セングラ的須賀京太郎の人生   作:DICEK

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24 中学生二年 須賀京太郎、西へ 前編①

 松実宥にとって『男の子』というのは恐怖の対象だった。

 

 特殊な体質をしている宥は、目立つ格好をしていることもあり、とにかく同級生にちょっかいをかけられていた。玄が助けてくれなかったら、家から一歩も出れなくなっていただろう。それくらいに、一時期の宥は年の近い異性が怖かった。

 

 小学校も高学年を過ぎ、中学生になると、宥は中高一貫の阿知賀女子に入学する。必然的に男子との接触は少なくなりかつての恐怖も鳴りを潜めたが、それでも道を行けばかつての同級生と顔を合わせることもある。

 

 最初はそれでも怯えたものだ。またからかわれるかもしれない。そう思っただけで宥の身体は固くなったが、宥が中学生になったのと同じように相手もまた中学生になっていた。彼らは宥に気づきはするものの、それだけで声をかけてくることもなかった。玄に負担をかけたくなかった宥は、自分に興味を失った同級生に心の底から安堵した。

 

 松実宥にとって『男の子』というのは恐怖の対象だった。

 

 しかし、そんな宥の周囲にいた少年たちの中で一人だけ空気を読まず、『女の子と仲良くなる』という行為が目的ではなく手段――を更に通り越してもはや習慣となっていた少年がいた。

 

 名前は須賀京太郎という。

 

 男の子は自分をいじめるもの、という認識の宥の前で、京太郎は実に紳士的に振舞った。へんてこな格好をしていてもからかったりせず、マフラーを隠したりもしなければ、囲んで小突いてきたりもしない京太郎は、宥の目には特別に映った。

 

 一年で転校してしまったその少年との交流は、今でも細々と続いている。宥にとって、京太郎は唯一の男友達と言っても良い。そんな彼が転校するという話を聞いた時、宥は真剣に告白しようか悩んだ。もう会えなくなるかもしれないと思うと胸が張り裂けそうになったが、二つ下の友達の憧も京太郎を好いているのは明らかだった。

 

 京太郎のことは好きだが、憧のことも大事だった。結局、他人と争うことに慣れていなかった宥は、憧と険悪になるくらいなら、と勝手に身を引いた。

 

 それが、三年前のことである。

 

 結局、京太郎は誰にも告白されることなく転校し、憧も京太郎の彼女にはなっていない。聞いた話では、今も京太郎には彼女ができていないという。

 

 今彼女になれば、人生初の彼女だ。

 

 さて、と松実宥は考えた。友達への義理立てというのは、果たしていつまで続ければ良いのだろうか。

 人が良いと良く言われる宥であるが、流石に我慢にも限界というものがある。お姉ちゃんでも欲しいものは欲しいし、やりたいことはやりたいのだ。

 

 初恋の少年、須賀京太郎がまた奈良に来るという。

 

 少しだけ、積極的になってみよう。玄がはしゃぎながらバイトの話を持ってきてくれた時、宥は心に決めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ロープウェイから降りた京太郎は、荷物を道に降ろして一息吐いた。長野から電車を乗り継いで数時間。出発したのは朝方だったが、太陽はもう西に沈もうとしている。麻雀に限らず、全ての競技の資本は体力である。京太郎も体力にはそこそこ自信がある方だったが、長野から奈良への長旅は流石に疲れた。

 

 凝った身体をゴキゴキと慣らしながら、周囲を見回す。このロープウェイを使うのも、随分と久しぶりだ。ぐねぐねと曲がりくねった山道を真っ直ぐ横切るこのロープウェイは、地元の人の足として知られているが、自家用車を持っている人間はその限りではなく、そこそこの本数があるバスも通っている。これを好んで使うのはこの辺を訪れた観光客か、景色でも見ようかと優雅な気分に浸りたい地元民くらいのものだ、

 

 京太郎は地元民でも観光客でもなかったが、久しぶりということもありバスでもタクシーでもなくこのロープウェイを選択した。夕焼けに染まる三年ぶりの景色は実に綺麗だったが、自分以外にほとんど人が見えないことは、少し寂しく感じた。

 

 何となく人を探そうと彷徨わせた視線が、停留所備え付けの時計を見つける。

 

