りゅうおうのおしごと! 八一と銀子の盤外戦   作:ぴよ

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勝負手

 

 部屋には重苦しい沈黙が流れている。

 姉弟子はじっと俺の目を見たまま、視線を逸らそうとしない。どうやら逃がす気はさらさらないようだ。

 

 桂香さんの言葉は強い力を持つ。なぜなら、いつも正しいからだ。

 そして、俺は桂香さんの言葉にはいつも助けられている。それは姉弟子とケンカした時や、俺が名人との対局でボロボロになった時……桂香さんの言葉はいつも俺の背中を押してくれた。

 

 その桂香さんが「八一くんは銀子ちゃんのことが好き」と言ったなら、それはつまりそういう事だ。むしろそれを聞いて、俺自身もやっぱりかと納得しているくらいだ。

 

 状況的には、先程から姉弟子による連続詰めろを何とか逃れていたが、ついに必至をかけられてしまったという感じだ。もうこれはどうしようもない。

 必至がかかってしまったのなら、するべきことは一つしかない。

 

 王手をかけて攻める。

 例えそれが、明らかな無理攻めだったとしても。

 

 

「その通りです。俺は姉弟子のことが好きです」

 

 

 俺の言葉に、姉弟子は目を大きく見開いた。

 これでもう戻れない。人生には待ったはない。だから、進むだけだ。

 

「夏に二人で、原宿の釈迦堂さんのところに研究会に行きましたよね。その時の姉弟子のドレス姿を見てから、姉弟子ってこんなに可愛い人だったんだって気付いて、女の子として意識するようになって…………いや、もっと早く気付けって話かもしれないですけど……」

「…………でも八一、今はそういう相手を見つける気になれないって言ったじゃん……桜ノ宮で……」

「それは……姉弟子を困らせたくなかったんです。いや、そう言うことで失恋の痛みを誤魔化していただけかもしれません」

 

 実際は、全然誤魔化すことなんてできなくて、ズキズキと胸は傷んでいたわけだけど。

 姉弟子は困惑した表情を浮かべて。

 

「失恋……?」

「はい。姉弟子が俺のことをどう思っているのかっていうのは、桜ノ宮でよく分かりましたから……はは、それももっと早く気付けって話ですね。恥ずかしい話ですけど、俺、ひょっとしたら姉弟子は俺のことを好きなんじゃないかとも思ってたんですよ。それで勝手に期待して勝手に落ち込んで……すいません」

「…………」

「姉弟子にとって俺はあくまで弟弟子で、それ以外の何でもないというのはよく分かっています。だから、今話したことは全部忘れちゃってください。それで、明日からいつも通り変わらず接してもらえると、ありがたいです」

 

 そう、これは一応攻めてはいるが、その攻めが届かないことは知っている……要するに形作りみたいなものだ。

 俺の気持ちを知られてしまった以上、こうやってまとめるのが一番だと思った。

 

 俺はベッドから立ち上がりながら、姉弟子の方は見ないようにして。

 

「それじゃ、俺は和室で寝るんで、姉弟子はそのベッド使ってもらって――」

 

 そこまで言った時、後ろから服の裾を掴まれた。

 

「姉弟子? どうしましいいいいいいっ!?」

 

 振り返る瞬間、相当な力で思い切り引っ張られた!

 そのまま訳も分からないままベッドの上に転がされて、そして。

 

 ぎゅっと、姉弟子は俺に抱きついて、胸のあたりに顔を押し付けてきた!

 

「ちょっ、ま、まさか、また抱き枕になれとか言う気ですか……!? あの、自分で忘れてほしいって言っといて何ですけど、さっきからの流れでこういう事されると結構気まずいものがあるんですけど…………姉弟子?」

 

 何か様子がおかしい。

 姉弟子は俺の胸に顔を埋めたまま何も言わないし、微かに震えているような気もする。

 

 これは流石に放っておけないので、とにかくどうしたのか聞こうと再び口を開こうとした……その時。

 

 

「……ぐすっ」

 

 

  泣 い て る ! !

