は良くなっていった。
結果が伴えば、ストレッチや筋トレといった単調な練習にも気合が入る。ついには自主的に毎晩のランニングをこなすまでになった。
そんな生活が2週間ほど続いたある日。
「磯野、中島。お前らちょっと来い」
練習後、監督に呼びつけられドキッとした。指示されたメニュー以外の練習をしていたことがついにバレてしまったようだ。どう言い訳するべきか。
「明日から皆の練習に参加しろ。磯野はピッチャー、中島はキャッチャーだ」
叱られるとばかり思っていた俺は、監督のその言葉に目を丸くした。日ごろの努力が認められ、練習に参加することを許されたのだ。
ついに普通に野球ができる、俺達はキャッチボール部から脱却したんだ!中島と言葉にならない喜びを分かち合い、胸いっぱいの希望を持って家路についた。
「じゃあな、中島!レギュラー取れるように頑張ろうな!」
「磯野、お前もエースになれよ!じゃあな!」
それが中島との最後の会話になるとは思いもしなかった。
次の日、登校するとそこに中島の姿は無かった。
中島が転校した事を知ったのはその日の朝のホームルームのことであった。
中島の身に、あるいは中島の周りに何があったのかは今でも知らない。
新しい転校先も連絡先も分からず、情報といえば担任から伝えられた「神奈川へ転校した」ということのみ。
転校が腹立たしかったわけではない、連絡先すら教えてくれなかったことに怒りを覚えたのでもない。忽然と姿を消したことが、単純に悲しかった。
あの春からおよそ5年ぶり。まさか再会の舞台が甲子園の決勝となるなんて、当時からすれば全く想像できないだろう。
昔話を思い出すのは切り上げ、バッターボックスへと向かう。右打席に入り、しっかりと足場を固める。
ちらりと、中島を見る。
「久しぶり」
「よぉ」
何が「よぉ」だ。人の気も知れないで。
バットを一度大きく回してから構えに入る。横浜港洋のピッチャーがモーションを起こした。
外角に外れるボール、余裕を持って見逃す。
「磯野は緩いボールを良く打ってるよな。じゃあチェンジアップは要注意だ」
囁き戦術か、裏をかいて緩い変化球を投げてくるか。
素早い腕の振りから繰り出される、縫い目が見えそうな見事なチェンジアップ。
狙い通り。
カキィン!!
完璧に捉えた、低弾道のライナーがレフト線を襲う。快音につられて歓声が起こる。
二塁を狙うためベースの手前で膨らんだ走路を取る。二塁へ滑り込むタイミングはどうだろうか、打球の行方を見届けるためレフト方向を確認する。
なんと、ライン際の打球にも関わらずレフトが既に落下地点に入っていた。会心の一撃は難なくグラブに収まる。アウト。
どうやら、予め守備位置をシフトしていたようだ。
俺が思慮を巡らせてチェンジアップを狙うことも、それを力一杯引っ張ることも、全て中島は読み切っていた。
グラウンドに落ちる日差しが一層強くなる。野球の神様が俺に「甲子園は甘くねぇぞ」と訴えているようだった。