セングラ的須賀京太郎の人生   作:DICEK

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20 中学生二年 衣ハウスお泊り編

「いけませんわ衣! 貴女たちはまだ中学生でしてよ!」

「年齢など関係あるものか。衣はもっときょーたろと仲良くなりたいのだ」

 

 休日、龍門渕の屋敷を訪れた時には、既に言い争いは始まっていた。

 

 衣ハウスに近い東屋である。そこにはいつもの五人に加えてメイドの歩がいた。

 

 仲は悪くないようだが歩が透華たちと一緒にいることは、意外と少ない。使用人としての立場を守っているというのが、歩本人の言い分である。一人だけ一年というのも、気が引ける要因なのかもしれない。

 

 歩も透華たちのことは大切に思っているようだが、一歩引いた態度を変えるつもりはないようだった。

 

 その代わりという訳ではないのだろうが。学年が同じで外から来た京太郎には、歩は少しだけ気安い感じだった。京太郎が姿を見せると透華たちにバレないように、こっそりと手を振ってくれる。バレていないつもりのようだったが、純や一はしっかりと気付いていた。京太郎も一応、こっそりと手を振り返しながら、純に視線を向ける。

 

 

「からかわないでくださいよ」

「金の草鞋を履いても探せとかいうけどな、同級生でも見つけておいた方が良いぞ? これは俺の経験からのアドバイスだ」

「純さん、モテそうですからね……女の子に」

「実際モテる。龍門渕高校の『お姉さまにしたい女子生徒』NO1」

「ははは。どうだ京太郎驚いたか」

「ちなみに『お兄様と呼びたい女子生徒』NO1でもある」

「ははは。すごいね純くん」

 

 一にからかわれると、純は目に見えて拗ねてしまった。女子にモテるという認識は良くて男性っぽく見られるというのは嫌だというのは、京太郎には解らない感性である。女性に持ち上げられるという点ではどちらも一緒なのだが、そこは純にとって譲れない一線であるらしい。

 

「俺は純さんのことかっこいいと思いますよ」

「そうだろうよ。だから俺よりもでっかくなってからそういうこと言ってくれると嬉しいね」

 

 純の物言いに、京太郎は苦笑を浮かべた。成長期が終わった純の身長は183cm。女子としては当然高い部類に入るが、男子に置き換えても十分に高い。男性の身長の平均は純よりも10cmも低いのだ。最近成長期が来た京太郎は身長がぐんぐん伸びているが、それでも、純より大きくなれるかは自信がない。純もそれほど期待はしていないのだろう。ふん、と拗ねた様子でそっぽを向いてしまった。

 

「……ところで、衣姉さんと透華さんはどうしたんです? 揉めるなんて珍し……くはありませんが、両方ともここまでエキサイトすることは珍しいんじゃありませんか?」

「そうだね。基本、透華の方が折れるしね。でも今日は透華が折れなくてさ。ちょっと話が長引いてるところ」

「大変ですね」

「何言ってるんだい。これには君も関わってるんだよ?」

「俺がですか?」

 

 歩の淹れてくれた紅茶を飲みながら、首を傾げた。来たばかりなので、事情が良く呑みこめない。

 

「実はね、衣が京太郎を部屋に泊めたいって言い出したんだ」

 

 あぁ、と京太郎は声を漏らした。

 

 それならば透華が反対するのも頷ける。衣に認められ、京太郎も透華の身内となったが、それとこれとは話が別である。衣は女性で、京太郎は男性。何か間違いがあったらと考えるのは、女性として友人として当然のことだ。京太郎自身、そういうことはしないと思ってはいるが、絶対にしないと言い切れるか、と言われると流石に自信が持てなかった。何しろ衣は美少女である。

 

「俺が行って断るのが良いんでしょうか?」

「君は衣の頼みを断るって言うのかい?」

「それも俺の本意ではありませんが、でも――」

「じゃあ受けるっていうのも角が立つのは解るよ。両方とも立てるのは、この場合不可能だからね。だから、自分の心に正直になるのが良いと思うな」

「俺のやりたいようにやれってことですか?」

「そう。やっぱり人間、それが一番よ」

「背中を押してくれるのは俺としては助かりますが、良いんですか?」

 