 

 やばい、完全にやらかした。

 これどう考えても、さっきの俺の告白のせいだよな!? な、泣くほど嫌だったのか……いや、凹んでる場合じゃない!

 

 夜中にJCを部屋に連れ込んで泣かせる男とか、もう完全にクズだ。

 鵠さんに『クズ竜』とか書かれても何も言えなくなる。

 

「す、すいません姉弟子! 急にあんなこと言われて気持ち悪かったですよね! え、えっと、その、もしアレだったら今からでもタクシー呼びますんでごばっ!?」

 

 言葉の途中で頭突きをくらった。

 痛いけど、今すごい良い匂いした…………変態みたいだな俺。

 

 ここで姉弟子は顔を上げて俺を見た。

 至近距離から見る姉弟子の目は赤くなっていて、やはり涙が浮かんでいる。

 

「ばかやいちっ! 鈍感!!」

「ごめんなさいごめんなさい!! 急に俺なんかから告白されたら嫌に決まってますよね!! そこまで気が回らなくて、本当に俺……」

「だからどうしてそうなるのよ!! どうして私が八一のことを何とも思ってないなんて決めつけて話進めてるのよ!!」

「どうしてって……」

 

 姉弟子の言葉に、今度は俺が困惑した。

 

「だって、姉弟子が自分で言ったんじゃないですか。桜ノ宮のホテルで、俺のことが嫌いだって……」

「……八一あんた、将棋指してる時、相手の手を見て意味を一つしか考えないの?」

「いや、もちろんそんな事はないですけど……プロってのは複数の含みを持たせた手を指すのが当たり前ですし…………えっ、じゃあ、つまり……」

 

 将棋に例えられて、ようやく姉弟子が言いたいことが分かった。

 なんというか、我ながら呆れるくらいの将棋脳だな……と思いながら。

 

「姉弟子が言ってた“嫌い”って言葉には、別の意味があった……っていうことですか? でも、別の意味と言われても、中々思いつかないんですけど……」

「あの時、私が八一のことが嫌いだって言う前、八一はなんて言った?」

「俺ですか? えーと……確か、姉弟子がシューマイ先生の言うことを真に受けて馬鹿なことをしようとしてるから『こんなことはやめてください』って」

「そのあと」

「そのあと? えっと、『好きでもない相手とそういうことをしようだなんて』……だったかな?」

「…………」

「……あ、あの、姉弟子?」

 

 この言葉は自分で言ってて胸が痛いけど、姉弟子が言えって言うから我慢して言っているのに、姉弟子は見る見る機嫌が悪くなっていく。

 

「……だから、嫌いなのよ」

「その……そういうお節介なことを言うから……ですか……?」

「私のことなんて何一つ見てくれないからよ!」

 

 姉弟子の目から、涙がポロポロとこぼれた。

 

「何が『好きでもない相手とそういう事するな』よ! 私が!! 本当に!! 好きでもない相手とそういう事する女だって思ってるの!?」

「あっ、い、いえ、もちろんそんな事は…………え?」

「ハワイの時だってそう! 私は八一にキスさせようとしたけど、あんな事、何とも思ってない男相手にすると思ってるの!?」

「……あの、姉弟子。それって」

 

 冷えきった心臓が、再び高鳴り始めているのを感じる。

 これもまた俺の勘違いなんだろうか。姉弟子の言葉を良いように解釈して、一人で舞い上がっているだけなんだろうか。

 

 姉弟子は涙を拭うこともせずに、続ける。

 今まで溜め込んでいたものを、全て吐き出すかのように。

 

