流れ、というものがある。
運という目に見えないものを提議する際に使われる概念だ。誰が最初に言い出したのかは定かではないが、そう言い出した人間は運の性質について、深い理解を持っていたのだろう。今は麻雀などのゲームだけでなく、色々な場所で使われている言葉だ。
その流れには『強さ』と『向き』がある。
強さについては言うまでもない。勢いがある方がより強力に作用し、なければそれなりに作用する。
向きにはプラスとマイナスがある。プラスがその人間にとっての良い結果、マイナスが悪い結果を齎すように作用する。
強力な麻雀打ちの中にはオカルト染みた力を持つ人間がいる。アプローチの仕方こそ違うが、それらは流れに干渉し、自分に都合の良い結果を生み出すという点においては共通の性質を持っていた。
国広一が『冷たいとーか』と呼ぶ透華の能力は、そういった流れの変化の一切を無効にする。透華がその能力を発揮した時、場はまるで凪いだ海のように静かになる。透華の能力が『治水』と呼ばれる所以である。
この能力を突破する手段は少ない。
一つ、単純な幸運でもって突破する方法。これは単純に、運が良ければ突破することができるというものであるが、運の良い人間が一同に集まった場合、その運は競合することになる。麻雀というゲームにおける透華の運は、平均を遥かに上回った一流のものだ。これを突破となるとプロの中でも更に一流を連れてくるしかない。調子の良い時を選ばず、あくまで素の運量ということであればかの小鍛治健夜をはじめとする、女子のトッププロだけが力技でもって『治水』を破れるだろう。
一つ。より強力なオカルトで駆逐する方法がある。『治水』よりも強い作用を持つ能力ならば、その支配を突破することができるだろう。オカルトはより強いオカルトによって駆逐される。それはどんな競技でも共通の原理原則だ。京太郎が過去に出会った中では、玄のドラゴンロードのみが『治水の影響を受けずに作用する』という条件に該当していたが、それでも『治水』を吹き飛ばすには至らない。
さて、龍門渕透華の『治水』は流れを支配し、場を穏やかにする。その結果、他のプレイヤーの運は細くなり、また能力によって運を下げられたことで、降り運になる。そのマイナスの勢いは、出発点が高ければ高いほど大きい。運の良い人間ほど、より影響を受けることになるのだ。その運を上向きにするには、相当な時間がかかることだろう。半荘という単位で時間が区切られる麻雀において、それは圧倒的なリードになる。
当然のこととして、『治水』をしかける透華はそのマイナスの影響を受けることは少ない。無傷とはいかないが、それも他人の運が急降下することに比べたら誤差のようなものだ。
他人の運を下げ、自分はそのままで戦うことができる。加えて自らデジタルを名乗る透華の技量は、中学生にしては突出していた。オカルトとデジタルの正しい意味での融合した姿。その究極進化の一例が、この『冷たいとーか』だった。
だが、この『治水』には一つ、融通の効かないところがある。取捨選択ができないという点だ。常にマイナスの能力を背負って戦う不幸な麻雀打ちがいたとしたら、そのマイナス能力までも取り去ってしまうのだ。仮に
衣 100
透華 80
純 70
京太郎 5
何の影響も受けていない時の四人の運をこれくらいと仮定する。普通の人間の運は10だ。卓についた時点で相対弱運が発動。京太郎は相手の強さに応じて、自身の運をマイナスに下げてまで運を放出する。透華が反転する直前で運量は、
衣 200
透華 160
純 150
京太郎 -255
ざっくりとした解釈で最低、これくらいの開きがあった。ここから、能力による補正が透華の力によって一方的に遮断され、さらにベースとなる運量まで『治水』のオカルトで押さえ込まれた。『治水』が仕掛けられた時、四人の運量は、
衣 10
透華 100
純 10
京太郎 10
このような形となっていた。透華の運も下がっていたが衣たちほどではなく、また『治水』を仕掛けた本人である透華は、降り運についても強い耐性を持っていた。仮に同じだけの降り運を背負うことになっても、衣や純よりも早く復帰できる。ハンデからより早く復帰できなければ、能力をしかける意味がないからだ。持ち主を勝たせるために存在する能力は正しく、透華を勝たせるために機能していたと言えるだろう。