 松実館には今日中に着けば良いと言われており、この時間までに来いとは言われていない。急ぐ必要はないが、手には大荷物。これを抱えてうろうろするのも、それはそれで疲れそうだ。バイトをしにきた訳だから、金には余裕がないでもない。タクシーを使ったとしても誰も文句は言うまいが、男の子としてのプライドが京太郎に待ったをかけた。

 

 これからバイトをしにいく場所にタクシーで行くのは、何だか格好悪い気がしたのだ。夏の空の下、荷物を引いて歩くのは想像するだけでも気分が滅入る話だったが……節約になり、更に見得が張れると思えば、この日差しも乗り切れる気がした。

 

 とは言え、一人歩きはキツい。せめてジュースでも、とガラガラ荷物を引きながら、停留所を出る。さて自販機は……と視線を彷徨わせた先で、見覚えのある姿を見つけた。

 

 ピンク色のカーディガンに赤色のマフラー。真夏にあっては正気を疑うコーディネイトは罰ゲームでも何でもなく、彼女の普段着である。見ているだけで汗をかきそうな格好であるが、彼女本人の人柄を知っていると、それも趣と思える気がした。

 

「宥さん!」

 

 少し大きめに声をかけると、宥が顔を上げた。ぱたぱたと、笑顔を浮かべて走ってくる。近くまで来ると、やはりその小ささが目についた。宥は玄の姉で、京太郎よりも二つ年上である。小学五年、奈良にいた時宥の身長は京太郎よりも少し上のところにあったが、今は遠めに見ても大分下にあるように見える。おそらくあの頃とほとんど変わっていないのだろう。はぁはぁ、と少しだけ荒い息を吐く宥は、咲と同じくらいの身長に見えた。

 

 女性としては決して大きくはないが、出るべきところはしっかりと出ている。女性らしい身体つきは、咲とは全く違うもので、全体的に柔らかそうである。これは玄が喜ぶだろうな、と品のないことを考えた京太郎は、すぐに自分を戒めた。会って早々いやらしいことを考えるものではない。せっかく再会したのに、エロくなったと思われるのは、とてつもなく格好悪い。

 

 恐る恐る宥の顔を見る。泣きそうな顔になっていたら謝り倒そうと心に決めた京太郎だったが、宥は視線を向けられて恥ずかしそうに俯くだけだった。昔から良くあった反応である。不躾な視線に恥ずかしがっているとか、そういう雰囲気ではない。とりあえず、いきなり泣き出されるような事態にはならなそうだった。これからは視線の動きには気をつけようと、京太郎はひっそりと気を引き締める。

 

「久しぶり、京太郎くん。バイト引き受けてくれてありがとう」

「俺の方こそ。泊まる場所を提供してくれて感謝します。こういう機会でもないと、遠くには行きにくくて……」

 

 中学生であるから時間にはそれほど困らないが、旅費についてはどうしようもない。お年玉貯金があるから今すぐどうこうということはないが、気軽に奈良だ岩手だ鹿児島だという訳にはいかないのだった。今回、奈良阿知賀の旅費については流石に須賀家が出しているが、旅館に泊まらせてくれる上に食費滞在費がタダというのは京太郎にとって願ってもないことだった。加えて昔なじみの顔も見れるというのなら、バイトくらい喜んでする。

 

 がらがらと、荷物を引きながら宥と歩く。旅館までは歩いて十分ほどの距離である。宥との再会で心はときめいたが、夏の日差しは手加減をしてくれない。とりあえず目に付いた自販機に、千円札を投入する。自分の分の冷たいお茶を買ってから、宥のために暖かい紅茶を購入。正気の沙汰とは思えないチョイスであるが、宥は夏でもこんな調子である。銘柄が好みか自信はなかったが、以前、松実旅館の外で会った時、この銘柄を飲んでいたと記憶している。少なくとも飲めないほど嫌いということはないはずだ。

 

「再会の印が、こんな安物で恐縮ですが。どうぞ」

「ありがとう、京太郎くん」

 

 にっこりと、笑みを浮かべて宥は紅茶を受け取る。缶を渡す時に触れた宥の手は、風邪をひいた時のように暖かかった。寒がりの宥は平熱が高いのである。

 

「京太郎くん、今身長はどれくらい?」

「この間計ったら、175でした」

「おっきいねー。流石男の子。もしかしてまだ伸びるのかな?」

「どうでしょう。保健の先生はまだ行けると言ってましたけど……」

 

