セングラ的須賀京太郎の人生   作:DICEK

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35 中学生二年 須賀京太郎、西へ 後編⑥

「やぁ姫様お久しぶり。今日からしばらくお世話になるよ」

「良子さん! お久しぶりです!」

 

 軽い挨拶に感激している小蒔を横目に見ながら、京太郎は周囲を見回した。

 

 今日は京太郎の泊まっている離れで一緒に食事を取ることになっていたのだが、その席に何故か良子がいた。昨日の夜、京太郎が布団に入ったくらいの時間に神境に到着したという。

 

 小蒔も良子の来訪を喜んでいるようで、話に花を咲かせていたが、その周囲の空気は京太郎の目から見てもおかしかった。

 

 霞と初美の機嫌が良くない。視線でしきりに良子と……それから多分、巴を気にしている。対して巴は全く気にしていない。普通に食事を進める中、京太郎のお茶がなくなるとさり気なく配膳をしてくれる。今日も優しいお姉さん色が全開だったが、いつもならば口を挟んでくるはずの明星や湧も大人しい。

 

 昨晩何かあったのだろうか。しかし、眠る前にはいつもと変わらなかった。何かあったとしたら寝入った後のことになるが、そんな深夜に巫女さんたちが集まって喧嘩をする理由もない。

 

 そういう日もあるだろう、と京太郎は深く気にしないことにした。

 

「今日は終日修行になります」

 

 小蒔が京太郎を前にそう宣言する。京太郎は横目で良子を見た。彼女は巫女であるが、神境に常駐している訳ではない。今回の来訪もプロになることが決まったと滝見の家に報告するためのもので、修行のために来たのではない。京太郎の視線は、小蒔らと一緒に修行するのか、という意味のものだったが、良子は黙って首を横に振った。

 

「私は特にすることはないから、今日は京太郎と一緒に行動することにするよ」

「良子さんも含めて許可は取っておきましたので、今日は好きなところに顔を出して結構です」

「さしあたって今日の予定だけど、私は明星と湧の体術訓練の監督をするよ」

「私ははるると一緒に神楽舞のお稽古ですよー」

「私は小蒔ちゃんと一緒に――瞑想のようなもの、というのが一番伝わりやすいかしら? とにかく、そういう静かな修行をします」

 

 見事なまでにバラバラだが、一人ずつとならなかっただけマシなのだろう。どこに顔を出しても良いと小蒔は言うが、それは実質『全部のところに顔を出せ』と言われたに等しい。どこに行ってどこに行かなかったとなれば角が立つ。女社会における男の立場は、今も昔も低いのだ。一箇所でそこそこ時間をとっても、全部で三箇所ならば一日かければ余裕で回ることができるだろう。

 

「それで、どこから回る?」

 

 良子の提案を、巫女さんたちはそれぞれの眼差しで見つめていた。

 

 明星と湧はまっすぐな期待。春と初美はそれに比べれば控えめだが、こっちに来るよね、という強い意志は感じられた。小蒔と巴はそんな少女らを眺めてにこにこしている。最終的に顔を出してくれるなら、順番などどうでも良いと気づいているのだ。京太郎から見て一番表情が読めなかったのは霞だが、姉ポジションの霞ならば順番に拘ったりはしないだろう。

 

「それなら――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「君は嫌いなものを先に食べるタイプ、という解釈で良いのかな」

「明星が拗ねるんで、内密にお願いしますね」

 

 否定はしませんが、と京太郎は続ける。

 

 他の二つは見てるだけでも終わりそうだが、この一件だけは参加が強制されそうな気がしたのだ。指導しているのが巴なら参加させられる可能性は五分五分といったところだが、ノリの良い明星と体育会系のノリな湧では、それなら兄様も……という流れになる可能性が高い。

 

 それなら最初に痛い目にあっておこうと思ったのは、京太郎の性格に寄る。不安に思うことを最後に残すということは、集中力を乱す要因にもなる。集中力の低下は麻雀において手牌読みの精度に影響し、ただでさえ低い勝率がさらに低下することになる。

 

「嫌なら断っても良いんじゃないかな? 巴も無理強いしたりはしないと思うよ」

「だと良かったんですがね」

 

 女性からの誘いを断るという選択肢は、そもそも京太郎の中になかった。誘いというのは、受けるものというのが京太郎の中では常識であり、今では女性からの提案を断ることそのものに、抵抗を覚えるようにすらなっている。

 

 神境に通っていた時では初美や霞の無理難題をこなしていた京太郎だが、流石に全てを受けていたら身が持たない。処世術として、そもそも提案をされないような状況に誘導する技術も、年を経るごとに備わってきていたが、回避できない状況というのも時にはあった。

 

 今回のこれは、その中の一つと言って良いだろう。

 

 準備がある、という巴たちに遅れること十分少々。離れから良子と二人で移動した京太郎は、体術修行のための施設の前に立っていた。一般人でも立ち入れるエリアと、巫女たちの居住区の中間にある修行エリアの中でも、外周部に位置するそこは京太郎が思い描く『道場』そのものの建物だった。ちなみにここは柔道や合気道など、主に畳の上でやる武道専用の建物であり、剣道や長刀のための建物はまた別にある。

 

 何とも豪勢な話であるが、ただ豪勢なだけで終わらないのは、これらの施設は一つではないということだ。数ある『道場』の中の一つと言えば、普段からどれだけ修行してるんだと考えるのは自然なことである。しかも今は夏休み。朝から晩まで修行というのも珍しいことではない。文武両道は神境の巫女さんたちが掲げるスローガンの一つである。どれだけ華奢に見える巫女さんでも、何某かの武術をかじっており、その辺で管を巻いている不良少年よりはよほど強いというのだから、地元で巫女さんたちが恐れられるのも頷ける。

 

「良子さんも、柔道とか合気道とかやったんですか?」

「知ってると思うけど、母が滝見の出身でね。近所の子供に合気道を教えたりしてるものだから、そのついでに教わったりもしたよ。ここでは中学くらいまでかな。毎年夏には泊り込みで色々な修行をしたよ。高校に上がってからは縁遠くなったけど、今思うと懐かしいね」

「その……強かったりしたんですか?」

「巫女っぽい技術には幸い才能があったみたいなんだけど、こっちは人並みさ。日頃の恨みとばかりに、霞や初美にはよく投げ飛ばされたものだよ」

 

 家の力が重要であるのと同時に、巫女としての力も神境では重要視される。良子は外様であるが巫女としての能力は高く、当代の六女仙最年長である霞たちよりも二つ年上である。良子も、霞たちも色々と思うところがあるのだろう。本人達の性格とは別のところで色々な柵があるのは、歴史のある環境ならではと言えた。

 

「俺の代わりに投げ飛ばされてくれとは言いませんから、安心してください」

「当然だね。ここでそう言ったら、私が巴の代わりに投げ飛ばしていたよ」

 

 お互いに軽口を交わしながら『道場』の中に入る。畳敷きの『道場』の中央には、三人の巫女がいた。いや、正確には一人と二人である。中央に立つ巴に対し、明星と湧が協力して挑むという構図だ。

 

 普通ならば人数が多い方が勝つ。格闘技でも麻雀でもそれは変わらないが、そこに圧倒的な実力差が絡むと話は別だ。この分野において、ド素人である京太郎の目から見ても、巴は実力者である。明星も湧も決して弱い訳ではないのだろうが、今回は相手が悪かった。

