1、
協力して宿題を七月のうちに片付けてしまった一たちは、夏休み、かなり暇を持て余していた。
時間があり過ぎるのも困りものである。
ではこういう時こそ、と新たに仲間に加わった京太郎を連れまわしてどこかに行こうと思ったら、彼は学校の仲間や昔の友達に捕まって時間を取れないという。京太郎の人となりしか知らなかった一は、その交友関係の広さに驚いた。
あれは女だな、と訳知り顔で頷く純の言葉を聞き流しながら、ではいつならば、と京太郎のスケジュールを抑えたのが八月の頭。学校の仲間と夏祭りに行く、という話を聞いて、では自分たちもと予定を決めた。
二度も祭に行くのはつまらないのでは、と予定を決めてから気にした一だったが、京太郎は笑いながら予定を受け入れた。楽しみにしてる、と言われては、気合を入れない訳にはいかない。
クローゼットの奥から浴衣を引っ張り出して、当日まで入念に着こなしのチェックをする。透華のメイドになってから一通り服飾の勉強はしたおかげで着付けくらいはできたが、それと着こなすことができるかはまた別の話である。同じ浴衣ビギナーの智紀と歩も捕まえて当日まで、少女三人は鏡の前で過ごすことになった。
その甲斐あって、当日には満足の行く着こなしをすることができるようになった。鏡の前で三人並んで、悪くないんじゃないかと自画自賛もしてみる。まぁ、一人だけやけにおっぱいが大盛りな人間がいるが、緩急の差があった方が殿方も楽しめて良いだろうと強引に自分を納得させる。
同じく胸部に自信のないメイド仲間の歩と励ましあいながら、一たちは夏祭りの会場に向かった。
京太郎の地元まで行くと衣は言ったのだが、京太郎の方がそちらに合わせると言ってきかなかった。近い方が早く着くのも道理である。五時に集まる約束で、一たちが鳥居の前に着いたのは四時半だった。
「流石に早く着すぎたんじゃね?」
ハギヨシの運転した車から降り、伸びをしながら純が言う。そんな彼女も浴衣姿である。普段は男性的な装いをするもスカートがあるおかげで性別は間違われないで済んでいたが、地味な色合いの浴衣を着ている今は、もうただの美少年にしか見えなかった。周りに女が五人もいるから良いが、純一人であれば暇な女が周囲に群がっていたことだろう。
嫉妬の視線を集めるという初めての経験にゾクゾクしながら、一はぴょんぴょんと飛び跳ねて、約束の鳥居を見る。
ちらりと、燻った金色が見えた。間違えるはずもない、京太郎だ。
「何か、もう京太郎のやついるみたいだよ」
「殊勝な心がけですわね。さあ行きますわよ! まずは私の美しさをアピールですわ!」
「お待ちください透華お嬢様」
勢い込んで走り出そうとした透華を引き止めたのは、ハギヨシだった。よほど問題がない限り、彼は主である透華や衣の行動に干渉したりはしない。そのハギヨシが行動の流れを切ってまで透華を呼び止めるのは珍しいことだった。透華も、呼び止められたことがよほど意外だったのか、不思議そうな顔でハギヨシを見つめ返す。
透華の視線を受け、ハギヨシは恭しく一礼した。
「お恐れながら。京太郎様のお召し物について、一言申し上げたく」
「京太郎の浴衣がどうかしたのか?」
「あー、そういやあいつも浴衣だな。俺の目にはすげー古くさく見えるけど」
「実は名品とか?」
「その通りでございます」
冗談のつもりで言った一の言葉は、ハギヨシによって肯定された。全員の視線が京太郎の方に向く。龍門渕の執事であるハギヨシが言うのだから本当に名品なのだろうが、京太郎と名品というのはあまり結びつくものではなかった。
「それで、あれはどういう物ですの?」
「京都の老舗の仕事で、オーダーメイド品のようです。古く見えるのは、それだけ前に発注したということなのでしょう。何方かの品を譲り受けたようですが、そうですね、今の価値で言うと200万円ほどでしょうか」
「……あいつの家、そんな金持ちだったのか?」
「本人は中流家庭と言ってる」