「何が『ひょっとしたら姉弟子は俺のことが好きなんじゃないか』よ! 桂香さんなんてずっと前から知ってた! 八一の弟子の小童だって最初に会った時から明らかに気付いてた! 供御飯先生も、月夜見坂先生も、釈迦堂先生も!! 皆すぐ気付いてるのに、ずっと一緒にいた八一は全然気付かない! 八一の頭にあるのはいつも将棋のことばかりで、私のことなんて全然見てない!!」

 

 姉弟子は桜ノ宮で言っていた。『将棋が強くて、将棋のことばっか考えているところがきらい』と。

 

 姉弟子にとって、俺達の間にあるのは将棋だけ、そう思っていた。

 だからこそ、姉弟子はその将棋で俺に上を行かれているのが許せない、そう思っていた。

 

 姉弟子は再び俺の胸に顔を押し付けて。

 

「それなのに、急に私のことが好きだなんて言い出して……しかも言うだけ言って忘れてほしいなんて……本当に何なのよこのばか……ばかやいちっ……!!」

「……すいません」

「謝るな、ばか……」

 

 頭がパンクしそうだ。

 

 “嫌い”と言われて、その意味が“私のことを見てくれないから嫌い”というところまで読むなんて、無理ゲーとしか思えない。一歩間違えば、ただの痛い勘違い野郎だ。

 でも、世の中のデキる男というのは、そういうところまで読めるものなんだろうか。もしそうなら凄すぎる……プロ棋士なんて目じゃないだろ……

 

 ただ、これはもうそういう事……なのだろうか?

 さっきからの姉弟子の言葉を聞いていれば、俺でも一つの答えを導き出すことはできる。

 

 ……でも、それは本当に正しいのだろうか。

 また俺が想像もつかないような、別の意味があるんじゃないだろうか。

 そんな考えが頭の中でグルグルと回って、中々核心の部分を聞くことができない。聞くのが怖い。

 

 ただ、いつまでも黙ってはいられない。

 姉弟子がここまで言ってくれたんだ、俺も勇気を持って踏み込むしかない。

 

「……その、つ、つまり、姉弟子は…………俺のことが好きなんですか?」

 

 聞いて、答えを待つ。

 

 まるで審判を待つ罪人のようだ。

 次に姉弟子から返ってくる言葉が不安で、冷や汗さえ出てくる。

 名人との竜王戦第四局で、指し直しが決まるかどうか待っていた時でさえ、ここまで緊張はしなかった。

 

 しばらくの沈黙。

 時間的にはほんの数分のことなのかもしれないが、俺にとっては何時間にも感じられ、その間ガリガリと神経をすり減らされているようだった。

 

 姉弟子は答えた。

 

 

「うん。私は、八一のことが好き。ずっと……ずっと前から」

 

 

 目に涙を浮かべて、頬をほんのりと赤く染めて、俺に抱きついたまま至近距離からそう言った姉弟子。

デキる男なら、ここですぐに何かキザなセリフの一つでも言いながら、女の子の頭を撫でるくらいのことが出来るのだろう。

 

 でも、そんな芸当は俺には不可能だった。

 俺はただただ、姉弟子に目を、心を奪われ、何かを言う余裕なんてない。いつも頭に浮かんでいる将棋盤でさえ、この時だけは消え失せていた。

 

 姉弟子は俺のことを将棋星人とか言うけど、やっぱり俺だって人間なんだ。

 好きな女の子にこんな事を言われたら、他のことは全て吹っ飛んでしまう、どこにでもいるただの17歳のガキなんだ。

 

 そうやって俺が固まっていると、姉弟子は不満そうに頬を膨らませて。

 

「……何か言え、ばか」

「…………あ、ありがとう?」

「ばか」

 

 コツン、と胸に頭突きされた。

 でも、全然痛くはなく、頭突きというかただ寄りかかっただけのような感じなので、俺の返事は最善手とまではいかずとも、少なくとも悪手ではなかったようだ。

 

 少しの間そうしていると、ようやく俺の頭もまともに回り始めてきた。相変わらず心臓はバクバクうるさいけど。

 俺は軽く咳払いをすると、姉弟子に確認してみる。

 

「えっと……つまり、俺と姉弟子は両想い……ってことでいいんですか?」

「うん」

「じゃ、じゃあ……その、お、俺達、これからはこ、恋人……って感じでいいんですか、ね……?」

「ダメ」

「ええっ!?」

 

 まさかの返答が飛んできた!