しかし京太郎は――常にハンデを背負い、それでも諦めずに麻雀を打っていた京太郎だけは『治水』の恩恵をその主である透華よりも受けていた。常にマイナスだった運がプラスに転じ、衣が感じている降り運の倍の勢いがある登り運までついたのだ――
細かい講釈が続いたが、これら全てのことは今すぐ忘れても良い。
これまでの全ては、ただ一言に集約される。
須賀京太郎は今、良い流れの中にいた。
「ツモ。2000、4000」
当然のように、ツモれる。
だが、まだまだだった。流れに乗り切った照のように、神を降ろした小蒔のように、高い手を張ることができない。どこまでツけば、彼女らのようにアガれるようになるのだろうか。もっと高く、もっと強く。理性も何もかも捨てて、京太郎はより高みを目指す。
南一局。
衣の親を軽く蹴った京太郎は、さらに勢いづいていた。『治水』によって整えられたはずの流れが、京太郎一人に集まっている。堪えて堪えて堪え続けて、それでも麻雀を諦めなかった男が、初めて引き寄せたツキである。生半可なことでは止まらない。
このままでは独走される。基本、一人で好き勝手に打つ衣ですら、南場の親を軽く流されたことで危機感を持った。衣と純が目配せをする。元より心の通った間柄。通しなどなくとも、意思の疎通はできるのだった。流れを寸断され、透華に頭を押さえつけられている二人が京太郎に勝つには、手を組むより他はない。
衣は生まれて初めて勝つためにどうするかを考え、それを実行していた。何かを成そうとしている衣を、京太郎以外の皆は暖かく見守っている。衣が自分で前に進もうとしている。この事実一つだけでも、今日の催しには価値があった。友人としては衣の勝ちで終わって欲しいところではある。ここに集った仲間は皆、衣のことが大好きなのだから。
だが、麻雀打ちとしての希望は別だ。誰であっても無粋な横槍など入れてほしくはない。この混沌とした半荘を制するのが誰なのか、純粋に楽しみだった。
「ポン!」
衣が切った牌を純が鳴いた。京太郎がアガったことで、『治水』の力にも綻びが見え始めていた。自然の流れに人のオカルトで干渉するのが『治水』である。流れを人為的に操作する。それができる透華は確かに天才であり、牌に愛されていると言える。
しかし『治水』の力を超えた激流を御するのは、如何に龍門渕透華でも容易ではなかった。時間をかければいずれ制御することはできるだろう。流れを操作するということに関して『治水』の力は他の追随を許さない。龍門渕透華には確かに、その力を持つに相応しい才能があった。
透華に不幸が、あるいは幸福があったとすれば、その力が龍門渕の血統に宿っていたことだ。その力は断じて透華の魂に刻まれたものではない。持って生まれた能力はしかし、龍門渕透華という少女の心根とは全くと言って良いほどかみ合わなかった。
デジタルを標榜する透華は、その実、勝負事については恐ろしいまでに負けず嫌いだった。自分の美学に反する勝利を、彼女は受け入れることはできない。血統に宿る力に頼って、年下の男性の台頭を許した。それは透華のプライドを甚く傷つけていた。
氷の世界の奥深くに押し込められた透華の心が、雄たけびを挙げている。「このままでは私が目立てませんわ!」と。その感情が氷の壁を破り、外に出ることができれば『治水』は消えて、再び須賀京太郎は沼の奥底に沈む。凄まじい流れに乗った京太郎に勝つとすれば、それしかない。
あるいは、彼が致命的なミスをするか。自らが生み出した氷の壁をガスガスと蹴飛ばしながら、透華は息を潜めてそのチャンスを待っていた。
「ツモ。2000、4000」
南二局。
京太郎がまた、軽く満貫をツモった。
衣の援護も空しく、純がアガることもできない。透華が親っかぶりをし、場が平たくなろうとしている。
流れが京太郎に傾いた。それはもう、誰の目にも明らかだった。透華の凍てついた視線が、衣、純と交錯する。オカルトを発動しているにも関わらず、二度もアガられた。
ここまで来たら素の運が優れていることなど意味がない。次に満貫をアガられると逆転され、京太郎がトップになる。ラス親でのアガり止めはアリのルールだ。最悪テンパイでも良いというのは、打ち手に安心感を与えることになる。
