桜ちゃん、光の戦士を召喚する   作:ウィリアム・スミス

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桜ちゃん、考察される

 バーサーカーのマスターである間桐雁夜くんは、血反吐を吐き、地べたを這いずり回りながら、必死の形相で自身のお家を目指していました。

 

 自分もサーヴァントもダメージは甚大。特に雁夜くんに至っては、無茶な魔力使用が祟ってか半死半生……いいえ、もう九割九分“死んでる”状態です。そんな体調であってでも、懸命に歩を進めているのは、確かめるべき事柄があったからでした。

 

 今、雁夜くんの頭の中にあるのは、ライダーが言っていた『サクラ』という言葉だけです。

 

 確かに『サクラ』なんてありふれた名前の子ならば、冬木にも沢山いるでしょう。しかし、サーヴァントから漏れ出た名前であれば話は別です。魔術と関わりがある『サクラ』という名の少女など、心当たりは一人しかいません。

 

 一抹の不安が雁夜くんに過ります。最悪の事態が想像されました。一度、実家に帰ってこの目で確かめる必要があるでしょう。

 

「待って、ろよ……桜」

 

 激痛を訴える身体に鞭を打ち、時折呻き声をあげながら、雁夜くんは家路を進んでいきます。一歩一歩足を踏み出す度に、膨大な体力と魔力が消費されていきました。どれだけの時間が流れたか分からなくなってきた頃、やっとの思いで雁夜くんは間桐家に辿り着いたのです、

 

「桜ちゃん……桜ちゃんは、どこだ?」

 

 そう幽霊のようにフラフラと呟きながら、雁夜くんは家の隅々まで捜索しました。地下のムシグラから屋根裏部屋まで、隅から隅へと。

 

「い、いない……」

 

 それだけ捜索しても、家の中に桜ちゃんの姿はありませんでした。ワナワナと震え、途方にくれる雁夜くん。絶望の表情を浮かべます。そんな雁夜くんに、今もっとも聞きたくない声が聞こえてきました。

 

「なんじゃ戻ってきておったのか、雁夜。帰ってきて早々騒がしいぞ。今何時だと思っておるんじゃ」

 

 耳障りで薄気味悪いしわがれた声が、鼓膜を振るわします。

 

「貴様は臓硯! お前、桜ちゃんをどこにやった!?」

 

 忌々しげに顔を歪め、雁夜くんは叫びました。

 

 桜ちゃんの身に何かがあったとすれば、それはこの臓硯さんの仕業に違いありません。雁夜くんが憎しみを込めて、臓硯さんを睨みつけます。

 

「なんじゃ貴様、今頃になって漸く気付いたのか? 桜なら一昨日以上前から行方不明じゃ。相変わらず鈍い奴よのぅ。小娘を儂から救うんじゃなかったのか?」

 

 皺だらけの顔を不気味に歪めながら、挑発的に臓硯さんが言いました。

 

「うるさい! 黙れッ! だったら桜ちゃんは何処に行ったんだ!? 答えろッ! 答えなければ俺のバーサーカーで……ガァアァァアア!?」

 

 そう雁夜くんが啖呵を切ろうとした瞬間、雁夜くんの全身に激痛が走ります。肉体の中から(ついば)まれ、蝕まれる、そんな想像を絶する激痛が……。

 

「答えなければ『お前を殺す』とでも言いたげじゃな? 雁夜。しかし、それは無理な話じゃ。今の貴様は儂の『蟲』に生かされているも同然の状態。貴様のバーサーカーが儂を殺し尽くす前に、貴様が儂の『蟲』に喰い殺されるのがオチじゃろうて……」

「がぁあああああ!! ク、クソッ! クソ、クソォオオオオ!!」

 

 激痛にのたうち回りながら口汚く罵る雁夜くん。しばらく無残にも廊下を転げ回っていると、激痛が収まったのか、息を乱しながら這うように何処かに向かい始めました。

 

「フム、雁夜よ。何処へ行く気じゃ?」

「はぁはぁ、き、決まっている。桜ちゃんを……探しに行くんだ。お前に頼った俺が、馬鹿だった」

 

 息も絶え絶えに、雁夜くんが臓硯さんの問いに答えました。桜ちゃんがいないのであれば、もはやこの場所に用はありません。しかし、続く臓硯さんの言葉に、雁夜くんは動きを止めることになります。

 

「ほぅほぅ、それは随分と殊勝な事じゃが、そう判断するにはちと早計ではないか? 別にまだ、儂は()()()()()()、とは言っとらんぞ?」

「……な、何だって? い、今、何て言った?」

 