 

 拳だったり蹴りであったり、湧は切れ間のない攻撃を巴に浴びせているが、巴はそれを避け、あるいは捌き、一つも直撃をもらっていない。おまけにそうしながら、湧の攻撃について逐一アドバイスを入れているのである。当たる気配がまるでないのだから、攻めている湧には耳の痛い話だろう。体力こそまだまだ余裕があるようだが、湧の顔には焦りとは別の、ある種の絶望感が浮かんでいた。勝てる訳のない相手に、それでも挑まなければいけない時、人はこういう顔をするのだ。

 

 そんな二人から少し離れて、明星がタイミングを伺っている。湧から見て巴の向こう側……つまり、巴の後ろを取っていた。邪悪に微笑むその顔からは、奇襲してやろうという意図が透けて見えている。既に半分くらいは勝ったつもりでいるようだが、タッグを組んだくらいで実力者に勝てるくらいだったら苦労はしない。明星と湧のタッグは並みのタッグよりも息は合っているだろうが、巴に勝っているところがあるとすればそれくらいのものだ。

 

 湧の息が切れたそのタイミングを狙って、巴が一歩無造作に踏み込む。

 

 そして湧の腕を取ったと思うと、そのまま野菜でも引っこ抜くように簡単に湧を放り投げた。目の覚めるような速度の、一本背負いである。

 

 あれ? という呆然とした声は、明星のものか湧のものか。湧はいつの間にか自分が宙を舞っていることに戸惑い、明星はと言えば自分に向かって飛んでくる親友をどうするのか判断に迷った。即座に判断していれば、どうにか立て直すこともできただろう。

 

 しかし、湧は明星に助言するのが遅れ、逃げることもできた明星が考え込んでしまったことで、そのタイミングを放棄した。

 

 その結果、二人は激突し、仲良く床に崩れ落ちた。自分の仕事に満足した巴は二人に怪我がないことを確認すると、振り返る。珍しく得意気なその表情に、京太郎と良子は惜しみのない拍手を贈った。

 

「いや、強いですね、巴さん」

「指導する立場なんだからこれくらいはね。何なら京太郎もやってみる? 痛くないように手加減はしてあげるよ?」

 

 巴からの問いに、京太郎は言葉に詰まった。鹿児島に住んでいた際、長期滞在の時は京太郎もこういう訓練に付き合わされたことがあるが、格闘技について習ったのはそれと学校でやった柔道くらいのもの。真面目に訓練をしている巴や湧は言うに及ばず、あまり運動が得意そうには見えない明星にも遅れを取ることだろう。

 

 見栄を張りたい年頃の男の子としては遠慮したいところではあるが、巴たちとはそんなに顔を合わせる訳でもない。できることなら要望に応えてあげたいというのが、本音だった。

 

「良ければ是非」

「危険です兄様!」

 

 立ち上がった京太郎に、復活した明星と湧が声を挙げる。二人は既に京太郎の側に移動していた。声援を背後に受ける京太郎に相対する巴は、位置取り的には敵役である。

 

 しかし、巴は後輩の態度にも嫌な顔一つしなかった。今の状況が楽しくて仕方が無いという表情をしている巴に、不思議に思った京太郎は問うてみた。

 

「何か嬉しそうですね、巴さん」

「そう見える? うん、自分では良く解らないけど、そうかもしれないね。久しぶりに京太郎に会えて、嬉しいからかな」

「不義理な弟分で申し訳ありません」

「いいのいいの。こうして元気な顔を見せてくれたんだから、巴お姉さんはそれだけで満足だよ」

 

 にこー、と微笑む巴から、京太郎は思わず目を逸らした。小蒔ほどではないが直球を容赦なく放り投げてくることの多い巴は、たまにこういう恥ずかしいことを平気で言うのだ。京太郎が視線を逸らした傍で、巴がぞくりと背筋を振るわせていた。『かわいいなぁ、もう……』という彼女の呟きを理解したのは、唇の動きを注視していた良子だけだった。

 

 着替えを手伝うという明星を押しのけ、道場付属の更衣室で胴着に着替えた京太郎は、道場の中央で巴と対峙した。

 

「好きに打ってきて良いよ。五秒私に組み付いてられたら、ご褒美に明星のおっぱい触っても良いから」

「頑張ってください兄様っ!!」

 

 自分のおもちが勝手に賞品にされたというのに、明星の応援にも力が篭っている。合法的に触ってもらえるというのは、どうやら明星にとってはご褒美であるらしい。対して、明星の隣にいた湧は自分のすとーんとしたおもちを見て暗い顔になっていた。女の価値はスタイルで決まる訳では決して無いが、いつも隣にいるのがおもちの明星ではそれも、納得し難いだろう。

 

 誰かフォローをしてくれないものかと思うが、明星の他にこの場にいるのは、それなりのおもちの巴と、すごいおもちの良子だけだった。そもそも、湧とおもちについて同盟を組めるのは、六女仙の中では初美しかおらず、彼女は今舞踊の稽古で離れた場所にいる。味方がいないことは、誰よりも湧が理解していた。

 

 どんよりした顔の妹分を見て、流石に京太郎も心が痛んだ。

 

「……確認ですけど、触れってことではないですよね?」

「私は霞さんやはっちゃんとは違うよー。触って良いって許可を出しただけ。京太郎が触りたいなら私のでも良いけど……どうする?」

 

 眼鏡の奥からのこちらを値踏みするような視線に、京太郎の視線は思わず巴の胸に吸い寄せられる。誘導されていると解っていても見てしまったのは、男のサガだ。

 

「……あまり弟分をからかわないでください」

「ごめんごめん。京太郎があんまりにもかわいいからついね。でも、さっきの五秒ルールは本気だよ。明星や私についても一緒。何なら湧でも良いけど、それは本人の許可を取ってからね」

 

 巴の言葉に釣られて湧を見るが、彼女は顔を真っ赤にして視線を逸らしてしまった。抱きつくなどのスキンシップは抵抗無くこなすのに、と思わないでもないが、いくら気心の知れた仲とは言え、異性相手におもちを差し出すのは流石に抵抗があるのだろう。これについてはオープン過ぎる明星が心配なくらいだった。

 

「本当に俺が五秒組み付いてられたらどうするんですか……」

「男の子なんだなー、ってときめいちゃうかもね。でも私も経験者としてそれなりにしか手加減はしないから安心して。たかが、五秒。されど、五秒。私相手に五秒は、短くないよ?」

 

 ゆらりと立つ巴に、素人ながらに京太郎は戦慄を覚えた。何てことはない。眼前にいるのはポニーテールで眼鏡の美少女巫女のはずなのに、近づくことにすら抵抗があった。後退しそうになる身体に、内心で活を入れる。ここで後退しては男ではない。何より、女の子を前に怖がったという事実を、当の本人に知られたくはなかった。勝てないのは百も承知だ。そういう相手に挑むことは、麻雀で慣れている。誰が相手だとしても、いつものように挑むだけだ。

 

 負けてもそれが糧になる。勝ったらそれで、凄い嬉しい。麻雀でも他の勝負でも、気の持ちようは一緒だ。

 

 恐怖が消える。自然と構えた京太郎に、巴は嬉しそうに笑った。

 

「さすが、男の子」

 

