前回更新から、沢山のお気に入り登録等、本当にありがとうございました。
4thLIVE、両日参加しましたが、とても素晴らしいLIVEでしたね。これからも色々なことを頑張れそうです。
前置きはこのくらいにして。
では、どうぞ。
第五話/花は匂へど……
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昼時だというのに、空を覆う厚い雲の影響で、まるで夜明け前のような暗さをしている。講義室で点灯している蛍光灯の明るさが、普段よりも明るく感じられるのは俺だけではないだろう。
雨は嫌いだ。せっかく咲いた花が散ってしまうから。ただでさえ短命な花々が雨によってその命を切り取られ無残に散ってしまうのは、花屋の息子としても、花が好きな1人の人間としてもとても残念だ。
今日の未明から降り出した雨は止むことを知らず、さらに勢いを増していく。ここ数日晴れていたこともあって、天が溜まりに溜まったストレスを一気に発散しているようだな、と意味もなく擬人化してみたりする。
それほどまでに、今日の曇天模様は陰鬱な雰囲気を醸し出していた。昨日から確かに雲が多かったが、降り出したのが今朝からで、登校時にバス停には長蛇の列ができていた。
講義室の窓から見える外の様子をずっと見ていても天候は回復するはずもなく、いたずらに時間が過ぎていくだけだ。無意識に出たため息は虚空へと消える。この陰鬱な空気も一緒に消えてくれればいいのに、と思わずにはいられなかった。
昨日の夜に行われた花見大会では、俺はあの3人の新たな一面を知ることができたのではないかと思う。最後に一悶着あったが、何とか上手くいった気がするので万事OKということにしておこう。善子をおんぶして20分ほど歩いたのは肉体的にも精神的にも、かなりきつかったがな。
酔った善子が突然目覚めて『乗り心地はまぁまぁね』というようなことを言ってきたときには、その場に置き去りにしてやりたいという気持ちが強く芽生えてしまったが、それは仕方のないことだと思う。そのあとすぐにまた寝息を立て始めてしまったが、もしかしてあれは起きていたのではなく、寝言だったのだろうか。
善子絡みの一件以外は帰り道ではそんなに大した話はせず、だいたいどの地区に住んでいるのかといった話題が主だった。そこまで遠くないところに3人とも住んでいたため、これからなにかと世話になることも多そうだ。連絡を取りやすいよう、チャットアプリの連絡先を花丸とルビィの2人と交換し、その後善子の連絡先を転送してもらって友達追加をし、一言入れておいた。善子が目覚めてから気づいても分かりやかっただろう。
そして善子を(物理的に)送り届けてから、善子の処理を任せてその場で3人と解散し、家に帰ってからシャワーを浴びて、日記を書いていたら程よく眠くなったのでそのまま就寝、という流れである。何かを忘れている気がしたが、気にせず布団に入った。我ながら1人暮らし大学生とは思えない比較的規則正しい生活習慣をしているな、と思って苦笑いをしてしまったのは今朝の話。
何を忘れているのかは思い出せそうで思い出せないので、微妙にモヤモヤが残っている。
「……では、今日はここまでとします。今日はまだ最初の授業だからちょこっとしかやってないけど、来週以降は予定通りに進めていくからしっかりとシラバスを見て教科書などを揃えておいてくださいね」
最初は真面目に聞いていたのに、考え事をしていたらいつの間にか授業が終わってしまった。前期分の授業の概要説明だからあっさりと聞き流す程度でしか聞いていなかったが、まぁ、大丈夫だろう。あとで一応ルビィあたりに聞いておくか。
現在隣には3人が並んで座っているが、片方の空いた隣の席に座ってきた男の人と無事に仲良くなることができた。名前は
また、海斗はすでに何人かと仲良くなっているらしく、そのつながりで俺も交友関係を広げることができそうだ。見た目は茶髪にパーマと完全に"チャラい"部類だが、かなり田舎の方の出身のようでどことなく素朴な感じのする人だ。ちなみに、今は俺の隣で余裕の表情で寝ている。もちろん授業が終わったことには気が付いているはずもなく。
引っ越してきてから俺が知りあった人は、なぜか皆マイペースだったり個性が強かったり、『濃い』人間が多い。一番の良心はあの喫茶店のマスターか。今度良心に会いにまたあの喫茶店に行くとしよう。いずれ善子たちや海斗達と一緒に行ったりもしてみたいな。また、あのコーヒーが飲みたくなってきた。