 執事の心構えの一つとして、ハギヨシが言っていた。執事は、主の意思を組むのが第一であると。メイドも同様だろう。一は透華付のメイドであり、透華からの信頼も厚い。お泊り反対という透華の意思を優先するのが、メイドとしてのあるべき姿と思うのだが、一は薄く笑みすら浮かべて京太郎の背中を押してきた。どうみてもお泊り推進派の衣に肩入れしている風である。

 

「良いんじゃないかな。僕は透華のメイドだけど、衣の友達でもあるしね。衣がやりたいって言うなら、やらせてあげたいんだ」

「随分自由ですね……」

「誤解しないでほしいんだけど、透華が衣に不自由を強いている訳でも、京太郎を信用してない訳でもないからね? 基本的には、透華だって衣のやりたいことには賛成するよ。でもほら、君は男の子だから、透華にも複雑な気持ちがあるんじゃないかな?」

「気持ちは良く解ります」

 

 逆の立場であれば、京太郎だって同じように言うだろう。透華が今衣に反対しているのは、衣のことを大事に思えばこそだ。

 

 しかし、熱くなっている二人には、お互いを思う心とは遠いところにいた。自分達だけでは決着がつかないと判断したのだろう。第三者の助力を得ようとし視線をこちらに向けたところで、二人は初めて須賀京太郎の存在に気付いたようだった。片手をあげて挨拶すると、衣がぱたぱたと駆け寄ってくる。先を越された形になった透華は、その場で苦虫を噛み潰したような顔をした。

 

「久しいな、きょーたろ!」

「衣姉さんも元気そうで何よりだ」

「うむ、衣は元気だぞ! ところできょーたろ。姉としてお前に話がある。来週末に予定はあるか?」

「……いや、暇だけど?」

 

 話の流れから何を聞かれるのかは解っていたが、京太郎は即答することを避けた。もじもじしている衣は大変可愛らしかったが、その後ろで全身を使って『断りなさい!』とジェスチャーをしている透華が色々な意味でぶち壊しにしている。

 

 衣にも透華にも凄く世話になっている。どちらの要望も聞いてあげたいのは山々だが、この場合、どちらか一人の要望しか聞くことはできない。どちらか一人となれば、京太郎が選ぶのは決まっていた。須賀京太郎は、天江衣の弟なのだから。

 

「良ければ、その、衣の部屋に泊まりにこないか?」

「構わないぞ。俺で良ければ喜んで」

「本当か!」

「ああ。俺は衣姉さんには嘘は吐かない」

「そうか、来てくれるか! そうと解れば早速準備せねば……行くぞ、ハギヨシ!」

 

 満面の笑みを浮かべた衣が、ハギヨシを伴い東屋を離れる。部屋まで戻る途中、衣は何度も振り返って手を振ってきた。京太郎もそれに、笑顔で手を振り返す。

 

 やがて衣の姿が見えなくなると、京太郎は大きく息を吐き、肩を落とした。背後には雪女の気配がある。

 

「同じ立場だったら、誰だってこうすると思いますよ?」

「私達は女、貴方は殿方。同じ状況でも立場は違いましてよ?」

「間違いが起こる前提で話すのは、衣にも京太郎にも失礼」

「起こらないように万全を期すのが賢い生き方というものですわ!」

 

 言葉を重ねるごとに、透華はエキサイトしていく。衣の頼みにOKを出したのは京太郎自身であるが、透華が衣の身を案じているのが解るだけに、反論もし難い。智紀もそれが解っているから、攻めあぐねているようだ。熱くなった人間を説得するのは難しい。メイドと雇い主の娘という関係もあるのに、躊躇わずに援護に回ってくれた智紀に、京太郎は視線で感謝を伝える。智紀は薄く微笑むと、静かにウィンクをしてみせた。

 

 意外な仕草であるが、大人っぽい容姿の智紀がやると、それは随分と様になっていた。男として当然の本能に従って見とれていると、爪先が踏みつけられた。爪先を踏み抜かんばかりの全力全開の一撃である。