断言したのは智紀である。この中で一番京太郎と交流を持っているのは、智紀だった。その智紀が言うのだから間違いはないだろうと、皆は納得する。
だが本人の認識と世間の認識が一致しないことも往々にしてある。普通の中流家庭はカピバラを二匹も飼育したりはしないだろう。誰でも飼える犬や猫と違って、カピバラなどは飼育にお金とスペースと手間のかかる、お金持ち向けのペットだ。
あくまで中流家庭の範囲であるが、その中では金持ち、ということなのだろう。
それでもあまり、京太郎はあまり服飾にお金をかけるタイプには見えない。そうであるなら、私服で龍門渕の屋敷に来た時に誰かが気づいていたはずだ。あの浴衣は一張羅、という解釈の方がまだ自然である気がする。先祖伝来の浴衣ということなら、金額が高すぎることについても、説明はついた。
「私の聞き及んだところに寄りますと、京太郎様は神奈川の三尋木家や、鹿児島の神代家と交流があるとか」
「小学生の頃は転校ばかりだったと聞きますから、全国に知り合いがいるのは不思議ではありませんが……」
「鹿児島の神代というと、霧島神境の巫女か? それならば浴衣くらいは転がっていそうだな」
「神奈川の三尋木って、三尋木プロの実家だよね確か」
どちらも由緒ある名家であり、早い話が金持ちだ。そんな家と交流があるならば、浴衣の一つや二つを貰っていても不思議ではない。
不思議ではないが、値の張る品を相手に贈るということには、金持ちだろうと庶民だろうとそれなりの意味がある。その解りやすい理由の一つが囲い込みだ。この人物はうちの家とこれだけ親しいので、手を出さないでください、と周囲に認識させるためのものである。浴衣を贈ったのがどちらの家か、あるいは別の家なのか知らないが、贈った人間は京太郎の将来について、それなりに真剣なようだった。
それをズルいとは思わない。同じ立場ならば一だって同じようにしただろう。
だが理屈と感情は別だ。顔を合わせたことなど一度もないが、あの浴衣を贈った人物に一は酷くムカついていた。
「きょーたろがどこの誰と仲良くしていようと、どうでも良いではないか! 今は衣たちと遊ぶのだ!」
「そうですわね。ハギヨシ、忠告感謝いたしますわ!」
おりゃー、と突撃していく衣に透華が追走する。金髪美少女が走る姿は、非常に目立つ。周囲の視線を集めるが、二人はそんなものは気にしなかった。衣は自分が良ければ他人の認識など気にならないし、透華はそもそも目立つのが好きだ。一長一短の性質であるが、こういう時は役に立つ。
元気な仲間二人の背中を追いながら、一たちはゆっくりと京太郎たちの元に歩いていった。
「ハギヨシ!」
「なんでございましょう。衣様」
「きょーたろの容姿や雰囲気が優れていることを褒めてやりたいのだが、俗世ではこういう時何と言えば良いのだ?」
「イケている、等が相応しいかと存じますが、普通にかっこいいで問題ないのではないかと」
「ではそのようにしよう。きょーたろ、今日もかっこいいな!」
「ありがとう。姉さんもかわいいぞ」
「そうか! 衣はかわいいか!!」
ふふー、と衣は嬉しそうに笑う。異性に容姿を褒められるなど、初めての経験だろう。少女らしく微笑む衣は、同性の一の目から見ても非常にかわいらしかった。
「私たちには、何か言うことはないのかしら?」
「透華さんも、勿論綺麗ですよ。和装をするとは思いませんでした。今日は浴衣なんですね?」
「祭ならば、浴衣でしょう? 洋服の方が好みですが、私だって雰囲気くらいは読むのでしてよ?」
「そのお陰で、俺は眼福です。ありがとうございます」
両手を合わせて頭を下げる京太郎に、透華はご満悦だった。頭のキレる透華だが、煽てられると弱い。衣に比べて社交界に顔を出す機会は多く、男性と接する機会もある透華だったが、仲間内にハギヨシ以外の男性がいたことは過去に一度もない。親しい男性からの言葉というのは、やはり違うのだろう。