 その微笑を糧に、京太郎は思い切り踏み込んだ。襟を取ろうと腕を伸ばすが、何気なく振るわれた巴の両腕に、勢い良く腕を跳ね上げられる。体勢を崩した京太郎に、巴は容赦がない。一歩踏み込むと、すれ違い様に足を引っ掛ける。これも、大した力は込められていない。足を払うというよりも、ただ足を動かしただけという速度にも関わらず、京太郎の足は綺麗に払われた。天井を見上げている自分に驚きながらも、受身を取る。背中に衝撃。息が詰まるが、それは僅かだ。

 

 即座に跳ね起きて、巴から距離を取る。その頃には、既に巴の顔は目の前にあった。襟を取られた。そう思った次の瞬間には、床に転がされていた。

 

 立ち上がりながら、京太郎は内心で舌を巻いていた。

 

 実力差があると頭で理解しているのと、身体で理解するのとでは雲泥の差がある。巴よりも重いはずの自分が、軽々と投げ飛ばされたという事実を身体で実感したことで、京太郎は自分で思っていた以上に、巴が強いという事実を実感した。これでは確かに、五秒は長い。組み付いた次の瞬間に投げ飛ばされるのでは、カウントの意味すらないかもしれない。

 

 勝利の見えない戦いに、しかし京太郎は気持ちを奮い立たせた。そういう勝負に活路を見出すことこそ、勝負の醍醐味だ。

 

(決して明星のおもちに目がくらんだ訳ではないからな!)

 

 内心で言い訳しつつ、巴に向かって突進する。京太郎が取った選択肢は、タックルだった。そもそも技術には圧倒的に負けているのだから、自分の勝っているところで勝負するより他はない。男である京太郎が、女である巴に勝っているのは体格、腕力、そして体重である。

 

 全力ダッシュからの渾身の力をこめたタックルならば、如何に巴の技術が優れていても、押し倒すくらいはできるはずだが、問題はタックルをすんなり受けてくれるかだ。タックルに膝をあわせられて昏倒する格闘家というのを、何かで見たことがある。そういう試合では、タックルをする人間が最も警戒すべきは対応して放たれる膝であるというが、明らかに本気ではない様子の巴はそこまでしてこないという確信が、京太郎にはあった。同様に足を払ったり、避けたりもしないはずである。

 

 まるで横綱相撲やプロレスだが、自分より大きく重い男性が突進してくるのに、それでも平然としていられるのは十分に対応できるだけの技術があるからだ。ならばその余裕をぶっ壊す! 渾身の力を込めて京太郎はタックルをする――が、予想に反して巴はびくともしなかった。まるで足に根が生えているかのように、動かない。何故? 目を白黒させている京太郎の耳に、残念でしたー、という巴の楽しそうな声が響く。京太郎の腕は巴の腰にしっかりと回されている。これを五秒離さなければ京太郎の勝ちだが、巴が僅かに体を動かすと、がっちりロックしていたはずの腕はするりと抜け、瞬きの後には京太郎の足は払われ、転ばされていた。

 

「まだやる?」

 

 天井と、巴の顔が見える。赤みがかったポニーテールの髪が、さらさらと流れていた。転がされたまま、京太郎は両手をあげた。

 

「降参します」

「お疲れ様。筋は悪くなかったと思うよ」

「ありがとうございます。それなら、一矢報いたかったものですが」

「女は殿方を立ててこそ、っていうのが神境の巫女の流儀ではあるけど、この分野でそれはできないかな。私と湧は、これが専門の一つだし」

「おみそれしました」

 

 巴に頭を下げて立ち上がると、応援していた明星と湧がすっとんできた。特に明星は、京太郎の身体をぺたぺたと弄り回している。一つ下の妹分であるが、十分に育ったおもちが近くで揺れるのは、気が落ち着かなかった。

 

「どうした明星?」

「お怪我でもされていないか、心配で。巴さんのことですから大丈夫だとは思いますけれど、万が一ということもありますから」

「明星。転がされたくらいで大げさじゃない?」

「兄さまの兄さまに万が一があっては困るじゃありませんか!」

「はいアウトー。湧、やっちゃって良いよ」

 

 巴の号令で、湧が明星に飛び掛る。もはや毎度の光景であるが、押し倒された明星は女の子が挙げてはいけないような悲鳴をあげて、湧と一緒に床をごろごろと転がっていく。キャットファイトする年下二人を眺めながら、京太郎はそっと溜息を吐いた。明け透けなのも、時には考えものである。

 

「終日って言ってましたけど、午後もずっと組み手をしてるんですか?」

「午後は長刀とか竹刀とかかな。もっと時間がある時には弓とか馬とか使うけど」

「……何でもできるんですね、巫女って言うのは」

「とりあえずってことで、一通りやらされるだけだよ。普通、続けるのは何か一つだからね。全部それなりって巫女さんは、少ないんじゃないかな」

「ちなみに巴はその数少ない一人だよ。京太郎も何かやりたくなったら巴に教わると良い」

 

 すげー、と単純な感想が京太郎の口から漏れた。年下の男性からの惜しみない賞賛の視線に、巴は満更ではない。やるにしても、鹿児島と長野である。実際に本格的に指導を受ける機会は少ないだろうが、やるとなったら巴に教わろうと、京太郎は心に決めた。

 

「さて、もう少しやったらお昼にしようか。明星と湧にはまだまだびしばし行くから、最後まで見学して行くと良いよ」

「それでは」

 

 良子と揃って道場の隅まで移動する間に、巴は組み合っていた明星と湧の襟首を掴んで中央まで引きずっていく。

 

「さあ、休憩はこれくらいにして再開しようか。京太郎の前で良い格好したいでしょう? 特に明星」

「巴さん相手に良い格好できる訳ないじゃないですか……」

「強敵相手に打ちひしがれてる女の子を見ると、男の子はときめいたりするんじゃないかな?」

「見ていてください兄さま!」

 

 急にやる気を出した明星に、巴と湧は揃って溜息を漏らした。ここまで動機が不純であると、いっそ清々しい。諦めずに巴に挑んではちぎっては投げされる光景を思い浮かべたが、巴が二人に課したのは歩法の訓練だった。道場の端から端まで決まった歩き方で往復し続ける実に地味な基本練習である。これでは良い格好も打ちひしがれるもないと、明星は微妙に不満そうだったが、文句は口に出さずに黙々と道場を往復する様は、芸を仕込まれている犬を思わせた。これはこれでかわいいと思う。

 

「……もしかして私達は、歩法の訓練を眺めているだけかな」

「流石にそれだと京太郎が退屈でしょうから、良子さんもどうですか?」

「それは組手ってことかな? 私じゃ巴の足元にも及ばないと思うんだけどね、もしかして自分が良い格好をしたいとか思ってないかい?」

「そんなことは……私はただ、良子さんと親睦を深めたいな、と思ってるだけで……」

 

 良子の追及に、巴の視線は僅かに外に流れた。当たらずとも遠からずと言った所だろう。お姉さん然とした巴が、こういう主張をするのも珍しい。直接打ちのめされた訳だし、今のままでも十分にかっこいいと思ってはいるのだが、ここでダメ押しと考える辺り、巴も随分と思い切りが良い。明星と湧は基礎練習をしているから、その企みも良子が乗ってくれるかどうかにかかっている。

 