 想像だにしていなかった臓硯さんの発言に、雁夜くんは驚きの声をあげます。

 

「じゃから、小娘の身に何が起きたのか、教えてやらんこともないと言ったのじゃ……なんじゃ、不満か?」

「い、いや! し、知りたい! 教えてくれ! 頼む!!」

 

 恥も外聞も投げ捨てて、雁夜くんはそう憎き宿敵に懇願しました。雁夜くんのちっぽけな自尊心やプライドなど、桜ちゃんの安否に比べれば屁でもないのですから……。

 

「ふむふむ、悪くない響きじゃ……じゃが、少しばかり“足りんな”雁夜」

「ど、どういう意味だ?」

 

 臓硯さんの不敵な言葉に、雁夜くんは動揺の言葉を漏らします。

 不穏な空気を発しながら、臓硯さんがニヤリと厭らしく嗤うと、「分かり易く言うとな……」と前置きしてから言いました。

 

()()()()──ということじゃ」

 

 既に結構頭が低いはずの雁夜くんは、それでもこの日、人生最大の“屈辱”を味わうのでした。

 

 

 

 

×       ×

 

 

 

「サ、サーヴァントを召喚して融合した!?」

 

 不気味な臓硯さんの執務室で、桜ちゃんに起きた事のあらましを全て聞いた雁夜くんは、そんな素っ頓狂な声をあげました。

 

「五月蝿いぞ雁夜。今は深夜じゃ。近所迷惑になる、静かにせい」

 

 存外まともな事を言った臓硯さんに、そんな事知るか! と雁夜くんは詰め寄ります。

 

「な、なんでそんなことに!? そもそも、桜ちゃんがサーヴァントを召喚するなんて、そんなこと可能なのか!?」

「知らぬ。じゃが召喚に必要な『場』と『触媒』は確かにあの時揃っておった。『資格』も……まぁ幼いとはいえ、遠坂の嫡子じゃ。貴様のような“即席”よりも、余程あったじゃろうて……」

 

 召喚に必要な『場』はムシグラが、『触媒』は臓硯さんの蟲たちが、『資格』は言わずもがなでしょう。叶えたい『願い』も確かにあったはずです。幼い少女が“あの環境”に追い込まれて、抱かぬ願いが無いはずがありません。

 

「ゆ、融合したってのは?」

 

 雁夜くんが恐る恐る臓硯さんに訊きます。

 

「言葉通りじゃ。儂が見たのは召喚直後じゃが、召喚されるやいなや、まるで吸い込まれるようにサーヴァントと融合しおったわい。言い伝えや伝承では確かに稀にあったようじゃが、儂もこの目で見るのは初めてじゃ」

「そ、そんな事が、本当に可能なのか?」

「『憑依サーヴァント』、あるいは『擬似サーヴァント』とでも言うべきものなのじゃろうが、確かに原理的には有り得ない話ではない。あくまでも()()()()()、じゃがな……」

 

 いくら規格外の霊魂である英霊とはいえ、所詮、『霊』は『霊』でしかありません。イタコやシャーマンなどに代表されるように、霊魂を降臨させ憑依させる技術は幾らでもあります。そうである以上、英霊であろうとも“不可能”とは言い切れないでしょう。

 

「それで……雁夜。貴様、これからどうするつもりじゃ?」

 

 困惑の表情を浮かべる雁夜くんに、今度は臓硯が問いかけました。

 

「どうするって。桜ちゃんを探しだして、それで……」

 

 そこまで言って、雁夜くんに疑問が湧いてきます。

 

 探し出して、それで? それで、どうするつもりなんだ?

 このクソみたいな家に連れ戻すのか? こんな糞爺の下に? もう、とっくに自由になっているのかもしれない桜ちゃんを? この俺が、もう一度地獄に突き落とすのか? そんなこと、そんなことする位だったら……。

 

 雁夜くんの体から、沸々と張り詰めた魔力が湧き上がってきました。痛みや恐怖など関係無しに、雁夜くんは血走った目で敵意を剥き出しにします。

 

「ほぅ、一縷の望みに賭けて、儂に挑もうとするか? 雁夜?」

「あぁ、悪いがあんたは此処までだ。馬鹿みたいにベラベラと喋ったのが、運の尽きだったな、臓硯!!」

 

 雁夜くんの魔力が滾り、極限の殺意となって今まさに臓硯さんに襲いかからんとしたその時、目の前の臓硯さんが残念そうに雁夜くんに語りかけました。

 