透華と衣が喜んでいる間に、智紀と歩はこっそりと位置を移動していた。京太郎の視線が動いた時、自然に自分が目に入るような位置取りである。少女らしい努力に涙が出そうになるが、その努力の甲斐あって京太郎の視線は二人に向いた。
二人とも、この日のために選びに選んだ浴衣に、着こなしである。完璧であるとは三人揃っての結論であるが、京太郎の目線から見てもそうだとは限らない。本音ではどうだ、と聞きたいのだろうが、智紀も歩も京太郎を前にして言葉を待つばかりだった。自分から聞くのは、それなりに勇気のいることなのだ。
そんな二人の心情を知ってか知らずか、京太郎は無難にそつなく二人を褒めていく。綺麗、かわいいという方向性の違う評価を貰って、二人も嬉しそうだった。
その後は、男性陣もとい、純とハギヨシである。二人並んで立っていると何処のイケメンパラダイスかという程の異世界であるが、そんな二人にも京太郎は物怖じしなかった。男性と女性では感じるものが違うのかもしれない。少なくとも一自身、一人であの二人に声をかけるのは無理だった。
京太郎の視線が、一に向く。評価をされていないのは、一ただ一人だった。別に評価は必須ではないが、他の全員にしたのだから一人だけ仲間外れということはないはずだ。京太郎はそういう気配りのできる人間だし、何より一はその評価を楽しみにしていた。
一生懸命悩んで選んだ浴衣に、髪型。舞台ようではない薄い化粧までしている。ここまで少女らしく振舞おうと思ったのは、生まれて初めてかもしれない。京太郎が言葉を発するまでの数秒間が、一には永遠にも感じられた。どきどきという自分の心臓の音だけが聞こえる中、京太郎はふむ、と小さく声を漏らし、
「一さんも、綺麗ですよ。今日は一段と大人っぽいですね」
そつのない物言いである。褒められたのは嬉しいが、感情が篭ってないように聞こえなくもない。それが一にはちょっとだけ気に食わなかったが、他の面々にも同じだったのだから、これはこれで良いのだろう。
溜飲を下げて、言葉をかみ締める。かわいい、とカテゴライズしなかったことに、京太郎の配慮を感じた。客観的に見れば歩と自分は同じカテゴリーだろうが、歩と評価を分けたのは相手によって言葉を選んでいるからだろう。かわいいと言われて喜ぶか、綺麗と言われた方が嬉しいかは人に寄る。歩は前者で、自分は後者と判断された。
大人らしい、という評価もそこから来る。思っていた以上に人間を見ている弟分に、一は内心で感嘆の溜息を漏らした。中学生でここまで配慮ができるなら、大人になったらどうなるのか。彼の女性関係について一はほとんど知らないが、少なくとも、女泣かせな人間になるのは間違いはない。
「さあ、きょーたろ。今日は沢山遊ぶぞ!」
京太郎の手を引いて、衣が歩きだす。透華がその後、歩がさらにその後に続く。それ以外の三人が間を空けてその後に続き、最後尾がハギヨシだ。浴衣を着ている彼もお祭モードであるが、執事であることに代わりはない。主とその友人を一歩はなれて見守っている彼は、浴衣を着ていても執事だった。
「国広くん、乙女の顔してるぞ」
「そういう純くんは殿方の顔だね。女の子から熱い視線を浴びてるみたいでうらやましいよ」
一の冗談にも純は肩を竦めるばかりだった。普段はもう少し乗っかってくるのに、今は手ごたえがない。強がりだというのを見抜かれているのだろう。熱くなったほっぺをぐにぐにと揉む。自在に表情を操るのはマジシャンの基本である。読まれたくない感情を素人に読まれるようでは、問題外だ。
「そんなに緩い顔してた?」
「幸せの絶頂。まさに女の子という顔をしてた」
そういう智紀はいつもと同じ澄まし顔だった。僅かに頬が紅潮してはいるが、祭の雰囲気に当てられていると言えば、それで通じるくらいのものである。それでも同じ女から見れば、智紀が浮かれているのが解るだろう。
つまり、まさに女の子の顔をしていた自分は、これ以上ということだ。意識すると、更に顔が熱くなる。
「……僕、おかしくなったのかな」
「かもな。でも、それで良いんじゃねえの? 俺たちにそういうことがなかっただけで、あるのが普通なんだと思うし」
