夕暮れに滴る朱 作:古闇
「ミッシェルちゃん? ミッシェルちゃ~ん」
九月の中頃。あたしは今、CiRCLEのスタジオで信じられない光景を見ている。
それは、花音さんが中身が入ってないはずの地べたに座ったミッシェルに話しかけているからだ。
この頃のあたしは他校との試合でハロハピの集まりにまともに顔を出せなかった。
原因はテニス部の顧問と先輩の彼氏が練習試合相手の高校に奪われたから……といっても本人の自己主張によるもの。
実際には二人を振った彼氏達が時間が経った後に別の女子・女性と付き合ったのが、たまたまその練習試合予定の高校だったわけだ。
まぁ、そんな訳で最初の内は可哀想だね。別にいい人がいるよと同情的な声であって、相手高校を絶対倒すというような雰囲気ではなかった。
しかし話が変わってくる。
女子校の女子相手によくもまあ男たちは恋愛に漕ぎ着け、そして彼女たちを振ったものだと思ったが二人の彼氏が振った理由が胸がないということだった。
確かに振られた彼女たちは胸が控えめである。
部室の着替えや休憩の雑談で胸囲関係の話題になったときに悲しみを背負うのをよく見かけたりする程度だ。
話が変わってきたのはテニス部の女子が又聞きでその練習試合高校のテニス部の顧問と生徒が胸がかなり立派という話だった。
そして振られた彼女達につられて胸が控えめの同士達がやっかみを始め、そこから話がおかしくなる。
性格がいいだの、お金持ちだの、団体同調だったりでテニス部の雰囲気が刺々しくなっていった。私怨である。
一部の女子はついていけない様子だったけれど、そこは運動部。
あたしを含めてバッチリ巻き込まれた。
それでも一年生だからまだいいかと思っていたのにその練習試合にあたしも試合することになる。
ミッシェルに入ったことでスマッシュの威力があがり、それに目をつけられたのだ。
色々と言い訳をしたけれど私怨で目の曇った彼女達には届かないようでキツイ練習に付き合わされて遅くまで残る日々が続く。
これで三年生がいればもう少し楽だったろうに。
そんなこんなで練習試合の日、相手校に負けて悲壮に暮れ嘆き悲しんでいる彼女達に呆れた。
ちなみにあたしも負けた、一年生相手に県大会で優勝経験のある二年生が試合するのはおかしいと思う。
最初こそ、練習試合の相手はあたしがスマッシュする度にボールを打ち返すのに腕がしびれるようで辛そうだった。
けれど、だんだん慣れてきて力を技量で覆され負ける。
でも、その相手の女子に褒められ仲良くなれたので悪い気はしなかった。
次の日に、ようやくまともにハロハピに顔を出せた。
花音さんにハロハピのみんなを任せきりだったのに申し訳なく思いつつ、ミッシェルに入ってバンド練習に参加する。
そのあと演奏の調子を整える事もあって、スタジオで独自に練習をしていた。
突然、対戦相手だった他校の二年生の人が訪ねてくる。
演奏しているのが気恥ずかしくなり、ミッシェルを残して二年生の先輩の背中を押して外で話をした。
あたしがコーヒーを飲んで休憩したあと、スタジオに入っていくのをCiRCLEのカフェテリアで見かけ、それで、気になって訪ねてきたそうだ。
それで、気になって訪ねてきたそうだ。
先輩は運動と音楽の両立はすごいねだとか、ライブやっていたら見てみたいなだとか興味を持っている様子を見せる。
あたしがミッシェルだとは気づいてなくて心のなかで胸を撫で下ろす。
人に教えたいって気持ちはあったけど、ハロハピメンバー以外に知られるのは恥ずかしくちょっと勇気が必要だった。
先輩と軽く世間話をしたあとスタジオに戻ると花音さんがミッシェルの前で立っていた。
真剣な表情で立っているものだから何をするのか気になって息を潜めていると、花音さんはミッシェルに向かって話はじめる。
「え、えっとね、ミッシェルちゃん?」
(いやいやいや、気のせいだから。もしくはミッシェルの中にだれか入っているのかもしれないし)
今の現実を否定したくてどうしようもない、何があった花音さん。
花音さんの常識を信じて、とりあえず見守る。
「ミッシェルちゃん? ミッシェルちゃ~ん」
(うっわ。どうしよう、花音さんがほんとにミッシェルに呼びかけてる。あたしが入ってないってわかっているよね?)
花音さんがペシペシとミッシェルの肩を叩くが全く反応しない。
(反応してたまるかっ、いないのは当たり前!)
ミッシェルの真横に立ち、首を持ち上げ戻した後に花音さんは何かを探すようにミッシェルの周りを一週した。
「いるはず……だよね、ミッシェルちゃん。もしかして、聞こえていないのかな?」
(中身ありませんね! なのになんで続けるの!? あたしきっと疲れてる。目をとじてー、はい、開いてー。うん、花音さんだ)
「ミッシェルちゃん、お留守ですか~?」
(だから、あたしはそこにいないから! ……待って、待ってよ。ミッシェルちゃん? そういえば、花音さん。ミッシェルのこと”ちゃん”づけしてなかったよね?)
現実逃避しようと目を逸らした先にまりなさんが隠れているのが見ていた、めっちゃ涙目。
(なにこの状況、怖いんだけど……花音さん疲れているのかな、あの三馬鹿相手にしすぎてミッシェル相手に現実逃避とか)
アニマルセラピーならぬドールセラピーか、それはイマジナリーフレンドである。
(まずい、あたし花音さんに無茶させすぎたわ)
「ハッピー、ラッキー……?」
(……スマイル、ふぇぇいって。馬鹿! 花音さんの馬鹿! ミッシェルが返事したらどうするの! あたし怖くてミッシェルに入れなくなるよ! まりなさん怖くなって震えているじゃん!!)