 自分の勝ちを信じて寄せていたら、いきなり大逆転の手を指されて頓死したような……そんな衝撃を受けて呆然としてしまう。

 

 えっ、今完全に付き合う流れじゃなかったの!?

 もう全く分からん、将棋よりよっぽど難しいだろ恋愛って……。

 

「そ、その、両想いなら付き合うってものじゃないんですか……?」

「普通だったらそうかもね。でも、八一は普通じゃないから。将棋星人だから」

「……えっと、俺が将棋星人だったら何が変わってくるんですか?」

「私も将棋星に行かなきゃいけない」

 

 話がどんどん電波な感じになっていく……もうついて行けない……。

 そんな俺の様子を察したのか、姉弟子は説明してくれる。

 

「私も八一が戦っている場所……プロの世界に行かないと、八一から見てもらえないから」

「そ、そんなことないですって! 例え盤を挟まなくたって、姉弟子のことは見てますよ!」

「うん、それは八一が好きって言ってくれて分かったし、嬉しかった。でも、八一と本当の意味で向き合うには、やっぱり将棋しかないと思う。将棋の、真剣勝負しかない。私は、八一にとってこの世で一番大切な、将棋で話したいの。そうじゃないと、自分で自分のことを、八一の恋人として相応しいと思えないから」

「姉弟子……」

 

 その覚悟に、俺はもう口を挟むことはできなかった。

 姉弟子の言いたいことがよく分かってしまったから。

 

 俺達は二人共、将棋指しだから。

 二人が本当の意味で向き合うには将棋しかない。それは簡単に否定できるものではなく、否定してしまえば、将棋指しとしての姉弟子を否定することになってしまう。

 

 それだけ俺達にとって将棋とは特別なもので、生きる上で切っても切れないもので。

 そして、将棋指し同士が最も深く心を通わせる方法といえば、それは絶対に負けられない、己の全てを盤に、相手にぶつける真剣勝負しかない。

 

 俺はそうやって、プロの世界で全力のコミュニケーションをとってきた。

 歩夢とも、月光会長とも、山刀伐さんとも、そして、あの名人とも。

 そう、若手棋士からは“神”とさえ呼ばれるあの名人とだって、あの時、あの瞬間、俺は確かに対等な立場で、盤と駒を使って語り合っていた。殴り合っていた。

 

 俺はあの時、初めて名人を見た気がする。

 長い対局で目が充血して、口は半開き、無精髭も伸びていた40代の中年男性。その姿は“神”などとは程遠かった。

 

 それでも、最高にかっこよかった。テレビなどで見るよりも、遥かに。

 そして、それを知ることができて凄く嬉しかった。きっとそれは、名人と本当の真剣勝負をした者しか知ることができないことだから。

 

 真剣勝負というのは、つまりは公式戦ということだ。

 

 プロの棋戦にも奨励会員や女流、それにアマチュアの枠があったりする。

 だから、男性プロ棋士と対局するのに必ずしも四段にならなければいけないというわけではない。

 

 でも、姉弟子はそれでは満足できない。

 プロになる前の俺だってそうだった。アマや奨励会員としてではなく、プロとしてプロと戦いたかった。三段リーグを抜けた先の世界に踏み出して、そこで戦いたかった。

 

 公式戦で将棋を指す。お互いプロ棋士として、己の全てを賭けて戦う。

 それは俺の大切な弟子、あいや天衣とだって一度もしたことがない。

 