「昼休みだし、カフェテリアでお昼ご飯でも食べましょ。竜はどうするの?」
善子が荷物をまとめ、席を立ちながら話しかけてきた。初日の失敗を踏まえて、今日はしっかりと起きて授業を受けたようだな。
一応今朝聞いてみたが、昨晩のことはほとんど覚えていないらしい。今後、間違ってでも絶対に善子には酒は飲ませないと強く心に誓った。
「そうだな……。今日は海斗の方と一緒に食べることにするよ。少し知り合いも増やしておきたいからな」
「分かったわ。じゃあ、またあとで授業の時に会いましょう」
「分かった」
3人が手を振りながら去っていくのを横目に見ながら、俺も荷物をまとめる。あの教授、少しレジュメを配りすぎな気がするな。初日の授業でいきなり前期の最後の授業分まで配ってきたので、すごく嵩張って邪魔だ。四つ折りにしないと変に折れ曲がってしまうな。
どうして高校までは"プリント"などの呼び名なのに、大学に入ってからは急に"レジュメ"に変わるんだろうな、と膨大なレジュメを整理しながら考える。誰しもこのようなことは考えたことがあるかもしれないが、答えが分かったところで何も得はしなそうなので、考えるのをやめる。
「おーい。そろそろ起きたほうがいいと思うぞー」
「……んぁ? ……おお、もう終わったのか」
「寝てたら一瞬に決まってるだろ。荷物をまとめて俺達も昼ご飯を食べに行こう」
何とかカバンにレジュメをねじ込み、隣で至福の表情で寝ている海斗を起こす。とても能天気なことを言っているが、配られた時点でカバンにすべてレジュメを突っ込んでいたので荷物を整理する手間は省けている。寝るにしても、もう少し授業を受けるという姿勢は見せるべきだとは思うのだが。
「了解。んじゃ、さっさと移動するか」
「誰のせいで足止めを食らったと思ってるんだ」
会話がスムーズに成り立っているが、まだ会って数時間の関係である。人間、なぜか歯車がきれいに当てはまる相手というのがいるらしい。まるで数年来の友人のような会話のテンポだ。
講義室内の人は先ほどよりもかなり少なくなっている。俺達も早めに移動しなければ。
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食堂に移動したところで、先に来ていたという海斗の友達2人と合流した。2人のうち1人は海斗の高校の頃からの同級生の
適当に自己紹介を済ませたところで、注文した昼食を受け取ってから4人掛けのテーブルに座り、食べ始める。
「ここの大学の飯って結構安い割にはレベル高いよな」
「それは思ってた。昨日初めて食べたけど、思ってたより美味しくてびっくりしちゃったもん」
和樹がカツカレーを、和美がかけそばを食べながら話し始める。2つともどこの学食にもある定番メニューだが、だからこそ、その味次第でそこの食堂の価値が分かるのではないかと、俺もまた、学食においては定番メニューの立ち位置にある、ラーメンをすすりながら考える。ちなみに海斗もかけそばだ。
「確かにこれは美味しいな。俺みたいな1人暮らしにも優しい値段設定なのも嬉しい」
「あーそっか。竜は1人暮らしなんだもんな。俺とか和樹は寮暮らしだからその辺はあんまり気にしなくてもなんとかなるんだよなー」
「私も1人暮らしだけど、いろいろ節約していかなきゃいけないから大変よね」
「そうなんだよなぁ。どうにか切り詰めつつちゃんとバランスの取れた食生活を心がけないと体調を崩しそうで怖い」
1人暮らしを始めてみて分かったことは、食費は節約しようと思えばいくらでも削れるということだ。高校の頃の先輩の中には、大学に入ってから朝ごはんを食べなくなった、という人もかなり多くいた。一日一食しか食べない、という猛者もいたりする。それで健康でいられるのかどうかは分からないが。
「家に1人だと、風邪をひいたときが確かに怖いわね。私の場合は結構弱気になっちゃうし」
「頼れる人が1人くらいいるとよさそうだな」
実際に風邪をひいてみなければわからないが、活動量が極端に減ってしまうことだけは確かだ。俺の場合はあの3人の誰かあたりに頼めば誰かは来てくれるかもしれない。風邪を引いた人間の家に友人を呼ぶことはかなり申し訳なく感じてしまうだろうが、仕方のないことだろう。代わりに、もし何かあった場合に、力になってあげればいいんだ。
「午後の授業って何かあるっけ?」
