本編の時系列とは違う世界線のお話としてお楽しみください。
1、
お前は馴染まない人間だな、と父親には良く言われる。
物心ついた時から大阪にいるが、訛りのない標準語を話すのは同級生の中では京太郎だけだった。趣味は麻雀。世では麻雀が大流行しているが、小学校に上がる前から麻雀をしている人間は、実のところ非常に少ない。京太郎くらいの世代だと身体を動かすことの方が人気があり、男子も女子も外で遊ぶことに熱中する。
同級生が外で元気に遊ぶ中、一人幼年向けの教本を読む京太郎は、彼一人だけならば周囲から浮いていただろう。この時の京太郎の最大の幸運は、同好の士に恵まれたことだった。
「京太郎! 今日はうちにくるんやってな。おかんから聞いたで」
さらに幸運なことは、その同好の士が同年代の中では大層な人気者であることだった。
特徴的な愛嬌のある目元に、人の目を引く赤い髪。自分のペースでぐいぐい押してくる、妙に距離の近いこの少女の名前は愛宕洋榎。京太郎から見れば二つ上のお姉さんであるが、年の差を感じさせない幼馴染でもあった。物心ついた時からのお隣さんであり、家族ぐるみの付き合いをしている。兄弟のいない京太郎にとってはまさに姉のような存在だった。
「行くよ。母さんが雅枝さんによろしくだって」
「そか。じゃあ夕飯もうちでやな」
「うん。よろしくお願いします」
教本を持ったままぺこりと頭を下げると、洋榎は鷹揚に笑って見せた。たまに姉の属性を発揮して無理難題を押し付けてくることもあるが、基本、下手に出ている分には優しい姉である。周囲から浮き気味の京太郎がいじめられていないのは、ガキ大将的立場の洋榎の子分と目されているのが大きかった。趣味麻雀と公言する、幼稚園児にしては異質な趣味を持つ洋榎だが、一番好きなものが麻雀なだけで身体を動かすことも苦手ではない。
一度外に出れば、たちまち男子全てを平らげてしまう。それぐらいのスペックが洋榎にはあった。そんなだから先生もヒロちゃんはお外に出て……と進めてくるのだが、自分の気が向かない限りは、洋榎は屋内に居座り京太郎と一緒に教本を読み、あーでもないこーでもないと麻雀議論に花を咲かせるのが常だった。
「おねえちゃん、おねえちゃん」
姉弟のやり取りをしてる二人に、とことこと、少女が寄ってくる。青みががった銀色の髪に、赤いフレームの眼鏡。美少女に十分カテゴライズされる容姿であるが、全身に漂う野暮ったさが、その印象を大きく崩していた。
洋榎の妹の絹恵だ。京太郎にとってはもう一人の姉貴分である。先ほどまでサッカーをしていたのだろう。絹恵の服は泥で汚れている。見た目に反して外で遊ぶのが好きなのだ。トロそうな見た目なのに運動神経も悪くない。運動神経が全てという幼稚園カーストにおいて、男子のボールでもバシバシセーブする絹恵は一種のヒーローだった。
そんな絹恵も、スポーツを一度離れると見た目通りのトロそうな印象に戻る。ボールを追っている時はあれだけキリリとしているのに、と京太郎は不思議でならなかった。大好きな姉の近くに寄ってきた絹恵は何をするでもなくえへへ、と幸せそうに笑っている。その頬に泥がついているのを発見した京太郎は、黙ってハンカチで拭ってやった。
「うー、京太郎、いたいー」
「女の子が顔に泥とかつけっぱなしだとダメなんだぞ、って雅枝さんが言ってた」
少女達の母親の受け売りであるが、少女が汚れたままというのは京太郎自身も我慢のならないことだった。絹恵の顔についた泥を全部拭い終わると、よし、と頷いてハンカチをしまう。
「痛かったけど、ありがとなー京太郎」
「どういたしまして。絹ねーちゃん、俺、今日は絹ねーちゃんちに行くよ」
「あーそうやったなぁ。せやったら今日は皆で、麻雀できるんやな」