せめて頭は押さえつけておきたい。それは京太郎以外の打ち手の共通見解だった。何か弱点はないか、捨て牌から打ちまわしから、透華たちは京太郎のことを探るが、見つからない。智紀が褒めるだけあって、非常に理に適った打ち回しをしている。技術において、京太郎は既に一流と言って良いだろう。同年代限定ならば、全国屈指と言っても通用するかもしれない。
それは透華も、純も、衣でさえも認めるところだ。優れた打ち手にはそれなりの敬意を払う。麻雀打ちとして当然のことだ。年下、しかも男子ということであった侮りの気持ちは、この時綺麗さっぱり消えていた。抱いているのは、どうやってこの男を引き摺り下ろすかという、強敵を前にした時の高揚感だけである。
何か、弱点を。
最後の勝負のために調子を整えながら京太郎を観察し続けていた三人は、同時に同じことを閃いた。
逆転を可能にするほどの、明確な弱点。それが京太郎の顔に出ていたのだ。
付け込む隙が見えれば、後はそれに向けて備えるだけ。欲しい時に欲しい手を入れる。それを当たり前のようにこなしてきた三人の打ち手は、オーラスのために南三局を捨てた。
「ツモ。2000、4000」
京太郎がまた、満貫をツモる。微差ではあるが、これで京太郎がトップに立った。
そして、オーラスである。
京太郎の配牌は3シャンテンだった。早くはないが、タンピン三色が見える好配牌である。相対弱運が透華にキャンセルされてから、配牌はずっとこんな感じだ。負ける気がしないというのは、こういう時のことを言うのだろう。第一ツモ、第二ツモと手が進み三順目で早くもイーシャンテン。何を切るかを考える必要もない。手はまっすぐ進み、そして高くなっていった。
七順目。京太郎の手牌。
二三四五五六②③④23488 ドラ8
二か五を切ればテンパイ。五切りで高め三色の三面張。リーチをかければ安めでも満貫である。流れに乗ったこの半荘を締めくくるのに、相応しい手だ。京太郎は大多数の打ち手がそうするように、五に手をかけた。リーチは必要ない。何でもアガればトップが転がり込むこの状況で、手を狭くする必要はない。
ここでアガれば、この面子を相手にトップなのだ。勝つ。そういう気持ちで手牌から五を抜き――そこで京太郎は動きを止めた。冷水を頭から被ったように、気持ちと思考が冷えていく。脳裏に浮かんだのは咏の顔だった。麻雀の何たるかを教えてくれた先生が、言っているような気がした。
『ここでそいつを切るのが、お前の麻雀なのかい?』
切れる訳がない。自分の手ばかりを見て、周囲を見ていなかった。熱が去った京太郎の視界には、場が良く見えた。『五』は対面の透華と衣に危険だ。手の進み具合ばかりを気にしていたせいで、細かいニュアンスをまるで把握できていない。いつもの半分以下の情報で、さらに純の手を分析する。ソーズの上目、おそらくドラの『8』が当たりだろう。頭を外して回すのは不可能だ。となれば、既に完成している面子を外すより、他はない。
三人とも間違いなく張っている。それは手を予想するまでもなく、表情と雰囲気で解った。ここで手を崩せば、三人のうちの誰かにアガりを持っていかれる。この状況でリーチをかけないということは、三人ともそれでトップを取るのに十分ということだ。元よりトップの京太郎とラスの純の間で5000点も離れていない平たい場である。彼女らの運、技術であれば透華の支配下でも手を作ることは不可能ではないだろう。
押し通せば当たる可能性が高い。降りたり回せば間違いなく捲くられる。ならば当たる可能性を解った上で、押し通すのが麻雀打ちとして正しい道なのではないか。
否、と京太郎は小さく首を横に振る。
須賀京太郎は男だ。男には張り通さなければならない意地がある。
だが須賀京太郎は、男である前に麻雀打ちだ。麻雀打ちには貫き通さなければならない矜持がある。今まで積み重ねてきた技術がある。その技術を磨くために協力してくれた人たちの期待がある。今日の自分は昨日の自分よりも強いという実感がある。明日の自分は今日の自分より強いという希望がある。
それら全てが、麻雀打ちとしての須賀京太郎だ。
自分を構成する全ての要素が『曲げてはならない』と言っている。
ここで曲げたら、今まで培ってきたものを裏切ることになる。一度でも裏切れば、その事実がこれからずっと頭の隅に残り続ける。自分の読みを信頼できなくなったら、自分の感性に疑いを持ったら、明日に希望を持てなくなったら、須賀京太郎はもう麻雀を楽しむことができなくなる。麻雀が好きだと胸を張れなくなる。