海斗がかけそばの残ったスープに七味唐辛子を大量にかけながら聞いてくる。スープが赤く染まっていく様子に、俺を含めた海斗以外の3人の顔が引きつっていることには気が付いていないようだ。顔色一つ変えることなくそれを飲む様子に、開いた口が塞がらない。
「とりあえず1コマ分だけ空いてから、1つだけ授業があるっぽいな」
気を取り直して、足元に置いていたリュックからガイダンスの際にもらった要項を取り出して教える。履修登録といっても、1年生の前期の授業はほとんど学校側で決められているらしかった。前期でシステムに慣れておき、後期以降はそれぞれの時間割の組み方ができるようにするためのようだ。
「空きコマかー。この時間の使い方でそれぞれの大学生活に違いが出てくるよなぁ」
「確かにな」
「私達はこの後も授業が入ってるわね」
「うぇぇまじか……」
何気なく海斗が言った"空きコマ"という単語で改めて、自分が大学生になったんだな、という実感が湧く。そのうちテスト期間になると、『単位が危うい』などと皆一様に騒ぎ始めるのだろう。それもまた良いと思う。誰もが、こうして"大学生"になっていくのだろう。
法学部の方はこの後も授業があるようなので大変だ。
「とりあえず、そろそろ行くか」
「そうね。私達の講義棟は少し遠いし、早めに移動しておきたいわ」
法学部の和樹と和美の2人組が移動を始める。ちょっと早いが、広いキャンパス内で迷子になって授業に遅れでもしたら大変だろうし、ちょうどいいのかもしれない。
「じゃあ、俺達はもうしばらくここでグダグダしてるとするわ。昼飯食ったら眠くなってきた」
「分かった」
軽い別れの挨拶をしてから下膳をしに行く2人に海斗が伸びをしながら言う。先ほどの授業でかなり寝ていたというのにまだ寝るつもりのようだ。前世はナマケモノかなんかなのだろうか。
……前世といえば、だが、あの並木道で善子に前世が云々の話を聞いてからというもの、ほとんど話題になることはないな。昨日の朝だって軽く触れた程度だ。まだ信じてるわけではないが、本当に前世の記憶があるというのならもう少し話題に絡めてきても不思議ではないと思うのだが。
といっても、ここで俺から善子に対して"前世"というワードを出してしまうと、少々面倒なことになりかねない。半堕天使キャラがまた顔をだしてしまうかもしれない。
「海斗。俺達は空きコマの時間、どうする?」
「……」
「……海斗?」
海斗に話しかけてみても返事がない。どうやらもう眠ってしまっているようだ。
さすがに驚きを隠せない。数十秒前まで普通に会話をしていたというのにもう夢の世界の住人になってしまっている。本当に、マイペースが過ぎるというか何というか……。
「まったく……」
小さくつぶやいたその言葉は、食堂を包む喧騒の中へと消えていった。あとに残るのは海斗の幸せそうな寝顔と、俺の嘆かわしい表情だけである。
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「お待ちどおさま。はい、こちら、注文してもらった、コーヒーとフレンチトーストだ」
「ありがとうございます」
"今日のおすすめ"と書かれていた淹れたてのコーヒーの香りが鼻腔をくすぐる。昼間にこの喫茶店に行きたいとふと思ったので、思い立ったが吉日ということで、授業が終わってほか人達と別れた後に一度家に帰って荷物を置き、身軽な状態にしてからここに来た。前回はパンケーキをサービスしてもらって美味しかったので、今回はフレンチトーストを注文してみた。
「あれだな。お客さん、この店の常連になりつつあるな」
いつものようにマスターがカウンターを挟んでイスを置き、座る。もうこの店の経営状況を心配するのはやめにしよう。
もしかしたら俺がいない時間帯には盛況なのかもしれないし、ここで店を構えて経営していられるということは、それ相応の利益があるということだろうから。
「そうですね。いつもお世話になっております」
まぁ、まだ3回目の来店だが。
「そういえばね、今日のコーヒーはたんぽぽコーヒーっていうんだ」
「たんぽぽコーヒー?」
名前から察するにたんぽぽで作るコーヒーだろうか。見た目や香りは普通のコーヒーに近いが。
「そうそう。カフェインが含まれてないから不眠症の患者さんとか子供でも飲めるし、二日酔いや肝臓、便秘にもいいとされてるんだ」
「へぇ〜。すごいんですね、たんぽぽコーヒー」
二日酔いにも効くのか。もし、今度また善子が間違って酒を飲んでしまったらこれを飲ませれば少しはマシになるだろうか。
