希望でも、絶望でもない。ただまどかを救う。それだけの為に

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暁美ほむらは眠らない

 いつも、まどかに殺される夢を見る。だから私は眠れない。

 

 ベッドに寝そべりながらも、決して目は瞑らない。うっかり眠ってしまえば、あの夢を見てしまうから。

 

 それを見始めたのは、私が悪魔となった後の事だ。明確に、いつから、だったかは覚えていない。最初の日だった気もするし、つい昨日だった気もする。

 確かなのは、私はその夢を何度も見ている事と、ここ数週間は眠っていないという事だ。

 

 眠らなければ見ないのだ。なら、わざわざ寝なくても問題は無い。人間であれば体に不調を起こすけど、私はもうそういう物ではない。

 見ていて嬉しい物でもない。だったら、ずっと起きたまま、魔獣でも狩っていた方がいい。

 それでもベッドに入ってしまうのは、人としての、暁美ほむらの名残なのだろうか。

 

 少し頭を上げ、閉じた窓を見つめる。外の様子は薄緑のカーテンで隠されているが、その裏側には私の使い魔が見え隠れしていて、どいつもこいつも時折カーテンから顔を出しては、私に向かってトマトを投げつけてきていた。

 だが、それら全てが私に届く前に勢いを失い、ベッドの上を濁った赤色に染める。跳ねた赤が私の服に届き、ひどく汚す。

 指先をカーテンにかざすと、それは不気味な紫色に変わり、使い魔達は一目散に逃げていった。

 

 やっと静かになった。

 ぱん、と手を叩けば、ベッドの汚れも服の赤い染みも消えて無くなる。消えないのは、私が見た夢の光景だけだ。

 

 夢の中の状況は毎回違った。

 悪魔ではない私もあれば、神であるまどかも居た。まどかと私の関係も、周囲の人々だって、全く違う。ある時は未来予知の魔法少女が傍にいて、またある時のまどかは魔女の様な力を振るい、またある時は、悪魔と神の戦いだった。

 でも、最後は決まっている。まどかは泣きながら私を弓で撃ち抜き、倒れ伏した私は、あの子に向かって笑いかけるのだ。

 

 これが、まどかに対して抱いた私の願望なのか、避けるべき絶望なのか、それは分からない。

 ただ、夢の中で、まどかは私の亡骸を前にして、いつも泣いてくれた。私を殺す事を、嫌だと言って抵抗してくれた。どうしようもない所まで来て、震えながら私を手に掛けた。

 そして、私はまどかに「生きてね」と、そう呟いて、消えるのだ。

 

 手の中のダークオーブを握る。

 あれは予知夢か、幻か。どれにしたってろくな物ではない。そもそも、私とまどかが戦わざるを得なくなる状況は、まどかの記憶が戻る事を意味する。

 苦しそうなまどかの声は、いつだって胸が張り裂けそうな程に辛かった。

 ごめんねって謝って、抱きしめて、笑いかけて、安心させてあげたかった。

 まどかが昔、私にしてくれたみたいに、私もまどかが辛い時に優しく接する事ができればいいのに、そう思う事もあった。

 

 でもそれは、出来ない。

 

 私は、戦わなければならない。まどかを否定してでも、まどかの未来と人生は守らなければならないから。

 だからこそ、まどかを傷つける訳にはいかない。例え、私がまどかの敵になったとしても。

 

 その為であれば、私は何もかもを失う事を覚悟できた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぼんやりと学校の正門をくぐり、一人で真っ直ぐ校舎へ進む。

 周囲には沢山の同級生が歩いていて、その多くが、友達と一緒に登校していた。

 みんな楽しそうで、魔法少女などとは無縁の人生を送っているのだろうなと、そう思えた。

 一人で歩きながら、周囲の空気と自分の存在の落差に失笑する。それでも学校に通ってしまうのは、ある意味では癖に近かった。

 

 家の中でいるより、魔獣を倒しているより、学校に通っていた方が落ち着く。これは私が悪魔になってから気づいた事だ。

 一人で居る時は、未来の不安が付きまとう。でも、友達に囲まれたまどかが隣を通り過ぎていくだけで、「私は悪魔で、これを貫き通さなければならない」と改めて決意できる。

 学校に行けばまどかが居る。これ以上ない程、自分のした事の重さを叩き付けられるのだ。あの子が笑っている姿がどれほど尊く貴重なのかを知れば知る程に、背中に大きな物が乗る錯覚があった。

 

 学校へ行っていないと落ち着かないのもある。 いつも当たり前の様にしていた事をやめるとどこか落ち着かなくて、今更学校に通わなくたって構わない筈なのに、気づいた時には制服を着込んで鞄を持ち、使い魔を世界に解き放った後で靴を履いて、誰も居ない部屋の中へ「行ってきます」と言って通学してしまう。

 

「……」

 

 通りがかる同級生を目で追いながら、一人で教室のドアを開ける。クラスメイトの視線が私へ向かい、何人かと軽い挨拶の言葉を交わす。

 まどかはまだ到着していない。友達と話ながら歩いていれば、自然と足も遅くなるもの。きっと時間には間に合う。

 美樹さやかと佐倉杏子もまだ来ていない。きっと、まどかも一緒にいるのだろう。

 

 それでも、まどかの席を見てしまう。そこにまどかが居ないだけで、首に手を掛けられる様な気持ち悪さが体を走った。

 ただ、いつもより到着が遅いだけ。分かっている。しかし、頭の片隅に残る不安は確かに存在していた。まどかが居ない時間は、あまりにも長すぎた。

 まどかが視界に居ないだけで、こんな調子になってしまう。席につき、一息つく。そうすれば、少しは落ち着く事ができるから。

 

 まどかが戻ってきてから、ずっとこう。大丈夫だと分かっているのに不安で、問題はないと理解している筈なのに、恐ろしさは止まらない。そして期待も止まらない。今日もあの子の笑顔を見られる。

 そこにまどかの席がある。まどかの座る場所がある。名簿にもまどかの名前がある。どれもこれも、素敵な事だ。

 

 騒がしい教室の中で、私に話しかけてくる人もいる。

 軽く相槌を返し、作り笑いで誤魔化した。ただそれだけの物として、彼ら、彼女らが通り過ぎていった。

 その背を軽く見つめ、思わず小さな息を吐く。

 きっと、冷たい人間に見られているだろう。

 友好的な言葉にも応えられない。こんな私は、あまり誠実な人間じゃない。むしろ、人間ではない。

 

 ふと、昔の事を思い出した。

 まどかに冷たいと言われるのは、辛かった。

 

「ほむらちゃん?」

 

 思い出したと同時に、聞き慣れた、でも淡く尊い声が聞こえた。

 顔をしっかり上げ、はっきりとまどかの顔を見る。登校してきたばかりで、多少は急いできたのか額にはほんのりと汗が浮かんでいた。

 