それだけは、絶対に嫌だった。明日も麻雀を好きでいられるため、胸を張って生きるため、須賀京太郎がとるべき手段は、やはり一つだった。
方針は決めた。ならば後はそれを貫き通すだけである。
「お待たせしました」
面子を崩して、テンパイを外す。回すことになるが、希望は捨ててはいない。これは、勝つための打ちまわしだと信じることができる。自分で考え、自分で決断した。この行動に後悔はない。
須賀京太郎はするべきことをしなかった。ならば、負けても仕方がない。それは麻雀打ちとしての不始末だ。その報いを受けるのもまた、勝負に参加したプレイヤーの義務であり、権利である。どんなものであれ、勝負の結果は素直に受け入れる。咏に技術よりも先に教え込まれた、麻雀打ちの心構えだ。
「ツモ」
静かに、透華が声をあげる。ツモったのは『五』。透華のトップで終了である。
自分の敗北を告げるその声を聞いて、京太郎は力を抜いて背もたれに身体を預けた。負けたが、やはり後悔はない。
「ありがとうございました」
居住まいを正し、頭を下げる。麻雀が楽しいと、これからも胸を張っていけそうな気がした。
その時の京太郎の横顔は、衣の心に深く刻み込まれた。
京太郎の顔には慢心が見えた。調子に乗って暴牌をする。それを確信していたからこそ、それを待つ作戦を取ったのだ。それは透華も純も同じだ。卓についていた全員が、京太郎がそうすると読んだのだ。
しかし、京太郎は直前でそれを回避した。手にしていたのはおそらく『五』だろう。それは透華の当たり牌であり、同時に衣の当たり牌でもあった。それを振って終了という流れを、京太郎は自分の読みを信じることで回避したのだ。
千載一遇のチャンスに乗り、一度はトップを取ったのに負けてしまった。
手を尽くしたが及ばず、透華に届かなかったというのに、それでも京太郎は満足そうに笑っていた。あれだけ麻雀に執着し、麻雀と一緒に生きている男だ。負けたことが悔しくないはずがない。それなのに、京太郎は今この時が楽しくて仕方がないといった風に笑っていた。
その顔を見て、衣は亡くなった母のことを思い出していた。
幼い時分に、聞いたことがある。
『母上は、父上の何処を好きになったのですか?』
子供らしい他愛のない衣の問いに、母は目を丸くした。普段から小難しいことを質問してばかりだったが、色恋のことを聞いたのはその日が初めてだったからだ。
母は聡明な人で衣の憧れだった。知らないことはないのではないかというほどに、いつも衣の疑問に答えてくれた。母の膝に乗って本を読んでもらうのが、衣は大好きだった。
だが聡明で理知的な母は、相応に恥じらいを持った人だった。子供に自分の色恋の話をすることは彼女の羞恥心を大いに刺激したようで、どんな疑問にもきちんと答えてくれる聡明さも、その時ばかりは鳴りを潜めていた。
恥ずかしいのだな、と悟って身を引く度量が衣にあれば、話はそこで終わっていただろう。今ならそうしたという確信があるが、その時の衣はまだ幼かった。歯切れの悪い母の態度に納得しない幼い衣はその時、どうしてもと詰め寄った。
自分の子が梃子でも動かないと悟ると、母は観念した。
『本に視線を落としている時。真剣な眼差しとか、静かに微笑んでいる時とか、本を読みきった時の満足気な表情が、堪らなく可愛かったからです』
その時衣は、父が母よりも年下であることを初めて知った。龍門渕の女は、年下の男を捕まえるのが上手いのだ、と母は少女のように可愛らしい笑顔で教えてくれた。
『母上は、父上を可愛いと思ったから祝言を挙げたのですか?』
『真剣に物事に打ち込んでいる殿方の顔は、女には輝いて見えるのですよ。衣も年頃になれば解ります』
長らくただの言葉だったものが、この時初めて腑に落ちた。なるほど、確かに真剣に物事に打ち込んでいる、京太郎の横顔は堪らなくかっこ良い。
胸の奥に熱を感じる。
母があの時、どういう気持ちで思いを口にしたのか、今初めて理解できた気がした。
「よく止めた」
「格好悪い麻雀をお見せして、申し訳ありません」
それは京太郎の本心だった。今まで積み重ねてきたものをきちんと理解し、いつものように打ちまわせていたら勝てていた勝負だった。勝てる勝負をふいにしたのは、一重に京太郎の慢心故である。最後に自分を取り戻したことで自分の麻雀を貫き通すことはできたが、負けは負けだ。智紀の言葉にも、京太郎は恥じ入るばかりだった。