「私も同感。こんなに早く来るとは思ってなかったけど」
「決め付けるのは止してもらえるかな? 二人とも」
「何を言ってるんだろうな、国広くんは」
「そんな顔をしてたら、何を言っても無駄」
ぐりぐり、と二人が頭を撫でてくる。上背のある二人が相手だと、背の低い一はされるがままだ。せっかく綺麗にセットした髪が乱れると、少し乱暴に二人の手を振り払う。
少し先には、衣に腕を引かれる京太郎の姿があった。すぐ近くには、透華もいる。髪の色が似ている三人は、並んでいると様になった。上背のある京太郎が長男で、透華と衣はその妹といったところだろうか。
間に入るのを躊躇うくらいに、絵として完成されていた。歩は三人から少し距離を開けている。間に入るのを躊躇っているその気持ちは、一にも良く解った。衣はここにいる全員にとって特別である。それを邪魔したくないという気持ちもあるのは違いないが、それとは別にあの三人が何やら『特別』というのは、あの三人を見た多くの人間が思うことだろう。
自分の中の熱を追い出すように、一は大きく溜息を吐いた。
髪の色が似ているというただそれだけのことなのに、随分と大仰なことである。今日は皆で楽しむために集まった。衣は確かに大切であるが、彼女一人を優先して誰かが楽しめないのでは本末転倒だ。そんなことは衣自身も望んでいないし、勿論、一も望んではいない。
一は駆け出し、歩の隣に並んだ。そのまま手を引いて、京太郎の近くに並ぶ。
後ろで純が口笛を吹くのが聞こえたが、気にしないことにした。
せっかくおめかししたのだ。今日くらい、まっすぐな国広一(ぼく)でいても、罰は当たらないだろう。
2、
やたらとめかしこんだかわいい綺麗イケメン軍団と合流した後、石段を登って境内に向かう。この辺りでは比較的大きなイベントなのだろう。先週、宮永姉妹とモモと行った祭よりも、出店の数は多かった。
衣などは目を輝かせて喜んでいるが、これより更に大きい祭を見たことのある京太郎は、落ち着いていた。霧島神境の夏祭はこの数倍の規模がある。メインの催しものはそれはそれは固い内容だが、足を運ぶ多くの人間は祭の雰囲気を楽しむために来ていた。出店はにぎやかだし、足を運ぶ人も多い。
それでいて下品にならないのは一重に神境の持つ雰囲気に寄るところが大きいのだろうが、京太郎はこういう雑然とした祭の方が好みだった。逆に衣などは、ああいう荘厳な雰囲気を好みそうな気もする。好みというのは人それぞれだ。機会があれば、一緒に足を運んでみるのも良いかもしれない。
「ともきがいないぞ」
衣の声で、全員が辺りを見回した。確かに智紀の姿がない。まさかはぐれたのか、と思い背伸びをして遠くを見ると、20メートルくらい離れたところに、智紀はいた。
しかし、一人ではない。どうみても紳士ではない男が三人、智紀の周囲にいた。
「ナンパ男に捕まってるみたいだな」
身長の高い純が正確に分析した智紀の状況を聞いた透華が、何も言わずに歩き出した。それを慌てて止めたのは、一と歩だった。
「何故止めますの!?」
「透華が行くのはややこしくなるから、絶対ナシだよ」
「どうする? 俺が行ってきても良いが……」
純の物言いに気負いはない。任せると言えば本当に彼女は一人でも行くだろう。相手は三人。荒事になれば純でも対応は難しいだろうが、周囲に人は大勢いる。悪質なナンパを振り払うのは難しくても、喧嘩には発展しない。純の落ち着きにはそういう見通しも含まれていた。
もっとも、仮に喧嘩に発展したとしても、純ならば何とかするだろう。見た目以上に平和主義者である純だが、見た目の通り喧嘩はそれなりに強い。
その純は、我先にと足を踏み出さずに京太郎を見ていた。
理由は簡単である。性別による役割の問題だ。
男女の集団で、女性が一人荒事に巻き込まれた。それを解決するのは誰にでもできるが、そこでは果たすべき役割がある。男女平等が標榜されるようになって久しいが、世間には依然として男らしく、女らしくという物の見方がある。
