夕暮れに滴る朱 作:古闇
一〇月の初旬、時刻は昼と夕方の境目。広場で燐子の手を引っ張り、目も前のピアノコンサート会場を目指す敬太は幸せだった。子供の時以来、手を繋いだこともあってか、壊れ物を触るかのような初めての感触だ。
敬太は燐子に対する想いが友情なのか、恋心なのか未だわからない。無邪気な子供時代、燐子と結婚する約束をしている。だが、一度全てを燐子の住む街へ置いてきてしまったせいなのか、自身の気持ちを把握できないでいた。
燐子と再会した時は何かわかるのではと考えていた彼だが、わからずじまい。けれども、一緒にいて嬉しいし、居心地の良さを感じている。何故こんなにも自身の心がわからぬのか、内心もどかしさでどうにかなりそうであった。
次に敬太は、もしも告白したならこの気持が理解できるのではないか、と思いたつ。
けれど、告白をするにしてもピアノコンサートが終わった後がいい、とも考える。何せ告白に失敗した場合、ピアノコンサートを鑑賞する気分ではなくなるからだ。燐子を連れてくるため来ている。それは敬太としても避けたかった。
そんなことを思い巡らしていると、突如指揮系統が乱れたように脳内の信号が一部途絶え、不協和音に似たノイズが頭の中を駆け走り、敬太は「ぐっ」と呻き頭を抱えた。
敬太との手が離れた燐子は、突然痛みを訴える彼を心配する。
「ご、ごめん。急に頭が痛くなってね。……うん、もう大丈夫だから、会場に行こうか」
頭を抱えた手を離し、場を取り成そうとめいいっぱいの笑みを浮かべる。
しかし、敬太の思いに反して燐子は数歩後退する。敬太は燐子の行動に困惑するも、それを余所に燐子は敬太と繋いだ手の平を一瞥し、目を見開いた。
「りんちゃん、どうしたの、僕に何か付いていたのかな?」
問いかけられ、燐子は慌てたように敬太の動向に注意する。それから怯えの瞳で体を震わせ、何を一瞥したかわからぬよう片手で手を覆い隠した。
「……けーくんは……………けーくんなんだよね……?」
まるで追い詰められた小動物だった。敬太は唐突な燐子の変化がショックで考えが真っ白になり、思いつく言葉をそのまま気持ちを吐露する。
「へ? 僕は僕だよ、それ以外に何に見えるのさ?」
困り果てた敬太は片手の指で軽く頬を掻く。だが、何てことのない仕草が燐子の恐れを加速させる。「……ぃ……嫌……」と声を震わせ、化生にでも遭遇した有様だった
最早、甘酸っぱいような雰囲気は霧散した。それほどまでに敬太の風体がおぞましい現われでもあったのだ。
頬を指で掻いた頬は皮膚をヤスリで擦ったように削れ、赤々しい筋肉の繊維が露出。頭部は一部髪の毛が抜け落ち、燐子の手の平にはドロドロに崩れた人の皮膚が所々にベッタリと張り付いている。
肉体が自然と崩れてきているのに痛くはないと平然と笑ってしまえば、燐子を恐怖を刺激してしまうのも当然だった。
しかし、無意識ではあるものの、敬太はそういったモノであるがゆえ、自身の異質さには気づいていなかった。
「い、嫌? えっと、ごめん……何が悪いか教えてくれないとわからないよ」
状況は敬太らしきモノに都合が良く、周囲に人の姿は見られない。彼は無自覚ではあるが、その役目を果たすため、一歩を踏み出した。
――そして、世界は急速に赤くなる。
初めはピアノコンサート会場の上部から赤が侵食し、コンクリート、広場、噴水の順に赤に染まる。赤く侵食された地表からは赤い霧が発生し、生暖かい淀んだ空気が流れる。周囲の風景は夕日に染まるだろう色より赤くなり、そうして真っ赤に染まった。
燐子は立て続けに起きる異常事態に脳内処理がおいつかず、パニック状態になる。が、それは敬太も同様であった。
そして、何処からともなく童話で見る赤ずきんのような格好の少女が現れる。敬太なら一度遭遇したことのある不幸少女だ。
赤頭巾の手には両手で抱えるほどの大きさのピンクの熊ミッシェルで手が塞がっている。
「……グーテン アーベント…………ミッシェル……なに……ちがう?」
赤頭巾が二人に話しかけたかと思うと、その両手に抱えているくまの人形を反転させてミッシェルと会話をする。
幾つかの小さな呟きをする少女はミッシェルとの相談事を行い、一人会議を終わらせると、再び熊の人形を反転させて正面へ向けた。
