夕暮れに滴る朱 作:古闇
夏休みの終わりがもうそこまで迫ってくる時期。花音が私の家に泊まった後、遠回しに兄さんのことを聞かれた。
兄さんに関わって、花音が体験した異常な現象に巻き込まれて欲しくない。そのため、花音のお願いを断わった。
あれから時間が経っているけれど、釘も刺しておいたのだし引っ込み思案な花音ならこれ以上詮索はしないと思う。
まさか、母の言葉を気にして兄さんを探したりはしないだろう。
ましてや人様の家の事情、こちらが断れば踏み込んだ行為をする彼女ではない……ただ弦巻さんと関わってから性格に変化があるから多少不安だった。
それはそうと、嬉しいことが一つある。
花音が家に泊まった後から、自宅で不可解な視線や壁を叩いてくるなどの怪奇現象はなくなった。
理由はわからないけど、何にせよ自宅で落ち着いて過ごせる。
もし私の家にペットがいたならあの視線に気づいてくれたのだろうか。
しかし、命ある動物を飼うのは今の私には無理そうだった。
悪いことも一つある。
薫が通う羽丘女子学園の演劇に出演して欲しいと直接会いにきてお願いされた。
自分が望んで女優業と音楽活動をしているけれども、今の家庭の事情に加えて演劇の参加は私の精神負担に重くのしかかってしまう。
薫の演劇部は数多くある学園、学校の中で人気のある実力派。薫のファンクラブさえあり、何処かで集会を開いているのだという。
薫は役者として天才である。それに加え、この街から離れている間に修羅場でも潜ったのか、大人の怒号を平然と流せる私ですら震え上がらせる眼力を持つ。
なので、薫と共演するならば相当神経を注がなければならないと考えている。
だから、私は他校の演劇の参加を断り、それに対して薫はあっさりと引き下がった。
演劇部のミーティングで私の名前を挙げる前に一声聞きたかったそうだ。
いつもより優しい気遣いの言葉を貰ったから、親を通して私の現状を知っているか、私の様子から察したのかもしれない。
それなのに……
「どうしてここにいるのかしらね、ここは関係者以外立ち入り禁止なの知ってる?」
レッスンの休憩の合間、薫が私達に近づき挨拶と軽い自己紹介をしたあとに各々がそれぞれの対応で返す。話し終わるのを待ち、最後に挨拶してすぐ私が返した。
芸人でもない薫がパスパレのレッスン部屋に見学に来ている。
バイトや社会の仕事をしていると聞いたことがない、一人でレッスン部屋に入ってきているし誰から教わったのだろう。
「聞いてくれ千聖、どうやら私の美しさに門を守る精鋭の兵士達ですらこうべを垂れてしまってね、凱旋を喜ぶ民のごとく迎い入れてくれたんだ」
「単語で結構」
「お使いさ」
とても爽やかな笑顔で満足そうだった。
「お使いって……子供じゃないのよ? 音楽の先生も薫を追い出さないようだし、何をしたの?」
「あちらにいる麗しいレディのことかい? ちょっとした手回しさ」
薫が音楽の先生の方へ視線を向けるものだから、こちらに気がつき軽く頭を下げ薫も返す。
「もう一つは君を心配している人からちょっとしたお節介、というところかな。普通ならこういった所に入らせて貰えないから貴重な経験だね」
「お節介……それは私の知っている人かしら?」
ありがたいことに私は人に恵まれ、元専属マネージャーもそうだけど他にも思い当たる人がいた。
「ふふっ、想像にお任せするよ、女という生き物は何かと秘密主義らしいからね。けれど千聖が私のことを『かおちゃん』と呼んでくれたのなら考えが変わってしまうかもしれないね……ああ、儚い……!」
「私が困ることでもないのだし呼ばないわ。そうよね、『薫』」
「……そうだね、千聖……なんて、儚い……」
見てわかるほどに露骨に落ち込んだ。
薫の根は変わっていないと思うけれど「かおちゃん」と呼ぶには幼いころの成分が少なすぎて抵抗があった。
昔は高所恐怖症だったのに、今では高いところが好きだという。
落ち込んだ薫はすぐに復活する。それから、普段掛けているメガネを外し、肩までつくセミロングの大和 麻弥(やまと まや)ちゃんに話しかける。
「やぁ、麻弥。普段の知的な君も魅力的だが、今は野に咲く花のような可憐らしさを感じるよ」
「たはは、ありがとうございます。薫さんもいつもと変わりなく素敵ですね」
「ありがとう、素敵であることは私に課せられた責務だからね、当然のことさ。突然で申し訳ないんだが麻弥にお願いがある、どうか聞いて欲しい」
標的が私から麻弥ちゃんに変わったことで薫は私から離れた。
「はい、何でしょうか? ジブンに可能な範囲のことでお願いしますね」
「もちろんさ、文化祭の演劇の件なんだ」
「あー、そのことですね。創設記念の今年は、早い時期から演目が固められロミオとジュリエットに決まりつつありますね、それと今回の配役についてある程度決まっていると聞きましたが」
麻弥ちゃんがちらりと私を見て、薫も同じようにこちらを一瞥する。
パスパレのみんながいる中で二人して私を説得するつもりなのか。