「まどか、ハンカチをどうぞ」

「あ、いいの? ありがとう」

 

 そっと額の汗を拭い終え、私に返そうとしたタイミングで、まどかは手を止めた。

 不思議そうにハンカチを見つめ、丁寧に折り畳む。

 

「ごめんね、後で洗って返すから」

「いいえ。いらないから、貴女にあげるわ」

「えっ……う、うん。ありがとう……」

 

 まどかがこちらをまじまじと見つめてくる。一体どうしたんだろう。

 首を傾げていると、まどかはちょっと不本意そうにハンカチをポケットに入れた。私のお古なんて、迷惑だったのかもしれない。

 

「えっと……お、おはようほむらちゃん。なんだか調子悪そうだけど……大丈夫?」

 

 こちらの顔色を伺い、まどかがおそるおそる問いかけてきた。

 ひどい夢を見た程度なのに、顔に出てしまっていた様だ。お陰でまどかに読み取られて、無駄な心配をさせてしまった。

 多少顔色が悪い事は認めざるを得ない。眠らない事はできるし、そこで蓄積される疲労は魔力で補強しているけど、誤魔化していても顔に出てしまう。メイクしたい所だけれど、上手なやり方を知らないし、第一、校内ではメイク禁止だ。

 

「少し寝不足なだけよ」

「で、でも。なんだか声も元気ないし……」

「大丈夫」

 

 言い切っても、まどかはどこか潤んだ瞳で私を見つめる。ただただ悲しそうに心配してくれる目。ただ、今はその目で見られるのが辛い。夢の中で私を手に掛けるその瞬間も、この子は同じ目をしていた。

 まどかは、いつもと違って積極的に私へ手を伸ばした。

 

「辛いなら保健室に行く? 和子先生には後でわたしが言うよ?」

「いいえ、問題はないから」

「でも……」

「必要ないわ」

 

 とっさに冷たい声を出してしまった。

 まどかは眉を落とし、「そっか」と呟いている。心なしか悲しそうな声音で、私から目を逸らしたまま、その場から一歩も動かない。

 嫌な言い回しばかりしてしまう。己の醜い口が憎い。

 避けようとして傷つけてしまった。酷い事を言って、まどかを苦しめてしまったんだ。

 「ごめんなさい」と、とっさにそう口にしかけて、やめた。

 

「大丈夫だから、あまり気にしないで」

「……本当に?」

「本当よ?」

「でも、ほむらちゃんって結構、頑張る所あるから……」

「そんな事は無いわ。貴女は人の心配をしすぎる」

 

 ああ、いつも通りにとても優しい。人の事をとても気にしてくれて、こんな私の事も視界に入れてくれる。それはこの子のいい所であり、この子の人生に暗黒をもたらす悪癖でもあった。

 だから、少しだけ注意した。あまり良い気持ちはしなかっただろう。余計なお世話だとも思われたかもしれない。やっぱり少し胸が痛む。

 それなのに、まどかはそのまま顔を近づけてきた。だんだんと、彼女の気配が迫ってくる。

 

「ま、まどか?」

 

 どういうつもりか、と問いかけて引きはがすべきだ。そう思っているのに、意味のある言葉が何一つ出せない。胸の奥の気持ちはどんどんと温かくなって、愛おしさが満ちてきた。

 思わず一歩引いてしまうと、肩が壁に当たった。

 

「あの、ほむらちゃん」

「え、ええ」

 

 いつの間にか、教室の端まで追い込まれていたらしい。小さく音が立ち、こちらを見ていた人形達がその場で踊り出した。

 こんなにまどかと接近するのも久しぶりだった。彼女の鼓動と熱が伝わってくる様だった。

 

「一つ、聞いても……いい?」

「え?」

 

 まどかの顔色が突然に曇った。私の目を捉えるその姿は不安になるくらい真剣で、思わず手が震えてしまう。

 まさか、何か気づかれたのか。

 いけない。思わずまどかの肩を掴み、こちらへと引っ張ってしまう。

 

「あっ」

「……」

 

 瞳の色と溢れる素敵な気配を確認して、少し安心できた。この子は確かにまどかだ。他の何かでは決してない。

 改めて、この子を少しだけ引き離す。彼女の体温が感じられなくなった。

 

「聞きたい事って何かしら」

「それは」

 

 この子は私へ何かを問いかけようとしている。

 不審な気配がない以上、円環の理ではない。では、どんな事を聞きたいんだろう。出来る限りの範囲でなら、応えてあげたい。それをこの子が求めているのであれば。

 

「ごめんね。また今度にする」

 

 しかし、まどかは思い直した様に身を引いた。

 私を安心させてくれる微笑みをたたえたまま、手を握ってくれる。そのまま私の手の甲を撫で回し、爪の形を確認しながらなぞっている。 くすぐったい感触だった。でも、まどかは病院の診察みたいに私の手を確認し、最後に両手で包み込んでくれる。

 

「それより、辛かったらいつでも言ってね? 倒れちゃったりしたら大変だよ?」

「……そうさせて貰うわね」

 

 夢の中で死ぬ間際、まどかが両手を握ってくれた事もあった。そんな事を思い出した。

 思わず抱きしめてしまいそうだった。が、視界の奥で、美樹さやかがこちらを見ている。

 

「お友達が呼んでるわ」

「え、あっ……うん。また後でね」

 

 まどかは美樹さやかの元へ戻っていった。

 こちらをチラと見ながら何かを話す姿を見る限り、美樹さやかは私の話をしている様子だ。

 きっと、私は危険視されている。彼女に残った記憶と、私への印象を想像すれば、まどかに危害を加える存在に見えても仕方が無い。

 まだ私に優しくしてくれる。そんなまどかの方が、いっそ怖いくらいだった。

 

「……」

 

 会話を盗み聞きする気は無い。改めて自分の席へ腰掛け、外の風景を眺めた。

 いつもと変わらない校舎。木々の上にカラスが並ぶ。

 こんなに長くまどかと会話を交わしたのは、どれくらい久しぶりだっただろう。

 

「おい」

「っ」

 

 佐倉杏子が自然とこちらに立ち、肩を強く掴んできた。

 

「あんたさ、どうしたの?」

「さあね。ひょっとしたら、死にかけているのかもしれないわ」

「……冗談にしちゃ声がマジだな、まったく」

 

 彼女から見ても、私の様子はおかしく見えたのだろう。もう少し顔色を良くしようと決心する。

 佐倉杏子はまだ話を聞きたがっていたが、私は何も説明しない。話したって笑われるのは目に見えている。何せ、悪い夢を見ているだけなんだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 何の気もなく弓を射れば、それは確実に一つの光芒となって天から降り注ぎ、広がっていた魔獣の頭上で爆発した。