殊更そういうものには拘らない純であるが、拘る人間がいるということは理解していたし、拘る人間への配慮をすることもできた。
つまりは、京太郎への配慮である。男である自分がいるのに、女を荒事に向かわせるのは男が下がる。そう思う男性は、決して少なくはないだろう。これで京太郎が同級生であれば、純も迷わずに京太郎にその役を譲ったに違いないが、この場で京太郎は一番幼く、この集団に所属するようになって日も浅い。
純の物言いには、その辺りの遠慮もあった。アレならば自分で行くという意思が、既に踏み出そうとした足からは感じられる。ここで断ったとしても、誰も自分を責めたりはしないということは解ったが、だからこそ、京太郎は決意をした。
「いいえ、俺が行って来ます」
男が身体を張らなければならないという決め付けなどないが、智紀が困っているのならば助けたい。その役割を自分でできるのならば、これ以上はなかった。
やる、と宣言した京太郎に、純は笑みを返す。その答えを待っていた。そういう顔だ。
「よし行ってこい。ヤバそうになったら、俺かヨッシーが何とかするから」
「ありがとうございます。ハギヨシさんも、姉さんたちをよろしくお願いします」
「ご武運をお祈りしていますよ」
執事は穏やかに微笑んでいた。てっきり止めるかと思ったが、そんな気配は微塵もない。大人としてそれはどうなのだと思わないでもないが、彼がここをあけると透華や衣に何かあった場合、対処できない。考えるまでもなく、この場で最も頼りになるのはハギヨシだ。智紀が大事でないと言う訳ではないが、この場で一番守るべきは誰かと問えば、今まさに問題に直面している智紀すら衣であると答えるだろう。
背中に衣や透華の激励を受けて、歩みを進める。智紀や男たちの顔がはっきりと見える距離まで近づいたところで、京太郎は声をかけた。
「すいませんね。そいつ、俺のツレなんですよ」
先手必勝。声にはガラの悪さをしっかりと込めた。智紀を囲んでいるのは三人。いずれもガラの悪そうな男性である。装いからは金の匂いがしない。おそらくは高校生、それも地元の人間だろう。立ち姿には隙がある。拳も綺麗なことから、武芸の経験はないものと判断する。
三人全員の視線が、京太郎に移った、その隙を突いて智紀は駆け出し、京太郎の影に隠れてしまう。どういう声のかけ方をしたのか知らないが、これで完全に脈がないことは証明された。これ以上何かをしても恥の上塗りにしかならない。
それを理解してくれれば良いが、素直に引いてくれるかは微妙だった。理屈と面子は全く別の問題である。そういう話をされると、京太郎一人ではもうどうにもならない。
相手は三人と人数も少なくない。霧島神境で巫女さんたちに鍛えられた京太郎には、そこそこに荒事の心得があった。喧嘩慣れしていない素人が相手ならばそれなりに対応できる自信があるが、年上の男性が三人となれば無傷で切り抜けるのは難しい。
さっさとどこかに行ってくれ。
そう祈りながら見つめあっていたのは、数秒。
男たちは舌打ちをすると、人ごみの中に消えていった。
もう安全だ。それを理解するまでに、たっぷり十秒は費やした。深く、溜息を吐く。こんなに緊張したのは久しぶりだ。
「……ありがとう。助かった」
「ご無事なようで何よりです。姉さんたちも心配してますよ。早く行って、元気なところを見せてあげてください」
智紀を促し、歩き出した京太郎は、その直後に動きを止めた。智紀の手が浴衣を掴んでいる。その肩は、少しではあるが震えていた。
「衣たちのところに着くまでで良い。手、繋いでもらえる?」
「俺でよければ、喜んで」
身長は智紀の方が少し低い。京太郎の視点からは、智紀の横顔がよく見えた。アップにされた髪、そこに見える真っ白なうなじと汗が艶かしい。
「ところで、私は京太郎のツレ?」
「すいません。勢いでそう言ってしまいました」
「別に構わない。連れなのは事実だから」
でも、と智紀は言葉を続ける。