 

 踏みつけた足の主は、小さく可愛らしい舌を『べー』と出していた。デレデレするのは、確かに良くない。気持ちを落ち着けるために、紅茶を一口飲む。程よく温くなった紅茶が、京太郎の気持ちを落ち着けていく。

 

「でもさ、衣のあの顔を見たら今更ダメとは言えないよね。とーかにもボクにもきっと誰にも」

「いっそのこと透華ママに力を借りるのはどうだ? あの人の言うことなら衣だって聞くだろ」

「無理ですわ。お母様のことですから、どんな手を使ってでも男は繋ぎとめて置きなさいとか言うに決まってますわ……」

「肉食系だもんね、透華ママ……」

 

 京太郎以外の全員が溜息を吐く。京太郎が知っている透華ママの情報は、龍門渕の女社長ということだけ。忙しい人らしくまだ会ったことはないが、屋敷の誰からも畏敬の念を持たれる凄い人だと聞いている。容姿は透華に似ているらしいが、存在感が段違いなのだとか。

 

 京太郎からすれば、透華もかなり存在感があるのだが……それ以上となると、ちょっと想像もできない。いずれ会う機会はあるだろうが、できれば会わない方が良いような気もする。透華以上で肉食系という話を聞いた後では、悪い未来しか想像できない。

 

「衣ハウスに京太郎が泊まるのは、確定みたいだな?」

 

 確認するように純が言うと、透華は大きな溜息をついて肩を落とした。何をもってしてもその決定は覆らないということを悟ったのである。

 

「京太郎、貴方は衣の身体に欲情しまして?」

「どう答えても俺の立場が悪くなるような気がしてなりませんが、一応NOと答えましょう」

「貴方の紳士力を信じましょう。私も、貴方がお泊りすることに賛成しますわ」

「ありがとうございます。透華さん」

「言っておきますけれど、私も別に貴方が憎くて言っていた訳ではありませんからね? 一も智紀も純も、誰も反対しないようでしたから仕方なくやっていたことですのよ?」

「透華さんが衣姉さんのことが好きで、優しい人だってのは良く解ってます」

「解っているのなら良いですわ!」

 

 直球の好意に、透華は弱い。褒められれば調子に乗り、感謝されれば照れる。悪く言えば単純だが、良く言えば純粋なのだ。京太郎は透華のそういう、まっすぐな心根が好きだった。

 

「それで、これから何をします?」

 

 皆で遊ぶということで来たのに、衣は部屋に引っ込んでしまった。泊まるにしても、それは来週の話。今すぐ用意する必要はないのだが、逸る気持ちが抑えられなかったのだろう。実に衣らしい行動であるが、頭数が減るのはよろしくない上に、この屋敷で雀卓があるのは衣の部屋と透華の部屋しかない。この東屋は衣の部屋に近い位置にあり、屋敷からは遠い。

 

 麻雀だけをするならば透華の部屋まで行けば良いが、それだと衣が引き返してきた時に一人にすることになってしまう。場所を変えるのは、できれば避けたいところだ。

 

「京太郎、貴方はチェスができたのでしたわね?」

「まぁ、たしなみ程度には……」

「歩」

「はい、お嬢様」

 

 透華が指を打ち鳴らすと、傍らに控えていた歩がチェス盤を持ってくる。透華の専属メイドは一であるが、彼女は今友人としてこの場にいるので、今のお世話は歩の仕事である。歩を見た一が複雑そうな顔をしているが、それには気づかないことにする。

 

「この間は貴方に花を持たせましたが、今日はそうはいきませんことよ!」

 

『勝負ですわ!』と、透華の鼻息は荒い。やらずに収まる気配はなかった。助けを求めようにも、一と歩はそもそもが透華の味方。面白ければ良いという方針の純は、もう観戦する気でいた。唯一味方になってくれそうな智紀は京太郎の瞳をじっと見つめていた。『助けてください』と視線を送ると、彼女はにこりと笑って首を横に振った。孤立無援である。

 

「わかりました。お互いハンデなしってことでOKですよね」

「手加減なんてしたら承知しませんことよ!」

 