「フム……貴様は少しは頭の回る奴じゃと思っておったが、儂の思い違いじゃったか? サーヴァントを従える貴様に、この儂がなんの対策もなく情報提供するとでも、本気で思っておったのか?」

「そんなこと思っちゃいないさ! だが生憎だったな、もう“俺の命”なんてのはどうでも良いんだ。桜ちゃんさえ助かればな! 脅しは無駄だ! あんたのしぶとさと俺の執念。どっちが上か試して──」

「では、『桜が救われなくなって』も貴様は良いと言うのじゃな?」

 

 怒りのままに雁夜くんがバーサーカーをけしかけようとすると、臓硯さんがさらりとそんなことを言いました。『桜ちゃんが救われない』。その類の台詞は、雁夜くんにとって決して聞き逃せない意味を持っていました。

 

「……一体どういうことだ?」

 

 静かに怒気を発しながら雁夜くんが問い詰めます。

 

「言葉通りじゃ、雁夜。今、儂に挑もうとすれば、よしんば儂を倒せたとしても、貴様もバーサーカーも無事では済まんじゃろう。少なくともお主は確実に死ぬ。さすれば桜を救える者も、一人もいなくなるということじゃ……」

 

 坦々と諭すように臓硯さんが答えます。

 

「ふ、巫山戯るな! 今更命乞いか!? 貴様さえ殺せば別に俺なんかがいなくなったって──」

「だから貴様は阿呆なのじゃ、雁夜。貴様は、桜の身に起きたことが、()()()()()()()()()()()()ということが、どういう事かまだ分かっておらんようだな……」

「……そ、それは」

 

 突然、圧倒的な気配を放った臓硯さんの物言いに、思わずたじろいでしまう雁夜くん。確かに、神霊を除けば最高位である英霊に憑依されては、生身の人間が無事でいられるはずがありません。それがまだ年端もいかぬ少女であれば、その代償は想像を絶するでしょう。

 

「桜はまだ十にも満たぬ幼子。下手をしなくても、心身にかかる負担は半端ではないじゃろうて……おそらく、精神も肉体も主導権はサーヴァントの方にあるじゃろう。叶えたい願いのために戦う理由のあるサーヴァントにな。じゃが、ろくに成長もしていない桜が召喚したサーヴァントじゃ、果たしてこのまま最後まで無事に勝ち残れると思うのか? それに、長時間融合しておれば、精神や人格への影響は免れられん。最悪、霊魂にまで弊害があるはずじゃ……」

 

 このままでは、想定されるあらゆる面において、桜ちゃんが死亡する可能性が非常に高い状態でした。

 

 憑依したサーヴァントにその魂ごと食い尽くされるのか、それとも他のサーヴァントに、サーヴァントもろとも殺害されるのか、どちらになるかは分かりませんが、どちらにせよ、若干五歳の桜ちゃんには苛酷すぎる現実です。

 

「そんな、そんな……俺はどうすれば良いんだ……」

 

 最悪の事態を想像したのか、雁夜くんが顔面を蒼白にしてオロオロと呟きました。そんな様子の雁夜くんに、臓硯さんは聞いたこともないような優しく穏やかな声で諭します。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()、小娘に取り憑いたサーヴァントを殲滅するしか手はないじゃろう。本来、霊魂であるサーヴァントを無理矢理外部から剥がすのは至難の技じゃが、同じサーヴァントであるならば、可能じゃろうて……」

「つ、つまり、今の桜ちゃんを助けられるのは……」

 

 震える声で雁夜くんが言います。その声色には何を期待する気持ちが見え隠れしていました。その期待に応えるかのように、臓硯さんが言葉を続けます。

 

「そう。雁夜よ……『貴様』しかいないということじゃ」

「俺しか、いない……」

 

 その言葉を繰り返すと、雁夜くんの表情が今まで見たこともないほどに輝きに満ち溢れていきました。

 

「そうか……俺しか……俺しかいないんだ。時臣じゃなくて、葵さんでもなくて……俺なんだ! ()()()なんだ!! 桜ちゃんを救えるのは、俺だけなんだぁぁ!!」

 

 ずっとずっと待ち望んでいたシチュエーションが遂にやって来ました。他の誰でもなく、雁夜くんだけが出来る特別なこと──自分だけが桜ちゃんを救えるという優越感。

 

 そんな万感の思いの中、雁夜くんは天上に向けて大絶叫します。今まで感じていた劣等感や敗北感なんてものは、もう何処かに吹き飛んでいってしまいました。今、雁夜くんの中にあるのはただただ“歓喜”のみです。

 

「これで分かったじゃろう? お主の成すべきことが……」

 