「別な意味で連れだったとしても、私は構わない。そのくらいに、さっきの京太郎はかっこ良かった」
「褒めてくれるのは嬉しいですが、何も出ませんよ?」
「これで十分」
智紀は繋がれた手を持ち上げる。眼鏡を通して視線が交錯する。
静かに微笑む智紀に、京太郎は思わず見とれた。いつも物静かな智紀が見せる少女の様な笑みは、それだけ京太郎には魅力的に見えたのだ。
「――はい、ツレの時間はおしまい」
魔法が解けるように、智紀は京太郎から離れる。手の温もりを名残惜しいと思う時間もそこそこに、智紀は衣たちに囲まれた。行き場を失った言葉は、溜息となって京太郎の口から漏れる。
一人、というのが、何だか妙に寂しい。
3、
「あ」
歩が挙げた声に、全員が足を止めた。最後尾のハギヨシの前、全員から一歩引いた位置を歩いていた歩が、足を気にしている。鼻緒が切れていた。歩は自分の足元を気にしていたが、顔を上げると、京太郎を見つめて言った。
「鼻緒が切れちゃったみたいなんだけど、直せる?」
歩の問いを受けて京太郎は、何も答えずに彼女の前に跪いた。歩の視線を受けたハギヨシが、残りの全員を先導する。使用人のトラブルに、主たちの時間を取らせる訳にはいかない。執事として、ハギヨシの行動は妥当な判断だった。
透華たちが先に行ったのを見届けると、歩は片足を差し出し、転ばないように京太郎の肩に手を置いた。
通りの真ん中でそうする二人は明らかに通行の邪魔になっていたが、彼ら二人が年若いこと、男女のカップルであること、跪いているのが男性で、少女の方はと言えば嬉しそうに頬を染めていること。それら全てを見た通行人は、若い二人を微笑ましく思いながら、横を通り過ぎていく。
下を向いている京太郎は気づかなかったが、歩は視線を集める自分たちを大いに自覚しており、自分たちが彼ら彼女らにどう思われているのかも、良く理解していた。
頬が朱に染まっているのは、目立っていることが恥ずかしいということもあるが、京太郎とそういう風に見られていることを自覚しているためでもあった。衣や智紀を差し置いて、自分がそう見られていることに対する優越感もあった。
年の割りにはしっかりしていて、仕事もできる。歩は同級生の少女に比べれば高い社会的な評価を得ていたが、憎からず思っている少年とこうしていることに幸福を覚えるくらいには、内面は十分に年頃の少女然としていた。
「よし、できた」
時間にして、一分少々だろう。鼻緒はしっかりと修復された。足の具合を確かめるように、歩のつま先が地を軽く叩く。それで問題がないことが解ると、京太郎は安堵の溜息を漏らした。
「前に一度教わったきりだったから、少し不安だったんだよな」
「ごめんね、京太郎くん」
「これくらい何てことはないよ」
「あの、そうじゃなくて……」
「実は鼻緒を結べるのに、俺にやらせてることか?」
「……知ってた?」
「知らない。でも、龍門渕のメイドならそれくらいできると思ってはいた。衣姉さんや透華さんの鼻緒が切れた時、メイドが何もできないんじゃかっこ悪いだろ?」
「ごめんね、京太郎くん」
「だから、何ともないって言っただろ」
どんな人間でも、誰かに傍にいてほしいとか、誰かに頼りたいと思うことはある。歩の場合、それが今だったというだけの話だ。元より、何でもできるけれどどこか抜けているこの同級生の力になりたいと、京太郎は常日頃から思っていた。普段、歩がどれくらい働いているのかを思えば、鼻緒を結ぶくらい、どうということはない。
鼻緒を結び、立ち上がる。智紀よりも小さい歩の頭は、かなり下の位置にあった。正に見上げる形になった歩は少しだけ苦しそうにしながらも、はにかみながら笑って見せた。
「智紀さんは手をつないだんだから、私は腕を組んでもらえる?」
「鼻緒、具合が良くないか?」
「そういうことにしておいてもらえると助かるかな」
4、