 では、と歩が使用人の仕事として駒を並べていく。白黒全て並べ終わったところで、両方のキングを一が取り上げた。最初は白が右、黒が左にあったはずだが、一の手がめまぐるしく動くと、たちまち解らなくなった。一の手がとまったところで、透華が声をあげる。

 

「選びなさい」

「それじゃあ、右を」

 

 一が右手を開くと、そこには黒い駒があった。つまりは京太郎の後攻である。不正があったとは思えないが、透華大好きの一のやることなので完全に否定することはできない。チェスは先行が有利とされているのだ。一を見ると、彼女はいたずらっぽくウィンクをして見せた。事実は一さまのみぞ知る、である。

 

「私が先行ですわね! 負けませんわよ!」

「お手やわらかにお願いします」

 

 そんな言葉と共に始まったチェスの戦績は一勝一敗一分となった。三戦全勝するつもりだった透華はその結果が甚く不満だったようだが、全て負けると思っていた京太郎はその結果に満足していた。麻雀に固執している京太郎がリアルで何かに勝つのは、それだけ珍しいことだったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 お泊りの日はすぐに訪れた。

 

 泊まりの用意をして龍門渕家を訪れた京太郎は、歩の案内ですぐに衣ハウスに通された。相変わらず重厚な扉が開くと、満面の笑みを浮かべた衣がいた。

 

「よくきたな!」

 

 さあさあ、と衣は京太郎の背中を押す。しばらくぶりに入った衣ハウスの中は相変わらずファンシーな世界だったが、準備をしただけあって片付いているように見えた。そこかしこに、この場所を綺麗にしようといった意図が見える。それが衣の努力と思うと心がほっこりとしたが、ためしに見た窓のサッシにはまるで埃が積もっていなかった。床も調度品も全てである。プロの仕事というのは疑いようがなかった。無論、衣がそれだけ頑張ったという可能性はなくもないが、あの小さな身体と細い指でここまでできるとは考えにくい。

 

 そこにあったのは、普段から衣のお世話をしている人間の愛情だった。おそらくハギヨシだろうと思った京太郎は、素直に彼を尊敬した。

 

「今日は歩ともここでお別れだ! 今日は京太郎と二人で過ごすからな」

「かしこまりました。何かありましたら――」

「衣ーっ!!」

 

 歩の言葉をさえぎるようにして、透華の声が響き渡る。遠くに走ってくる透華の姿が見えた。遠めに見ても血相を変えているのが解る。その後ろは純たちの姿もあった。

 

「む、もう感づいたのか。歩、早く閉めるのだ!」

「かしこまりました。それでは――衣様をよろしくね、京太郎くん」

 

 衣に別れの挨拶を済ませ、京太郎の耳元で囁いた歩は、メイド服のスカートを翻らせて部屋の外に出ると、スカートの端をつまんで一礼をした。ぎぎー、と扉が閉まっていき、外の風景が見えなくなる。扉が閉ざされると、そこはもう衣の世界だった。防音機能も備わっているこの家に、外の音は全く聞こえない。

 

「透華さんが遠くに見えたけど、良かったのか?」

「今日はきょーたろと二人で過ごすと決めたからな。一緒に過ごそうとするから、一計を案じたのだ。ハギヨシは全く良い仕事をするな!」

 

 わはは、と笑う衣を他所に、京太郎は頭を抱える。出し抜かれた形になる透華は今頃、部屋の外で怒り狂っているだろう。鍵は衣本人と歩、それから当然透華も持っている。内側から鍵をかけることもできるが、外から入れないようにすることは安全上できるはずもない。鍵を持つ透華ならば、今の時点でも衣ハウスに入ることはできるが、その主である衣が入ってくるなと言っているのだから、透華の側には大義名分がない。衣と京太郎、両方が外にいる間が引き延ばす最後のチャンスだったのだ。

 

 透華のおかーさん力は半端ではない。衣がかわいくて心配で仕方がない彼女に後で何を言われるか考えると気分が滅入った。早速、マナーモードにしていた携帯に着信が入る。こっそりと画面を見ると『龍門渕透華』とあった。ため息をついて、京太郎はそっと電源を落とした。小言を言われるなら、できるだけ後の方が良い。何も、これから楽しい時間を過ごそうというのに、気分を盛り下げる必要はない。