熊の人形を自身の片手で支え、もう片方の手で熊の人形の手を挙げさせる子供らしい仕草。
「こんにちは?」
赤く染まった世界に独りで人形遊びを行う者としか思えない少女。
燐子は硬直したまま動かず、敬太は言葉に詰まって「こ、こんにちは」と挨拶を返した。その後、赤頭巾の視線が敬太に固定される。
「……ドロ……のひと……気持ち……不幸……?」
単語で話すため理解が難しい。けれども、自身の心情を尋ねていることはわかった。
「そうだね、今日は急なことが起きて……戸惑いばかりが大きいかもしれないかな」
「……ん……これ……プレゼント……ミッシェル……
赤頭巾は両手で熊の人形を水平に抱え、頭を敬太の方へに突き出す。
啓太は何をするのかと頭に疑問符が浮かんだ。
「……ファイヤー」
ポンッと小気味よい音を鳴らし、熊の人形の頭が人形の胴体から勢いよく射出され、敬太目掛けて襲いかかる。
急な攻撃に慶太は戸惑いながらも、ドッチボールのごとく自身に飛来する熊の頭部を、体を捻らせることでどうにか避けた。
けれど、赤頭巾の攻めはまだ終わってはいなかった。
「こっち」
「……えっ?」
それは一瞬の出来事。
赤頭巾は熊の人形の頭部を射出した後、その人形を燐子の方へ放り捨て、透き通った大鎌を片手に出現させたのち、少女に相応しくない大きい得物を両手で握り締めて突撃したのだ。
敬太が赤頭巾と視線が合致するのと同時に、赤頭巾は敬太の股から上段に斬り上げ、彼の体に風圧を叩きつける。すると、敬太の身体は真っ二つに吹き飛びながら空中で崩壊し、崩れ、地面に肉片や流血を撒き散らした。
敬太はあっけなく絶命する。
「
大鎌は大した汚れもなくその手にある。敬太を躊躇なく殺した赤頭巾はありきたりで日常的作業だとでもいうように風に淡々としていた。彼女の周囲には肉片が撒かれ、アクセントとなって、より一層に不気味さを引き立たせる。
放心から立ち直らない燐子は敬太の様を紙芝居のように眺めていた。いつの間にか腰を抜かしてしまったらしく、地べたに座り込んでいる。
燐子は、友人の異質化、殺害、異空間が合わさって、既存の世界から弾かれてしまったような疎外感を覚えた。
それから、地べたに座り込んだことで、燐子は自身の膝先にいるピンクの熊人形ミッシェルが視界に映った。その頭のないミッシェルは地面に転がったことで真っ赤に染まっていた。
放心する燐子を他所に、赤頭巾は大鎌を片手に持ち替え、何も手にしてない方の片手で指を折って、数え始める
「敵対……
指を三つ折り曲げると、わずかに口元を緩ませた。指の数は田町家全員と同数だ。
そんな赤頭巾に意見をするように、頭部だけのミッシェルが転がり訴える。赤頭巾はミッシェル人形の行動を察知し、無表情の顔で燐子へと顔を傾けた。
頬けていた燐子は赤頭巾と視線を合わせてしまう。すると、先ほどまでなかった現実感に意識を引き戻され、意識が覚醒する。
「…………ぁ……に、逃げ……ないと……」
今まさに人のカタチをした者を殺した少女が自身を見ているのだ。自然と目から涙が溢れる。
生存本能から四つん這いながらも逃げようと赤頭巾の反対方向へ進む。けれども、燐子は何者かに片足を掴まれて移動を封じられた。
燐子は何事かと自身の足に顔を向ける。
「…………ひっ」
頭部のないミッシェル人形が燐子の片足をがっしりと掴んでいたのだ。地面に固着したように足が固定されまるで動かない。
燐子はミッシェル人形を掴み、放り投げようと力を込めるも僅かも動かない。その間にも赤頭巾が燐子の方へと一歩ずつ距離を詰めてくる。
「……おね、がい……は……離して……っ!」
涙で顔を濡らし、ミッシェルをどかそうと必死であった。だが、無常にも燐子の視界には赤頭巾の靴が映っていた。
ゆっくりと見上げれば、赤頭巾がそこにいた。少女は大鎌を振り上げる。
敬太を殺した時とは違い、大鎌全体が陽炎のように揺らめいていた。燐子の瞳から映るそれは次の犠牲者を望んでいるようだった。
都合よく、ヒーローも現れない。
赤頭巾は感情のない瞳で、燐子の頭上へと無慈悲の刃を振り下ろし――
――白金燐子を切り裂いた
読者のメンタルに被害を与えるようなSSですが、お付き合いいただければ幸いです。