 既に平均は突破しているから、渇望しているというほどではない。実際、女子の知り合いのほとんどは京太郎よりも小さく、今は宥を見下ろしている。教室にいた時はちょうどギバードの頭が、これくらいの距離にあった。暇さえあれば飛びついてくる元気の良い少女だったが、今も変わらず元気にしているだろうか。

 

「頼もしいね。私はもう成長が止まっちゃったみたいだから、ちょっと羨ましいかな」

「あまり大きくても良いことはないと聞きますよ。知り合いに一人俺よりもデカい女の人がいますけど、合う服がないってボヤいてました」

「そんな大きい人がいるの?」

「今の俺が少し見上げるくらいですから、女性としてはかなり大きいですね」

「すごいね。そんなに大きい人には、私会ったことないかも」

「凄いですよ。俺がたかいたかいされるくらいですから」

 

 衣のような美少女がやられるのならば絵にもなろうが、中学生男子が持ち上げられるのは絵的にキツい。何より男が女に力負けしているのは色々な意味で格好悪いと言える。腕相撲をしても勝ったり負けたりで、男っぽい要素で勝てている所がほとんどない状態である。

 

 きっと女性受けでも純には負けている。麻雀でも勝てないし、料理も純の方が上手い。もしかして勝てるところは何もないのだろうか。考えていたら大分憂鬱になってきた。そんなブルーになっている京太郎を他所に、宥は足を速めて少しだけ前に出た。後ろ足でとてとて歩きながら、そっと京太郎を見上げる。年上美少女の上目使いに、京太郎はたまらず視線を逸らす。早速戒めを破りそうになったからだ。男性と接することになれていないのだろう。宥の仕草の一つ一つには、無邪気な破壊力があった。

 

「京太郎くん、大きいのにね。たかいたかいとかできる人がいるんだね」

「何というか、色々な意味で男らしい人ですからね。腕力も結構ありますから、それくらいはできても驚きません」

「それじゃあ、例えばの話なんだけど…………京太郎くん、私のこと持ち上げられる?」

 

 上目使いはそのままに、宥が聞いてくる。

 

 可能か不可能かであれば、可能である。ふっくらした見た目の宥であるが身長は咲と同程度であるから、体重もそれに近いと判断できる。色々とおもちな分を含めても、持ち上げられないということはないはずだ。

 

 だがぺったんこの咲を持ち上げるのと宥を持ち上げるのでは意味が大分違う。たかいたかいをするということは脇の下に手を挟むということだ。ぺったんこな咲にそうすることに抵抗はないが、宥に同じようにするのは危険である。手元が狂えば触ってしまう可能性があるし、何よりここは外。少ないとは言え人通りもある。

 

 そんな中で宥を『たかいたかい』したらどうなるか。恐ろしく目立つのは間違いない。

 

 それに宥は松実館のお嬢さんとして、顔と名前が売れている。客商売をやっている家のお嬢さんを、悪い意味で目立たせるのはいかがなものか――常識的なことを考えつつも、京太郎の目はついつい宥の胸に向いていた。

 

 勿論、自発的には触らない。それはもう犯罪だ。

 

 しかし、アクシデントであれば、許される許されないは別として不可抗力だ。そこに浪漫を感じなければ男ではない。本音を言えば触ってみたいが、それを口にするのは躊躇われた。オープンにそういうことを言えたら、と宥から視線をそらして京太郎は思ったが、もしそういう性格であれば京太郎の人生はまた大きく変わっていただろう。

 

 悪く言えばチキンな判断こそが、女性ばかりの環境で京太郎を生きながらえさせてきたのだ。

 

 得てして、上手い話ほど目の前を通り過ぎていくものである。こんなところでセクハラまがいのことをされて、良い気分のする女性などいるはずもない。はぁ、と小さく溜息をつく。一周して『そんな甘い話がある訳がない』と悟った京太郎は、実に清い気持ちで『できますよ』と答えた。

 

 それで、ふーん、と流して終わり。少なくとも京太郎はそう考えていたが、その場で足を止めた宥は、顔を真っ赤にして予想と反する行動をした。

 

「それじゃあ……やってもらいたいな」

 