 魔獣はただ拡散する私の魔力に取り込まれ、ただ何もできずに崩壊し朽ちて滅び去った。

 一瞬の事だ。

 その瘴気も悲しみも、人の世から耐えず湧き出す救いようのない物だったけど、消し去る事だけは簡単だった。昔は大変だったけれど、今はもう、こんな事で苦戦はしない。

 

 変身する必要さえなかった。制服姿のままダークオーブから弓を取り出して、魔力を乗せた矢を放つ。それだけで良かったんだ。

 

 弓を下ろすと、多少の疲労感が身を包んだ。

 戦いとも言えない事ではあるけれど、やっぱり、一睡もしていないままでは疲れ方がまるで違う。

 

 佐倉杏子や巴マミが周囲を見回している。

 目の前に広がっていた魔獣がどこからか飛んできた矢で滅ぼされたのだ。当然、誰がやったのかを確認するだろうし、警戒するだろう。

 しかし、彼女達に見つけられる筈が無い。私は彼女達が知覚できるよりずっと離れた建物の上に立っているのだから。

 

「……」

 

 魔力で視力を上げてみると、彼女達の顔がよく見える。

 二人は入念に介入者の位置を調べていた。

 しかし、分かるはずも無い。今の私なら気づかれる事は無い、はっきりと断言できた。この距離からでも記憶の操作は可能で、彼女達が私の姿を記憶しない様に力を行使している。

 

 昔に比べて、あらゆる能力が飛躍的に上がっていた。今の段階でも、現世の存在とは到底思えない。

 いや、実際の所、私と暁美ほむらの肉体は既に離れている。

 私はもう意識を保つ為に人の体を使う必要もないし、食事も睡眠も不要になった。だから眠らなくても身体に異常は起きない。

 手のひらを見つめてみれば、分かる。他の人達には分からないだろうけれど、私の目には、理解できる。

 

「……」

 

 己の手のひらから目を逸らす。自分の身体の事はいい。大切なのはそこじゃないから。

 彼女達は私の存在にまるで気づかず、警戒を続けながらもその場をゆっくりと立ち去っていった。

 遠目で見た限りでは、二人は良好な関係に感じられた。背中を預けて戦っていたし、信頼もあるのだろう。周囲への警戒を残しつつも、楽しげに笑い合っていた。

 

「……」

 

 急に涙が流れて、軽く指先で拭う。

 涙の色は赤だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 魔獣を倒したその道で、まどかに出会った。

 それだけの事だけど、たったそれだけの事が、私の魂を深く揺らせる。

 

「ほむらちゃん?」

 

 こちらに気づいたまどかが小首を傾げ、すぐに駆け寄ってくる。

 どこか憂いを秘めた瞳は私を容赦なく貫き、心の中にたやすく入り込んできた。

 

「まどか」

 

 名前を呼ぶと、彼女は遠慮がちに私と対面した。

 見慣れた制服姿のままだ。下校時間はとっくに過ぎている筈なのに、こんな時間までどうしたのだろう。

 

「……学校の外で会うのって、ひょっとして初めてだったっけ?」

「かも、しれないわね」

 

 私は初めてじゃない。けど、まどかにとってはそうじゃない。こういう経験も、もう何度目だったか分からない。

 まどかはいつもの様に健康そうだ。けど、やっぱり少し元気が無い

 何か悩みでもあるのだろうか。彼女は明るく微笑んでいるけれど、無理をしている様に見えるのは気のせいだろうか。

 

「ここ、ほむらちゃんの家から近いの?」

「いいえ。ただ立ち寄っただけよ」

「そうなんだ……」

 

 まどかは口を閉じ、私の目を何度か見つめた。

 何か言おうとしている。言葉を探している。昔ならもっと、どんどん話が出来て、まどかと私は並んで歩き始めていただろう。

 改めて、今の私とまどかの距離を自覚させられた。

 

 まどかからすれば私は遠い世界の住人でしかない。

 

 こんな私なんかとまどかでは、見えている物がまるで違う。自分とは縁の遠い人間だと思うだろうし、避けられて当然の態度を取っている。

 だというのに、まどかは会えば挨拶をしてくれて、優しい言葉もかけてくれる。その事実だけでもこの子が歩み寄ろうとしてくれる努力が伝わる。

 こうして学校の外で偶然通り過ぎた時も、声をかけてくれている。あまりにも私に対する警戒心がなさ過ぎて、嬉しいよりも恐怖が勝った。

 

「まどか」

「うん?」

「こんな時間まで、どうしたの?」

 

 少し考え、まどかはゆっくりと答えた。

 今はもう、私としっかり目を合わせている。その瞳の光に耐えられず、私の方が顔を逸らしてしまった。

 

「えっと、ね。さやかちゃんの家に遊びに行ってたんだ」

「そう」

「わたしは帰る途中なんだけど……ほむらちゃんは?」

「私は……」答えられる筈が無かった。「特に、何でも無いわ。貴女には特に関係のない事よ」

「そ、っか」

 

 まどかが寂しそうに眉を落とした。

 そっけない態度なんか取りたくない。この話題は早く終わらせたかった。

 

「……もう暗くなりかけているわ。誰かと遊ぶなら、もっと明るい時間までにしておきなさい」

「え? でも、門限はまだ大丈夫だし……」

「貴女は無警戒すぎる。もっと気をつけなさい。貴女に悪意を持って近づく存在が居たらどうなると思っているの」

 

 話題を逸らす為に口にした事なのに、話している内に、言葉に力が入った。

 私はまどかに好かれる様な事を何一つしていない。それでも私に近づく彼女を、少し腹立たしく思った。どうしてそんなに無警戒に近づいてくるんだろう。どうしてそこまで人を疑わないんだろう。

 

「でも、ならほむらちゃんだって危ないよ」

「……私は問題ないわ」

 

 横暴な言葉だ。

 まどかも理不尽だと思っただろう。それなのに、ちょっと目を伏せるだけで、私に対して怒りを示さない。

 

「貴女に何かあったら、傷つく人が沢山いるのよ。自分の事を愛してくれる人達の事を、少しは考えたらどうなのかしら」

「……」

 

 まどかの手を掴み、痛みを与えない程度に加減しながら引っ張った。 少し驚き、まどかが声をあげる。

 

「ひゃっ」

「例えば、私みたいな人間は危険よ」

 

 コンクリートの壁際にまどかを寄せて、背中が痛くない様に彼女の背へとさりげなく手を回した。

 

「気を許してはいけないし、信じるなんて問題外だわ。さもないと」

 

 その頬を軽く撫でながら、極力恐ろしく見える表情を作る。まどかを捕食する邪悪な生物であると言わんばかりに口を張り裂けそうな程つり上げ、目は大きく見開いた。

 

「貴女の心を、踏みにじるかもしれない」

 

 言い終えたと同時に手を放し、まどかを自由にした。必要以上に怖い思いをさせる気は無かった。

 

「大丈夫だよ?」

「えっ」

 