……いや、ないな。
「市販のやつもあるらしいし、よかったら今度買ってみるといいよ。飲みすぎるとお腹がゆるくなることもあるから適量は守った方がいいけどね」
「はい、ありがとうございます」
マスターのありがたいコーヒー講座が終わったところで早速、たんぽぽコーヒーを一口飲んでみる。味自体はどちらかというと濃いほうじ茶のような、独特な感じだ。お茶とコーヒーの中間、とでも言えばいいか。
注文したフレンチトーストも食べてみる。やわらかく程よい甘みで、思わず顔が綻んでしまうような美味しさだ。
「最近は、なんか面白い話ってあった?」
コーヒーとフレンチトーストに舌鼓を打っていると、マスターが自分の分のコーヒーを片手に話しかけてくる。
なんというか、その出で立ちはとても"様になっている"ように見えた。
「そうですね……。最後にこの店に来た時、あの後あの並木道に行ったんですけど、その時に、よし……前に話した女性と再会したこととかですかね」
数秒考えてから、一番話題として盛り上がりそうなものを選択する。前回は、もしかしたらまた会うことになるかも、と考えていたからな。実際にそれが本当になるとは思いもしなかったが。
「ほう? これは何か運命的なものを感じるなー」
「いやいや、茶化さないでくださいよ」
マスターがニヤニヤと嫌な視線を向けてくるが、これはスルーさせてもらうことにしよう。マスターが手に持っているコーヒーから立ち上り揺れている湯気まで、何故だか楽しそうに見えた。
「それで、何か会話はしたの?」
「まぁ、いろいろと」
「例えば?」
「まず、名前が善子っていうんですけど、会った時は善子は友達2人といて、3人と会話した感じです。それで会話しているうちに、実はその3人と俺が大学、それに学部まで一緒ということが分かりました」
あの時の会話を少し思い返しながら淡々と語る。今にして思えばとてつもない偶然だな、と少しばかり苦笑いをしてしまう。
「へぇー、面白いこともあるもんだ。なんかにやにやしちまうな。やっぱり運命とかそういうのを感じるよ」
「どうしてすぐそうなっちゃうんですか」
楽しそうにへへっと笑うマスターに思わずツッコみを入れてしまったが、落ち着くために徐々にぬるくなり始めたコーヒーを一口。いい香りが鼻と口いっぱいに広がっていく感覚が分かった。
「なんでかって? まぁそうだな。……俺は姉の影響で、案外そういう"運命"とか"占い"といった話は好きでな。運命とかは本当にあると思ってるんだよ」
「なるほど」
それなら、マスターがこんなにも運命にこだわっているのもある程度納得がいく。俺は1人っ子だからイマイチよくわからないが、やはり兄弟や姉妹の影響というものは大きいのだろう。マスターの姉ならば、さぞかし気さくで良い方なんだろうな。
「そういえば運命関連で思い出したんですけど、その善子と話をしている時に、おかしなことを言われました」
「おかしなこと?」
「善子と俺が、前世で恋人同士だった、と言ってました。一番最初に会った時に泣いていた理由もそれだって言ってました」
「前世で、恋人同士……?」
前世が云々という話はだれが聞いてもおかしな話だろう。実際あの場にいた善子以外の3人はそのように受け止めていたからな。
マスターは不思議そうにして、俺が言った言葉の意味を考えているようだ。こんな突拍子もない話をいきなりされたところで一瞬で理解できる人間はなかなかいないはずだ。
少しばかりの沈黙。店内に流れるジャズミュージックの音量が少しばかり大きくなったような気がした。曲名は知らないが、どこか落ち着く雰囲気の曲である。
「やっぱり、意味が分からないですよね」
顎に手をあてて思案顔をしているマスターにそう言う。妙に真剣な表情をしているので、何か思うところがありそうだ。
「いや、俺も前世が云々についての話は割と好きで分からなくもないが、実際に意外と近くにそういうことを大真面目に言う人がいるんだなって思ってな。ちょっとびっくりした。もしかしてだけど、その善子って子、頭が少々残念だったりする?」
「一緒にいた善子の友達、ルビィと花丸っていうんですけど、2人によれば、元重度の中二病患者だったとか」
マスターの「頭が残念な子」という言葉に思わず吹き出しそうになってしまった。頭は良いが、どこか抜けていて少しばかり変わっている、という感じだろうか。