 沈黙が流れる。宥の言葉が信じられなかった京太郎は、顔を見返した。その瞳は見えない。耳まで真っ赤にした宥は、顔を伏せていた。雰囲気的に聞きかえすことはできないが、宥の態度からイエスと言われたのだと理解する。

 

(訳が解らない……)

 

 俺にこんなラッキーが舞い降りても良いのだろうかと、京太郎は本気で自問した。性質の悪いドッキリなのではと宥にバレないようにこっそりと周囲を見回したが、そこにはカメラも看板を持ったシズの姿もなかった。

 

 覚悟を決めた宥が、軽く両腕を広げた。ここに腕を差し込めと言っているのは、言葉がなくても明らかである。顔を真っ赤にした宥の行動に、京太郎も覚悟を決めた。

 

 そっと、でも胸には触れないように、でも何かの間違いで触れたら良いなと邪な感情を抱きながら手を差し込み、宥を持ち上げる。宥は想像していたよりも大分軽く、温かかった。厚着をしているせいで手触りこそごわごわとしているが、伝わる感触は女性特有の柔らかいものだった。

 

 腕を目一杯伸ばして宥を持ち上げると、その後ろに夕日が見えた。流れ落ちる宥の髪と、手から伝わる体温。聞こえる鼓動はどちらのものだろうか。上と下で見詰め合っていたのは数秒。周囲の視線が恥ずかしくなってきた京太郎は、宥をそっと地面に下ろした。

 

 宥は京太郎から視線を逸らし、乱れていない服の乱れを直している。持ち上げた時よりも更に真っ赤になった顔から、湯気が出そうだった。

 

 やって良かった。それは男として間違いない。

 

 しかし離れて物事を見てみれば、誰が得をしたのが良く解らない行為だった。人の目は今は散っている。これで目立ち続けていたら宥は顔を真っ赤にし過ぎて倒れていたことだろう。勢いで物をやるものではないな、と今更なことを感じながら京太郎は宥を促し、松実館に向かって歩き出した。

 

 松実館の上のお嬢さんがロープウェイの駅の近くで人目も憚らずにいちゃついていた、という噂が広まるのは、この翌日のことである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一日目の夜は特に何事もなく終了し、二日目の朝である。

 

 旅館の朝は早い。バイトであってもそれは変わらず、京太郎は朝の五時半に起こされた。身づくろいもそこそこに、先輩方に教わりながら仕事を始める。まずは風呂場の清掃である。こんな時間に? と思ったが、朝風呂を開放している松実館では、深夜にやらないのであればこの時間しかないらしい。

 

 ともかく時間との勝負である。

 

 デッキブラシで床を磨き、脱衣所を清掃する。それを一通り済ませたら今度は調理場に連れていかれた。風呂掃除の時に何気なくピーラーなしで野菜の皮を剥けると口にしたせいである。百個以上の芋の皮を剥き終わると、ようやく『早朝の』仕事が終わった。

 

 下ごしらえが済んでしまえば、料理に関しては素人である京太郎の出る幕はない。料理を作るのも運ぶのも、別の人間の仕事である。一足早く部屋に戻った京太郎は、調理場でもらったまかないを食べながら一息入れる。

 

 玄は中学生でありながら、仲居さんに混じって働いていた。和服を着てせっせと動き回る姿は、とても一つだけ上には見えないほどに凛々しく見えた。

 

 玄の凛々しさを反芻しているうちに、休憩も終わる。朝食が終わると今度は、使われた食器の洗浄だ。食洗機はあるが、細かな所は人の手でやらないといけない。京太郎と、調理場の中でも若い面々で食器を片付けている内に、他の面々が休憩に出る。戻ってきた調理場の面々は、朝に比べると非常にゆっくりとしたペースで昼食の準備を始めた。

 

 昼食まで旅館で取ろうとする人間は少ないためだ。昼食の準備が一区切りつく頃には、食器も一通り片付いていた。一緒に働いた若い面々と一息入れようとしたところで、今度は仲居さんたちに引っ張りだされる。朝方チェックアウトされた部屋の掃除の手伝いである。

 

「ようやく一緒に仕事だね!」

 

 玄ともう一人の仲居さんのヘルプにつき、テキパキと部屋の掃除をする二人の指示で、物を動かしたり運んだりと、とにかく右に左に動かされる。

 

