「──では規約に基づき、聖杯の守人たるアイリスフィール・フォン・アインツベルンを救出した功績を認め、言峰綺礼に令呪一画を進呈しよう」
物々しい威厳のある声で、璃正さんは言いました。
本当なら令呪の報酬は、アンノウン討伐の成果のはずでしたが、璃正さんにしてみれば綺礼くんに令呪を渡せるなら理由はなんでも構いませんでした。もっともらしい理由を述べて、璃正さんは綺礼くんに令呪を譲渡します。
アイリスフィールさん奪還は正にうってつけの理由でした。身内贔屓と揶揄されるかもしれませんが、知ったこっちゃありません。
「──みな、この杯から飲め。 これは、罪が許されるようにと、多くの人のために流すわたしの血、契約の血である……」
露出させた自らの腕を綺礼くんの腕と重ねると、璃正さんはそう唱えます。すると璃正さんに刻まれていた令呪の一画が消失し、代わりに綺礼くんの令呪──時臣さんから譲られた──が、一画復活しました。
新たに復活した令呪をまじまじと見て、綺礼くんは問いかけます。
「今のは……マタイ福音書ですね?」
「そうだ。26章27、28節。我らが主の聖言だ」
「なるほど、父上らしい……」
「フッ、そうであろう?」
息子の敬虔なる聖職者ならではの発言に、璃正さんは嬉しそうに笑みを浮かべました。流石はわが息子だと、その腹の深淵を知らぬまま……。
「もしや、監督役の全権委譲なども、聖書の引用を用いているのですか?」
「良く分かったな。その通りだ」
「えぇ、父上の考えそうなことですから。──っとなると、引用は二コリの3章17節あたりでしょうか?」
「なるほど良い視点だ。だが惜しい。ヨハネ福音書4:24の方だ」
綺礼くんはその聖言を心のなかで諳んじました。ヨハネ福音書第4章24節──『神は御霊なり。故に神を崇める者は、魂と真理をもって拝むべし』──なるほど神を信じぬ魔術師たちの戦いに、これほど相応しい暗号はないでしょう。
「つくづく、父上らしいですね……」
「まあな。しかし安心しろ。この聖句は私に何かあった時のみ効果を発揮する。この老骨が健在である限り、おまえはマスターに専念出来るだろう」
「そうですか──」
璃正さんの言葉を聞いて、綺礼くんは静かに俯きました。そして誰にも気付かれないくらいに僅かな笑みを浮かべます。その笑みはまるで、長年の願いが叶った歓喜の笑みのようで、いやに清々としていました。
いつの間にか、綺礼くんの右腕には時臣さんから授かったアゾット剣が握られています。綺礼くんはおもむろに璃正さんに近づいていきました。
「──それは良いことを聞きました」
桜ちゃんはあれから久々にぐっすりと寝て、そしてお昼頃に目を覚ましました。腫れぼったい目を擦ると、昨日のことを思い出します。
ハサンさんはもういません。アイリスフィールさんも、いつの間にかいなくなっていました。攫ったのはあそこにいたギルガメッシュさんでしょうか? そうすると時臣さんも共犯ということになりますが、動機がよく分かりません。そして、究明する気も今は起きませんでした。
少なくとも今日は、そんな気になれません。
桜ちゃんはPTリストを見ました。そこには桜ちゃんの名前しかなくて、ハサンさんがいなくなってしまったことを嫌でも痛感させられます。でも、代わりに桜ちゃんの手には、ハサンさんのクリスタルが握られていました。紫というよりも黒に近い、ちょっぴり不穏で、でも綺麗な色のクリスタルです。桜ちゃんはその聖石をギュっと握りしめて、胸に抱きました。
何時までもくよくよ泣いている暇はありません。彼女は逝ってしまいました。それはとても悲しいことですが、寂しくはありません。彼女のイシは、今も共にあるのですから……。
よっし! と気合を入れ直した桜ちゃんは、モゾモゾとベッドから這い出ると、勢い良く
「お! 起きたようだな、サクラ!」
赤毛の大きな体の人が、にこやかに声をかけてきます。
ハサンさんがいなくなってしまって、またひとりぼっちになってしまいましたが、もしかしたらその時間は、あまり長くは続かないかもしれません。
イスカンダルさんは何も、全く考えなしにその場の勢いだけで桜ちゃんの味方をしたわけではありません。イスカンダルさんは人情溢れる気のいい人間ではありますが、別に不公平が心底嫌いというわけではありませんでした。
勝ち馬に乗れる時は全力で乗っかりますし、事実、あの時も当初は三人がかりで桜ちゃんを倒そうと思っていました。イスカンダルさんは目的のためならば、非常に非情になれる性格なのです。
しかし、いざ桜ちゃんの前に降り立ってみると、その考えに揺らぎが生じていました。
なんとなーく三人がかりでも勝てない気がします。それどころかこの幼女、なんでか分かりませんでしたが、イスカンダルさんに対して存在レベルでの特効を持っているような気がしました。運命とか宿命とかそういったレベルで、絶対に勝てない何かを……。