 姉弟子とはVSは今まで何度もやってきた。でも、公式戦となると、きっと今まで見たことがなかった姉弟子を見ることになる。同じように、今まで見せたことがなかった俺を、姉弟子に見せることになる。それが盤上で本気で語り合うということだ。

 

 そんなの、嬉しいに決まってる。

 好きな人と、お互いが一番好きなもので本気で語り合う。それは将棋指しとして、この上ない幸せと言えると思う。

 

 俺は姉弟子の目を真っ直ぐ見ながら、一度だけ深く頷く。

 

「分かりました。俺、待ってます。姉弟子がプロに上がってきて、俺を倒しにくるのを。俺もこれから勝って勝って、姉弟子が追うに相応しい立派な棋士になって、待ってます」

「…………これ以上八一が上に行っちゃったら、例え私がプロになれても中々当たれないじゃん……」

「あっ……」

「というか、今の時点でもプロになってすぐタイトルホルダーの八一と対局するのって大変なのよね。一番可能性があるとすれば順位戦なんだろうけど……」

 

 多くの棋戦において、タイトルホルダーというのはシードされることがほとんどだ。帝位戦なんかは例外だけど。

 つまり、新人はある程度勝ち進まなければ当たることはできない。

 

 しかし、順位戦に関しては、今の俺は一番下のC級2組。

 三段リーグを二位以内で抜けてプロになった棋士が最初に所属するクラスで、組み合わせという運にも左右されるが、プロなりたての新人でも十分俺と当たる可能性がある棋戦だ。

 

 細かいことを言うと、同門……つまり師匠が同じ者同士は順位戦の最終局に組まれないという制限はあるが、別に最終局じゃなくても当たれればそれでいいので、そこは問題ない。

 

 ……あれ、でも順位戦って。

 

「あの、姉弟子。俺、今期の順位戦は一応今のところ全勝できてるんで、このまま順調にいけば姉弟子がプロになる前に昇級するかと……」

「ダメ。負けろ」

「ええっ!?」

「それか竜王失冠でもいいわよ。タイトルホルダーじゃなくなれば当たりやすくはなるし」

「ちょ、ちょっと待ってくださいって、それは流石に……」

「冗談よ、ばか」

 

 姉弟子は俺をからかってご満悦ならしく、小さく笑みを浮かべながら。

 

「八一が私を置いてどんどん先に行っちゃうのはいつもの事だし、もういいわよ。でも、私はずっと追い続ける。八一がどこまで行こうと、絶対に諦めない。覚悟しなさい」

「……はい。待ってます」

 

 プロの世界で勝っていくのは簡単なことじゃない。

 それ以前に、まず三段リーグを抜けてプロになる事だって並大抵のことではない。

 本人だってそれはよく分かっていることだし、一度三段昇段を逃した時は、思い詰めて俺をホテルに連れ込むなんてとんでもない行動をとったくらいだ。

 

 でも、今の姉弟子の目を見て、この人はきっと俺のところまで来てくれる、そう思うことができた。それだけ、力のこもった、勝負師の目をしていた。

 

 それなら、俺はただ待つだけだ。

 この竜王という椅子に座ったまま、堂々と、ボスキャラみたいに。

 

 最近、目標というものを見失ってきていた俺にとって、これは新たなモチベーションとなるもので自分の中でも燃え上がるものがあり、自然とテンションも高くなる。

 

「それじゃ、付き合うのはプロとして戦ってからということで、これからも今まで通り将棋仲間としてよろしくお願いします! あ、いや、今まで通りではダメですね、これからはもっともっとVSでも何でもやってお互い強くなっていきましょう!!」

「は? 将棋仲間? 何言ってんの?」

「えっ」

 

 俺のテンションとは対照的に、姉弟子は氷点下の視線をぶつけてくる。

 こ、こええ……!