そんな京太郎に、智紀は首を横に振る。
「勝ちに目が眩んで何も考えずに牌を切るのが凡人。当たるかもしれないと自分を納得させて、それから当たってまぁまぁ。勝ちたい、前に出たいという気持ちを呑み込んで、それでも勝つために手を回すことができるのは、強者の証拠。今の打ちまわしは、誇っても良いと思う」
「何だ、ファインプレーでもあったのか?」
純が卓上で身を乗り出し、京太郎の手牌を倒す。手出しツモ切りを覚えていれば、最後にどういう形だったのか推察することができる。京太郎の最後の牌姿を想像した純は、智紀とは異なり、眉根を寄せた。
「これなら『五』ぶっ通した方が良くねえか? 勝負所で通せねえと、先々手が冷えるぜ」
「それは純だからすること。私や京太郎はしない」
智紀の声音に込められた否定的な意味合いを、純は敏感に察知する。純と智紀の間で火花が散った。闘争の気配を感じ取った二者が、議論に加わる。
「これが当たりだって確信があるんでしょ? 僕なら降りるかな」
「衣なら攻めるぞ!」
加勢した二人で更に意見が割れた。衣とゆかいな仲間達の内訳は降りる2、攻める2で同数だ。最後の意見を求めて、京太郎を含めた全員は透華に視線を向けた。静かになりすぎた呼吸を態と荒くするという微妙に意味の解らないことをやっていた透華は、視線の気配を感じゆっくりと目を開いた。冷え冷えとした空気はもうない。東屋でチェスに一喜一憂していた、龍門渕透華がそこにいた。
「京太郎は『五』が当たりという確信がありましたのね?」
「間違いなく当たると思いました」
「なら降りるべきですわ。自分の読みと心中できなくて、何がデジタルですか」
別にデジタルと言った覚えないが、ともかく透華は降りる派だった。これでゆかいな仲間達内でも3対2。京太郎を含めると4対2でダブルスコアだ。自分が支持されたようで気分が良くなる京太郎だったが、少数派となった方は面白くない。特に衣はむ~っとかわいく頬を膨らませて拗ねていた。京太郎は単純にかわいいな、と思って見ていたが、ゆかいな仲間達はそうは思わなかったらしい。
「衣、子供ではないのですからそんな顔をするのはおよしなさい」
「子供ではないぞ、衣だぞ! それに衣はお姉さんだ!」
「そうなんですか?」
一番衣から離れていた純に小声で問う。衣たちは全員同じ学年と解釈していたのだが、間違っていたのか。京太郎の問いを受けた純は、苦笑を浮かべながら答える。
「あいつが一番生まれが早いってだけだよ。俺達皆、三年だ」
「それでお姉さんと言えるのも凄いですね……」
言っているのが見た目が一番幼い衣というのも、話の珍妙さに拍車をかけている。見る人間によっては実に微笑ましい光景だったが、当人達にとっては切実な問題であるらしい。
衣はへそを曲げ、透華と一は衣の機嫌を取ることに躍起になっている。
「俺、何とかできると思います」
「本当かよ。ああなった衣は面倒くせーぞ」
「大丈夫……だと思います。この中でこの方法が実行できるのも、俺だけみたいですからね」
確信を持って、衣に歩み寄る。京太郎が近づいてきたことに気付いた衣たちは、言い争いを中断した。透華が振り返ったのをチャンスと見た衣が、二人から距離を取る。この距離ならば、と衣に見えないように透華と一を手招きする。
「天江さんのこと、俺に任せてくれないでしょうか」
「何か妙案がありますの?」
「俺にしかできない必殺技があります」
「衣を殺されちゃっても困るんだけどね……その顔は、結構自信あり?」
「一応は。そんな訳で、どうでしょうか、龍門渕さん」
「……もはや矢尽き刃折れました。自信もあるようですし、ここは京太郎に任せてみるのも良いでしょう。殿方がそこまで言ったのですから、手並みに期待していますわよ?」
「お任せください」
自信たっぷりに宣言すると、透華たちから離れ衣に近寄る。女性としても小柄な衣と、男性として大柄な部類に入る京太郎。既に成長期が来た純よりは小さいが、それでも衣からすれば見上げるほどに大きい。まだ何も言っていないが、本能的に恐怖を感じたのだろう。二歩、三歩と後退る衣を怖がらせないように、京太郎は努めて、にこやかに微笑んだ。
「衣姉さん。お願いがあります」