もう駄目、なにが駄目か、いろいろ駄目。これ以上、花音さんの奇行を見てられなかった。
あたしはしばらく三馬鹿を一人で相手をすることに覚悟を決めて、花音さんに声をかける。
「か『きゃあっ!?』……」
(え? なに、その超反応。花音さんってこんなに身体能力良かったっけ? 三馬鹿相手に無理して運動能力上がったとか、三馬鹿の運動神経すごいからなぁ。それをしばらく花音さん一人で……。はぁ、あたしってほんと馬鹿)
俊敏なハムスターのような動きでミッシェルの後ろへ移動して盾にする花音さん。
驚いて身を守ろうと不安そうな仕草は可愛いが突然に予想を上回る身体能力はやめて欲しい。何かあったんじゃないかとこっちも不安になってくる。
「は、はわっ。美咲ちゃんどこに行ってたの?」
(昔の花音さんはどこにほっつき歩いていったか聞いていいですかね?)
花音さんが少し遠い存在に感じた。
「部活で他校との試合で仲良くなった先輩が訪ねてきたから外で話していたんですよ。それは置いておいて、どうしたんですか? 今日はもう練習おわりましたよね」
「う、うん……ちょっとミッシェルちゃんと話したくて。美咲ちゃんが入って出た後だったらミッシェルちゃんと会話できるようになるかなって」
(……おい……ほんと、おい!)
花音さんがはるか遠い存在に感じた。
(そうか、あたしが入った後に脱いだミッシェルが話し出すのか……きっついわ、胃にくるわ、ほんと精神殺しにきてるわ……花音さん共々神社でお祓いしてもらったほうがいいんじゃないでしょうか。必要でしたら全力で探しますよ、あたし)
花音さんという癒やしは壊れ、無茶させすぎたせいで頭がファンシーになり三馬鹿から四馬鹿になったように幻視した。
(いや、そんなことはさせないっ、なってたまるか! 花音さんまで頭がお花畑続いてしまったら、あたしの胃が死ぬからね!?)
そのうち過労死する未来しか見えない。なぜこうなってしまったのかと溜息がでる。
「花音さん、きっと疲れているんですよ。家まで送りますから帰りましょう」
「だ、大丈夫だよ! 最近は全然迷子にならなくなったし、一人で帰れるから! ま、またね、美咲ちゃん!」
(迷子にならない!? だれだこの人!)
花音さんが迷子にならないのはいいことのはずなのにその前のやり取りのせいで別人に感じる。
花音さんは自分の発言に気づいてくれたのか胸に手を当て、慌てて言葉を捲し立てスタジオから逃げてしまう。
心配だから家まで送ろうと後を追いかけスタジオを出たが花音さんの背中しか見えなくなっていた、とても速い。
今のあたしでは追いつける気がしない。
こんなことになるなら何が何でもハロハピの集まりに顔を出せばよかったと後悔する。
肉体は死にかけるがハロハピの癒やしが消えかけるよりずっとましだ。
「なんなんだよ、もう……」
花音さんが常識人に戻れるよう頑張るかと、あたしは肩を落とし溜息をついて演奏の練習をするためにスタジオの中に戻った。
(そういえば、今日のはぐみはみんなとの練習に来るのが遅かったな。顧問の付き合いでソフト部は県外で練習試合があるんだっけ? はぐみには悪いけど負担が減っている内に花音さんを正常に戻したいなぁ)
もしかするとお兄さんとお姉さんも応援しに行くかもしれないなと、ぼんやりそんな事を考え機材に触れると誰かの視線がして振り返る。
まりなさんが隠れていたところを見た。
「あれ? まりなさん、まだ隠れているんですか。花音さん帰ったし、いつまでもそこにいたらサボっていると思われちゃいますよ」
返事がなかった。
「あはは~、冗談はよして下さいよ」
まりなさんが隠れていたところを足早に歩み寄り確認するが誰もいない。
他に隠れる場所がないかと探したが誰も居なかった。
スタジオに照明器具に照らされたあたしの人影が差し、自身の足音だけが鳴る。
「……さ、さぁ、練習しないとね」
独り言が静かなスタジオにポツリと響く。
機材に触れるがまだ視線を感じる。
少し演奏を始めたが視線が気になって集中できない。
演奏を一旦止めて、もう一度周りを見る。
静寂なスタジオには地べたに座って項垂れたミッシェルしかいない。
そう、ミッシェルだ。探索の中から除外してしまったがミッシェルの中にまりなさんが隠れている可能性もあった。
「そ、そこにいるのはわかっていますから出てきて下さいっ」
機材から離れミッシェルに近づくと視線が強くなったように思う。
胸の鼓動が早くなるが、一歩、また一歩とミッシェルに近づくがその歩みは酷く緩慢になっていく。
ここで逃げたらミッシェルに入れなくなりそうだ。
「ま、参りました、参りましたから。お願いですから返事して下さいよ」
声音は震え、ついにミッシェルにまで辿り着く額から冷や汗が流れた。
項垂れたミッシェルの顔に震える手で触れる。
いつも通りのミッシェルの感触に少しの安心感。
「……」
いつも通り顔を持ち上げればいいのに手が重い。手が汗ばんでくる。
あたしは一度深呼吸してひと思いに持ち上げた。
「なんだ、気のせいか」
中に誰も入っていなかった。
ミッシェルの顔を元に戻す、不思議と誰かの視線も消えていた。ミッシェルを覆うくらいの大きな布を掛けて機材の元に向かう。
あたしは今日の出来事を忘れようと演奏に夢中になった。
――視界の隅でミッシェルに被せた布が動いた気がしたが、きっと気のせいだ。