 

「ど、どうしたんですか姉弟子……? も、もしかして、公式戦で当たるまではお互い会わないとか言うつもりですか……?」

「違うわよ、せっかく練習相手に竜王を使える立場なのに、そんなもったいない事するわけないでしょ。そうじゃなくて、何で今まで通りの関係でいようだなんて寝ぼけたこと言ってんのかを聞いてんのよ」

「えっ、でも、俺達が付き合うのは公式戦で当たってからなんですよね? だから、それまでは今まで通りの関係でいよう、ってことじゃないんですか?」

「そんなわけないじゃない。八一あんた、自分の立場分かってないわね、ちょっとそこに正座しなさい」

「は、はい……」

 

 姉弟子の迫力に俺は抗うことなどできるはずもなく、ベッドから降りて床に正座する。

 そして姉弟子はベッドの上から俺を見下ろしながら説明を始める。

 

「確かに私達はまだ恋人同士ではないわ。でも、その約束はしてる。つまり、婚約みたいなものなのよ」

「こ、婚約……? でもそれは結婚の」

「うるさい」

「はい、ごめんなさい」

 

 どうやら俺の意見は全て却下のようだ。

 

「婚約者がいるのだから他の女にデレデレするのは許されない、それは分かるわね?」

「わ、分かりますけど…………その、あいを家から追い出せとか言いませんよね……?」

「流石にそこまで言わないわよ。でも、もし万が一あの小童と何かあったら……」

「だ、大丈夫ですって、あいは可愛い弟子ですけど、そういう対象では見てませんって! …………あの、姉弟子? なんですか、その目は……?」

「…………」

 

 この人、絶対俺のことを幼女に欲情する危険人物だとか思ってやがる……。

 告白までしたのに、俺のロリコン疑惑が全く晴れてない。

 

 姉弟子はまだ疑わしげな目を向けながら。

 

「とにかく、ロリだろうが巨乳だろうが、他の女にはデレデレしないこと。八一はちょっと目を離すとすぐ他の女とイチャついてるけど、これからは容赦しないわよ」

「い、今までのは容赦してたんですか……!? というか、そういうので姉弟子が怒る時って大体が誤解ですし、別に俺はそんな女の子とイチャついてるわけじゃ…………はい、ごめんなさい、これからは気をつけます」

 

 姉弟子から冷たい殺気が漂ってきたので、すぐさま俺は背筋を伸ばし誓いを立てる。

 怖すぎるだろこの人……とてもさっき俺のことが好きだと言ったとは思えない。

 

 ただ、ここは俺としても言い分がある。

 

「……でも、姉弟子だって若手棋士の研究会に入るとか言ってたじゃないですか。いや、姉弟子を信じてないってわけじゃないですけど……」

「私が他の男とイチャついてるところを一度でも見たことあるの? というか、私が八一以外の男と将棋以外の話なんてできると思う? 師匠は別として」

「そ、そんな自信満々に言われましても…………あの、嫉妬しておいて何ですけど、流石に雑談くらいは出来るコミュ力はあった方がいいんじゃないかと……」

「……ふーん。コミュ力抜群でいろんな女と仲良くしてる竜王サマの言うことは違いますねぇ? その、“雑談くらいは出来るコミュ力”があれば、JSに膝枕してもらったり頬にキスしてもらったり、JKから告られたり、JDにお菓子を『あーん』って食べさせてもらったり出来るってわけね?」

「すいませんでしたぁぁっ!!」

 

 まさかのカウンターが飛んできた!