そんな不気味な感覚を、イスカンダルさんは桜ちゃんから感じ取っていました。たとえイスカンダルさんの最大最強宝具を用いたとしても、それを上回る“何か”でもって凌駕されてしまいそうです。例えばそう『冒険者の軍勢』とかわけの分からんもので……。
多分、あの金ピカも同じようなものを感じ取っていたのでしょう。意識的にしろ無意識的にしろ、イスカンダルさんと同じ印象を抱いたはずです。だからこそ、あんなにもあっさりと退却したのでしょう。
あの英雄王の行動を見て、自分の判断は間違っていなかったと、イスカンダルさんは確信していました。桜ちゃんは敵対するべき存在ではなくて、出来るだけ味方につけておくべき存在です。間違っても一対一で戦うなどもっての外でした。
少なくともイスカンダルさんは、そう結論づけます。そして、その結論が間違っていなかったことは、すぐに明らかになりました。桜ちゃんに案内されるがままついていった先で、アレを見たことによって……。
「うへぇー何だこの辛気くさいところ……」
「そう文句を垂れるな坊主。なんというかこう……男子たるもの、こういった洞窟には心が踊るではないか!」
「いや、それはお前だけだし……」
不気味な雰囲気の洞窟に、興味津々なイスカンダルさんを全力で否定するウェイバーくん。
イスカンダルさんたちは今、桜ちゃんに連れられて円蔵山の“ある”ところを目指していました。勿論その“ある”ところとは、大聖杯のある大空洞です。桜ちゃんを先頭に、ウェイバーくん、イスカンダルさんの順に並んでドンドンと進んでいきます。
「……イスカンダルさんの気持ち、私は分かります」
何となしに桜ちゃんは言いましたが、実のところこの発言は、桜ちゃんにとってかなり大胆な発現でした。自ら会話に踏み込むことは、これまでになかったことです。桜ちゃんなりに彼らとの距離を縮めようと、努力しているようでした。これからPTを組むかもしれない以上、コミニュケーションはとても大事です。
ウェイバーくんはこういうところ嫌いな様子ですが、桜ちゃんにはイスカンダルさんと同じで嫌いではありませんでした。伊達に冒険者である“女の子”を、己の中に飼っているわけではないのです。
「おぉ、お主は分かるか、サクラ! 流石は余が認めただけのことはある。なぁおい坊主、おまえもしっかり見習わなくっちゃなぁ? 負けておれんぞ!」
「うっせー」
露骨に不機嫌な態度をとってウェイバーくんは言います。
どうやらウェイバーくんは、自分よりもこんな小さな女の子を認めるイスカンダルさんのことが、少々気に入らない様子でした。まあ、でもこいつはかなりぶっ飛んだヤツだから致し方ないとでも思ったのか、そのイライラは大したものではありません。
流石にこんな小さな幼女に対してマジで嫉妬するほど、ウェイバーくんの度量は小さくなかったようです。
「それにしても、おいサクラ。僕たちに見せたいものってのは何なんだ? こんな山奥のこんな辛気くさい洞窟に……まさかお前、僕たちを罠に嵌める気じゃないだろうな?」
ウェイバーくんが怪しんで聞きました。あれだけ悪逆非道を繰り返したとされるアンノウンを前にしてこの態度、ある意味ウェイバーくんはかなりの大物であると言えるでしょう。桜ちゃんとの間にイスカンダルさんを挟んでいないところからも、その大胆かつ不敵さが際立ちます。
「そんなことしません。ただ、協力してくれるなら、多分知っておいた方が良いから……」
意味深なことを言って、桜ちゃんはどんどんと前に進んでいきました。その慣れた足取りと、時折ちゃんとついてきているか確認する素振りは、ウェイバーくんの神経をいちいち逆撫でします。
「わざわざ確認しなくても、ちゃんとついてきて──うわっ!」
言った側からウェイバーくんが、足元を滑らせてしまいました。
「──っと。坊主、意地を張るのも結構だが、あまり気張りすぎるなよ?」
「うッ……わ、分かってるよ! そんなこと、一々言うな!」
そんな彼らの様子を見て、桜ちゃんは僅かに微笑みます。
桜ちゃんが見る限りでは、彼らはかなり良いコンビのようです。そんな彼らの輪の中に入っていけるか少し心配でしたが、それをブンブンと頭をふって振り払って、桜ちゃんは先に進んでいきました。
そうして終始和やかな雰囲気で進んでいった小冒険も、視界が大きく開けてきたことによりおしまいになります。
「あれです」
桜ちゃんが指を指してそう言いました。その指の先には大きな“球体”が、『大聖杯』が鎮座しています。
「なんだ? あの変な球体……何かの魔術装置か? おい、ライダーあれが何か──おい、ライダー? ……ライダー?」
ウェイバーくんの呼びかけに全く反応を示さないイスカンダルさんに、訝しんだウェイバーくんは振り返って何度も彼の名前を呼びました。
