その日──
かつてない異常気象に見舞われたその日は、冬木市にとって転換期とも言える日になりました。真夏もかくやの如く照りつける日差しに、重く澱んだ空気。多くの人々が異常と不安を感じる中、最後の戦いが始まろうとしていました。
いつになく真剣な眼差しで、イスカンダルさんがみんなを見渡して語りかけます。
「良いか、我らの目的はあくまで『小聖杯』の破壊──そのためには、多方面から多角的に攻めるのが最良であろう。敵は一騎。何も馬鹿正直にアーチャーのヤツを倒す必要はないのだ」
むしろ、ギルガメッシュさんを倒してしまえば余計に聖杯に魔力がくべられて、器の完成を早めてしまう可能性すらあります。無論、いざ戦いになれば、そんなことを言っている場合ではなくなるでしょうが、必ずしも、ギルガメッシュさんと決着を付けなくてはならないというわけではありませんでした。
「ヤツの言い草では、『小聖杯』はヤツらの手にあると見て良いだろう。よって、余たちは空から──」
イスカンダルさんの『
「セイバーたちは地から──」
アルトリアさんが跨る『YAMAHA・VMX』の魔改造された1200ccエンジンが咆哮し、切嗣くんたちが乗る『メルセデス・ベンツ300SLクーペ』が震えます。
「サクラ、お主は……まぁ好きにすると良い」
イスカンダルさんは少し考えてから、空からでも地上からでもイケる桜ちゃんには自由を与えました。
彼女こそがある意味では、この戦いのワイルドカードなのだからです。『小聖杯』をその身に宿し、未だ囚われの身であるアイリスフィールさんを、真の意味で助け出せるのは彼女だけなのですから……。
「分かりました」
桜ちゃんは簡潔に答えました。そして、切嗣くんたちの乗るメルセデスに近づき、彼に向かって話しかけます。一瞬、切嗣くんがビクンッとし、恐る恐る桜ちゃんの方に向きました。
「……なんだ?」
少しばかり声が震えていたのは、きっと気のせいです。
「これを返しておきます」
そう言って桜ちゃんが差し出したのは、切嗣くんの最大最強の魔術礼装『トンプソン・コンテンダー』でした。胡桃材でできたグリップも、14インチもある銃身も、切嗣くんの記憶にあるモノそのままです。
それをじっと見つめたまま、切嗣くんは答えます。
「……良いのか?」
「はい」
桜ちゃんはそれだけ言って、切嗣くんにコンテンダーを渡しました。
色々あって没収していたモノですが、今の彼には必要なモノなはずです。それに今の切嗣くんは、かつての爆弾魔ではないようでした。それならば、悪用する心配はないでしょう。
「……ありがとう……アイリを
ボソッと静かに、切嗣くんが言います。それはとても複雑な感情が入り混じった声色でした。不倶戴天の怨敵だと思っていたアンノウンと、アイリスフィールさん救出兼小聖杯破壊作戦のため、手を組むことになったのですから当然でしょう。
「はい、任せて下さい」
それっきりで、二人の会話は終わりました。
そして……運命の狼煙が上がります。それを、彼らは拠点であるアインツベルン城から確認しました。狼煙が指し示す運命の場所は、冬木第四の霊脈たる地──冬木市民会館。
それはある意味予想通りの場所でした。
第一の霊脈円蔵山は先日の戦いで警戒され、そもそも『大聖杯』が在るために不用心に戦いの場とすることが出来ません。
第二の霊脈『遠坂邸』は、日中の調査により、当主『遠坂時臣』がとっくに聖杯戦争から離脱していたことが判明していました。
第三の霊脈『冬木教会』は中立地帯により──それが監督役兼マスターだとしても──使えないでしょう。
