夕暮れに滴る朱 作:古闇
八月が始まったばかりの翌日、兄さんが消えてから私の家族に影が落ちる。
父が捜索願いを警察の方へと提出したけれど、いつまで経っても兄さんが家に帰ってこない。母は連日で涙で目を腫らし、父は家に帰ると兄さんの手掛かりがないか探す。
母は兄さんが手の平に入るくらいのピンクの犬の人形を持っていたことを思い出し、夜の時間だけど家族で兄さんの部屋を探す。しかし見つからない、家中どこを探しても見つからなかった。
父は母に本当に持っていたかと聞くと、母はヒステリック気味に確かに見たと話す。父は謝りながら母をなだめた。
両親のやり取りを見ながら、私も私で心に余裕のない日々が続く。冷たいかもしれないけれど兄さんの事ではない。なぜなら時折、家の中で誰かの視線を感じるから。
こうしている間にも視線を感じる。
(またなの……そこには誰もいないのに……っ!)
芸人である私は当然、外での体面を気にする。そのため人の視線には敏感だ。
何もないはずのそこに人の視線を感じてしまう。じっと見つめていると視線はなくなりはするものの不気味に思って落ち着かない。
父と母に探りを入れたことがあるけれど、あるはずのない視線には気づいた様子は無かった。悩みの種を増やしたくないため、このことを黙っていることにする。
両親が目の前にいる手前、不可解な行動をするわけにもいかず視線に耐えた。
(この視線がない場所があるのは救いだけど……家にいても休まる場所が限られるのは勘弁して欲しいわ……)
例外があって、自室、トイレ、お風呂場と脱衣所には視線を感じたことはない。そのため、お風呂の時間が長引いたり自室にいる時間が増えている。
もっとも、芸人関連の仕事や交渉、ベースの演奏練習があるため外出している時間の方が長いので外出の時間を増やしている。
この日も兄さんは戻らず、ピンクの犬の人形も見つからなかった。
次の日、大事な友人の花音とカフェテリアでお茶をする。
SNSでお互いやり取りをしているけれど、会うのは半月も経っているから気分が弾む。気分の落ち込むことが続いているため、なおさら弾む。
花音と穏やかな時間を過ごしていると夏休みのお泊り勉強会をどうするかの話が持ち上がる。
「――そうなんだ。またいつものようにお泊りでお勉強会しようよ」
「そうね……どうしようかしら」
私としては迷惑を掛けてしまうけれど花音の家に泊まりたい。
しかし、兄さんのこともあり父は決まった時間に帰宅しないため、夜のあの家に兄さんを待つ母を一人にしたくない思いもある。
「何かあれば相談にのるよ?」
「大丈夫よ、ちょっとしたことだから。花音の家は……私が行くと近所が騒がしくなるのよね。母に確認してからまた連絡するわ」
勉強会を諦める手もある、私は言葉を濁して悩み母に聞くという名目で先延ばしにした。
今のところ、あの視線に気づいているのは私だけで直接的害もない。自身が起こした錯覚という線もある。
花音とのお茶会も終わり帰宅して母にお泊りの話をすると、花音を家に泊めることに悩みを見せる。
家の現状を考えるなら当り前ではあるが、最終的には快い返事をもらう。こちらの家で勉強会して泊まってもいいそうだ。
母はもちろん兄さんのことは大事だ。でも、それで日常生活が崩れることを恐れたため、良いキッカケだと思ったらしい。
ただ、精神的に弱っているため正常な判断ではないのかもしれない。
母から父の予定を聞き、自分のスケジュールと合わせて花音にSNSで連絡する。
SNSで予定を相談して、私の家で勉強会をすることになった。
私の家で勉強会をすることになった当日、母は私と花音のためにお昼を用意して出掛けていった。長期連休の際には恒例になったことだ。
誰もいない家の中、私はあえてリビングで一人花音を待った。もしこの日も視線を感じ、花音も気づいたとするなら、花音の不興を買ってでもお泊りは中止にするため。
それから、花音が家に訪れて一緒に食事をする。
食事が終わり、後片付けをし、リビングで休憩して花音に私以外に視線を感じなかったか探りを入れる。だけど、何も感じなかったようだった。