 私が離れようとしたと同時にまどかは私の腕を掴み、ぐいと引っ張った。

 私とまどかの位置が入れ替わり、今度は私が壁に寄せられる。その拍子に背中が壁にぶつかって、少し鈍めの音がした。

 

「っ」

「ご、ごめん」

「軽く当たっただけよ。それで、何が大丈夫なのかしら」

「だって、ほむらちゃんは私の事を心配してくれてるんだよね?」

「いいえ。そうじゃなくて」

「そんな事あると思うの。ほむらちゃんが危ない人な訳がないよ」

「愚かな勘違いね」

 

 そんな私の返答を、まどかはどんな風に受け取ったのだろうか。何やら考え込み、数度私の顔とどこか別な場所を見比べた。

 時間はゆっくりと流れている。まどかが続く言葉を口にするのも、時の彼方ほど後に思えた。

 

「あの」一度迷い、まどかは言葉を紡ぐ。「ほむらちゃん、今日はこれから空いてる?」

 

 それは急な申し出で、明らかに、何かのお誘いだった。

 

「え、ええ。空いているわ」

 

 思わず本当の事を言ってしまった。まどかの為を思うなら、私と必要以上に関わらせるべきではないのに。

 でも、そんな私の言葉にパアっと明るい顔で答えてくれて、泣きたいくらいに眩しかった。

 

「じゃあ、良かったら、わたしの家に遊びに来てくれないかな」

「えっ?」声が漏れてしまう。「……急なお誘いね」

「あ、急すぎたかな。ごめんね、でも、前からずっとほむらちゃんを家に呼ぼうって思ってたの」

 

 あのね、と彼女は続けた。

 わざとではないだろうけど、私が拒む暇を与えなかった。

 

「でもまだ家がちゃんと片付け終わって無かったから、ちょっと恥ずかしくて。でも昨日ね、やっと荷物を全部開けたんだ。だからほむらちゃんを家に誘っても大丈夫かなって思ってたんだ」

 

 まどかはこちらに顔を近づけてきた。両手を合わせて願う風な仕草を取って、眩しすぎるくらい優しい輝きを纏って、怖じ気付かずに私へと近づいたのだ。

 

「ほむらちゃんさえ良かったら、一緒に話そうよ。都合が悪いならしょうがないけど……」

 

 警告した筈なのに。

 まどかの期待に染まった瞳を見てしまうと、こんな程度の事で断って、彼女を落胆させる気は起きなかった。

 

「……構わないわ」

「じゃ、決まりだね!」

 

 私が答えた途端に楽しげに頷き、彼女は手を握ってきた。

 その気になれば振り払う事はできた。でも、身体は自然とまどかに引っ張られて、彼女の家へと向かって歩き出す。

 自分の感情を抑えつけ、歩幅をまどかに合わせて併走する。

 横目でまどかを見つめると、彼女は素晴らしい表情を浮かべていた。

 嬉しそうに、楽しそうに、幸せそうに。

 

 誰に対しても幸せそうに振る舞って。私なんかにも笑顔で接してくれる。

 まどかの顔が明るくなると、それだけで私の気持ちも持ち上がっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 瓦礫の間をただ一人、荒い息を漏らしながら進んだ。

 

 ふらふらと、力の入らない身体を強引に動かし、一歩ずつ歩む。そこには何一つの支えもなく、魔力ももはや尽きていた。

 私の側にはまどかはいない。そしてもう二度と、会う事もないだろう。

 

 私は勝利した。まどかとの、円環の理との、あえて言うならそれ以外の全てにも。

 まどかは私の様な人間や、魔法少女なんていう物と関わる事は無い。あの子はあの子のまま、沢山の人に愛情と慈悲を振りまき、同じくらい沢山の人に名前を呼ばれ、愛される。

 

 その為に私の命と幾つかの他愛なくも途方も無いものを犠牲にしてしまったけど、まどかの人生の対価なら惜しくは無かった。

 むしろ、私一人の命と人生でまどかの未来が得られるのなら、安すぎて不安になるほどだった。

 

 私の魂が尽きかけている。

 転がり落ちて、そのままコンクリートに背を打ち付けた。

 軽い衝撃。痛みは無い。でも魔力で抑えた訳でもない。体の感覚がほとんど失せている。

 

 砕けた建物の数々、基礎がむき出しになった瓦礫の破片に、降り注ぐ雨と、私の髪を濡らす水たまり。

 

 ああ、懐かしい。ずっと前の事を思い出す。まだ何も踏み出せていなかった。まどかと一緒に死のうとした時を。

 あの時はまどかが隣に居た。諦めかけた私を助け、あの子は私を頼ってくれた。「助けて」って私にお願いしてくれた。だから私は立ち上がれたし、どれほど先が見えない迷路の中にあっても、あの子の存在が輝いている限り、私は走り続ける事ができた。

 どんなに関係性が変わったとしても、私にとって、まどかはまどかだったから。だからいつだって、私は私でいられたんだ。

 

 小さく、顔だけを傾ける。

 そこには誰も居なかった。ただ、廃墟と雨と水たまりだけがあった。 また私を助けてくれるんじゃ無いかって、まどかがそこに居る事を期待している自分が居たんだろう。

 ひどく愚かで、狂っていた。

 

「私も、もう、おしまいね」

 

 改めて、思う。

 私はあの日、既に終わっていたんだ。それをまどかが引き上げてくれて、既に無いも同然だった私を支えてくれていたんだ。

 あの日からずっと引き延ばされていた終わりが今、目の前に広がっているんだ。

 

「……まどか」

 

 私はあの子に何をしてあげられただろう。

 まどかに、明るい未来を渡す事ができたのだろうか。

 これからの彼女は、危険な目に遭う事もなく、魔法少女に関わる事もなく、今度こそ平穏で普通で、ありふれていて幸せな人生に戻る筈だ。

 それはいい。けど、その未来と引き替えに、あの子の決断は全て否定された。

 私が、あの子を否定した。そしてあの子は、最後まで泣いていたんだ。

 

「ごめんなさい、まどか」

 

 達成感と、期待。後悔と、悲しみ。

 心が不気味な音を立てて軋み、私の全てを壊しにかかる。

 

「ごめんなさい、ごめん。ごめんね、まどか……」

 

 そうだ。私はこんなにもおぞましい罪を背負ったんだ。

 最期は満ち足りて、幸せに包まれて消える、なんて、そんな甘さは許される筈が無い。まどかは幸せになり、私は破滅する。これでいい。これが最善の未来、の、筈なんだから。

 

 手の甲のダークオーブに亀裂が走る。

 私は、ここで本当に役目を終える。怖かった。悲鳴をあげなかったのはただの偶然だった。怖い。怖くて苦しい。

 けれど、私が居なくなった後の世界で、あの子はきっと、笑う事ができるんだ。あの子の幸せに、私は必要ないんだから。

 

「まどか……」

 

 私は、自らの魂が砕ける所を見た。

 