 雁夜くんの様子に珍しく笑顔を浮かべ、臓硯さんが言いました。

 

「あぁ分かったぜ臓硯! 桜ちゃんのことはこの俺に任せろ! 必ず助け出してみせる!」

 

 雁夜くんも、もはや臓硯さんへの復讐心や憎悪なども忘れて、全ての元凶にそう宣言します。

 

「儂としても桜は次世代の大事な大事な後継者じゃ。任せたぞ、雁夜よ……あぁ、念のため言っておくが、くれぐれも『見た目』や『妄言』に惑わされるでないぞ? 見た目は桜であっても、もはや中身は『桜』ではない……」

「ああ! 分かっている、任せておけ!」

 

 雁夜くんが力強くそう言葉にすると、今までの疲労や激痛は何だったのかと思うぐらいに元気よく家を飛び出していくのでした。

 

 そして、執務室に残された臓硯さんが、冷え切ったお茶をすすり一息を入れます。そして、誰もいなくなった執務室でボソっと呟きました。

 

「ハッ、だから貴様は“阿呆”なのじゃ……」

 

 

 

 

×       ×

 

 

 

 現時点において、冬木市で最も高い建造物──冬木ハイアットホテル──の頂きを、遥か地上から見上げながら、切嗣くんは思考に没頭していました。

 

 考えるのは、つい数時間前にあった倉庫街の戦闘の事についてです。なんの前触れもなく、瞬時に切嗣くんを眠らせたのは一体何者だったのでしょう?

 

 まず真っ先に思い浮かぶのは死んだはずのアサシンです。

 

 確かにあの手際の良さと腕前はそうであると考えられますが、もしアサシンの仕業だとするならば切嗣くんが今もなお生きている理由に説明がつきません。

 

 あの場で十数キロはある狙撃銃を持った人間を、ただの無関係な人間だと思うはずがありませんし、アサシンのマスターは『言峰綺礼』です。聖堂教会の代行者も勤めたあの男が、余計な情けをかけるとは到底思えません。聖職者だから平和主義者だとかは、あの男には当て嵌まらないでしょう。

 

 それに、切嗣くんはアサシン生存の可能性を、“とある理由”によりほぼ無いと断じていました。

 

 ならば下手人は別にいるはずです。それも、状況からしておそらく聖杯戦争の参加者ですらない全く未知の存在です。ただの人間ではもちろん無いでしょう。なんせあの狙撃は、発砲音や魔力の発動も全く無く、切嗣くんの魔術防壁や防護服の防御を安々と突破し、なおかつ傷跡すら残さないほどに高度なものだったのですから。

 

 そして、そんな芸当が出来る存在が舞弥さんたちの報告にありました。

 

『アンノウン』

 

 キャスターを倒し、ライダーの隠れ家に潜入せしめた謎の存在。

 

 得られた情報によれば『サクラ』という名の少女らしいですが、その卓越した技量からして、当然、見た目通りの年齢では無いでしょう。一応、一年前に遠坂家から間桐家に養子に出された子供が、『桜』という名前でしたが、当時の『遠坂桜』は若干四歳──年頃から言って流石に無関係でしょう。

 

 おそらく正体は死徒か、それに準ずる存在のはずです。正直言って、あまり気分の良い話ではありませんでした。

 

 ポケットに入れていた煙草に火をつけ、紫煙を吸い込みながら、切嗣くんはさらに思案を巡らせていきます。

 

 アサシンとキャスターの消滅の件についてですが、遡ること数日前、突如としてアイリさんの聖杯に大量の魔力が注がれ始めたことから、消滅したサーヴァントが何であれ、既に何体かのサーヴァントが脱落したことは確実です。それがアサシンとキャスターであるのは、時系列的にも正しいことに思えます。

 

 現在までに聖杯にくべられた魔力の量は、おおよそサーヴァント二体分。

 

 当然、消滅したサーヴァントの格によって誤差はあるでしょうが、前情報と併せても頭数はピタリと合います。幾ら“死”を偽装出来たとしても、流石に聖杯にくべられた魔力量を偽装する事は不可能なはずです。

 

 真冬の寒空の中、紫煙を吐き出しながら、切嗣くんは更に思考を回転させていきました。

 

 あれだけ『最優』だと言われていたセイバーは、蓋を開けてみれば大した戦果も上げないまま初戦で手傷を負って帰ってきています。思っていた以上に期待外れだと言わざるを得ません。アイリさんに関しても、『聖杯』の魔力充填に伴う体調不良で芳しくありませんでした。気丈にも平然を装っていますが、切嗣くんの目は誤魔化せていません。