 

「きょーたろ、まずは本を読んでくれるか?」

 

 衣が差し出してきたのは『1/2回死んだねこ』という名前の絵本だった。京太郎も幼い時分に読んだ記憶がある。その時一緒に読んだ相手は怜だった。あの頃の怜もこの話が好きで、良くせがまれて読んだものである。

 

 京太郎が椅子に座ると、衣は当たり前のように膝の上に乗って来る。ウサギの耳のような赤いヘアバンドをくすぐったく思いながら、絵本を開く。装丁は一緒だったが、手に感じる重さは大分違う。あの時はこの本を大きく思ったものだが、今は腕の中の衣と同じくらいに小さく見えた。

 

 衣がわくわくした瞳で、見上げてくる。子供を持った父親というのはこんな気分なんだろうか、と思いながら、あの時と同じ本を、あの頃とは違う気持ちで、開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから衣の要望に答えるままに絵本を読んでいると、すぐに夕食の時間になった。

 

 その時になって初めて、京太郎はポケットの中にメモが入っていたことに気づいた。差出人はハギヨシだった。今日は一度も彼と顔を合わせていないはずだが、それは気にしないことにした。

 

 ハギヨシのことよりも、メモの内容である。そのメモには『くれぐれも衣一人で料理はさせないように』という内容が、執事らしい丁寧な言葉と流麗な字で記されていた。最後にはハギヨシのサインもあるから間違いはないだろう。あの人は萩原というのか、と今更の事実に驚きつつも、不器用な仕草でエプロンをつけようとしている衣に近づく。

 

「姉さん、俺も一緒に料理がしたい」

「きょーたろはお客様だぞ? 今日は衣がもてなしてやるから、そこで待っているのだ」

「そうだけどさ。実は俺一人っ子で、今まで兄弟がいたことがないんだ。姉弟一緒に料理とか、そういうのが夢だったんだよ。弟の顔を立てると思って、頼めないかな?」

「きょーたろは衣と一緒に料理がしたいのか?」

「したい。すごくしたい」

「そうか……ならばしょうがないな!」

「良いのか?」

「良いに決まっている! 弟の我侭を聞くのは、姉の勤めだからな!」

 

 これを使えと、衣が差し出してきたエプロンはハギヨシが用意したものだった。彼がいる時は彼が使っていたというが、京太郎が身に着けてみると、その寸法は京太郎の身体にぴったりだった。他人が使った気配はなく、手触りも新品に近い。元より、いくら洗ったものとは言え、あのパーフェクト執事が自分の着たものを客人に出すとは考えにくい。衣が同じものと勘違いしているだけで、これはハギヨシが用意した新品なのだ。

 

 こうなると予想して最初から手を回していたのだろう。怖いくらいに、気の回る人である。

 

 料理は滞りなく進んだ。真剣に練習したのか、危なっかしい動きは多々あったが、衣の手順は実に的確だった。指導した人間が良かったのもあるのだろうが、衣本人の器用さも中々である。ジャガイモの皮をピラーではなく包丁で剥き切ったのを見た時には、軽い感動を覚えたほどだ。

 

 初めての共同作業で作ったのは、カレーである。二人で食べるには多かったが、余った分は透華たちに振舞うという。お下がりと見ると気分も盛り下がるというものだが、衣の手料理となれば透華たちはきっと喜んでくれるだろう。できたても美味しいが、カレーは寝かせた方がもっと美味しいのである。

 

「風呂だ!」

 

 食事の後片付けが済んだら、風呂だった。

 

 ほらほら、と衣が背中を押してくる。衣ハウスのバスルームは龍門渕本体の大浴場に比べると、当然のことながら小さい。それでも衣一人で住んでいる衣ハウスに設置するには、大きすぎる浴場が設えられていた。透華たち五人で入ってもまだ余裕だろう。小さな衣一人には、十分過ぎるほどの大きさだ。

 