歩と追いついた先では、皆が盛り上がっていた。全員で射的をやるようである。自分よりも大きな銃を持って目を輝かせている衣を、純が持ち上げていた。衣は銃よりも小さければ、台よりも小さい。純の配慮は当然と言えたが、それは衣の嫌いな子供扱いになるのではないか。小さな衣の怒りが爆発するのではと京太郎は身構えたが、衣は普通にはしゃぐばかりだった。見た目相応にはしゃぐ衣の姿は、京太郎の心を凪いだ海のように穏やかにさせた。
「そういう目をしてると、ロリコンとか言われるよ?」
一の指摘に、京太郎は思わず背筋を伸ばした。そんな京太郎を見て、一はくすくすと笑う。
「どうかこのことは内密に願います」
「それは京太郎の心がけ次第かな?」
射的の銃を持ったまま、一は両腕を上げた。肩越しの視線で何が言いたいのかを理解した京太郎は、一の脇の下に手を差し入れ彼女を持ち上げた。一も小さいが、衣ほどではない。台の上に身を乗り出すだけならば一人でも可能だが、隣には純にお世話をされている衣がいる。一の行動は、それに対抗してのもののように思えた。
「む、一が衣の相手か?」
「そういうことだね。負けないよ、衣」
「返り討ちにしてやるぞ!」
言って衣は狙いを定めて引き金を引くが、弾は見当違いの方向に飛んでいった。自分の出した結果に満足がいかない衣は頬を膨らませて唸るが、それも当然という気もする。そんな衣をフォローするために、純はあれこれと、機嫌を損ねないように気をつけながらアドバイスをしていた。
手足の長い純は、こういう競技が得意なように見える。
「さて、それじゃあ僕もやろうかな」
ちょいちょい、と『耳を貸せ』という仕草に、京太郎は一の口元にまで顔を寄せる。
「上から二段目、右から五番目のぬいぐるみ。あれを衣に落とさせるよ」
「そんなことできるんですか?」
「僕と純くんはこういうの得意だからね。それに京太郎が手伝ってくれるなら、楽勝だよ」
「俺は何をすれば?」
「僕はそれなりに手先が器用なつもりだけど、見ての通り身体が小さくてね。不安定な状況だと仕事に支障が出るかもしれないから、しっかりと支えててもらえるかな」
「それは構いませんが……」
一の言葉に、京太郎は逡巡する。
一を含め、龍門渕の一行は皆美少女。ハギヨシは目の覚めるようなイケメンだ。純に抱っこされた衣は既に衆目を集めている。一も既に抱っこされているような状態だが、身体を支えるならば更に密着することになる。京太郎の言葉には、それでも良いのかという確認が込められていた。
「衆人環視の中でベストの仕事をするのが、マジシャンってものだよ。それとも僕みたいなぺったんこじゃ物足りない?」
女はズルい、と思った瞬間だった。これで一の頼みを断れなくなったし、イエスと言えばぺったんこでもOKという言質をとられる。見れば、一は嬉しそうに笑っている。からかわれているのは間違いない。
「解りました。俺も覚悟を決めます」
「素直な良い子は僕も好きだよ」
にこりと笑う一に、京太郎は覆いかぶさった。密着すると、さらに一の小ささが際立つ。衣を抱き枕にした経験のある京太郎だったが、衣の小ささとはまた違う感じがした。
覆いかぶさったのだから、当然、一の顔はすぐ横にある。年上の、小さな少女の顔が近くにあることに、流石に京太郎もどきどきするが、一の表情は真剣そのものだった。目標になっているぬいぐるみの観察をしながら、隣ではしゃぐ衣の観察も忘れていない。衣の意識が逸れたと思うや、引き金を引く。
ぱちん。気の抜けた音がして、コルクの弾が発射される。弾は狙い違わずぬいぐるみに当たり、その身体を僅かに後退させた。落ちない景品ではないことが、これでついでに証明される。一は小さく息を漏らし、玉を装填してレバーを引く、他の景品を探しているかのように銃口を彷徨わせながら、衣の意識がそれたと見ると、銃口をぬいぐるみに向け、引き金を引く。
その一連の行動に迷いが全くない。目標に弾を命中させる腕も去ることながら、衣に気づかれずにこれを行っているのがまた凄まじい。衣の気を逸らすことに協力している純の動きもあってこそであるが、何をおいても他人の気の緩みを見抜く一の感性だった。