ぴくり、と衣の身体が震えた。これが京太郎の必殺技である。『姉さん』の部分に一番気持ちを込めるのがポイントだ。この場で唯一の年下、身体の大きな男が自分を持ち上げているという事実に、喜びを感じないはずがない。加えて衣は自分が姉であるということに拘っているようだった。小さな身体がコンプレックスにもなっているのだろう。妹待遇が不満な訳ではないが、妹であり続けるのは我慢がならない。そういう難しい感情を持っているのだと推測する。
それらを一気に解決することができるのが、このお姉さん攻撃だ。自尊心をくすぐり、この場を丸く収め、さらに今後も仲良くすることができる。誰もが得をする最高の解決策だ。京太郎を恐る恐る見上げる衣は、にやけるのを堪えるのに必死な様だった。効果はバツグン、と確信する。自分の狙いが上手く行ったことを悟った京太郎は、大笑いしかけている純を衣から見えないように隠すと、言葉を続けた。
「俺は今日ここに来たばかりで、右も左もよく解りません。この上、姉さんたちにケンカをされてしまったら、心細くて仕方ありません。俺を助けると思ってどうか、お願いできませんか?」
「……衣がお姉さんということは、お前は弟だな?」
「そうなりますね。不出来な弟で恐縮ですが」
「……弟の頼みならば仕方ないな! 姉を立てるデキた弟を持って衣は幸せだ!」
にぱー、と幸せそのものと言った顔で、衣は微笑む。へそを曲げていたのも忘れた衣は、軽い足取りで透華に歩み寄る。弟ができたぞ! と嬉しそうに宣言する衣を、透華は複雑な表情で見守っていた。衣が機嫌を直してくれたことは嬉しいが、自分以外がそれを達成したことに思うところがあるのだろう。遅まきながら出過ぎた真似をしたかと少し後悔する京太郎だったが、嬉しそうに駆けてくる衣を見て、そんなことはどうでも良くなった。
(この人が喜んでくれたなら良いか……)
「きょうたろー。きょうたろー!」
「何ですか? 衣姉さん」
「もっと気楽で良いぞ! 純やとーかがするように、衣に接するのだ」
「ありがとう、衣姉さん」
姉さんという単語を噛み締めるように、衣はにゅふー、と笑う。子供そのものの笑顔は、見ている人間を幸せにする。複雑な表情をしていた透華も、いつの間にか笑っていた。衣が良いなら、それで良い。それはこの場に集まった人間全員の、共通の思いである。
「中々やりますわね、京太郎」
「出すぎたことをして申し訳ありません」
「むしろ感謝したいくらいですわ。それに、衣が認めたのなら、貴方は私達の身内も同然。何でしたら、これからは私達全員を姉と思ってくださって結構ですのよ!」
「ずるいぞとーか! きょうたろーは衣の弟だ!」
エキサイトする透華に、衣が反論する。先ほどは宥める透華という構図だったが、ここは透華も譲れない。衣という妹はいるが、透華も一人っ娘だ。弟や妹が欲しいと考えたことは、一度や二度ではない。それが姉を立てるデキた弟であるならば、尚更だった。
より素晴らしい姉とはどういうものか、という当初とは全くズレた討論を開始する二人を他所に、京太郎はそっと溜息をついた。サイドテーブルには暖かいお茶が用意されている。いつのまに、と周囲を見ると、一がウィンクをして小さく一礼した。
「いきなりモテモテだね、京太郎。あぁ、京太郎って呼び捨てにしても大丈夫? やなら何かあだ名でも考えるけど」
「あだ名はちょっと。普通に京太郎って呼んでOKですよ」
「了解。じゃあ、僕のことも一で良いよ。よろしくね?」
「はい。よろしくお願いします。一さん」
お茶に口をつけながら、卓に視線を落とす。点棒を示す数字が、勝負が僅差であったことを示していた。僅差であっても負けは負け。不始末はあったが、後悔はない。悔しいが、それも明日の糧になると思えば、悪くはなかった。今よりもっと強くなれると思うからこそ、麻雀を続けられるのである。
「なぁ、京太郎。まさか一半荘で終わりってことはないよな?」
「父親の仕事でついてきたもので、どれくらい時間があるのか良く解りませんが、連絡が来ないということはまだ大丈夫なのでしょう」
これだけの打ち手の打つ機会など中々あるものではない。もう一戦、というのはむしろ京太郎の方から言うべき言葉だった。ギャラリーをしていた一も智紀も入る気満々である。問題は誰が抜けるかだ。衣と透華の言い合いはまだ続いている。その二人を見た智紀と一の間で、誰が抜けるべきかという答えは瞬時に出た。
「それじゃあ、私と一が入る」
「場所変えからだね」