今日は私の方でも視線は感じない。心労から来る幻覚かもしれないと期待した。
私の自室で勉強して、私、花音、母、父で晩御飯を食べる。一緒にお風呂に入り、また勉強して、お喋りをする。
終わりに、パジャマに着替えて一緒のベットでお互いにシーツを掛けて就寝についた。
閉め切ったカーテンは薄黒く、明かりの消えた部屋は暗い。二人で眠れるようにと購入したベッドで花音の寝息がする。
顔を動かせば私の横で花音が寝ていることがわかる。今日は本当に何もなくて良かった。
(宮川先生の舞台の後に、兄さんの件でノイローゼ気味なのかもしれないわね……何も無いところで視線を感じるなんてありえるはずないもの……)
もし、視線を感じたとしても無視をしてしまえばいい、そうすれば以前のように視線もなくなる。
(薫も行方不明になったのよね……それからご家族の方も引っ越してしまって……戻ってきた……薫だけはずいぶんと性格が変わってしまったけど……)
兄さんも薫のようにひょっこりと帰ってくればいい。兄さんが京都の大学に行く前は挨拶をするものの、年に数えるほどしか会話がなかった。けれど、家族だから心配している。
そういえば、兄さんの顔を直接見たのはいつだっただろうか。
(今思えば……顔をあまり……覚えていないのよね…………兄さんって……どんな……顔だった……かしら…………?)
兄さんの顔は幼い頃の方が思い出せた。
考えがだんだんと曖昧になっていき意識がぼやける。
―コンコン
眠りかけた意識が現実に引き戻された。
(何なのかしら……叩く音が聞こえたような……)
花音を見ても寝息を立てているだけで身じろぎした様子はない。
再び眠りにつこうと目を閉じる。
――コンコンコン
今度はハッキリと音が聞こえる、気のせいではなかった。
音が聞こえた辺りへ顔を向ければ、そこは兄さんと私の部屋を挟む壁だった。
(……今度は……幻聴……嫌になるわね……)
胸が早鐘を打つ、それでも私は無視をすることにして目を閉じる。眠れないとは思うけれど相手にするのも嫌だった。
――コンコンコン
素直に怖い。私は心の中で花音に謝って、自分の片手で花音の片手を握る。手に伝わる花音の体温が怖さを紛らわせてくれる。
聞こえる幻聴をひたすら無視し続ける。
それから私の恐れていたことが起きた。
花音の寝息が止まり起きてしまう。それだけでなく、壁の叩く音にも気がついている様子だった。
私は目を閉じているため、花音がどのように行動しているかわからないけれど、落ち着かないみたいだ。
花音に声をかければ、恐怖を共有して少しは落ち着くかもしれない。でも、この異常事態を肯定することになってしまう。
どうすることが正解かと考える。
――ドンッ
何か重たいものが壁にぶつかり響く。
花音が私に抱きついた、震えていることもわかる。
抱きしめてあげたい、でも私はそれをせず花音をこの家から遠ざけることに決めた。
しばらくして、花音のリズムある呼吸が聞こえる。
薄目を開け確認すると間近に花音の顔があった。寝ているのを確認したのち、私も眠りに入った。
朝、先に起きた私は花音を起こして身だしなみを整える。今日は午前中から芸能関係の予定が入っているから、あまりのんびりもしていられない。
リビングで花音を待っていると浮かない顔をしている部屋に入ってくる。
昨日のことを気にしているなら安心させる言葉を選ばないといけないと思った。しかし、予想を上回る言葉を花音は口にする。
よりによって兄さんを見たと言う、しかも消えたそうだ。
私の部屋の壁を叩く現象と花音の話を合わせてしまうと碌なことしか思い浮かばない。
碌なことのついでに、花音に見えて私に見えないとするなら、誰もいないはずの場所から感じる視線は兄さんなのかもしれない。
女優のはずなのに、花音の思いがけない発言で私は表情を固まらせてしまい、母は洗い物の手を止めてしまう。
洗い物の手を止めた母は花音に近づき兄さんの居場所を聞いてしまう。そのことにより、花音に私の家族が抱える苦しみを知らせてしまった。
こうなると花音に取り繕うことはしないほうがいい、言い訳しても余計心配させてしまうだけだ。
花音が帰宅した後、私は重い気分で仕事に向かった。