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 あまりにも酷い夢を見たからか、握り込んだ拳の痛みで目が覚めた

 

「っ……はあっ、はっ、は、はっ……ふ、うぅ……」

 

 呼吸が乱れて声が上手く出せない。

 自分が死ぬ瞬間というのは夢であっても苦しい物で、寒気と衝撃がじわじわと背筋を走っている。

 さらには多少の頭痛と疲れも押し寄せてきた。思わず片手で顔を押さえ、夢の中で感じた苦痛と悲しみを堪えた。

 

 ひどく現実感のある夢は、心をかき乱して仕方が無い。感情を抑え付けていた蓋までも、無かったかの様に貫いてくる。

 思わず左手の甲を見ると、そこにはいつもの様にダークオーブが輝いていた。欠片のヒビもなく、依然変わりなくそこにある。

 流石に夢程度の影響を受ける程に壊れやすい魂ではなかった。それでも、安堵の息は止められなかった。

 

 久しぶりによく眠れそうだと思ったけれど、それは完全な間違いだった。

 むしろ、悪夢はいつもより明確な形で心にのし掛かってきた。あまりにも酷い内容なのに、有り得てしまいそうな未来の想像図だ。

 情けないけれど、私ならやってしまうかもしれない。そんな予感すらあったのだ。それが非常に忌々しい。

 

 本当に、情けない。

 

「情けないわね……」

「んっ、ふやぁ」

「?」

 

 落ち着いてみると、腹部に違和感がある事に気づく。

 布団が明らかに盛り上がっていて、誰かがそこにいた。でも、姿を見なくたって分かる。

 

「んぅ……あれー……?」

 

 ゆっくりとめくりあげてみれば、そこにはやっぱり、まどかが寝ていた。

 私のお腹を枕にして、ぼんやりとした目でこちらを見ている。

 

「ほむらちゃん、起きたの……?」

「ごめんなさい、起こしてしまったわね」

「いいよー、気にしないでー……」

 

 まどかのゆるくて眠そうな声に、やっと周囲の様子を見回す余裕が戻ってきた。

 自分の部屋よりは見慣れないベッドに、知っているけど久しぶりに見る内装。そこでようやく思い出した、今、私がどこに居るのかを。

 ここは、まどかの部屋だ。一緒にベッドへ入ったのだから、まどかが同じ布団の中で寝ていて当然だし、お泊まりに誘われたのだから、私がこの部屋に居るのも自然な事だ。

 

「わたしも、起きる……」

「そんな事しなくても大丈夫よ。私ももう一度眠るから」

「そっかぁ」

 

 ほとんど眠りかけた顔のまま、まどかは布団から這い出てきた。

 私達の目線が重なった。夢の中で見た光景とは違って、まどかは私の隣で寝転がっていた。

 背中は痛まない。まどかのお部屋のベッドは、ご家族の愛を現す程度には柔らかかったから。

 

「あれー? また、きぶん悪いの?」

「いいえ、大丈夫。少し変な夢を見てしまっただけよ」

「そっかぁー……」

 

 何を思ったのか、まどかはゆっくりとした動きで私に体を寄せ、その腕を私の後頭部へ回した。

 

「怖くない様に、してあげるね」

 

 私の事を撫でながら、優しく眠たげに笑いかけてくれた。

 溢れそうになった涙を拭い、まどかと密着する。彼女の慈悲深い気配が私を包み込み、あたたかな心が私を癒やしてくれる。

 まどかと目が合った。彼女はあくまで人の目をしていて、まどからしく、人間らしく、愛おしい輝きに満ちていた。

 

「まどか……」

 

 彼女の名前をこうも至近距離から呼べる。そして、彼女は私の声に反応してくれる。

 ちょっとした事だけど、ひどく嬉しい。

 同時に、まどかが私と仲良くしてくれて、優しくしてくれる事に、なぜだか胸が痛んだ。

 

「まどか、あのね。前から気になっていたのだけれど」

「うん」

「何か、私に聞きたい事があるの?」

 

 少し、まどかの瞳が曇る。

 完全に眠る寸前だった時よりも、吐息や目つきが明瞭になった。

 

「ねえ、ほむらちゃん」

「……ええ、何かしら」

 

 覚悟を決めて、続く言葉を待った。

 

「ほむらちゃんは、わたしと一緒にいて、嫌じゃない?」

 

 息が止まりそうな質問だった。

 いや、実際に数秒は息を止めてしまった。まどかが不安そうな表情でこちらを見ていると気づくまでは、思考も完全に停止した程だった。

「……不快な思いをさせているのは、分かっているわ」

「ち、ちがうよ。そういう事じゃないよ」

「それならっ……! それなら、何の話なの?」

「だって、ほむらちゃん……わたしと話してる時、なんだか怖い顔をするなって……」

「なら、どうして貴女は私に近づいたの? 怖かったのでしょう」

 

 まどかは、眠そうな目をしたまま、ゆっくりと考えてから答えてくれた。

 

「ほむらちゃんは、こう、あの、どこかで会った様な、そうじゃない様な、でもきっと仲良くなれそうな、そんな気がしたの……ごめんね、はっきり答えられなくて」

「いいえ」

 

 あまり目を合わせない様に、まどかの肩の辺りを眺めた。

 ぼやけにぼやけた言葉だけど、まどかの気持ちは伝わったし、理解できた。

 私と仲良くしたいって思ってくれるのは、心が飛び上がるくらい幸せだ。けれど、初対面の相手へ抱く感情とは思えない。やっぱり、私の甘さが招いた失敗なのだろう。

 ほんの微かにでも、私の事を覚えていてくれた。一面の花畑に飛び込むくらいに嬉しいけれど、それ以上に自分の不出来さが呪わしい。

 

「ごめんね、無理させて。怖かったでしょう」

「そう、じゃないんだけど……」

「でも怖いとは思っていたのね」

「……それは。でも、それで怖いと思うだけなのは嫌で……」

「どうして?」

「ほむらちゃんって、なんだか……あの、ごめん、わたし、ほむらちゃんには嫌われてるのかなって、思ってて」

「……」

「わたしと話す時って、いつも他の子と話してる時より……距離、あるし」

 

 まどかは言葉を切った。

 寝ぼけた頭だから、そのまま喋ってくれているのだろう。

 そんな風に思われていたと知った時、私は少し、寂しくなった。今更偽っても仕方が無い。これは本心で、例え私が何であろうと、暁美ほむらである限り、まどかを嫌いになんてなれないのに。

 

 そう思われていた事が、本当に、寂しかった。

 

「……私は」

 

 本当の気持ちを言っても、良いのだろうか。

 不安そうな表情が、私の心を貫いていく。

 本当の気持ちを伝えれば、きっとまどかは安心してくれる。

 

「私ね、まどかと一緒にいる時間が一番好きだよ」

 