残る第四の霊脈が決戦の地になることは、とても自然な成り行きであると言えました。そうでなくとも、こうなることは何かの運命で定められていたのかもしれません。
それでも彼らがアインツベルン城に陣取ったのは、当然、もし万が一があったらを考慮してのもありますが、実際には、これが正しく
開戦前の奇襲、強襲は、許されませんでした。
戦いの狼煙が上がったことを認めたイスカンダルさんが、彼らを代表して高らかに宣言します。
「では皆の衆……出陣であるッ!」
最後の決着を付けるため、それぞれの思いを胸に、戦士たちは飛び立っていきました。
複雑に絡み合った運命が、最初に紡がれたのは二人の王さまの運命でした。それはあらかじめ定められていた宿命だったのか。あるいはただの偶然だったのか。必然と偶然が入り雑じった何かに導かれ、二人は出会いました。
『
「よもや、いきなり貴様が相手とはな、アーチャー」
「なんだ、不服か? 征服王」
「いんや、不服なものかよ。ただ少し面を食らっただけだ。貴様のような輩は、最後に出てくるのが相場と決まっているからな……」
確かにギルガメッシュさんは、ラスボスとか大ボスとか、そういったポジショニンが似合う人物でした。事実、とある平行世界の、とある時代では、実際にラスボスを務めたこともあります。
イスカンダルさんが頭をポリポリと掻き、ギルガメッシュさんを睨みつけました。
ここにギルガメッシュさんがいることは、イスカンダルさんたちに取ってみれば都合のいいことです。ヤツをここで引きつけておけば──そんな事を考えるイスカンダルさんですが、当然、そんなことはギルガメッシュさんたちも想定済みでした。
「なに、心配はいらぬぞ、ライダー。他のやつらには他のやつらで、
ギルガメッシュさんはそこで一度言葉を区切り、挑発的に嘲笑ってイスカンダルさんに言いました。
「──それに、忘れたか? 貴様は
その言葉にイスカンダルさんは僅かに度肝を抜かれた顔をしました。そして直ぐに言葉の意味を察し、したたかに嗤います。
確かに理性的に考えれば、ここでギルガメッシュさんと決着をつけるのは得策ではないでしょう。極力持久戦に持ちこみ、桜ちゃんかセイバーの援護が来るまで耐えるのが常套でした。
頭ではしっかり理解できています。しかしだからといって、どうしてこの胸の高鳴りを抑えることができるでしょう?
彼は来た。そして我はここにいる。双方に言語による理解はもはや有り得なく、それでも貫き通したい我欲があるのであれば、全力で戦う以外に手段はありません。
そしてなによりも“これ”は、世界を守ることよりも
「ハハッー、そういえばそうであったわ! ではならば、存分に死合うとするか!」
いまこの時こそが、初めて両者が相対した日にお互い宣言し合った誓いを果たす時のようでした。ギルガメッシュさんの
「お、おい、ライダー……大丈夫なのか?」
その空気にあてられ、御者台の隅っこで怯えるようにウェイバーくんが言います。
「あぁ、無論だ。坊主こそ、ビビって漏らすんじゃないぞ?」
「ばばば、馬鹿なことを言うな! 誰が漏らすか!」
真っ赤になってウェイバーくんは否定します。しかしながら実際には、恐怖で竦み上がってしまっているのも確かでした。精一杯虚勢を張りますが、震えが止まりません。
「ハッハッハッ、情けないな雑種。このような足手まといが一緒では、貴様も全力で戦うことすら出来まい? なんならどうだ? 其奴をそこから降ろす暇を与えてもよいが?」
「なっ……」