 

 唯一、舞弥さんに関しては特に問題ありませんが、そもそも魔術師でもない舞弥さんの戦力評価は微々たるものと言えるでしょう。

 

 今、最も最優先に動くべきなのは、自陣の戦力回復です。

 

 もちろん、切嗣くんは先の戦闘で最も失態を犯したのは自分自身であることは重々承知していました。だからこそ、汚名返上のためにもこうして危険を顧みず、ハイアットホテルを監視しているのです。ランサーのマスターを抹殺し、セイバーの傷を癒やすために……。

 

 切嗣くんは咥えた煙草を携帯灰皿に捨てると、ポケットから携帯電話を取り出し、耳元にあてました。

 

「舞弥、準備は良いか? こちらは完了だ」

『問題ありません。いつでもどうぞ』

 

 携帯電話から聞こえてくる舞弥さんの声が、心なしか何時もより硬い気がしました。でも多分きっと気のせいでしょう。「ケーキ、ケーキ」という幻聴が聞こえてくる気がしましたが、これもきっと気のせいのはずです。

 

 目標(ターゲット)に、動きはありません。ヤるなら“今”です。

 

 切嗣くんは今一度ホテルを一瞥すると、再び一本煙草を取り出し、もう一方の手で携帯電話に番号を撃ち込み始めました。ピポパポピと滑らかに指を動かし、最後の11桁目の番号を押そうとした瞬間──切嗣くんに言い知れぬ恐怖心が襲いかかります。

 

 冷や汗がダラダラと流れだし、指先がプルプルと震えます。喉が無性にカラカラになり、視界がチカチカと点滅し始めました。明らかな異常事態です。

 

 柄にもなく緊張しているのでしょうか? いいえ、この症状の理由は別にあります。あの倉庫街の時のように、アンノウンに狙撃されることを恐れているのでしょう。正体不明の存在に狙われる恐ろしさを、切嗣くんは嫌というほど理解していました。何故ならば、普段であれば自分自身が“そう”であるからです。

 

 切嗣くんとて何の策もなくホイホイ姿を晒すただの無能ではありません。むしろこういった想定は常にしてきています。出来得る限りの狙撃対策を切嗣くんはしてきていました。最悪また眠らされたとしても、今回は舞弥さんも起爆可能な二段構えの状態です。もし万が一切嗣くんが失敗しても、必ずや舞弥さんが成功させてくれるでしょう。

 

 万事において抜かりなし。決意を固めた切嗣くんが、意を決して最後のボタンを押しました。

 

「……」

 

 しばらく待ってみても何事も起きません。突然睡魔に襲われたり、首元がチクリとすることもありません。表情には決して出さず、ほっと一安心した切嗣くんは、そのまま流れるように発信ボタンを押し込みました。

 

 携帯電話から発信された電子信号は、一度人工衛星を経由し、指定された回路に着信すると、接続された起爆信管まで伝達し、極々小規模の爆発を起こします。そして、それが切っ掛けとなり設置されていた『C4プラスチック爆弾』に次々と誘爆し、ホテルを支柱を完全に破壊しつくしていきました。

 

 幾ばくかした後に切嗣くんに聞こえたのは、僅かばかりの炸裂音と、巨大なコンクリートの塊が軋む断末魔の声です。崩落する巨大なホテル、舞い上がる粉塵、轟く崩壊音──その光景を切嗣くんは坦々と見つめていました。

 

 恐怖に染まる人々の声が聞こえます。

 

 悲鳴が、叫びが、嘆きが、泣き声が、至るところから聞こえてきます。けたたましくサイレンが鳴り響き、騒ぎを聞きつけた人々がわらわらと集まってきました。

 

 逃げ出そうとする者、助けを呼ぶ者、助けようとする者、泣き叫ぶ者、使命を果たそうとする者、そこにいる人たちは様々でしたが、皆“同じ思い”を抱いていました。

 

 これは危機だ、これは脅威だ、これは厄災だ。

 

 その場にいた全ての人たちがその悲劇を体感しました。

 その場にいた全ての人たちがその惨劇を経験しました。

 その場にいた全ての人たちがその光景を記憶しました。

 

 そして、その場にいた全ての人たちは見つめていました。崩壊したホテルを? 舞い上がる粉塵を? 逃げ惑う人々を?

 

 いいえ、彼らが見つめていたのはそのどれでもなく──暗闇の中で煙草を吹かし、崩壊したビルを見つめる一人の男の姿でした。

 

 

 彼らの“守護者”に、伝えなくてはなりません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




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