 その後に、昼食である。朝方ひっそりと一人で取った食事とは違って、女性ばかりの中での昼食だ。仲居さんたちに質問攻めにされながらも、美味い賄いに舌鼓を打ち、午後の仕事に。昼のチェックインでお客様を入れる部屋の最終チェックである。午後も玄のチームと一緒の仕事である。

 

 仲居さんと一緒に働く時はこのチームだね! と玄の一言でチーム割が決定されたという。人見知りをするような性格ではないが、年の離れた仲居さんと仕事をするよりは、玄の方が安心できた。仲居さんたちも悪い人ではないのだが、ゴシップ大好きの彼女らは『本命はどっちのお嬢さんなんだ』と聞きたがるのである。

 

 それを笑って聞き流せるならば良いのだが、隣で玄が聞き耳を立てている状況では、上手い答えも返し難い。そういう時何と答えたものか考えながら仕事をしていると、次は夕食の仕込みである。またまた芋、にんじんなど、とにかく野菜の皮剥きだ。数百の芋とにんじんとの格闘が佳境に入ると、そこからは調理場も仲居さんたちも戦争だ。

 

 旅館の一日の中で最も忙しい時間がくると、調理場の中も途端に慌しくなる。目の回るような速度で動き回る面々を他所に、下拵えが終わり、戦力外を言い渡された京太郎はこっそりと休憩を取る。

 

 皆が働いている時に、自分だけ休憩を取って良いものかと良心の呵責に苛まれる京太郎だったが、事実、いても邪魔なのだから仕方がない。その代わりとばかりに、夕食の波が過ぎると山のような洗物が待っていた。明日の朝食の下ごしらえを始める一軍メンバーを横目に見ながら、朝よりも量がある洗物を片付けていく。

 

 それから翌朝の仕込みの準備を手伝い、調理場の掃除をしてようやく一日の仕事が終わる。

 

 疲れた。その一言に尽きる。比較的軽い仕事を任されていたはずだが、大人は毎日これをやっているのだ。旅館の仕事は大変なのだな、と思いながら疲れた身体を引きずって戻り、部屋の戸を開けると――

 

「おかえりなさい」

 

 和装を着こなした宥が、三つ指をついて出迎えてくれた。巨乳美人が自分の帰りを待っていてくれている。男の夢を具現化したようなその光景に、京太郎は本気で自分が具現化系の念能力に目覚めたのではと疑ったが、空きっ腹に訴えかける美味しそうな匂いが、これが現実なのだと理解させた。

 

 宥の案内でテーブルにつく。テーブルの上には、いつの間に用意したんだというくらい豪勢な食事が並んでいた。記憶が確かならば、一番良い部屋と同じグレードの食事である。緊急時のヘルプとは言え、間違ってもバイトが食べるようなものではない。

 

「お父さんが『これは感謝の気持ちだ』って。板さんたちも、京太郎くんならって喜んで用意してくれたよ。一生懸命お仕事してたみたいだから、気づかなかったみたいだけど」

 

 考えていたことが顔に出ていたらしく、先回りして反論を潰してくる宥に、京太郎はあっさりと白旗をあげた。申し訳ないと思う気持ち以上に、空腹には勝てなかったのだ。目の前に並ぶ食事はどれも、この世のものとは思えないくらいに美味そうに見えた。

 

「いただきます」

「うん。めしあがれ」

 

 恐る恐る箸をつけた京太郎は、まず最初に味噌汁を啜った。

 

 目を大きく見開く。自分が味の解る人間だと思ったことはないが、味噌汁一つが異常に美味い。お椀を持ったまま固まる京太郎を見て、宥はおかしそうに笑った。その声で正気に戻った京太郎は、食事を再開する。こんなに美味いものを、冷ましてしまっては勿体無い。

 

 それからは無言である。宥のようなおもち美少女が近くにいるのをすっかりと忘れて、京太郎はただ只管に食事を続けた。自分のことが目に入らないように食事を続ける京太郎を、宥はにこにこと眺めている。他人がこの光景を見れば、二人はそういう関係なのだろうと誤解しただろう。

 

 それは宥にとっては望むところではあったが、幸か不幸かこの部屋には京太郎と宥の二人しかいなかった。

 

「ごちそうさまでした」

「おそまつさまでした。すごいね、流石男の子。おひつも空になっちゃった」

 