一が表のまま東西南北の牌を集める。四枚の牌を全員の目に留まるように示すと、その上で手を一振り。牌に触れた様子はない。
だが、その一瞬の後には、牌は全て裏返しになっていた。間近で見ていた京太郎にも、どうやったのかは理解できない。魔法でも見たような気持ちで一を見ると、彼女は小さな胸を逸らして、得意そうに笑っていた。
「いいね。京太郎は最高の観客になれるよ」
「……今のどうやったんです? 手品ですか?」
「こんなの手品の内に入らないよ」
「これくらいで驚いてたら、一と一緒に麻雀はできない」
「もちろんイカサマなんてケチな真似はしないぜ? そういうことはしなくても相手を惑わす方法はあるって、国広君と一緒にいると勉強になるからな」
「持ち上げないでよ、二人とも……僕はただの見習いだよ? 京太郎が本職みたいなのを期待したらどうするのさ」
「でも、私は嘘は言ってない。それに京太郎はもう、期待してる。このキラキラした瞳を裏切ることが、一にはできる?」
一はそっと京太郎を見た。つぶらな一の視線を、京太郎は黙って受け止めていたが、一は僅かに頬を染めると、小さく溜息をついた。
「……解った。期待を良い意味で裏切るのが、マジシャンってものだしね。僕もその端くれだ。京太郎の期待には精一杯応えさせてもらうよ」
「催促したみたいで、すいません」
「そういうことは、そのキラキラした瞳を引っ込めてから言うんだね」
軽い嫌味であるが、満更でもないのは顔を見れば解る。一も大概、顔に出やすい体質のようだ。内心が解っているから、智紀も純も嬉しそうな顔をしている。ここに集まった面々は、皆、お互いのことが好きなのだろう。サイコロがころころ回る音に、透華も衣も自分達が置いていかれたことを知る。
「お待ちなさい! 私達を無視するとはどういう了見ですの!?」
「そうだそうだ! 衣も混ぜろ!」
「でももう半荘は始まっちまった。この回くらいは、ギャラリーでもしててくれよ」
「うぬぬ……」
小さな肩をいからせて衣は唸っていたが、京太郎の方を見ると『閃いた!』と顔を綻ばせた。
「では、衣はここで見るぞ!」
ぴょん、と衣が飛び乗ったのは、京太郎の膝の上だった。何となく予想していたのだろう、卓に着いていた面々はご満悦の衣を見ても何も文句は言わなかった。衣が膝の上についたことで、透華は一人である。誰の後ろに立つのか散々悩んだ挙句、透華は京太郎の後ろを選んだ。
「そこで良いんですか?」
「一たちの麻雀は、見る機会がありましたもの。初見の京太郎の麻雀を見て勉強するのが、賢いやり方というものですわ!」
「俺の麻雀を見ても、参考にならないと思いますよ?」
「何を見るかではなく、見た人間が何を感じたのかで、何を得られるのかが決まるのです。京太郎は私が、何も感じられないような平凡な人間に見えますの?」
「まさか。透華さんに失望されないよう、真剣にやります」
「その意気ですわ!」
透華と衣の声援を受けて、東一局が始まる。牌をツモって、切る。その作業を六順も繰り返した時、膝の上の衣が恐る恐る聞いてくる。ひょこひょこ揺れる赤いウサ耳が、妙にくすぐったい。
「きょうたろー、お前はいつもこんな風に麻雀を打っているのか?」
「ああ。さっきが特殊だっただけで、いつもこんなもんだよ」
「……お前は凄いのだな」
「姉さんの方が凄いだろ。俺はまだまだ、麻雀弱いからな」
「自分の弱さを認めることができるのは、強くなる最初の一歩だ。それに今は衣がついているのだから、安心して麻雀を打つと良いぞ」
「そうだな。姉さんがいると、何だか勝てそうな気がする」
「その意気だ!」
気炎を上げる衣の頭を撫でながら、京太郎は彼我の距離を感じ取っていた。相対弱運は正常に発動している。底なし沼に沈んでいくような慣れ親しんだ感覚が、戻っていた。一も智紀も、一流の運を持っている。いつものように、京太郎は自分の運をマイナスにしてまで、運を放出していた。
いつもの、勝ち目の薄い麻雀である。勝てるかも、と本気で信じることができた先ほどの麻雀が遠い過去の物のように思えた。
それでも、希望は捨てない。勝ちに近づいたことで、得るものはあった。最後の最後で自分を見失わないことができた。指針を得たばかりで、自分に恥ずかしい麻雀は打てない。何があっても腐らず、希望を捨てず、前に進むために麻雀を打つ。いつもとすることは変わらない。