 姉弟子から溢れ出る凍えるほど冷たい殺気に、俺は震えて土下座することしかできない。

 

 そのまましばらく土下座の体勢のまま、姉弟子からの審判を待つ。

 すると。

 

「……立って」

「は、はい?」

「立って!」

「はいっ!」

 

 訳も分からないまま立ち上がると、姉弟子はベッドに座ったまま顔を俯かせていた。

 心なしか、首筋が赤くなっている気がする。

 

「……女に関しては、八一は前科が多すぎる。これからは控えるって言われても、簡単には信じられない」

「ええっ!? お、俺が好きなのは姉弟子だけですって! 信じてくださいよ!!」

「ダメ、口だけなら何とでも言える。証拠を見せて」

「しょ、証拠と言われても何を…………っ!?」

 

 姉弟子の言う“証拠”という言葉に、聞き覚えがあった。

 あれはハワイで行われた竜王戦第一局、一日目の夜。

 二人で手を繋いで夜の街を歩いた帰り、姉弟子の部屋の前で、俺は同じことを言われた。

 

 姉弟子は俯いていた顔を上げて俺のことをじっと見つめる。

 その顔は首まで真っ赤になっていて、瞳は潤んで揺れている。

 

 そして、姉弟子は顔を少し上げて、目を閉じた。

 

 ごくっと思わず喉が鳴った。

 姉弟子の顔から目が離せない。心臓が激しく鼓動し過ぎて口から飛び出しそうだ。

 あまりの緊張に手汗がすごいことになっていて、いつもの癖でズボンを握りしめる。

 

 姉弟子が、小さな声で言った。

 

 

「今度は……逃げるんじゃないわよ」

 

 

 逃げるなんて選択肢、あるわけがなかった。

 

 俺はベッドに近づいていく。

 必死に足の震えを抑えて、一歩二歩と確実に。初めてのタイトル戦の対局場に向かう時もここまではならなかったと思う。

 

 そっと、姉弟子の両肩に手を乗せる。

 その瞬間、ビクッと姉弟子の体が跳ねて思わず手を離してしまいそうになるが、何とか思いとどまった。離したくなかった。

 

 心臓の高鳴りは最高潮に達し、もはや痛いくらいだ。

 姉弟子がこのくらいの距離にいるなんてことは、今まで何度もあったはずなのに、今この瞬間だけはまるで別空間かのように思えた。

 

 俺は、最後通告のように、聞く。

 

「姉弟子……いいですか?」

「……うん」

 

 姉弟子の了承の言葉に、俺は一度深く息を吸って気持ちを落ち着かそうとする。

 これは一世一代の大勝負だ、おそらく一生記憶に残るものだ。何かやらかして暴発なんて許されないし、まずそんな事になったら姉弟子に殺される。

 

 しかし、いよいよ後は姉弟子に顔を近付けるだけ、という段階になって俺の中である疑問が生まれていた。

 

 ……ここから、どんな感じで迫ればいいのだろう。

 第一感では歩のように、ゆっくりでも少しずつ確実に寄って行こうかと思っていたのだが、いざやろうとしてみると妙に気恥ずかしい。

 

 それなら、香車のようにさっと一直線に素早く寄って済ませてしまう方が、精神的には楽な気がしてくる。

 ただ、それはそれで何だか軽いようにも思えて、姉弟子から不満を言われるかもしれない。

 

 どちらも一長一短。

 とはいえ、いつまでもこうして決めかねているわけにはいかない。持ち時間がどれだけあるのかは分からないが、あまり時間を使いすぎるのは悪手に違いない。

 

 少し悩んだ末に…………結局、さっと素早く済ませてしまう方を選んだ。

 もうこれ以上じっくり攻めるのは精神的に無理だった。その前に俺の心臓が破裂しそうだ。

 

 俺は覚悟を決めると、目を閉じて、一直線に素早く姉弟子へと顔を近付ける!

 二人の距離はすぐにゼロになり、お互いの唇が触れ合った…………が。

 

 

 ガツン!! と、勢いあまってお互いの歯がぶつかった。

 

 

「いてっ!!」

「つっ……」

 

 

 や ら か し た 。

 

 その瞬間、口元の痛みなんかすぐに吹っ飛び、恐怖で全身から冷や汗が噴き出る。

 こ、殺される!!