 指導ができるくらいに実力がある巴に対して、良子は自分でそれほど得意ではないということを言っていた。霞や初美に投げ飛ばされていたというのだから、それ以上の巴相手では、やはり投げ飛ばされることになるだろう。良子は巴と仲良しだと聞いているから酷いことにはなるまいが、それでもこれから投げ飛ばされるであろう良子のことが、心配と言えば心配だった。

 

「いずれにせよ、断るって選択肢はないね。私だって巫女の端くれ。お客様を退屈させては大変だ。ところで……さっきは京太郎と賭けをしてたみたいだけど、その内容は継続ということで良いのかな?」

「賛成です!」

 

 道場を行ったり来たりしながらも、しっかりと良子の言葉に反応した明星の頭を湧が叩いた。

 

「選択肢をあげても良いんじゃありませんか? それにそれだと、良子さんに良いことがありませんよ?」

「ではこうしよう。私がもし巴に勝ったら京太郎には後ろから抱きしめてもらおう。九十年代に流行ったそうだよ。あすなろ抱きと言うらしいね。出会った時は私よりも小さかったから無理だったけれど、今の身長差ならちょうど良さそうだ」

 

 捉えどころのない性格の良子は、たまに本気とも冗談ともつかないことを言う。冗談ですよね、と期待と困惑の混ざった視線を向けると、良子は小さく首を傾げてウィンクをしてみせた。男性力の低い京太郎には、それがどういう意味なのか解らない。もしかして誘われてる? と舞い上がれたらどんなに良いだろう。仮にそうであったとしても、この場で舞い上がれば針の筵だろうから、素直に喜ぶことはできないのだが。

 

「……これは、私も少し頑張った方が良さそうですね」

 

 巴が微笑んだ。やったのはそれだけだが、それだけで、先ほどよりも本気で行くのだと京太郎には理解できた。良子が申告の通りの腕前だとしたら勝てるはずもないが、何か勝てる算段でもあるのだろうか。

 

「ないよ。おそらく巴には勝てないだろう」

「じゃあ、何でこんなことを?」

「これから麻雀のプロになろうという人間が分の悪い賭けをするのもどうかと思うけど、なに、ローリスクでハイリターンが得られるんだ。ここで行かない手はないよ」

 

 ふふふ、と良子は機嫌が良さそうに笑う。これから多少の痛い目を見るということを考えている風には見えない。だからと言って、自分が勝つことを疑っていないようにも見えなかった。自覚している通り、かなりの確率で良子は負けるだろう。その未来を受け入れ、条件をつけて楽しんでいるのだ。

 

「これはね、京太郎。君を見て学んだことだよ。負ければ確かに悔しいけど、だからこそ、勝った時の喜びも大きい。物事に真剣に打ち込むということは、だって、そういうことだろう?」

「良子さんって、時々大胆ですよね?」

「なに、初美や春ほどじゃないさ。それじゃ、そろそろ始めようか。私も少しは良い目を見たいな。お手柔らかにお願いするよ」

「お姉さんの一人として、弟分の身の安全は守らせてもらいましょう?」

 

 一瞬、二人の間に火花が散った。目の錯覚だと思うことにしたが、音まで聞こえた気がするのは気のせいだろうか。身の安全を考えるならば外に出てひなたぼっこでもしたい気分だったが、賞品として指定されてしまった以上、ここを離れる訳にもいかない。

 

 せめて穏便に話がまとまりますように。正座して、先輩二人の戦いを観戦しながら、京太郎は心中で祈った。

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「巴も手を抜いてくれても良かったと思わないかい?」

 

 小蒔と霞以外の揃った昼食の後、今度は長刀をやるという巴たちと別れて、初美たちの神楽舞の練習を見に移動している途中である。同道しているのは良子だけだ。京太郎の一緒に行こうという提案に、初美たちは首を横に振った。現地集合の方が、ロマンがあるらしいのだが、その辺りの機微は京太郎には解らなかった。しばらく離れで時間を潰して、初美たちに遅れて出発して歩いている途中、良子が不意に愚痴を漏らした。

 

「そういうことに私情は挟まないんじゃないですかね。麻雀でも、巴さんは情打ちとかしませんから」

「アプローチのやり方を間違えたのかな……一緒に抱きしめられようと言ったら、巴は乗ってきたと思うかい?」

「それを俺に聞かれても……」

 

 そういう、欲望に目が眩むのは年下組の役割で、巴が乗ってきそうには思えなかった。たまに冗談は言うしからかってもくるが、そこまでの悪乗りはしないという印象があった。絡まれることに疲れた時の、ほとんど唯一の癒しが巴なのだ。ここで巴まで悪乗りしてくるようになったら、神境に安息の地はなくなってしまう。

 

「京太郎は、巴だけ妙に神聖視してる節があるね。巴にだってどろりとした所はあると思うんだけど、どうだろう」

「あまり想像できません。良子さんは、巴さんとは仲良いですよね。そういう話とか、するんですか?」

「そりゃあ女同士だからね。殿方禁止のガールズトークもするさ。興味があるというのなら聞かせても良いよ? 巴と一緒に京太郎の目の前で、京太郎がいないかのようにガールズトークしようじゃないか」

「どんな羞恥プレイですかそれは……」

 

 そんなからかわれるだけからかわれて、得る物のなさそうなイベントに参加するのはご免だ。良子なりの冗談だと解釈した京太郎は、その提案を一蹴する。素気無い対応の京太郎に、良子は肩を竦めて見せた。割と本気だった、と言っても、京太郎は信じてはくれないだろう。

 

 何気ない世間話をしながら道を行く。

 

 午前中にお邪魔した道場は修業エリアの中でも比較的内側になるが、神楽舞の練習のための施設は、比較的外周――一般客でも立ち入れるエリアに近い場所にあった。以前に何度か見たことがある。祭の際に、一般人に舞を披露する舞台と、ほとんど同じつくりだ。違いは華美な装飾があるかないかということくらいである。ほとんど全方位から舞を見れるような作りのその舞台の上で、初美と春は各々、神楽舞の稽古をしていた。

 

 その監督をしているのは、初老の女性である。女性にしては背の高い、背筋のしっかりと伸びた姿勢の綺麗なその女性は、京太郎も見知った人物だった。

 

「お久しぶりです。千恵さん」

「京太郎ですか。長野から、良く来ましたね」

 

 切れ長の目を細めて、千恵は微笑んだ。ともすれば強面に見えるその顔には、今は柔和な笑みが浮かんでいる。京太郎の前ではこういう、優しいお婆さんというイメージの千恵であるが、孫である春に言わせるとそれは余所行きの顔であるらしい。巫女さん絡みのことになると、それはそれは厳しい人なのだそうだ。

 

「背も伸びましたね。顔付きも随分と精悍になりました。それでは女性が放っておかないでしょう。そろそろ恋人の一人もできたのでは?」

「いや、今も昔も麻雀が恋人です」

「そうですか。貴方の周囲の女性は、男を見る目がありませんね」

「あのお婆様、貴女の孫がここにいるのですが……」

 

 京太郎しかいないように振舞う千恵に、良子が申し訳なさそうに声をあげた。そんな良子を、ちらりと千恵が見やる。特に睨んでいるという訳ではないのに、一瞬で迫力が増した千恵に、なるほど、春の言っていたことは嘘じゃないんだな、と京太郎は理解した。

 

「……久しぶりに会うはずの祖母に顔を見せるよりも先に、殿方の部屋にしけこむような不良孫など、私は知りません」

「しけこむなんてお婆様。疚しいことは決して」

「それはそれでどうかと思うのですがね。まぁ、その辺りは若い人たちに任せましょう。私が貴女の立場でも、同じ判断をするでしょうから」

 