 さぞや掃除も大変だろうとバスルームを見渡せば、これまた隅から隅までぴっかぴかである。これも素人仕事ではないな、と感心しながら、京太郎は何気なく衣に問うた。

 

「ここの掃除は普段は誰が?」

「あゆむがやってくれるのだ。たまにドジなところもあるが、ゆうしゅうなメイドだぞ」

 

 ほー、と京太郎は感嘆の溜息を漏らす。デキる人だとは思っていたが、ここまで優秀とは思っていなかったのだ。腕が確かなのは掃除の行き届いた風呂場を見れば、素人の京太郎にも良く解る。優秀なメイド少女に、京太郎は興味が沸いた。

 

「衣姉さん、歩さんってどんな人なんだ?」

「――きょーたろはあゆむに興味があるのか?」

「なくはないな。可愛い人だし、あまり話したことがないから、知りたいなぁと」

 

 京太郎の声は段々と小さくなっていく。男が女性のことを聞くのだ。そこに疚しい気持ちがないとは口が裂けても言えない。

 

 そして女性は男のそういう感情に敏感であるとも聞く。類まれなオカルトの才能を持っている衣も、その例に漏れなかった。不機嫌というほどではないが、ぷーっと頬を膨らませた衣の機嫌は、明らかに下降していたが、ここで怒るのは大人気ないと衣なりに判断したのだろう。京太郎の質問には、律儀に答えてくれた。

 

「年はきょーたろと同じだったはずだ。龍門渕の屋敷で働くようになって、一年くらいか」

「本当に同級生だったんだな。学校は龍門渕の?」

「うむ。衣たちの後輩になるな」

「なら――」

「歩の話はもう良いだろう!」

 

 衣が答えてくれたことで調子に乗っていた京太郎を、衣の声が遮る。これ以上は許さないと、鉄の決意が見て取れた。

 

「きょーたろにはもっと他に聞くべきことがあるだろう! 衣の弟として」

「――姉さんのこと、色々聞きたいな」

「うむ。今晩は沢山話そう!」

 

 さて、と衣がぱぱっと服を脱ぎ、裸になると手馴れない手つきで髪をアップにし、タオルで巻いた。

 

 その時になって京太郎はようやく、眼前で何が起こっているのかを理解した。

 

「姉さん、一体何を?」

「京太郎はおかしなことを言うな。風呂に入るのだから服は脱ぐに決まっているだろう? 京太郎も早く脱ぐのだ」

 

 何一つおかしなところはないという衣の口調に、京太郎は内心で頭を抱えた。今更男女の恥じらいがどうのと説いたところで、納得してくれそうな空気ではない。弟として下手に出るにも限度がある。入らないと抵抗するのは簡単だが、それでは衣が激しい癇癪を起こすことは目に見えていた。

 

 須賀京太郎の選択肢は『一緒にお風呂』以外になかった。

 

「わかった。俺もぱぱっと着替えるから、先に入っていてくれるか?」

「わかった。早くくるのだぞ!」

 

 ぱたぱたと足音を立ててバスルームに入る衣の背中を見送ってから、京太郎はもたもたと服を脱ぎ始めた。

 

 年上の金髪美少女と一緒にお風呂。言葉にすると心ときめくのに、実際に直面してみると気苦労の方が先に立っている。罪悪感と表現するのが一番近いだろう。何も知らない子供に遠まわしに卑猥なことを強要しているようで、気分も良くない。

 

 嫌な訳ではない。衣と仲良くなりたいのは本心だし、衣がそう思ってくれているのも素直に嬉しい。何より衣は美少女だ。美少女と一緒の時間を過ごせて、嬉しくない男はいない。いないのだが――夢にまでみたシチュエーションなのに、何かが違うと思う京太郎だった。

 

「遅かったな!」

 

 衣は湯船に入らず待っていた。風呂場には湯気があったが、それは衣の身体全てを隠すには至っていない。タオルは頭に巻いてあるもののみ。衣の身体を隠すものは何もなかった。

 

(この気持ちを何と表現したら良いんだろう……)

 

 罪悪感と羞恥心とほんの少しの劣情が入り混じった情動を、京太郎ははっきりと持て余していた。どうしようと京太郎が悩んでいるうちに衣はどんどん話を進めていく。

 