「そうなんだ。殆どの部員が集まり決めたことで、事後承諾になり申し訳ないんだけれど、ジュリエット役は麻弥に決まったからよろしくお願いするよ」
「はい、わかりました! 千聖さんの……ふへ? …………ははは、聞き間違えでなければジブンですか…… 冗談ですよね……?」
「ははっ、そんなに快い返事を貰えるとはね、喜んでもらえて何よりさ」
麻弥ちゃんが信頼していた相手から後ろから襲いかかられる驚き方をしている、先程の薫の視線はブラフらしい。
「いやいやいや、無理ですって! ジブンは裏方じゃないと駄目だって知っているでしょう!?」
「配役が決まった日は、予定があった麻弥だけが演劇部に出席できなかった日なんだ。だが、元気よく騒いでくれているしやる気で溢れているね……うん、良かったよ」
「お願いですからジブンの話に向き合って下さい!」
珍しく、普段から冷静に物事を見るはずの麻弥ちゃんが混乱していた。
薫は人の話を聞かず自身の都合で話を進めてしまうところがある。
今回に関して麻弥ちゃんに悪いけれど、私のために犠牲になって欲しい。
「麻弥がジュリエット役をする話は十分に理解しているが?」
「あ、ちがっ……そうじゃないんですよ、薫さん!」
まだ話の続きがあることを聞かずに、薫は白い髪を左右に三つ編みで結わえている若宮 イヴ(わかみや イヴ)ちゃんの方に話しかける。
「イヴちゃんと名前で呼んでも良かったんだったね。観客目線でイヴちゃんは麻弥が演劇でメインヒロインをすることは良いと思わないかい……モデルをしているそうだしどうだろうか?」
「はい? 観客目線ですか……麻弥さんは立派な女の人ですから素敵だと思います! でも、麻弥さんが困ってます……けど、ちょっと見てみたいです……」
「一人の少女を悩ませてしまうなんて……麻弥、君は罪作りな女だね……あぁ、儚い……っ」
「ジブンも薫さんが持ってきた話で頭を悩ませているのですが」
話していると、アイスグリーンでミディアムヘアの氷川 日菜(ひかわ ひな)ちゃんも自ら話しに加わってくる。
「え~、るんってくるお話だしあたしはいいと思うけどな。麻弥ちゃん、やろうよ?」
「光栄な話とはいえ、ジブンにはスタジオミュージシャンの仕事もありますから役者並みの演技力を求めるには練習不足になるかもしれません」
「ふむ、おかしな話しだね。麻弥はあまり仕事のスケジュールが入っていないと、とある人から聞いたのだが」
とある人とは誰のことか、私には心当たりがなかった。
薫の友人関係は多少知っているけれど、私の知らない人なのだろう。
「うぇ!? ちょっと待って下さい、確かに今は仕事はあまり入っていませんがジブンは所属なのでいつどの程度の仕事を頂けるかわからないのになんで知っているんですかっ」
「ふふっ、もしかすると妖精さんの悪戯かもしれないね」
「いやいや、もしそれが人だとしても振り回される身にもなって下さいよ……」
「賢い女性の気持ちが千々に乱れる姿は舞台に良く映えると思うんだ。何より君はアイドルをはじめた、人が見る見映えの良さを気にしようじゃないか」
「……うぁー、急すぎて思考が整理できません……考えさせて下さい……三日の内に必ずお返事は出しますから」
私もあとで麻弥ちゃんに引き受けてもらえるよう誘導しておこう。
話に参加していなかった彩ちゃんに薫が問いかける。
「氷が照れて溶けてしまう君のことは噂から耳にしているよ、彩ちゃんさえ良ければ私達の舞台を見に来て欲しい。学園は違うけれども誰にでも門戸を開いているから心配いらないさ」
「……え、えーっと、アイドルのお仕事が無かったら寄らせてもらいます」
薫が彩ちゃんに近づき握手を求めるように片手を差し出し、彩ちゃんは当惑しつつも手に取とり互いに握手する。
「楽しみにしているよ、彩ちゃんのクラスメイトには声を掛けておくから一緒に行けばいいんじゃないかな。シェイクスピアも言っていた「求めずして得られる恋のほうが、なおのことよいのである」とね、素敵なことがあるかもしれない……」
「あ、はい……」
薫は手を離して当惑する彩ちゃんから離れた。
「ファンの勧誘にはご苦労なことね、薫?」
「同じ舞台に立つ者として仲良くなりたいのさ。聞く所によるなら、ひたむきに努力し続けているそうじゃないか……言うならば、結果の善し悪しに関わらず努力の天才かもしれないね。しかし、私の言葉が彩ちゃんの気分を害したのなら誠心誠意に謝ろう」
「……あの、薫さんは褒めてくれたんですよね? 謝るなんてされたら申し訳ないですよ」
花音もそうだけど、同い年で彩ちゃんも薫に対して丁寧語。薫はタメ口で構わないと言うけど、きっと雰囲気がそうさせるのだと思う。
それから薫は私達に退室することを断ったあと、音楽の先生に御礼を言って退室していった。
レッスンを終えて他の用事も済ませて帰宅したその日、夜に薫の言う「お使い」をSNSで投げかけて見たものの、わからずじまいだった。