「中二病かー。これまたすごい経歴の持ち主で」
「中学高校と堕天使キャラで通していたらしく、時折堕天使が顔を出すことがあるんです」
主に焦った時や気を抜いたとき、そして酔った時か。特に酔った時がひどいので、善子には間違ってでも酒は飲ませないようにしようと決意を新たにした。
「ふっ、こいつは傑作だ! 楽しそうな大学生活だな」
「面白がらないでくださいよ」
楽しそうに笑っているマスターの様子にため息を一つ。目の前にあるたんぽぽコーヒーから立つ湯気の量が減っている。原料がたんぽぽならば、この立ち上る湯気は綿毛とも言えるのではないか、と意味の分からない謎の理論が脳内で出来上がってしまったので、ぬるくなったそのコーヒーを一気に飲み干した。
「その善子って子の写真とか、ないの? 前に話を聞いたとき美人だったって言ってたし。少し気になるかも」
「写真、ですか……。あ、ありがとうございます」
こいつはサービスだ、といい笑顔でコーヒーのおかわりをサービスしてくださったことにお礼をしつつ、善子の写真なんて撮っていないため、どうしたものかと思案する。
もちろん一緒に写真を撮ったりなどしているはずもなく、手元には見せられるようなものはない。
「うーん……ないですね。なんせ、知りあったのが最近で、チャットアプリの連絡先を交換したのも昨日の話ですし」
ならチャットアプリのプロフィール画像などはどうなのか、となるだろうが、善子も、花丸もルビィもみな自分達の写真を使っていなかった。善子は悪魔のような、謎の可愛らしいアイコンだった。何度でも言うが、本当に堕天使キャラを卒業できているのかと疑問に思ってしまう。
ルビィは何かのアイドルのような衣装を身にまとった人達の写真だった。本人に聞いてみると、『ルビィが一番好きなスクールアイドルなんだぁ』とのこと。アイドルのような、ではなく本物のアイドルだった。
花丸は一番謎である。なぜなら、鎌倉の大仏の写真だったからだ。本人曰く『鎌倉の大仏が全国にある大仏の中で一番好きずら! 秋田県にある赤田の大仏様も捨てがたいけどやっぱりマルは鎌倉の大仏ずら! あの独特の猫背気味の姿勢が…………』とのことだ。本当はもっとつらつらと多くのことを語られたが、長すぎたので割愛することにする。寺の娘だということで納得してしまう部分は大いにあるが。
「そうか、残念だ。まぁ、お客さんの友達っていうなら、そのうちこの店に連れてきてもらえればいい話か。あわよくば常連客も増やしたいところだしな」
「それもそうですね、それに、本人のいないところで勝手に写真を見せるのも少し後ろめたさもありますから」
マスターの場合、後半の言葉が隠し切れない本音のように思えるが、気にしないことにする。
「まぁ、そのうち3人とも連れてきますよ。それに、今日は新しく友達もできましたし、その人達もいずれ」
「お、そいつはありがたい。ぜひうちに連れてきてくれ」
顧客が増えることに喜びを露にするマスターの様子を見ながら新しいコーヒーを一口飲む。やはりいい香りだ。
「うちの店には基本的に華がないからな。女子大生がうちの店に来てくれたらそれだけで嬉しいってもんだよ」
「下心が出てますよ……」
なんというか、考えていることが二転三転している気がする。中年男性としては割と普通の考えなのかもしれないが。……いや、これは少々偏見が過ぎるか。
マスターの頭の中ではどういう思考がなされているのか純粋に気になるところではあるが、それについて考えてみても仕方がないのでやめる。
呆れた様子を出してしまったが、今回は仕方ないとしよう。
「まぁあれだ。お客さんの友達ってんならいい人なんだろうし、いつでも連れてきてくれていいからな」
「はい、ありがとうございます」
一旦会話が終わる。椅子に座った状態でいるとどうしても体が硬直してしまった感覚がしてくるので定期的に伸びをしたくなる。ぐっと腕を伸ばす。肩の骨が鳴る音が店内に響いた。
その後、サービスしていただいたコーヒーを飲み干し、フレンチトーストを食べ終える。かなり早めではあるが、これが今日の晩御飯ということで
いいだろう。
「今日の所はそろそろお暇させて頂きますね。ご馳走様でした、今日もおいしかったです」
「おう! また来てくれな!」
テーブルの上に置いていたスマホと財布をポケットにしまいながら立ち上が────
「ん?」
────ろうとしたところで、ポケットに入れたばかりのスマホが鳴動した。その着信はいったい誰からか。俺が使った食器を片付け始めていたマスターも、手を止めて俺のほうを見ている。