「京太郎、座るのだ。衣がしてやるぞ!」

(ここだけを透華さんに聞かれたら、俺は殺されるかもなー)

 

 そう考えていることを知られたらやはり怒鳴られそうなことを考えながら、衣に指示された通りに移動し、椅子に座る。座ると流石に京太郎の頭の方が下になる。衣に見下ろされているという、奇妙な光景だ。さて、と京太郎は衣がお湯をかけてくれるのを待つ。

 

 ……中々来ない。どうかしたのだろうか、と肩越しに振り返ってみると、衣は目一杯に背伸びして、京太郎を見下ろしていた。

 

「京太郎の頭はこうなっているのだなー」

 

 うむ、と一人で納得した衣は、予告なしに洗面器のお湯をぶっかけた。濡れ鼠になった京太郎が、濡れた前髪の間から見上げると、衣はけらけらと笑う。

 

「男前になったな、京太郎。それでは衣が頭を洗ってやるぞ」

 

 頭にシャンプーの泡が立つ。自宅では使ったことのない、繊細な香りが鼻に届いた。衣が使うバスルームにあるのだから、当然、衣のものなのだろう。女性と同じものを使っていると思うと途端に気恥ずかしくなってしまったが、『別に初めてのことではない』と湯だりそうな頭を強引に元に戻す。大阪にいた時は一ヶ月に一度は怜の家に泊まりにいっていたのだ。十年前に通った道だと思えば、何とかやり過ごせそうな気がした。今の衣と当時の怜で、体型も何だか似ていることであるし――

 

 衣の身体を見ないようにしながら、バスルームの中を見渡す。シャワーの近くにはボトルが5つと5つに別れて、合計十個並んでいた。

 

 京太郎は何となく一番近くにあったボトルを手に取ってみた。薄いブルーの、どちらかといえば可愛らしいデザインのボトルである。

 

「それは一の物だな。ここには皆のものが全ておいてるのだぞ!」

 

 衣の声を背中に聞きながら、ボトルをそっと元あったところに戻す。一がこの場にいる訳ではないのに、とてつもなく気恥ずかしいのはどうしてなのか。一がここに来た時このボトルを使っているのだと想像することが、どうしようもなく変態的行為のように思える。

 

 わしゃわしゃ。衣の細く小さな指が、髪の間に滑り込んでくる。力が弱く正直物足りないが、とにかく優しくやろうという心遣いと、機嫌の良さが見て取れた。衣の鼻歌を間近で聴いているだけで、今日は来て良かったと心の底から思えた。ばしゃり。相変わらず、お湯をかける時だけは豪快である。二度目の、ばしゃり。髪を触ってみると泡は落ちていた。

 

「次は背中を流してやろう!」

 

 ボディソープをスポンジにつけ、無駄にわしゃわしゃ。そういう小さな行動が一々楽しそうだった。人と触れ合うことを純粋に楽しむことができる。透華が良い子と評するのも頷けた。

 

「うんしょ、うんしょ」

 

 やはり力は弱いが、衣にやってもらっていると思うと、そんなことはどうでも良かった。気持ちよさに目を細めていると、またばしゃり。洗面器で豪快にお湯をかけるのが、衣は好きなようだ。

 

「終わったぞ京太郎。本当は前もやってやりたいのだが、それだけはダメだとあゆむに言われてしまったのだ」

 

 衣はしゅんとしているが、京太郎は内心で歩に感謝していた。これで保護者までイケイケだったら、京太郎は今晩、大人の階段を登らされていたかもしれない。

 

「では、衣は一人で洗うから京太郎は先に湯船で待っていてくれ」

 

 当然のように、衣は言う。別にやりたかった訳ではないが、洗いっこするものだと思っていた京太郎に、衣の発言は寝耳に水だった。

 

「俺が洗おうか?」

 

 という言葉は、無意識の内に出たものだった。自分が何を言ったのかを京太郎が理解した時には、もう遅い。待ってましたと、喜色満面の笑みを浮かべた衣が、電光石火の速さで食いついてくる。

 