楽しみやぁ、と絹恵は笑う。放っておくといつまでもそこでニコニコしていそうなので、右手を京太郎が、左手を洋榎が取り絹恵を引きずっていく。先生さようならーと挨拶をして、幼稚園の外へ。いつもはバスで帰るが今日は車だ。京太郎の母は今日は用事でいないので、洋榎たちの母が迎えに来ることになっている。愛宕家は共働きなので普段は須賀家に姉妹が遊びにきていることの方が多いのだが、今日はいつもの逆だった。
時間の取れた雅枝が日頃の恩返しとばかりに京太郎の面倒も見ると名乗り出てくれたのだ。それに乗っかる形で京太郎の母は出かけることにしたようで、泊まりで家を空けている。父親も出張にいっているから、今日は愛宕家にお泊りなのだ。絹恵がいつも以上にゆるゆるなのも、その辺りに原因がある。
「三人とも、早く車に乗り」
雅枝に促され、三人は車に乗り込んだ。姉である絹恵が乗り、その次が京太郎。洋榎が最後だ。
後部座席で京太郎が挟まれる形になる。バスに乗る時も三人並んで座れる時は大体この形だ。二人席しか取れない時は、洋榎が譲って絹恵が隣になる。そうでないと絹恵が泣くからだ。
いつも通りの席順で座ると、車が発進する。隣に座った絹恵が当たり前のように手を握ってきた。京太郎は黙って、その手を握り返した。
2、
雅枝が家にいるときは、洋榎、絹恵と一緒に麻雀をするのがいつものパターンだった。手前みそながら、雅枝は別格としても、二つ年上の洋榎、一つ上の絹恵よりも技術的なことは良く知っている……気がしないでもない。
だが、勝てなかった。愛宕家で麻雀をする時はいつもラスが京太郎の指定席だった。それでも腐らないのが、京太郎最大の長所だろう。負けても負けてもめげずに前向きに麻雀をやりたがる京太郎を、愛宕家の全員が気に入っていた。
年齢にそぐわないその精神性で京太郎が出した結論は自分は『ヒキ』が絶対的に弱いということだった。普通であれば一笑に付されて終わりだろう。負けた理由の最たるものとして運を挙げるなど、男のすることではない。
しかし、俺は運が悪いから勝てないのかとストレートに問う京太郎に、雅枝は笑いながらその通りやと答えた。
実は慰めてほしかった京太郎は地味に傷ついた。それを目敏く感じ取った絹恵が雅枝に抗議の視線を向けるが、雅枝は何処吹く風だった。
「せやかて、京太郎のヒキが弱いんは事実やからな。絹かて解っとるやろ? 優しいから言わんかっただけで」
うっ、と絹恵は言葉につまり、京太郎の顔を見ては泣きそうになる。心優しい姉貴分の頭を、京太郎はよしよしと撫でた。
「それはそうと京太郎、負けて悔しいか?」
「くやしい」
「麻雀、勝てるようになりたいか?」
「かちたい」
まっすぐ、雅枝の目を見て答える。正真正銘、偽らざる京太郎の気持ちだった。そんな京太郎を見て、雅枝は嬉しそうに微笑む。
「ええなぁ、ええなぁ、男の子やなぁ。こういう熱血がやりたかったんや」
もう一人作ろうかなぁ、と子供達に聞こえないように雅枝は呟いた……つもりだったようだが、京太郎の耳にはしっかりと届いていた。洋榎の弟ならさぞかし騒々しくなるのだろうと、一人っ子だが末っ子の京太郎はまだ見ぬ愛宕弟に心をときめかせたが、独り言は聞き流すのが男のマナーと、雅枝の言葉を聴かなかったことにする。
「そういうことなら仕方ない。男子に指導するんは初めてやけど、特別に私が京太郎を鍛えたる」
「ありがとうございます、ししょー」
「最初に言っとくが京太郎。お前が自分で気付いたように、お前には才能がない。ヒキを才能というなら、やけどな。ヒロのヒキと比べたらそやなぁ……京太郎十人分くらいの運が必要やな」
「ウチは京太郎十人分かぁ……」