 

 俺は即座に床に土下座した。

 

「すすすすすいません!! お、俺、その、テンパってて……ど、どうか命だけは!!」

「…………」

 

 姉弟子が恐ろしすぎて顔を上げることができない。

 というか、顔を上げた瞬間に蹴りが飛んでくる気がする。

 

 俺はしばらくそのままビクビクと姉弟子の反応を待っていたが。

 

「……いいわよ、別に。そこまで怒ってないから」

「…………えっ?」

 

 意外な言葉に、恐る恐る頭を上げてみる。

 姉弟子は口元を押さえて不満気なジト目を向けてきてはいたが、今すぐ蹴りを入れてきたり将棋盤で頭をかち割ろうとしてくる気配はない。

 

 姉弟子は小さく溜息をつくと。

 

「将棋しか能のない八一のことだし、最初から上手くできるなんて期待してないわよ。それに童貞だし」

「ぐっ…………あ、姉弟子だって、俺にキスしようとして頭突きしたことあるくせに……」

「何か言った?」

「何でもないです」

 

 今度は暴力の予兆を感じ取ったので、即座に取り繕う。俺の大局観も捨てたもんじゃない。

 姉弟子はしばらく俺のことをジト目で見ていたが、やがて俯くと。

 

「…………下手なのは仕方ないけど、いつまでも下手なままっていうのはダメ」

「え……あー、ま、まぁ……そうですよね」

 

 俺の心臓が再び鼓動を早める。

 姉弟子は、囁くような小さな声で続ける。

 

「……何度もすれば、流石に八一でも上手くなると思う」

「そ、そうですね……将棋と同じですね……」

「うん……将棋と同じ……」

 

 そう言って、姉弟子は再び目を閉じて少し上を向いた。

 

 俺の方も流石に先程の失敗から学んで、今度はゆっくりと顔を近づけて唇を重ねた。

 一度目は感じる余裕もなかった柔らかい感触が唇から伝わってきて、触れ合っている部分が熱く、その熱が体全体に広がっていくような感覚があった。

 

 それから数秒程で、俺達は離れた。

 …………お互い、まともに相手の顔が見られない。

 

「そ、その……これでいいですか……?」

「……50点」

「うっ……ま、まだダメなんですか? 今のは結構良かったと思ったんですが……」

「だめ。やり直し……」

 

 それから姉弟子に言われて何度かやり直したが、結局満点には届かず、これからも定期的に練習することになった。

 俺が何度やり直しても上達しないのに姉弟子は妙に機嫌が良くて、俺もこのままずっと満点が取れないままというのも悪くないなと思った。

 

 こうして、俺と姉弟子の関係は、恋人とまではいかなくても、確かに一歩近付いた。

 ずっと当たり前のように側にいて、当たり前のように将棋を指していて、そしていつからか少し離れた俺達だったけど、今は昔よりも進展しているのだから不思議なものだ。

 

 対局中の棋士は孤独で、頼れるのは自分自身だけ。

 でも、その自分自身を形作っているのは自分だけではない。沢山の人々と出会い、様々な想いに触れて、大小何かしらの力になっている。

 

 俺が清滝一門に入らずに、師匠や姉弟子、桂香さんと出会わなかったら竜王にはなれなかったかもしれない。それどころか、プロにだってなれたかどうか分からない。

 弟子を取らなかったら、俺はいつまでもスランプから抜け出せずに落ちぶれていったかもしれない。

 皆がいてくれなかったら、俺は竜王戦であっさりと名人に四連敗して竜王を失っていただろう。

 

 だからきっと、今夜一歩進んだ俺達の関係だって、必ず力になる。もちろん、将棋以外でも。

 棋士として、そして人としてもまだまだ未熟な俺達だけど、この一歩は俺達にとって大きな一歩なんだと確信している。

 

 大切な人の暖かさをすぐ近くに感じながら、俺はこれから二人が進んでいくまだ見ぬ先に思いを馳せていた。

 

 


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