「……っと、善子か」
相手は、先ほどまで話題に出ていた善子からだった。善子、という名前を聞いたマスターは、とてもいたずらっぽい、まるで少年のような笑顔で勢いよくサムズアップしている。店内も壁に掛けらている、誰をモチーフにしているのか分からない肖像画の方をちらりと見てみる。もちろんその表情に変化が表れるはずもない。まぁ、絵なのだから当然だ。
なぜそこまで楽しそうにしているのかはさておき、電話に出てもいいようなので、出ることにした。
「もしもし?」
『あ、やっと出た。もしもし、竜? 私だけど』
「ちゃんと名前を言え。詐欺じゃあるまいし」
勿論かかってきた相手は善子で間違いはないが、何となくこういうツッコみがしたくなってしまった。
『善子よ。見たらわかるでしょ?』
「まぁ、分かってはいた」
『めんどくさいわね。まあいいわ、そんなことより、今から会えないかしら?』
「今から? 特に予定はないから問題はないが。どうかしたのか?」
家に帰ってもやることはないので暇だが、何か要件だろうか。
『今朝から雨が降ってたでしょ? そのせいであの並木道の花が散ってしまったんじゃないかって心配になったのよ。だから、一緒に見に行けないかって思って』
「なるほどな」
確かに今朝からの雨だと花が散ってしまっているかもしれない。現に大学の桜並木の花は散ってしまっていたしな。ライラックの花は本来、桜の花のように散ることはなく、その短い寿命を終えても茶色く色を変えて木についたままであるはずの花だ。散ってしまっていたとしたら残念だ。
俺が座っていた辺りのカウンターを拭きながら俺の電話の様子に耳を傾けているマスターをほんの少しだけ見てから、また話に戻る。
『幸い、今は雨も止んで少しずつだけど晴れてきてるから、見に行くにはちょうど良さそうよ』
俺がこの店に来るときにはすでに小降りになっていたが、既に止んでいたらしい。雨上がり特有のじめじめとした感じさえ気にしなければ問題はないだろう。
「分かった。それなら俺もいくよ。集合場所は現地でいいか?」
『そうね。30分後くらいにあそこで待ち合わせましょう』
「了解。じゃあその時にまた」
『ええ、それじゃ』
手早く時間と場所を決めて電話を切る。突然出かける用事が出来てしまったが、暇だったので丁度いい。ここまであっさりと予定が決まってしまうのはなかなかないが、時にはこういうのもいいだろう。
「善子って子、なんだって?」
電話が終わったのを見計らって、マスターが尋ねてくる。俺が使っていた食器をいつの間にか洗い終えて、いつものように拭いている。本当に、いつの間に洗ったのだろうか。
「ライラックの並木道の花が今朝からの雨で散ってしまっていないか見に行かないか、とのことです」
簡潔に内容を伝える。実際、これくらいしかないだろう。現地で会話くらいはもちろんするだろうが。
「へぇ、一緒に花を、ねぇ……」
「善子にとって思い出の花らしいですからね、ライラック」
「うーん、まぁいいか。これから行くんだろ? 暗くなって来る頃だから気をつけてな」
「はい。ありがとうございます」
マスターにお辞儀をし、今度こそ店を出る。店の扉についた鈴の、からんからんという心地よい音が鳴る。
「またのご来店をお待ちしております!」
マスターが必ずその客にも言うその決まり文句を、閉まる扉の隙間から受け取って外に出る。集合時間はだいたい午後6時でまだ時間はあるので、一度家に帰ってからでもいいかもしれない、と考えつつ、家に向けて歩き出した。
地元よりも幾分か暖かい春の風を全身に浴びる。実家で暮らしていた時よりもかなり身軽になり、唐突に入り込んできた予定にも柔軟に対応できるようになる、と高校の先輩に教えてもらっていたのをふと思い出した。これからもこういった出来事があるのだろうか。これは交友関係次第で変わるだろう。
店内で危惧していたよりもじめじめとしておらず、なかなかに気持ちの良い天気になっていた。雨が降った時特有の、
これから向かうところはさらにいい香りがするだろう。ライラックの花の甘い香りが無性に嗅ぎたくなってきた。散っていなければいいのだが……。
不安げに見上げた、徐々にオレンジ色へとその色彩を変えていくであろう春の空を、3羽のカラスが鳴きながら飛び去って行った。
お読み頂き、ありがとうございました。
次回以降もよろしくお願い致します。