ぱちん、ぱちん、ぱちん。
衣に気づかれないように、無駄のない動きで弾を撃ち続ける。足りなくなった弾は、アパム智紀が自然と補充していた。コルク弾は一皿400円。それを三皿も使った頃、ぬいぐるみが台の上でぐらつき始めた。後一発、二発で落ちる。その確信を持った一は、純に視線で合図を送った。
「衣、あれにしろ、あれ!」
「む!」
純に誘導された衣の目には、ぐらぐらと揺れるぬいぐるみの姿があった。これを落とさない手はない。衣はしっかりと狙いを定め、銃の引き金を引く。小さな身体に銃は不釣合いだったが、今まで散々撃ちまくっていたこと、京太郎と同じように純が身体を支えていたことで、その弾は狙い違わずぬいぐるみに向かい、命中。
結果、台の上からぬいぐるみは落ちた。
「やったぞ!」
純の腕の中で喜ぶ衣に、龍門渕の面々だけでなく周囲のお客も拍手を贈る。他人からの賛辞に、ぬいぐるみを抱えた衣もご満悦だった。その笑顔を見てそっと微笑んだ一は自分の仕事は終わったとばかりに銃を置いた。
「もう良いんですか?」
「僕の目的は達したからね。京太郎もありがとう。おかげで助かったよ」
「なら、残りの弾は俺が貰っても良いですか?」
「どうぞどうぞ。僕も京太郎のかっこいいところ見てみたいな」
「あまり期待しないでくださいよ」
一を解放し、銃を持つ。一が持つと大きい銃も、京太郎が持つと相応に小さく見えた。銃口にコルク弾を詰め、狙いを定める。手足が長い分、距離も近く狙いやすい。一が残した弾丸は一発のみ。衣が目的を達成した今、ここに留まる可能性は低い。
つまり、これが最後のチャンスだった。射的で一にかっこいいところを見せる、最後のチャンスである。そう思うと、京太郎の神経も研ぎ澄まされた。
引き金を引く。
へろへろと飛んだ弾は、狙い違わず目標に当たり、それを落とした。
「――上手いじゃないか」
「マグレですよ」
笑うも、一の賛辞は素直に嬉しかった。落とした景品は、星を象ったアクセサリー。京太郎の目から見ても安物だが、まさか男がつける訳にもいかない。
「よければ」
「良いの?」
「俺がつけているところを見たいというなら、つけますが……」
服で隠せるペンダントとかならばともかく、イヤリングを男がつけるのは罰ゲーム以外の何ものでもない。同じつけるにしても、無骨な男よりは一のような美少女がつける方が良い。
「見てみたくはあるけど、気持ちだけ貰っておくよ。それじゃあ、つけてもらえる?」
一は左の耳を差し出した。パッケージを外した京太郎は、一の耳に触れ、そっとイヤリングをつける。
自分の耳のアクセサリーを一は見ることはできないが、それを指ではじくと満面の笑みを浮かべてくれた。どうやら気に入ってくれたらしいと解った京太郎は、安堵の溜息を漏らす。
「一つ聞きたいんだけど、近くに月のアクセサリーもあったよね。どうして星にしたの?」
「一さんになら、こっちの方が似合うと思って」
今日はつけていないが、いつもは目の下に星タトゥーシールをつけている。一と言えば星というのが、京太郎のイメージだった。何を落とすか探していた時、月のアクセサリーも目に入っていたが、一に贈るのだからと星を選んだのである。
「そっか。僕のために星を選んでくれたんだね」
「安物な上、俺の金で取ったものではないので恐縮ですが」
「それでも嬉しいよ。ありがとう、京太郎」
「次に行くぞ、京太郎!」
ぬいぐるみを抱えた衣が、飛びついてくる。自分で取れたことがよほど嬉しかったのだろう。射的を始める前よりも大分テンションが高くなった衣は、京太郎の身体に勝手によじ登り、肩の上に落ち着いた。落ちやしないかと京太郎を含め、全員がはらはらしたが、肩の上に腰を落ち着けた衣はいつもとは視点の違う眺めに、歓声を上げていた。
ちら、と一に視線を向けると、一は苦笑を浮かべてひらひらと手を振った。
次回、現代編に戻ります。
現代編を分割するか、今までの通り一緒に投稿するかは考え中です。