 厳しい気配が霧散する。ほっと息を吐く良子に、千恵は穏やかに微笑んだ。

 

「久しぶりです。プロになることが決まったそうですね。念願が叶ったようで何よりです」

「ありがとうございます」

「今まで修練をしていなかった、などと言うつもりはありませんが、今までよりもずっと厳しい環境になることでしょう。今更私に言われるまでもないと思いますが、精進を怠ってはいけませんよ?」

「肝に銘じておきます、お婆様」

「結構。ところで、良子は『三尋木咏』という人物を知っていますね?」

「勿論知っていますが……」

 

 良子がちらりと京太郎を見る。咏との間に師弟関係にあることを知っている人間はそんなに多い訳ではないが、良子はその数少ない人間の一人だった。プロになったら挨拶に行かないとね、と愛媛で冗談のように語り合っていたのが二年前のこと。それが現実になりつつあることには感慨深いものがあった。

 

 千恵についてだが、鹿児島にいた時、咏のことは春に話したことがある。祖母である千恵も、春から話を聞いているだろう。彼女の言葉は、良子もそれを知っているのか、という確認も込められていたのだが、それはさておき――

 

「知っているのなら、話は早いですね。単刀直入に聞きますが、三尋木咏に勝てますか?」

 

 直球過ぎる千恵の質問に、良子は押し黙った。良子もこれからプロになろうという人間なのだから弱いはずはないが、咏は高卒でプロになって以来ずっと、トッププロで在り続けている。獲得賞金ランキングで5位よりも下になったことはないし、あらゆるタイトル戦で常連となっている咏を捕まえて、弱いという人間はいないだろう。

 

 きちんとした勝負ができるという人間でもかなり絞られ、トータルで勝つ可能性があるとなれば、それこそ小鍛治健夜や瑞原はやりなど、同じくトッププロ中のトッププロを連れてくるしかない。当然、まだプロにもなっていない良子では力不足であることは否めない。

 

 それは良子自身が良く解っているはずである。如何にトッププロ相手でも勝てないと口にするのは口惜しいことではあるだろうが、良子は毅然とそれを口にした。

 

「勝負は水物です。何度やっても一度も勝てないとは申し上げませんが、実力で言えばあちらの方が大分上だと思います」

 

 良子の正直な物言いに、千恵は声のトーンを落とした。明らかにブルーになっている様子の千恵に、京太郎が問いかける。

 

「あの、咏さんがどうかしたんですか?」

「京太郎は若菜さんには会ったことがあるのでしたね?」

「神奈川にいた時に。それ以降も、神奈川に遊びに行った時は、何度か」

「三尋木の家は、昔から神境と交流がありましてね。私と若菜さんも、所謂幼馴染の関係です。知ってのとおり今も交流は続いていますが、良子がプロになろうとしているという話を聞いたのでしょう。先日若菜さんから電話がありましてね……」

 

 京太郎には、千恵が怒りを堪えているように見えた。既にプロである孫と、プロになろうとしている友人の孫。対外的に見て、どちらの立場が上かというのは明白だ。遠慮のない関係であるようだし、何か煽るようなことを言われたのだろう。それで良子が勝てるか、という質問に繋がったのだと考えれば納得である。

 

 そして、良子本人から『おそらく勝てない』と言われて、どう感じたのか。実際に雌雄を決することになった時に、どういう電話がかかってくるのか。まだ若い京太郎にも想像に難くはなかった。

 

 それにしても、と京太郎は思う。落ち着いた老婦人という印象の千恵の激情家っぷりが京太郎には意外だった。そんな京太郎の内心を見抜いたのか、良子がこっそりと耳打ちしてくる。

 

「うちのお婆様はね、あれで若い頃は結構奔放だったんだよ。長い永水の歴史の中でお婆様だけじゃないかな。教師に隠れて準備をして謝恩会でバンド演奏なんてしたのは」

「昔の話ですよ……あまり吹聴しないでください」

 

 珍しく照れた様子で千恵が言うが、どうにも満更でもなさそうだった。巫女がバンド演奏というのは京太郎にも全くイメージのわかないことであるが、とても落ち着いて見える千恵が楽器を持ってステージに立っていたとは、孫である良子の口から聞いても信じられない。

 

「ほら、良子がそういうことを言うから京太郎の目が輝いているではありませんか。京太郎くらいの年齢の殿方は、バンド演奏というものに特別な感情を持っていると聞きますよ?」

「そうなのかい? それは勿体無いことをしたね。それなら私も何か、楽器をやっておくんだったかな」

「いえ、そんなことは。俺は麻雀一筋です」

「良かった。それなら私にも教えられる」

 

 にっこり微笑んで良子が身体を寄せようとすると、その間に強引に春が割って入った。そのまま京太郎の腕を取り、背後から抱きついてくる。肩越しに良子に向ける視線には、僅かに敵意が見えているような気がした。年下の従妹の視線に、良子はあっさりと白旗を揚げる。

 

「すまないね春。今は、君達のターンだ」

 

 良子の言葉に満足した春は、京太郎の背中から降りると、今度は正面に回った。初美と同じ装いであるが、女性として恵まれた身体つきをしている春が着ると、衣装の印象も違った。健康的に見えた初美と違い、春の場合はどこか扇情的に見える。京太郎の視線が自分に吸い寄せられていることに気づいた春は、満足そうに微笑む。

 

 対して初美は不満そうだ。そんな二人の巫女を見て、千恵はふふ、と上品に笑う。

 

「二人とも、京太郎に見せるために今日は随分と熱心に練習をしていたのですよ? せっかくですから、見て行きなさい。初美も春も、この年代の中では踊りの腕も達者ですから」

 

 言って、舞台の隅に移動させられる。座布団に良子と並んで座ると、初美と春が舞台の中央に移動した。左手に扇子、右手に巫女鈴を持った二人はそれまでは緊張した様子だったが、定位置に着くと一切の表情が消えた。

 

 合図もなく、舞が始まる。特に示し合わせた様子はないが、舞台の中央を中心に春と初美は対称的に動いている。まるで鏡合わせのような動きに京太郎は目を剥いた。身長体型こそ異なるが、その動きには寸分の狂いもないように見える。同年代の中で舞踊が達者という千恵の言葉に、嘘はないのだと今更ながらに思い知った。

 

 巫女鈴の音と、舞った際の衣擦れの音。舞台に聞えるのはその音くらいで、足運びは本当に静かだった。この日のために練習したという二人の舞に、京太郎は食い入るように見入っていた。真剣な京太郎の様子を、良子は苦笑を浮かべながら見下ろしている。

 

 目をつけた少年が他の女に目を奪われているのは女としては面白いことではないが、力ある巫女の舞には人を惹きつけて止まない魅力がある。舞っているのが同年代の少女というのも、京太郎の目を惹きつける一因となっていた。加えて春と初美は同年代の中では、トップクラスの腕を持っている。そんな二人がそれこそ、眼前の京太郎のためだけに舞っているのだ。

 

 元来、舞というのは神様に奉納されるべきもの。神に仕える巫女が、その舞を人に捧げるというのも言語道断な話であるが、長く霧島の巫女を見守ってきた神様たちだ。それが男のためとなれば、許してくださるだろう。