 彼女は、私がまどか以外の人には柔らかな対応をすると言う。

 でも、本当は逆だ。まどかが他の人よりずっとずっと大切で、会話するだけでも嬉しくて仕方が無い。それを隠しているだけなんだ。

 

「他のどんな事をしている時より、幸せな気持ちになれるの。本当だよ。私は嘘つきだけど、これだけは本当」

「でも、わたしと一緒にいる時、いつも辛そうだよ……」

「それは……あんまりにも幸せだから……こんなに幸せでいいのかって……」

 

 まどかはよく分かっていない様子で、ただふわふわとした表情のまま聞いてくれる。

 これなら、と、溢れる言葉を漏らした。自然と涙が出そうになったけど、心配をかける訳にはいかない。

 

「そんなに人の顔色なんか見なくたって、まどかは魅力のある人よ。心配しなくても、まどかの事を嫌いになったりしないから。だから……」

「わたしも」

「えっ?」

 

 私の目の前に手を伸ばし、まどかは顔を近づけてくる。

 

「わたしも、ほむらちゃんの事、嫌いになったりなんかしないよ」

「……そうだと良いわね」

 

 本当にまどかは良い子で、こんな私を助けてくれる。最愛の、そしてただ一人の友達のままだった。

 隠していた私の気持ちも、想いも、この子の前では壁にすらならない。ただ触れて、ただ目を合わせるだけで、言わない様にしていた事まで漏れ出してしまう。

 

 だからこそ、まどかの伸ばしてくれた手を、握り返したくて仕方が無かった。

 しかし、本当の私を、私のした事を知ったら、まどかがどんな顔をするか。この手をまた握ってくれるだろうか。

 怒るだろうか。悲しむのだろうか。それとも苦しむのだろうか。もしかして、泣いてしまうのだろうか。私を責めるのか、それとも自分を責めるのか。

 

「……」

「ほむらちゃん?」

「……ごめんなさい」

 

 でもきっと、結局この子は私のした事を否定するだろう。

 そんな日が来たら、私はやっぱり死ぬのかもしれない。

 しかし、それは今ではない。眠そうにしているまどかに、こんな話をするつもりもなかった。

 

 そして私はまどかの手を布団の中へと戻して、彼女がよく眠れる様に声を落とす。

 

「さ、話は終わりよ。枕はこっち。私を枕にしていたら、貴女が体を痛めるわ」

 

 枕を叩いて誘導し、同時にお布団をまどかの肩まで覆った。

 でも、彼女はもぞもぞ動き、お布団と一緒に私へ被さった。

 

「まどか?」

「ありがと……でも、ほむらちゃんの方が気持ちいいかも……」

「……」

 

 まどかだって、柔らかいし、あたたかい。普段使っているお布団や枕よりまどかを抱いて寝た方がずっと安心できる。少なくとも、まどかが傍に居るだけで不安は消えて、心は穏やかになれる。

 だけど、夢見だけは悪い。むしろ普段より鮮明で、思い出すだけで呼吸が乱れる。

 まどかが一緒に居てくれるのに、あんな夢を見てしまう。

 

「ほむらちゃん」

「ん……」

「えへへ。ごめんね……いつもはぬいぐるみを抱いてるんだけど、今日は……いいかな?」

 

 私に向かってそう尋ねつつも、まどかはもう既に私を抱き枕にしている。

 

「私で良かったら、好きにしていいよ」

「やぁったー……」

 

 まどかの腕がより深く私を捕まえた。

 いつもと違って寝ぼけているからか、抱きしめられる力が強くて少し痛い。が、それは他でもないまどかの手だ。拒む理由がどこにも無い。

 

「おやすみ、ほむらちゃん」

「ええ、おやすみ」

 

 動揺が伝わらない様に、出来る限り優しく聞こえる様に、まどかの耳元へ語りかけた。

 返事は無いけど、代わりに寝息が聞こえてきた。まだまだ朝には早いのだ。

 

「まどか、やっぱり眠かったんだね。起こしちゃって、ごめんね」

 

 そうっと、まどかの髪を撫でる。ふわふわで、温かい触り心地。大切な、決して忘れたくない感覚だった。

 私も、もう一度眠ろうか。そんな風に思えるくらい、まどかの吐息は穏やかで、こちらの心まで静かに溶かす。

 

 まどかに影響されている。それを自覚しながらも、私は目を瞑った。そして、まぶたの奥に自分の死体が見えた。

 

「……」

 

 やめておこう。悲惨なだけで終わってしまう。

 まどかはほんの小さな寝言を呟きながらころんと体を頃がして、私から離れた。

 

「あ……」

 

 いかないで、と手を伸ばした時、まどかはこちらへと寝返りを打つ。

 戻ってきてくれた。それを喜ぶより早く、まどかの腕が私の腹部へ速やかな一撃を叩き込んだ。

 

「う゛っ……!?」

 

 思わず呻いて、即座に自分の口を塞いだ。

 

「……ん、ふぅ……」

 

 幸い、まどかが起きた様子はない。油断していた。全く予想していなかった為に、完全に受けてしまった。

 思ったより痛い。でも、そんな事よりこの子の素敵な寝顔の方が大切だ。これを守る為に私は存在しているのだから。

 

 まどかが私に倒れ込んで、私の事を抱き枕の様に使ってくれる。ずきりとお腹が痛んだけど、そんな事はどうでも良かった。

 なんて幸せそうな寝顔なんだろう。

 

「……まどか」

 

 きっと、今の私は自然に笑えている。

 

「ありがとう。やっぱり貴女は、優しいね」

 

 私なんかにも、彼女は優しくしてくれる。こんな私にもまどかは笑いかけて、優しくしてくれる。

 この子は誰にだって優しい。私に対しても、優しい。

 頬を撫でようと思ったけど、起こしてしまいそうだからやめた。

 心なしか、最初に出会ったあの時よりも彼女が成長して見える。それを見ていると、改めて、彼女に未来がある事を実感できた。

 

「貴女は、いつか私を置いていく。もっと大きくなって、成長して……大人になって。それを止める事はしない」

 

 ワルプルギスの夜を越えた先の、まどかの人生。私の知らないまどかの未来。

 これから始まるんだ。これからが、まどかの本来のあるべき人生なんだ。

 

「これから貴女は、沢山の出会いがあって、別れがあって。いろいろな経験をするかもしれない。それは貴女にとって、ううん、人間にとって、生きる上で当たり前の事」

 

 笑ったり、泣いたり、怒ったり、楽しんだり、そのどれもが、神様には出来なくて、そして今のまどかには、当たり前に出来る事。

 

「そうやって過ごしている間に、私の事も魔法少女の事も忘れて、沢山の大切な人に囲まれて……貴女は、笑うんだね」

 

 想像してみる。私のいない、この子の未来を。

 魔法少女さえなければ、この子の未来は輝かしい物になる。むしろ、私がそれ以外の未来を許さない。まどかは幸せになるべきだ。

 全ての魔法少女へ慈悲を振りまいたのだから、まどかはその分だけ沢山の人に愛されなければならない。

 