強そうやなぁ、と洋榎は素直に喜んでいる。絹恵は何故か羨ましそうで、うちは、うちは? と頻りに雅枝に問うているが、雅枝は邪魔そうに絹恵の頭を押しやるだけで答えない。大事な話を邪魔するなとばかりに絹恵を抱えこみ、
「せやかて、ヒキが弱いから勝てんようじゃ、麻雀はおもろない。京太郎が勝つには、この差をどうにかして埋めんとあかん。そのためには京太郎、どうしたらええと思う?」
「腕を磨く?」
「それは当たり前のことや。スポーツやっとって、身体鍛える答えるんとあまりかわらんで」
「ならおかん、京太郎をラッキーボーイにしたらどや?」
「それができたら苦労せんなぁ。そんな方法があるんやったら私が知りたいくらいや。なぁヒロ、私はどうしたらラッキーガールになれるんやろな」
ガール? とうっかり口にしてしまったのは、洋榎でも京太郎でもなく、この場で一番純粋な絹恵だった。そんな絹恵に雅枝はにっこりと微笑むと、その頭に拳骨を落とした。
「……いたい」
「京太郎が黙っとったのに女の子の絹がそんなことやあかんで。さぁ、次は絹の番や。京太郎が強くなるには、どうしたらええと思う?」
「京太郎は今のままでええもん。うちが勝てんようになったら、お姉さん失格やもん」
現時点では何一つ負けているところがないという物言いに、理不尽を覚える京太郎だった。雅枝はそんな絹恵を『女の子やなぁ……』と満足そうに眺めている。
「勉強は続けるとして、や。京太郎がヒロに勝つにはそれ以外の部分を伸ばすしかない。ヒロや絹にはなくて、京太郎にはある。そんな強さが必要なんや」
そんな都合の良いものがあるのか、と子供達の視線が雅枝に集まる。
「ところで京太郎、今日の絹と昨日の絹、どこが違うか解るか?」
「めがねの色がちょっと違う」
「気付いとったん!?」
迷わず答える京太郎に、絹恵はひゃー、と小さく可愛らしい悲鳴をあげる。
「ちなみに絹がいくつメガネ持っとるかわかるか?」
「俺が見たことがあるのは3つ。今日の、昨日の、と四日前の」
「ヒロは昨日と何か違うか?」
「違わない。けど、一昨日とは違う。リボンの色と、髪型がちょっと違う」
洋榎はオシャレに拘る性質ではないが、それはあくまで絹恵に比べてという話だ。洋榎とて女の子である。男の京太郎からすればそんなことを? と思うような些細なことにこだわり続けていたりする。大きな変化はないが、髪をポニーテールにしているリボンは、洋榎の数少ないオシャレポイントのようでその日の気分で色を変えているらしい。
朝からテンションが高ければ少し明るい色。どうにも乗り気になれない時はもっと明るい色と変わる。つまりより明るい色のリボンをしている時の洋榎は要注意なのだ……ということを、理不尽にプロレス技をかけられた経験から、京太郎は学んでいた。
京太郎の指摘に、雅枝は満足そうに微笑んだ。
「京太郎。お前は凄く目が良え。それを磨けば、必ず武器になる。牌なんか見んでええ。ポンチーするな、人を見るんや」
「それで俺はかてますか?」
「勝てるようにするんが、京太郎の腕の見せ所や。色々なことが解るようになれば、打つ手は無限に広がる。ヒキの差も、もしかしたら埋まるかもしれんで?」
「わかりました」
「せやかて、勉強もサボったらあかん。その力を活かすには、地力が必要やからな。あせらずじっくり強くなり。そしたら京太郎も、ヒロや絹に勝てるかもな」
「雅枝さんにも勝てるようになりますか」
「私に勝つつもりやったら、死ぬ気で頑張らんとな!」
冗談めかして雅枝は言うが、目だけは笑っていなかった。簡単に負けるつもりはないと全身で言っている。あまりの迫力に、娘二人は身を寄せ合って震えていたが、京太郎は血が沸き立つのを感じていた。そうでなくては、面白くない。
『人を見る』
生まれて初めて、それを意識して、京太郎はサイを振るボタンに手を伸ばした。世界が変わった。そんな気がした。