 

 

「どうでしたかー?」

 

 シャン――という巫女鈴の音と共に、春と初美の瞳に色が戻る。舞うための巫女から薄墨初美と滝見春に戻った二人に、京太郎は惜しみのない拍手を捧げた。

 

「凄かったです。上手く言えませんけど、その……綺麗でした、二人とも」

 

 やったですよー!! と喝采をあげた初美は、隣の春とハイタッチを交わす。咄嗟に出た行動だったのだろう。いえーいと一頻り騒いだ後に、巫女二人は指導役の千恵の存在に思い至った。素早い動きで眼前に整列する年若い巫女二人に千恵は苦笑を浮かべるが、その顔に怒気はなかった。

 

「お客様である京太郎の前です。今日は大目にみましょう。ですがあまり、はしたない真似はしないように」

『かしこまりました』

 

 行儀良く頭を下げる春と初美に、良子は笑みを堪えている。先ほどまで、人を魅了して止まない舞を踊っていたとは思えない程に恐縮している二人に、京太郎も自然と笑みを浮かべた。

 

「あー、京太郎が笑ってるのですよー!」

「それは良くない」

 

 目ざとく京太郎の笑みを見つけた初美が、頭を下げたのもそこそこに、突撃してくる。春もそれに追従していた。距離はまだある。ここは華麗に回避――と動きかけた京太郎の身体が、がくっと落ちた。

 

 座布団に正座していたせいで足が痺れている。そうこうしている間にも初美と春は迫っていたが、まだ動けない。正座になれているらしい良子は、いつの間にか安全な場所まで退避していた。

 

『ズルいですよ……』

 

 視線で訴えるが、良子は視線を逸らした。そういうのは男の役目と態度で示す良子に、京太郎は覚悟を固めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「酷い目にあった」

「自業自得……と言うのは流石にかわいそうかな。でも、ここは神境だ。巫女さんに優しくしておいて損はないよ」

「それは良子さんにもってことですか?」

「もしも今まで優しくしたことがないというのなら、是非して欲しいね。今まででも十分過ぎる程だけど、これ以上があるなら見てみたい」

「これからも精進します」

 

 そうしてくれ、と嬉しそうに微笑む良子から視線を逸らしながら、京太郎は足を進めた。

 

 初美たちがいたのは修行エリアの、どちらかと言えば外周に位置する場所だったが、これから行くのは中心部に位置する施設だった。巫女の中でも高位の人間しか足を踏み入れることができない場所だという。良子は外様の巫女とは言え、優秀な巫女だ。彼女が足を踏み入れる分には何も問題はないのだろうが、巫女ではないどころか女性でもない自分が足を踏み入れて良いのかと、京太郎が思うのは当然のことだった。

 

 ここには超常的な存在が確かにいる。格式なども気になることであるが、そういう連中の目にとまって祟られたりはしないものか。京太郎が気にしているのはそこだった。

 

「格式ばってはいるけど、これから行く場所は一度に使える人間が少ないからね。高位の巫女に使用を限定することで、スケジュールの調整を楽にしてるんだよ」

「つまりそれは俺が入っても大丈夫ってことですか?」

「大事はないかってことならイエスだね。何も起こらないかという質問ならノーだけど」

「……俺、部屋に戻って寝てても良いですか?」

「私はそれでも構わないけどね? 昼寝を所望ということなら、添い寝くらいしようじゃないか。ただ、他の五人のところには顔を出したのに、姫様と霞には会わずに戻ったとなったら、姫様はともかく霞は怒るんじゃないかな」

 

 それは困るだろう、と言う良子に京太郎は大きく溜息を吐いた。それは本当によろしくない。霞だけをスルーするのでも大事なのに、そこに小蒔まで加わったら霞の怒りは何倍にもなる。それは何としても避けなければならない。

 

 それに打ちひしがれた小蒔を見るのも、罪悪感が半端ではない。他の二つの所に足を運んだ時点で、小蒔たちの所にも行くのは確定なのだ。多少不幸が起こるからと言って、スルーはできない。

 

「ここだね。私が先導するから、後をついてくるように」

 

 良子が足を止めたのは、如何にも何か出そうな装いの洞窟だった。入り口には注連縄があり、周囲は踏み均されて人が出入りしている気配がある。草むしりもされていることから、定期的に人がやってきていることは解る。解るのだが……麻雀を始めた時からオカルトに触れ、良子を始め巫女さんに鍛えてもらった京太郎の感性は、ここには確かに『何かがある』と訴えかけていた。

 

「本当に、俺が入っても大丈夫ですか?」

「京太郎も心配性だね。大丈夫だよ。ただ、私の後ろを離れないように。道に迷ったら、ここから出られる保証はないよ」

 

 差し出された良子の手を、京太郎は恐る恐る握り返した。

 

 中学生になった男が年上の女性に手を引かれるというのも格好悪いが、背に腹は変えられない。

 

 洞窟で道に迷ったらそこは異世界だった、というのも中学生には大好物な話であるものの、実際に体験する可能性が高いとなるとやはり躊躇するものである。異世界にも超能力にも興味がないではないが、一般に『人間じゃない』と言われるくらいの力量を持った知り合いが、京太郎には多くいた。そんな彼女らのことを理解するのに精一杯なのだから、異世界も超能力も多分、手に余るものなのだ。

 

 おっかなびっくりな京太郎を、良子は生暖かい目で眺めていた。奥の奥であればいざ知らず、瞑想のための場所に行くまでの通路にはそこまでのオカルトはない。薄暗い洞窟とは言え一本道だから、道なりに歩いていけば絶対に迷わないのだが、少し脅かしてみたら予想以上に怯えてしまったことは、良子にとっては大きな収穫だった。

 

 心霊詐欺にかけているようで聊か気分は良くないものの、僅かに怯え、そしてそれを外に出さないように健気に振舞っている京太郎の顔は、巴ではないがとてもかわいく見えた。いつの間にか、身長では逆転され、男らしくなってしまった京太郎に、年下っぽさを感じた瞬間である。

 

 そんな風にときめいている良子の心中など知らず、京太郎は慎重な足取りで洞窟を歩いた。薄暗いが一定間隔に松明があり、それに火が灯されている。先にここに来た二人が、火をつけていったのだろう。おかげで足元には困らないが、洞窟に松明の照明というのがそれらしさを大いに演出していた。

 

 大掛かりな脅かしは今のところ何もないものの、雰囲気だけで一流のお化け屋敷に匹敵する。怖がりな咲ならば、一歩足を踏み入れただけで回れ右するだろう。かく言う京太郎も雰囲気に飲まれつつあったが、自分の手を引く良子の感触が京太郎の意識をしっかりと現実に縛り付けていた。4つも年下であっても、男の子である。年上のお姉さんを前に無様な格好を見せたくないと思うだけの見栄はあるのだ。

 

「ついたよ。ここがその修行場だ」

 

 薄暗い道を十分ほど歩いた先、二人は開けた場所に着いた。

 

 綺麗とは言えないものの、真円に近いその場所の中央に、巫女の衣装の少女二人が向かい合わせで正座している。春たちの所には監督役として千恵がいたが、ここには二人以外に姿は見えなかった。微動だにしない二人に不安になる京太郎だったが、良子は実に軽い足取りで近寄っていく。手を引かれたままの京太郎も、それに続いた。

 

 近くに寄ってみると、小蒔と霞の状態が異常であることが見て取れた。

 