「貴女は世界一幸せになる。絶対に幸せになれる。だって貴女は、こんなにいい子だから」

 

 間違いなく、まどかは眠っている。

 その確信があるからこそ、言葉に出して覚悟を決め直せる。

 

「あんな寂しい場所へ置き去りにするなんて、絶対に、させない」

 

 例えそれが誰の望みであったとしても、誰が私に立ち塞がるとしても、それで、彼女の人生を諦めていい筈が無い。

 

「私、まだ頑張れるから」

 

 まどかがまた、もぞもぞと寝返りを打つ。今度は私にのし掛かってきた。

 感じる重さも彼女の存在の証明で、昔と一緒で寝相が悪いのも私にとっては幸せな事実だった。

 もう眠る気にはなれなかったけど、まどかの寝顔を見ていると、疲労も息苦しさもたちまち消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 外に一歩出るなり、風が通り抜けた。

 明るい朝だ。いつもはどこか色あせた印象を受ける青空も、今はカラフルで美しい。

 

「んぅ……ふぅ」

 

 なびく髪を押さえ、爽やかな空気を吸い込んだ。

 外の空気はいつも以上にすっきりとした味わいで、十分に癒やしとなった。

 普段より身体も心もポカポカと暖かくなっていて、調子も非常にいい。それもこれもまどかが隣に居るからだ。

 

「ほむらちゃん、身体は大丈夫?」

「何ともないから、そんなに気にしなくても」

 

 私を追いかけてきたまどかが、顔を見るなりほんの少し目線を下げる。

 

「でも、重かったよね」

「そうでもないわ。私は見た目より力があるの。まどかの体重くらい軽いわ」

「本当? なんだか顔色悪いよ……」

「これは元々からよ」

 

 普段から殆ど寝ていないだけなのに、自分が乗っていたせいで一睡も出来なかったと思い込まれている。

 そうではないと教えたけれど、まどかがどれくらい納得してくれたかは自信が無かった。どれほど言った所で、私の目元にははっきりと隈があるのだから。

 

「あの、本当にごめんね」

「まどか」

 

 申し訳なさそうな顔を見ていると、心が痛んだ。

 安心させたくて、両手を包み込む。人でなしの私であっても、彼女のあたたかな指は逃げ出さない。

 

「ふぇ」

「まどか」

 

 彼女の手を撫でながら、自然と溢れる感情を顔に出す。

 まどかへの想いを、自覚した時と同じ様に。

 

「大丈夫よ。夜にも言ったけど、私はまどかと一日を過ごせてとても楽しかったから」

 

 こちらを見つめたまどかが、小さな声をあげた。

 

「あ……」

「?」

 

 自分がどんな顔をしているのかは分からない。でも、私を見ていたまどかの表情はとっても明るくなって、私の手を握り返してくれた。

 

「良かったぁ。嫌われちゃったかと思ったよー」

「まどかを嫌いになるなんて、そんな事が出来る人がいて良い筈が無い。もし仮に居たとしても、私は違う」

 

 まどかは「えー。そんな事ないよ」なんて言って、恥ずかしそうにした。

 でも、事実だ。まどかは自分自身で思っているよりも素晴らしい人で、傍に居るだけでも嬉しさで胸が一杯になる。私にも優しくしてくれて、それだけで私は幸せだと言えた。

 例えそれがどんな邪悪の上に成り立っているとしても、まどかは嘘一つなく正しくて、愛おしい。

 

「また、遊びに来てくれる?」

「もちろん」

「じゃあまた今度ね。次はさやかちゃんと仁美ちゃんも呼ぼうと思ってるの。きっと、昨日より賑やかで楽しいよ」

「そうね……きっと、楽しいわ」

 

 この子は友達に囲まれているのがよく似合う。私のような者とは違って、一人ぼっちが彼女には似合わない。

 でも、まどかはこんな私もその一人に数えてくれていた。それが嬉しくて、苦しい。

 

「えへへ」

「どうしたの、まどか」

「ふふ、あのね。ほむらちゃんと仲良くなれて、友達になれたのが嬉しくて」

「そう?」

「うんっ!」

 まどかの眩しい雰囲気に、私も合わせた。

「私も、まどかと友達になれて嬉しいわ。とっても幸せよ」

 

 お互いに笑い合い、改めて手を握る。

 優しい手つきがたまらなく柔らかく、彼女がかけてくれた言葉がどれもこれも感情を揺らせてきて、どんどんと涙が溢れそうになって、それを隠す為にまどかを抱きしめた。

 

「ひゃっ」

「驚かせちゃった……? ごめんね、本当に嬉しくて……」

「ううん、いいよ。わたしも、ほむらちゃんと分かり合えて良かったって思ってるから」

 

 分かり合えた、とまどかはそう言った。

 抱きしめ返され、慈悲深く背中をさすられながら、少し、言葉に詰まった。

 きっと、まどかに私の気持ちは伝わっていないから。

 

 新しい友達ができる喜びは、人だから得られる幸せだ。

 まどかにとっては珍しくもない、ありふれた日々の一つだろう。

 けど、どんな些細な事であっても彼女がその日常の中で喜び、幸せを感じてくれている瞬間はとてつもなく尊く、得難い物なのだ。

 私なんかを友達にしてくれて、まどかが喜んでくれるなら、それこそ素晴らしい事だった。

 

「さ、まどか」

「うん」

 

 惜しく思いながらも、まどかを解放する。

 心なしか身体が冷え込んだ気がした。

 

「そろそろ帰るわね」

「あ、待って」

 

 まどかは、ぱん、と音を立てて両手を合わせ、桃色をした澄んだ瞳を光らせる。

 まさかと一瞬だけ周囲に気を配るも、何か変わった点はない。いつも通りのまどかと、いつも通りの見滝原市があるだけだった。

 

「あのね、友達になった記念に、教えて欲しい事があるの」

「ええ」

 

 まどかの雰囲気は深刻そうでは無く、むしろ柔らかで、楽しげだった。

 恐ろしい話題では無さそうだった。

 それなら、答えられる範囲であれば拒まない。まどかに何か願いが有るのなら、その分の代償を払ってでも叶えたい。

 待ち構えている私に向かって、まどかは気安く問いかけてくれる。

 

「ほむらちゃんって、どこに住んでるの?」

「それは……そういえば、言っていなかったわね」

 

 今のまどかは、私の住居を知らない。そんな事すら忘れていた。

 前よりずっと安っぽくて、まどかを迎えるには恥ずかしい部屋だ。でも、彼女が喜んでくれるなら構わなかった。

 

「今度、案内するわ」

「うんっ、お願い。遊びに行ってもいい?」

「構わないけれど、貴女の家ほど広くないし、一人暮らしだし、雰囲気も寂しい所よ」

「じゃあ、一緒に明るくしようよっ」

「ふふ、そうね」

 