「本当だな!? 頼んだぞ!」

 

 衣は素早く京太郎の前に移動すると、髪をアップにしていたタオルを解き、椅子に腰掛けた。金糸のような髪が、さらさらと流れる。

 

 京太郎が女性の髪に触れるのは、これが初めてではない。最初はやはり怜だった。場所も同じバスルーム。当時は性別など意識せずに、今よりもっと緊張せずに接することができた。他には鹿児島では霞の、岩手では塞の髪に触ったことがある。

 

 誰の髪も美しかったが、衣の髪はそれ以上だった。男である京太郎の目から見ても、良く手入れをされているのが解る。

 

「姉さんの髪は、普段は誰が?」

「あゆむがやってくれるぞ」

(どんだけスーパーメイドなんだ歩さん)

 

 人は見かけによらないのだな、と京太郎の中で歩の評価が凄い勢いで上がっていく。

 

 おっかなびっくりの髪を洗う作業は、自分の頭を洗うよりも大分神経を使った。疲れを癒すために入った風呂で疲れをためた京太郎は、衣と一緒に湯船に漬かると、きっちり100数えてから風呂場を出た。

 

 寝巻きに着替えるのを手伝い、とりあえず髪をアップにまとめて、寝室に戻る。

 

 ベッドに飛び乗る衣に続いて、ドライヤーを持ってベッドに座ると、サイドテーブルにメモがあるのがわかった。位置的に、衣よりも先に京太郎が見つけられるようになっている。こっそり見ろという、メモを書いた人間の配慮だろう。それに従い、衣に見つからないようにこっそり見たメモには、女の子らしい丸い文字で、衣の髪の乾かし方が書いてあった。

 

 手紙の末尾には『ご武運をお祈りしています』の言葉と共に、歩のサインがあった。これだけ綺麗な髪だと、どうやって良いのかも解らない。自分と一緒では絶対に駄目だということは解るがそれだけだった京太郎に、歩のメモは天の助けだった。

 

 歩のメモに従い、慎重に、けれどすばやく衣の髪を乾かして櫛を入れる。丁寧に髪を梳くと、衣は気持ちよさそうな声を漏らした。

 

 手入れが終わると、衣はぱたりと倒れこんだ。至福そのものといった表情は、もう夢の世界に片足を突っ込んでいるのを伺わせる。離れようとした京太郎の服の裾を、弱々しい力で、衣が掴んだ。

 

「こんばんは、いっしょにはなすと、やくそくしたぞきょーたろ」

「寝るまで一緒にいるよ」

「だめだ。いっしょにふとんにはいれ。これは、あねとしてのめーれーだぞ」

 

 京太郎は苦笑を浮かべる。命令ならば仕方がない。衣を揺らさないようそっと布団に入ると、衣が寝返りを打つようにした身体をこちらに向けた。寝ぼけ眼の衣の顔がすぐ近くにある。何かを話そうと、口がわずかに開いたが、そこから漏れるのはあふぅ、という溜息だった。既に相当眠気が勝っているようだった。無理をしないで、と衣の頭をそっと撫でると、衣は身体を寄せてきた。

 

 体温が、とても高い。まるで湯たんぽだな、と抱きしめると衣も腕を回してきた。本人としてはぎゅっと力の限り抱きついているのだろうが、眠気に負けつつある衣の力は微々たるものだった。

 

「きょーたろ……」

「俺はここにいるぞ姉さん」

「うむ。はなれるな。きょうは……ころもが………」

 

 言葉は寝息に変わった。すーすーと静かに寝息を立てる衣の身体を優しく抱きながら、京太郎も目を瞑った。

 

 

 

 

 

 




 この後寝ぼけた衣に首筋をアマガミされてベロチューされたり、夜中に目覚めて衣の姿にドキドキした結果いたずらしようとしたり、朝方京ちゃんの京ちゃんが京ちゃんしているのを衣に見られるイベントがあったかもしれませんが、全年齢版なので省略されました。
心の中で『ころたんイェイ』と百万回唱えると、見えるようになるかもしれません。

次回は夏祭り編です。はじめちゃんとともきーとあゆむさんのターン。

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