 一言で言うならば、魂が抜けているように見える。姿勢も正しく正座しているのだが、開かれた目には何というか、精気がない。目を開けたまま気絶していると言われても、今ならば信じられるだろう。姿勢はそのままということに違和感は残るが、ここが霧島であることを考えると、大したことではないように思える。

 

「京太郎は、こういう瞑想をしてる巫女を見るのは初めてかな?」

「はい。何だかその……独特な雰囲気ですね」

「慣れない人間には多少は不気味に見えるだろうね。ちなみに京太郎、この状態なら姫様にも霞にも何を言っても聞えないよ。日ごろの不満をぶちまけてみたらどうだい?」

「そんなこと言っても騙されませんよ。俺だって学習するんですから」

「本当だよ。ほら、見てごらん」

 

 霞の耳元で良子が指を何度か打ち鳴らすが、霞には全く反応がなかった。全く聞えていないように見えるその態度に、京太郎は恐る恐る霞の顔を覗き込んだ。改めて見ると、やはり綺麗な人だ。美人は三日で飽きると言うが、霞のこの顔は見ていても飽きないと思う。いつ見てもにこにこと微笑んでいる霞の、心ここにあらず、といった表情も新鮮だった。

 

 ともあれ、霞に反応がないのは良く解った。日頃の不満というが――

 

「そうですね。もう少し優しくしてほしいとは思いますけど、それは別に良いかなって」

「前から君にはドMの気質があると思っていたけど……霞みたいなタイプに尻に敷かれるのが好みなのかい?」

「そこまでは。でも、今更すっごく優しくなられても戸惑うというか、やっぱり霞姉さんはああじゃないと落ち着かないと思います」

「これが調教の成果という奴か……」

 

 呆れた様子の良子に、京太郎は続けた。

 

「それに、二つ年上だから厳しく見えることもあるだけで、もし俺が年上か、せめて同じ年だったら、凄く可愛く見えると思うんですよね」

「……これはまた不思議な意見が出てたね。霞を見た男性で『かわいい』と言っているのは、初めて聞いたよ」

「年下の俺の前でも拗ねることとかありますし、初美さんと仲が良いのを見るに、気質は結構似てると思うんです。役割と身体つきからそう見えるだけで、中身は結構可愛いんじゃないかと」

 

 言って、もしこれを霞が聞いていたらと考えるとぞっとしたが、霞は相変わらず無反応だ。聞いているなら今頃京太郎は関節を極められて謝らされていただろう。それがないということは霞はこれを聞いていないということだが……霞を評してかわいいとか、随分と思い切ったことを言ったものである。本人を前にしては絶対に言えないはずのことを、本人を前にして言ってるのだ。特殊なこの環境に、今更ながらどきどきしてくる。

 

「やってみるもんだね。京太郎の普段は聞けない意見を聞くことができて良かったよ」

「言っておきますけど、霞さんに告げ口とかしないでくださいね?」

「勿論だとも。霞と京太郎だったら、私は京太郎の味方をするさ」

 

 小さく微笑んで、良子は手を大きく広げ、打ち鳴らした。洞窟に、拍手と音が響く。

 

 すると、霞の瞳に色が戻った。目を瞬かせ、すぐ目の前に京太郎がいるのを見ると、にこりと微笑む。実に魅力的な笑顔だったが、京太郎にはそれが攻撃的なものだということが、良く解った。

 

「意識のない女性の顔を覗き込むことは、紳士的なことかしら?」

「いいえ、違います。申し訳ありません」

「まぁ、良子さんもいたのなら如何わしいことはしていないのでしょうけど、男の子ならもう少し節度ある行動をしなさい。いいわね?」

「はい、霞姉さん」

「よろしい。さ、小蒔ちゃん起きて? もう瞑想は終わりよ」

 

 霞に肩を揺さぶられ、小蒔はうっすらと目を開き――すとん、と寝落ちした。良く眠る小蒔は、決して寝起きも良くない。これをやったのが京太郎であれば、霞も容赦なく腕の一つも極めたのだろうが、彼女の眼前にいるのは神境の姫君であり、霞が仕える人だ。根気良く、それでも静かに小蒔の肩を揺すること、五回。漸く意識のはっきりしてきた小蒔は、寝ぼけ眼で周囲を見回す。

 

 京太郎と視線が合ったのは、その時だ。

 

 唐突に意識が覚醒した小蒔は驚きのあまりその場でひっくり返ると、ごちんと鈍い音がした。痛いです~と呻く小蒔を背景に、霞が笑顔を向けてくる。先ほどよりも攻撃力の増した笑顔に京太郎は姿勢を正し、小蒔の元に飛んでいく。

 

「大丈夫ですか? 小蒔さん」

「うぅ……京太郎に見苦しいところを見せてしまいました」

「俺の方こそ、すいません。もう少し穏やかに登場できれば良かったんですが」

 

 小蒔の手を引いて立ち上がらせると、地面に打ち付けた後頭部をみやる。瘤にでもなっていたら大事だ。良く手入れされた髪になるべく触らないようにしながら、小蒔の頭を観察する。

 

「大丈夫みたいですね。まだ痛みますか?」

「へっちゃらです!」

「それは良かった。さて、これから夕食の準備をするそうで、瞑想に区切りがついているようだったら呼んできて欲しいと、初美さんが言ってたんですが……」

「今日の修行は、これで終了ね。京太郎、悪いけれど小蒔ちゃんをエスコートしてもらえるかしら?」

「それは構いませんが……霞姉さんはどうするんです?」

「ほんの少しだけ、指導をするという約束をしたんだよ。長い話ではないけど、京太郎まで付き合う必要はないからね。姫様もお疲れのようだから、二人で先に帰っていると良い」

 

 京太郎が問うたのは霞だったが、答えたのは良子だった。霞が答えないことに不自然さを覚えないではない。そも、霞に話があるということを良子から聞いてはいなかった。どうにも取ってつけたような展開のような気もするが、目下の問題は小蒔だ。霞から直々にエスコートを頼まれたのだ。何かとそそっかしい小蒔に、何かあってはいけない。

 

「わかりました。お二人とも、お気をつけて」

「霞ちゃん。先に戻りますね?」

「小蒔ちゃんも気をつけて。京太郎をよろしくね?」

 

 まかせてください! と拳を握る小蒔にほっこりとしつつも、転んではいけないと小蒔の手を握る。年上の女性にすることではないが、何もない所でも転ぶ小蒔に、足元の不安定な洞窟を歩かせるのも危ない。手を握ってきた京太郎に小蒔は一瞬驚きの表情を浮かべたが、すぐに握り返してきた。一つ年上のお姉さんのはずなのに、そのいじらしさがたまらなくかわいい。

 

 それでは、と二人に挨拶をして、来た道を歩いていく。しんと静まり返った洞窟に、二人分の呼吸の音が響く。

 

 その道程の半分も来たくらいだろうか。それまで黙って腕を引かれていた小蒔が急に足を止めた。振り返ると、小蒔は暗がりでも解る程、頬を真っ赤に染めて俯いていた。その様子にどきどきしながらも、小蒔の言葉を待っていると、

 

「その、お願いがあるんですけど、聞いてもらえますか?」

「俺で叶えられることなら、何なりと」

「実はですね、京太郎が来る前に巴ちゃんから借りたマンガに、その……男性が、女性を抱っこするシーンがあったんです。それで、その、京太郎にはそれをしてもらえたらと」

 