 思わず、笑い声が漏れた。

 そんな事をしなくたって、まどかが存在する、ただそれだけでも夢みたいで、十分に明るくなるのに。

 

「じゃあ、また」

「うん、またね」

 

 まどかの声を受けながら、私は彼女から背を向けた。

 ここまでの全てが本当に幸せな時間だった。まどかの思いやりと心優しさの溢れた言葉と行動の一つ一つが、私の魂へと響いてきた。

 振り向かなくたって、小さく手を振ってくれているのが分かる。私の姿が見えなくなるまでは、ずっとそうしてくれるのだろう。

 

 そっと胸に手を置いて、気づかれない程度に重い息を吐く。

 病気はずっと前に完治している筈なのに、どうしても胸が痛くなった。

 寒気が止まらなくて、まどかから一歩離れる毎にそれは増していく。 でも振り返らない。もう、まどかに負担を掛けたくない。決して、振り返らずに帰らなくてはいけないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 自宅のドアを開けた途端、気が抜ける様な感覚が走った。

 

「う。ううっ」

 

 まどかの家に遊びに行っただけなのに、心臓が激しく音を立てた。思わず顔を覆ってその場で足を止め、深く深く呼吸をする。

 

「……ふ」

 

 分かってる。どうしてこんなに寒気がするのか。

 まどかに嘘を吐いてしまったからだ。

 

 こういう気持ちになるのは、初めてではない。

 あの子に酷いことを言う度に、彼女を傷つけてしまう度に、まどかに嘘を吐く度に、心に重く衝撃が響き、苦しみが背筋を駆け抜けた。

 今回もまた、そうなっただけだ。でも何度やったって慣れる事は無い。

 

 私と友達になったとしても、もう、それが意味を結ぶことは無い。長続きもしないと、分かっているのに。

 

「あと何日、何年この姿を保てるかしら」

 

 両手を握って、また開く。その手のひらは見慣れた私の物だけど、よく見てみると、その腕は少し前よりも色合いを失っていた。

 天井の灯りにかざすと、僅かに透けて見える。

 他の誰にも気づかれる事はない。これは私の目にしか見えない現象で、肉体ではなく、その力による物だ。

 

 鏡に目をやれば、完全な姿の私がそこにいる。無表情で、嫌味で、冷血そのものといった体の顔をした私が、濁った瞳でこちらを見ている。

 しかし、自分の両手や体を見てみると、どこか不安定にゆらめていていた。

 もう少し手を握り込むと爪の先が取れ、拳の間からこぼれて落ちた。綺麗に割れたその欠片は、床に落ちる事なく消える。

 

 力を強めて行っている。本当に悪魔となりはてている。

 まどかが円環の理へ戻ろうとした時、それがどんなモノによる後押しがあったとしても、私は阻まなければならない。まどかに懇願されようと、殺されてでもまどかを止めなければならない。

 

 その為の措置だった。

 今の私から一歩ずつ力を強め、徐々に人間をやめていった。その度に私の身体は失われていった。

 少しずつ、私の体が世界と同化し始めている。次第に人の形は失われ、かつてのまどかがそうである様に、やがては悪魔という一つの概念となる。

 そのうちに、私は誰の記憶からも居なくなるだろう。私という悪魔だけが残り、暁美ほむらは消えて無くなるのだろう。

 その場に座り込み、壁に背を預けて、深く深く息を吐いた。フローリングの床は固く、座り心地は悪い。でも立ち上がって椅子へ腰掛ける程の痛みではない。

 

 大量のトマトが降り注いできて、体中が真っ赤に染まる。

 私の使い魔が天井をすり抜けて現れると、私を取り囲み、手を繋いだまま回りはじめた。壁を通り抜け、天井をすり抜け、全くの自由に踊り回っていた。

 顔を僅かに上げ、それらの顔を見る。人間の様な人形の様な、不気味な顔をした存在だ。私の使い魔らしく、非常に醜い。

 

 使い魔は成長すると魔女になる。

 そうだとすれば、こいつらもまた、成長すると悪魔になるのだろうか。

 

「……想像しがたいわね」

 

 ぎゅっと、己の腕を抱く。

 不安はないかと言われれば、きっとそれは嘘だ。

 それでも躊躇う事は無い。私が世界に溶けたって、まどかはそこにいる。その為に私の肉体が邪魔だというなら、捨てる事を迷う理由なんか一つすらもない。

 この魂も命も、全てはまどかの未来を繋げる為のものだ。まどかの手に掛かって死ぬより、それはずっと素晴らしい命の使い方に想えた。

 でも、ただ少しだけ。少しだけでいい。

 残り少ない時間の全てを、まどかと、この見滝原で過ごしたい。少しずつ流れていくまどかの未来を見届けたい。あの子の笑顔を、この目で、暁美ほむらの瞳で見ていたい。

 きっと私はまだ弱い。自分を好きだと言ってくれる人はいなくてもいいけど、まどかが傍に居ないのは、考えるだけで恐ろしくて、怖くて、辛い。

 何度もまどかが死ぬ所を見てきたし、まどかの居ない世界も見てきた。けど、私が世界から居なくなるのは初めてだ。

 

 まどかが残り、私が消える。

 誰も彼もに愛される、あの尊く輝くまどかに対して、こんな私じゃ、代価としてはあまりにも安すぎるけど。

 

「それでも、私の存在でまどかの未来が開くなら」

 

 ……もしもまどかが、私の事を忘れなかったら。私の痕跡が残ってしまったら。

 

 私の部屋はかつて暁美ほむらが使っていた部屋となり、暁美ほむらの肉体はかつて暁美ほむらだった死体になり、暁美ほむらと関わった全ての人の記憶が、過去の思い出になる。

 私の肉体が現世に残ったとして、どうなるだろう。暁美ほむらの死体が部屋に放置されたとして。みんなは、どんな顔をするのか。

 私の死に気づくのは、恐らく杏子。最悪の場合では、まどかだろう。優しい子だから、私がしばらく学校に来なくなったら、きっと心配して見に来てくれる。そんな時、私の死体が転がっていたら、あの子はどれほど傷つくだろうか。

 いやむしろ、ただ私が死ぬだけで、あの子はどんなに傷つき、泣くだろう。

 

 忘れて貰うしか無い。少しだけ頭をよぎった弱さを振り切り、改めて、決意する。

 絶対に忘れない。どんな苦難も邪魔者もはね除けて、ただただまどかの未来の為の暁美ほむらで居ることを。一度は見失いかけたまどかへの想いを。

 

「もう二度と、見失ったりはしない」

 

 立ち上がり、服の埃を払って歩き出す。

 まずはまどかを家に招く準備をする。少し時間は掛かりそうだけど、そんな物は問題じゃない。

 一日の全てを、まどかの為に使うと決めた。

 

 

 だから私は、眠らない。



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