ギルガメッシュさんの思わぬ提案に、ウェイバーくんは言葉に詰まりました。じわりじわりと言い知れぬ屈辱感が広がっていきます。
ウェイバーくんは不安気な表情でイスカンダルさんを仰ぎ見ました。そこには確固たる信念と覚悟を持った、征服王がいます。はたして僕は、彼と共に戦う資格はあるのだろうか? 口ばかりで何もしてこなかった僕に……。
ウェイバーくんはイスカンダルさんの言葉を待ちます。
「……それは、有り難い申し出だな、アーチャー。なぁ坊主、ヤツの言う通りこの戦いは壮絶なものとなるであろう。命の保証は一切出来ぬ。引き返すなら今だ。どうだ? それでも余と共に戦場を駆けて行きたいか?」
「ラ、ライダー」
イスカンダルさんに問い詰められて、ウェイバーくんは言いよどみました。
“これまで通り一緒に戦ってくれ”と言われれば、こんなに簡単なことはなかったでしょう。何時もみたいに彼が強引にウェイバーくんを連れ出して、掻き回される。それでこの話はお終いなはずでした。でも初めて選択を迫られました。
“共に戦うか”。“潔く身を引くか”。いま決断の時です。
ウェイバーくんは非力です。この聖杯戦争の中で最弱のマスターでした。ここまで生き残ってこれたのはただ単に運が良かったのと、桜ちゃんが戦場を掻き乱してくれたお陰で、ほぼ戦闘らしい戦闘をしてこなかったからでした。
本来あるべき試練を潜り抜けず、本来あるべき修羅場を体験せず、ここに至った未熟者は、しかしだからといって何も経験してこなかったという訳ではありません。邪悪な器を見た。正体不明な異質な存在を知った。でも異質な存在は、そのじつ何処にでもいるような女の子で、そんな小さな女の子でさえも、ずっと胸を張ってしっかり戦っていました。
彼女に対して対抗意識を燃やしている訳ではないですが、今こそウェイバーくんも胸を張って堂々と宣言する時でした。“僕も聖杯戦争のマスターなのだ”と、“僕こそが彼のマスターなのだ”と──今こそがその時なのです!
「確かに、そりゃあ、僕を乗せていたらバランスは取りづらいわ、気が散るわ、足手まといなんだろうけどさ……正直ここで降りた方が、ライダーのためにもなるんだろうけどさ──」
震える声を精一杯出して、ウェイバーくんはイスカンダルさんを見上げました。
この山のように大きな男に恥じぬ男になるために。彼の臣下としてではなく、共に並び立てる戦友となるために、ウェイバーくんは思いっきり胸を張って言いました。
「──ここまで一緒に来たんだ。だから、
その熱意と魔力の篭められたウェイバーくんの決意に、イスカンダルさんは顔をくしゃくしゃに破顔させます。
「応ともさ! ならばウェイバー! 共に我らが覇道を踏破しようではないか! 往くぞ、バビロニアの王よッッッ!!」
迸る紫電をたなびかせ、猛然と突貫する神威の車輪に合わせて、騎の主従は声を合わせて叫びました。
「「
運命に導かれし者たちの戦いは、ここ冬木市民会館でも静かに始まりつつありました。
奪った者と奪われた者。
求める者と求められた者。
攻める者と待ち構える者。
遂に叶った念願の対決は、従来の定め通り、定められた組み合わせで始まっていました。
その中を、少女は駆けていきます。与えられた使命をはたすために、与えられた務めをはたすために……。
そして、彼もずっと待ってました。彼女がやって来るのを、彼女が彼のもとに戻ってくるのを、ずっと待っていました。
もはや彼女の存在を、五感全てで感じ取ることが出来ます。もう間もなく、もう間もなく彼女がここに──そして、その時が来ました!