 上目使いの小蒔に、しかし、京太郎はすぐに『お安い御用です』と答えることはできなかった。お姉さんぶりたい小蒔は、お願いをしてくることは少ない。基本的にはいつも、京太郎のお願いを聞いてくれるスタンスである。色々と恩義のある身である。小蒔からのお願いならば叶えてあげたいというのが本音だが、抱っこというのは対応に困るお願いだった。

 

 弟分としては叶えてあげたい、男性としてはやってみたい。

 

 だが、須賀京太郎としては足踏みをしている。後から霞が追いついてきた時、小蒔を抱っこしている自分を見たら、小蒔の前では微笑みつつも、霞は鬼と化すだろう。かわいい人と言ったばかりであるが、霧島の巫女さんの中では霞が一番怖い。

 

 逡巡している京太郎に、小蒔は不安そうな表情を浮かべる。

 

「だめですか? お姫様抱っこ」

「……そのまま歩いても良いのなら。揺れると思いますけど、大丈夫ですか?」

「お願いを聞いてくれるなら、これ以上はありません!」

 

 一転、笑顔になった小蒔が、腕を広げる。大きなおもちに触れないようにしながらも脇と膝の下に手を入れ、そっと持ち上げる。想像していた以上の軽さに驚きながら、歩みを進める。これくらいならば、休憩を入れなくても、洞窟の外くらいまでは歩けるはずだ。人の目があるかもしれない外に出れば、流石に小蒔も自分から降りてくれるだろう。

 

「姫様扱いって嫌に思うこともありますけど、たまにはお姫様も良いものですね」

 

 腕の中で嬉しそうに微笑む小蒔を見ていたら、人の目とかこれから怒られるかもとか、そんなことはどうでも良くなってしまった。

 

(かわいいってズルいよな……)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「かわいいんだってさ……」

 

 京太郎たちが見えなくなってから、良子がぽつりと呟く。無論、その場に残った霞を意識してのものだったが、当の霞からの反応はない。ちらりと横目で見れば、頬を押さえて蹲っていた。髪の隙間から見える耳は真っ赤になっている。恥ずかしいのだろう。無理もない。彼女の性格を考えたら、さっきは良くボロを出さずに耐えられたと思う。

 

 京太郎には聞こえていないと言ったが、実はあの段階で霞は周囲の音を聞ける状況にあった。瞑想にも色々と種類がある。今回霞がやっていたのは、身体から意識を切り離しつつも、意識はその場に残るという――一言で説明するなら、幽体離脱をしてその場に留まっているというのが近いだろう。

 

 一目で霞の状態を看破した良子は、京太郎に仕掛けた訳だ。霞の意識が大慌てしているのが見えるようだったが、自分の興味を優先することにした。霞本人を前にして、京太郎が彼女のことをどう思っているのか。聞ける機会は早々ない。

 

 これで小蒔も霞と同じような瞑想をしていたのであれば、流石に良子も遠慮したろうが、案の定というか何というか、小蒔はしっかり意識を失って忘我の彼方を彷徨っていた。これはこれで高度な技術ではあるものの、自分で意識を復帰するタイミングを調節できないため、誰かが一緒にいる必要があるというデメリットもあるのだが、それはさておき。

 

 興味半分で京太郎に言わせて見たが、それは予想以上に効果があった。あの石戸霞が、顔を真っ赤にして蹲っている光景など、そう見れるものではない。

 

「京太郎が年下で、君が姉ポジションで良かったね。これで京太郎の言う通り本当に同級生だったら、明日から乙女になるより他はなかったよ」

 

 からかってみると、うー、とだけかわいく唸る。相当にダメージがあったのだろう。いつも弄るだけの弟分が、自分のことをそんな風に思っていたなんて……と、霞の中で羞恥心と乙女心が戦っているのだ。恥ずかしいと思う反面、嬉しく思っているに違いない。姉として接する以上、霞のような性格だと『かわいい』という感想を年下の異性から抱かれる可能性は、ゼロに近い。

 

 霞の生来の立場を考えるとそれも無理からぬことではあるが、その点、京太郎はよく霞を見ていた。何気にこの少女には、かわいいところがあるのである。流石に、幼少期から女子の中で過ごした訳ではないと思うと同時に、中学生でこれではと心配になることもある。

 

 京太郎と知り合ったのは霞よりも遅く、彼が小学校六年の時だったが、後発組の良子であっても京太郎の交友関係を全て把握している訳では勿論ない。解っているのは全国に仲の良い少女が沢山いるということだけだ。

 

 今でも連絡を取っているのがどれだけいるのか知らないが、明確に好意を持っているという、それなりに厳しい条件で絞込みをかけても、両手の指では足りないくらいはいるだろう、と当たりを着けていた。そもそも霧島にいるだけで片手の指では足りないのだから、当然である。

 

「今日から、どんな顔をして接すれば良いんでしょうか」

「さっきは無事にできてたじゃないか。あんな風にすれば良いと思うよ」

「でも、京太郎の顔を見るのが何だか恥ずかしくて……」

 

 蚊の鳴くような声で呟き俯く霞に、同性の良子ですら心にときめきを覚えた。こういう姿をたまに見せてやるだけで、京太郎などころっと落ちてしまいそうな気がするのだが、女心と姉ポジションは難しいものである。京太郎狙いである良子の立場からすると願ったり叶ったりではあるのだが、良子にとってはライバルであると同時にかわいい後輩でもある。成す術もなくリタイアというのは、いかにも可哀想だ。

 

「難しく考える必要はないんじゃないかな。そうだね。今日霞は、京太郎に褒めてもらった。これは良いことをしてもらったってことだ。その分君は、京太郎に良いことをしてあげれば良い。してもらったから、してあげる。割り切って考えてみれば、顔も見易くなるんじゃないかい?」

「それはそれで、その……雑ではありませんか?」

「いきなり京太郎の前で乙女になるよりはずっと良いだろ? それとも、皆の前で『霞姉さんかわいい』と言われる方が良いのかい?」

 

 からかってやると、また霞は顔を伏せてしまった。かわいいなぁ、と心中で思いながら、霞が復活するのを待つ。

 

「良子さんの案を採用することにします」

「それが良いよ。思う存分、京太郎に優しくしたり、甘えてやると良い」

「でも、私一人がそれをしたら、その、目立ってしまいませんか?」

「皆京太郎にべったりだから、それほどでもないと思うけどね。ちなみにどういうことをするつもりなんだい?」

「…………」

 

 純粋な良子の疑問に、霞は押し黙ってしまう。彼女の辞書には、優しくするは別にして、甘えるという言葉はないのかもしれない。そも、男子に対するお返しに『甘える』があるというのも可笑しな話であるのだが、そこに霞に気づいている様子はなかった。復活したように見えて、まだ内心で慌てているのだろう。普段お姉さんぶっている霞が年下の男性にどうやって甘えれば良いのか真剣に考えている。傍から見ているだけでも面白い光景だ。

 

 今晩、布団の中で冷静になった瞬間、自分の言動、行動に悶え転がること請け合いであるが、今はそれを指摘しないことにした。お姉さんポジションが、甘えていけないという道理はない。そもそも今までが、距離を置きすぎていたのだ。霞だって良い目を見たって良いと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ムダに長くなりましたごめんなさい。
次回お風呂回です。

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