 宥の淹れてくれたお茶に口を突けながら、腹を摩る。満腹過ぎると集中力が切れるため、普段は八分目くらいでセーブするのだが、今日はこれ以上は入らないくらいに食べた。それだけ料理が美味しかったのである。

 

「お仕事はどうだった?」

「大変でした。ついていくだけでもやっとです」

 

 そう答える京太郎の仕事がどうにか形になったのは、周囲の人々がフォローしてくれたからだ。手伝いにきたのに逆に迷惑をかけているようで、申し訳なくなる。

 

「お父さんも皆も、京太郎くんはよくやってくれたって言ってたよ。初めてなんだから多少できなくても仕方ないし、それも承知で呼んだんだから、そこまで気にすることはないと思うな」

 

 優しい宥の言葉に思わず頷きそうになるのを、ぐっと堪える。これで何も気にしないようなら、タダのアホだ。それに宥は優しい人ではあるが、甘い人ではない。にこにこと微笑む宥に、京太郎は『いいえ』と小さく首を横に振った。

 

「だからこそ、もっとがんばります。ここで胡坐をかくようになったら、それこそ迷惑かけっぱなしですからね」

「……うん、やっぱり男の子だね、京太郎くんは」

「子供っぽいですか?」

「頼りになるってことだよ」

 

 笑う宥に、京太郎は少しだけ居心地の悪さを感じた。お姉さんには勝てないと思う瞬間である。

 

「ところで宥さんは、昼間は何を?」

「私は事務仕事と、ボイラーの勉強をしてるの」

「ボイラー……ですか?」

 

 思わず聞き返す京太郎である。

 

 ボイラーというと、風呂のお湯を温めるアレである。一般家庭にもあるが、旅館のものは家庭のそれとは比べ物にならないくらいに大きい。そして業務の性質上、火を落とすことができないために、燃料代が凄いことになると聞いたことがある。当然、その管理や保守のためにも人員は必要となるが、それを宥が行うというのもイメージができない。

 

 ほんわかした雰囲気の宥がツナギを着てスパナを持っている姿を想像するが、ギャップによるときめきはあるものの、正直にいってあまり似合っているとは思えなかった。そういう仕事をしている人を馬鹿にするつもりはないが、大旦那の長女である宥が態々やる仕事とも思えなかった。

 

「私はお客様の前に出れないから、自分にできる仕事をしないとね。ボイラー室ならあったかいし、手先は不器用でもないから良いかなって」

「仲居さんみたいな仕事に、憧れたりはしないんですか?」

「そういうのは玄ちゃんの方が向いてるから。マフラー着たまま接客は、できないでしょ?」

 

 見慣れた京太郎だから宥の厚着にも違和感を覚えないが、初めて見た人間は目を丸くするだろう。確かに接客業に向いている性質とは言えないが、宥の人柄を知っているだけに悔しくも思う。これほど他人を癒せる優しい笑顔ができる人を、京太郎は他に知らない。

 

「そういう顔をしてくれるだけで、私は満足だよ。解ってくれる人がいるだけで、私には心強いんだから」

 

 他人を癒す笑顔を浮かべた宥が、急須を持ち上げる。京太郎は黙って、空になった湯のみを差し出した。こぽこぽ。楽しそうにお茶を淹れる宥を見ながら、しみじみ思った。この人に世話をされて喜ばない男は、絶対にいない。着物の上にマフラーという珍妙な格好でも、これも味だと納得すると思う。全く世の中アホばっかりだな、と思いながらも、そうであるからこそ今この瞬間、宥を独占できているのだと思うと、否定するにもしきれない。

 

 京太郎は別に博愛主義者ではない。どういう事情であれ、美少女が今自分のためだけに何かをしてくれるという事実が、たまらなく嬉しかったのだ。

 

「どうぞ、京太郎くん」

 

 差し出される湯のみを受け取りつつ、京太郎はテーブルの隅から、もう一つ湯のみを取り出した。宥からそっと急須を取り上げ、

 

「ご返杯です」

 

 京太郎からのお茶を、宥は最初目を丸くして見つめていたが、やがて湯のみをそっと取り上げ口をつける。

 

「美味しい。ありがとう、京太郎くん」

 

 お礼を言われた。ただそれだけで、もっと嬉しくなる。慣れない仕事で疲れた身体が、この一瞬で癒された気がした。

 

 

 


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