「桜ちゃ──ブハァッ!」
それは、さながら新幹線に吹き飛ばされたヒトのようでした。
脇目も振らず猛然と突っ込む桜ちゃんに、勢い良く飛び出した雁夜くんはそのまま超スピードで衝突し、呆気なく吹っ飛んでいきます。視界がスローモーションになり、何故か瞳から涙が零れ落ちてきた気がしました。
空中を舞いながら雁夜くんは思いました。“はたして一体何処から間違えてしまったのか”と。それはぶっちゃけ最初からでしたが、その答えが出る前に雁夜くんは壁に衝突し、意識を失いました。
ずっと空回りしてばかりだった彼の戦いは、こうして空回りしたまま、誰にも知られずにひっそりと、幕を閉じたのでした。
市民会館に真っ先に着いたのは、言うまでもなく桜ちゃんでした。
彼女は転移魔法で冬木の霊脈には一瞬で辿り着けるので当然ではありますが、しかし転移してきたのは桜ちゃんだけです。
常道では仲間全員で転移してくるのが正解なのでしょうが、陽動も兼ねて敵の戦力を分散させるため多方面から攻めるため、今回は桜ちゃんが単身転移することになっていました。まあ、分かりやすく言ってしまえば桜ちゃんの役割は、ただの露払いだったりするのですが……。
不気味に静まり返る市民会館を一瞥し、桜ちゃんは中に侵入して行きます。桜ちゃんの侵入ルートは一階正面入口から、一番襲撃が予想されるルートです。しかし、予想に反して桜ちゃんが“ソコ”に辿り着くまでに、なんら障害と呼べる障害はありませんでした。
途中何か人間大のモノを轢いた気がしますが、桜ちゃんの歩みが止まらなかったということは、大したものではなかったのでしょう。
かくして桜ちゃんは辿り着きました。不気味で邪悪な“球体”と同じ気配を発しているモノのところへ。
そこは、広大なコンサートホールでした。一階から三階まで吹き抜けになっているその舞台の中央に、そのモノはいます。生命活動を極限にまで抑え、まるで死んでしまっているかのように青ざめて眠っている、アイリスフィールさんが……。
桜ちゃんはアイリスフィールさんに近づいていきました。予想された攻撃は、どこからも全く飛んできません。それでも桜ちゃんは油断することなく、どんな状況にも対応できるように、次々と武器を持ち替えながら接近していきます。
けれども何事もなく、桜ちゃんはすんなりとアイリスフィールさんのもとへと辿り着いてしまいました。他に誰か来たり、隠れている様子はありません。安心するのも束の間、桜ちゃんは慎重にゆっくりと、よりアイリスフィールさんへと接近していきました。
アイリスフィールさんの顔色はとても悪いですが、しかし、幸いなことにどうやらまだ息はあるようです。切嗣くんたちの言う通り、体内に存在していた謎の結界の発生源は消えていて、これならば“アレ”を取り出すことは出来そうでした。
桜ちゃんはアイリスフィールさんの容態を観察し、そして腹部で蠢く“ナニか”を発見しました。
これこそが、紛うことなき『小聖杯』です。キャスター、アサシン、ランサーの魔力を吸収することによって遂に顕現化した『小聖杯』は、アイリスフィールさんの肉体を変質させ、今にも彼女を飲み込んでしまいそうです。
彼女を助けるためにも、すぐに摘出してあげなくてはなりません。
桜ちゃんはアイリスフィールさんの腹部へと手を翳し、瞳を閉じて意識を集中させました。世界に脈なすエーテルを意識し、アイリスフィールさんのお腹の中へと、エーテルの“手”を伸ばしていきます。
ゆっくりと伸びていくエーテルの手は、やがてアイリスフィールさんの深いところへ到達し、桜ちゃんはさらに奥へ奥へと伸ばしていきました。そして桜ちゃんは“ナニか”を掴むと、カッと目を見開き、一気に“ナニか”を引き上げます。
エーテル体を掴まれ、アイリスフィールさんから分離し、空中に現出する『小聖杯』──それはまるで臓物のように、黒く禍々しく脈動していました。巨大な心臓の鼓動のような音を、桜ちゃんは幻聴します。
桜ちゃんが『小聖杯』を仰ぎ見ます。
エーテル体であろうとも現実に顕現し、アイリスフィールさんから分離した今ならば、桜ちゃん単身でも破壊することは容易のはずです。本来の目的である『大聖杯』の
そう何処からか“声”が聞こえた気がしました。
桜ちゃんは強く“杖”を握りしめます。偶然か必然か、今の桜ちゃんは黒魔道士の姿でした。この姿で始まったこの旅を、この姿で終わらせる時が来たようです。
桜ちゃんは務めを果たすために、杖を大きく掲げました。魔力を集中させ、標的を確認し、今まさに灼熱の業火が放たれんとした時──その異変は起きたのです。
突如として『小聖杯』に“黒い孔”が空き、そこから黒い触手が伸びてきました。それはとても一瞬のことで、桜ちゃんが「あっ」という暇もなく彼女に絡みつき、そして飲み込むと、そのまま“黒い孔”へと取り込まれてしまったのです。
後に残されたのは、邪悪に蠢く“黒い孔”と、安らかに眠るアイリスフィールさんだけでした。
主人公、まさかの最終決戦離脱……