それに何より、ギャラリーの特等席には、できたばかりの姉が座っている。少し小さいが、美少女には違いない。男としてかっこいいところを見せたいと思うのは当然のことだった。相手は強敵だが、やれないことはない。自分にできることを、全力でやる。
それが須賀京太郎の麻雀だ。
その日、龍門渕の屋敷から戻って。何となく咏の声が聞きたくなった京太郎は、電話をかけた。
「咏さんですか? 京太郎です。今大丈夫ですか?」
『べつにかまわねーよ。どうした京太郎』
「今日、麻雀をしたんですよ。父親についてお金持ちの屋敷にいったんですけどね?」
『長野で金持ちっていうと、あれか、龍門渕だな。あそこの娘とその親戚はすげーオカルトだって聞くぜ、知らんけど』
「まさにその二人と麻雀をしました。残りの一人は女の人なのに凄いイケメンでしたが」
『なんだそりゃ。むしろそっちの方に興味が沸いたね。後で写真でも送ってくれよ、そのイケメン』
「咏さんの頼みとあれば。それで、麻雀なんですが……」
『負けたんだろ?』
「やっぱり解ります?」
『勝ったなら、もっと嬉しそうにするだろ、流石にお前でもさ。そのオカルト二人が話に聞く腕前だとすりゃあ、まだお前にゃ荷が重い相手だしな』
「惜しいところまで行ったんですよ。オカルトの相性が良くて、相対弱運が消えたんです。オーラスまでは、俺がトップでした」
『……油断したな?』
「その通りです。申し訳ありませんでした」
『ま、あれが消えたんなら舞い上がっても仕方がない。まだわけーんだし、気にすんな』
「お気遣いありがとうございます。今日の負けは、良い経験になりました」
『お前も全く、麻雀バカだねぃ』
「どうも、死なないと治らないようです」
『だろうねぃ』
くつくつと、咏が電話の向こうで笑う。扇子を閉じたり開いたりする音が、近くに聞こえる。機嫌が良い時の、咏の癖だ。
『なぁ、京太郎。麻雀、楽しかったか?』
「ええとっても。今日の麻雀は、生まれてからこれまでで、一ニを争うくらいに、楽しかったです」
『そうかそうか。負けて得るものがあって、さらに楽しいとなりゃあ、今日麻雀を打ったことにも意味はあったな。良かったじゃないか。お前は今日また、強くなったぜ?』
「これも咏さんの日頃の指導のおかげです」
『今更褒めたって何も出ないぜ? まぁ、どうしてもって言うんなら今度神奈川の家にでも来な。お婆様も、お前に会いたがってるからさ』
「はい。時期を見てうかがわせていただきます」
『ん。じゃあ、そろそろ行くぜ。これからプロ連中と雀荘で打つんだ』
「すいません。つき合わせてしまって。誰と打つかは知りませんが、勝ってくださいね」
『はっはっは。誰に物言ってんのかわっかんねー。今日の私は機嫌が良いからな。アラフォー三人になんて負けねーよ』
じゃあ切るぜー、と咏が電話を切る。携帯電話を見ながら、京太郎は考えた。
咏が対戦するくらいなのだから、相手はプロなのだろうと推察できる。女子の中でもトップ集団に属する咏に勝てる人間は少ないが、負けない、という表現をする以上、相手は咏と同等かそれ以上の実力、加えて年上であることが推察できる。男子で年上となると、相手はもう大沼プロや南浦プロくらいしか候補がいない。彼らはもう60過ぎた渋みのある男性である。アラフォーという表現は如何にもキツい。
故に相手は女子であると予想するが『咏より同等以上』更に『年上』という条件に合致するプロで、咏を卓を囲めるほどの格となると、京太郎の脳裏に浮かぶのはちょうど三人しかいなかった。
「まさかはやりんと一緒にいたのか……」
だったら教えてくれれば良いのに、と京太郎は心中で愚痴るが、咏がそれを言うはずもないということも解っていた。昔から咏ははやりんに対する態度が厳しいのだ。
弟子として咏の応援をせずにはいられないが、相手が本当にあの三人であれば如何に咏でも簡単に勝つことは難しいだろう。
相手はかつて世界ランキング二位まで上り詰めた、京太郎が心の底から尊敬する咏をして『人間じゃない』と言わしめた怪物である。
怒りの電話がかかってこないことを祈りながら、京太郎は床に就いた。今日は良い麻雀をすることができた。きっと良い夢が見られるだろう。
この後咏さんは美味しくやられてしまいました☆
二年前だから今ほどアラフォってた訳ではないと思いますが、電話はしっかりと聞かれていたのでしょうがないですね。
次回衣ハウスお泊り編となります。ご期待ください。