「……」
しかし一向にイスカンダルさんの反応はありません。まるで凍りついたように“球体”を見つめ、固まっています。突然のイスカンダルさんの異変に、ウェイバーくんは少し苛ついた声をして自らのサーヴァントに言いました。
「おい、ライダー!」
マスターの声がどこか遠くに聞こえます。
イスカンダルさんはかつて、“在るか無いかも知れぬモノ”を求めて世界中を駆け回った時がありました。確かでもない与太話を信じて、ありもしない伝説を夢見て、多くの仲間と共に、世界を荒らしに荒らした時代がありました。
彼の言葉を信じて多くの者が散っていきました。最後までイスカンダルさんの言葉を信じて、夢を語りながら夢に消えていった者たちがいました。
その果てに辿り着いたのは、
もうあんな惨めな思いをするのは、真っ平ごめんでした。在りもしないモノを求めて命を懸けさせるのは、もうたくさんでした。
「あぁ……」
イスカンダルさんはソレを見て、全てを察しました。これも同じでした。
全身から力が抜けていきます。そして誰も聞こえないくらいに小さな声で、ため息混じりに吐き出しました。
「そうか……
突然茫然自失となったイスカンダルさんを、暫くのあいだ心配していたウェイバーくんでしたが、何時まで経ってもイスカンダルさんは戻ってこないので、ほうっておいて球体の調査に乗り出すことにしていました。
「それで、こいつは一体何なんだ?」
祭壇らしきところまで近づき、ウェイバーくんが訊きます。遥か上空にある謎の球体は、物凄く邪悪で、不気味な雰囲気を放っていました。知識だけはいっぱしのウェイバーくんでも、こんなものを見るのは初めてです。
「『大聖杯』っていうらしいです」
「へー『大聖杯』ねぇ……って、はぁあ!? 大聖杯? 大聖杯ってなんだよ? こんなものが冬木の聖杯の正体だってのか? こんなヤバそうなのが?」
「そうらしいです」
あっさりそう言った桜ちゃんを呆れ顔でちら見し、ウェイバーくんは狼狽しました。
外来の魔術師であるウェイバーくんは、聖杯戦争の詳しい仕組みはさっぱり知りません。そもそも『聖杯』は、アインツベルンが用意する『器』だったはずです。その形は一定のものでは無いらしいですが、まさかこんな大きなものだとは思ってもいませんでした。はたしてこんなもので、願いごとなど叶うのでしょうか?
「それにしてもアインツベルンは、毎度毎度こんな大きなものを用意するのも大変だろうなぁ」
他人事のようにウェイバーくんは言います。事実、他人事なのですからその気持ちも致し方ないことでしょう。そんななんとなしに言ったウェイバーくんの発言を、桜ちゃんが訂正します。
「あっ、多分それは『小聖杯』のことだと思います。アイリスフィールさんがお腹の中に持っているやつですね」
「はぁ? じゃあ、“コレ”は何なんだよ?」
言葉を荒らげて問い返すウェイバーくんに、桜ちゃんは続けました。
「『大聖杯』っていう、なんというか聖杯の本体? みたいなものらしいです」
桜ちゃんの説明を聞いて、ウェイバーくんが率直な感想を述べます。
「……聖杯って、こんなに邪悪な雰囲気を発してて良いものなのか?」
「……さぁ?」
桜ちゃんとて聖杯の専門家でないので、詳しいことはさっぱり分かりません。元々邪悪だったのか、途中で可笑しくなってしまったのか、知る由もありませんでした。ただ中身がスゲーヤバいモノであることしか分かりません。
「お前知らないのに、色々とちょっかい出そうとしていたのか?」
「はい、そうです」
「それってどうなんだよ?」
「あんまり良くないですよね──」
桜ちゃんが何でもない様に言います。そのあんまりな態度にウェイバーくんが突っかかってやろうとしたところ、それを遮って桜ちゃんが呟きました。
「ウェイバーさんって魔術師なんですよね?」
桜ちゃんの問にウェイバーくんは、釈然としない顔をして答えます。
「ああ、それがどうしたんだよ?」
桜ちゃんはウェイバーくんの回答を聞いて、笑顔を見せました。
桜ちゃんは魔術師ではありません。事件屋です。多少、魔道の心得はありますが、魔術となると些か知識不足でした。今は亡きハサンさんも、当然、魔術師ではありません。そのせいで実のところ伝聞と推測でしか、桜ちゃんは聖杯のことを知らなかったのです。
大聖杯は魔術師たちが作り上げた大魔術です。その領域は魔術師たちの領域と言えました。餅は餅屋、魔術は魔術師──ならば魔術のことは魔術師に聞くのが一番でしょう。
桜ちゃんはウェイバーくんに振り返って言いました。
「では、ちょっと一緒に調べてみませんか?」
その有無を言わさぬ幼女の笑顔に、ウェイバーくんが出来る回答は一つしかありませんでした。
更新が土日だけだと、いつから錯覚していた?