岸辺露伴は動かない [another episode] 作:東田
「露伴先生、私の話聞いてます?さっきから目の焦点が定まってないんですけど。ちゃんとその脳みそに入ってます?私の話。それとも、クソ暑すぎて脳がイッちゃいました?」
岸辺露伴は対面に座る女性を訝しんだ。
「聞いてるよ。この後の対談の話だろ?別に脳は正常さ。これだけ涼しい室内に居ればね」
ふん、と女性は鼻を鳴らし、手元のアイスティーを口にする。二人は、露伴がいつも打ち合わせに使うカフェにいた。普段はテラス席を使用する露伴だったが、今日ばかりは店内の席を選んだ。外の気温は35℃を超える。
「それよりも何だ。さっきから気になってるんだが、君のその粗暴な口調、どうにかならないのか?」
「どうにもなりませんね。子供の頃からずっとこうなんで」
女性は、とある美術雑誌の記者である。名は円山 麻美。露伴も彼女の記事を読んだことがあるが、文章は一流だ。
「たちが悪いぜ、まったく」
だがそれは、あくまで文章に限った話であるようだ。彼女の口調は、乱暴なものだった。
「私からしたら露伴先生だって十分乱暴な物言いだと思いますけどね。年季の入った芸術家ならともかく、先生ぐらいの青二才で、ビシネス相手に敬語を使わない世間知らずは初めてです」
「必要になれば、僕だって敬語は使うさ。だが君は―――」
露伴は再び円山を眺める。年齢は三十代前半といったところか。ラフな服装の露伴とは対照的に、シワひとつなくキチッとスーツを着こなしている。
「僕が敬語を使わないからって、怒って話もしないような人間ではないだろ?」
「仕事ですからね―――それがなければ今にでも帰ってやりたい」
「残念だが、互いにもう少し付き合わなくちゃならない。君の仕事は今日いっぱい続きそうだぜ」
「なら、とっとと次に行きましょう。少しでも早く貴方と離れたいわ」
円山はアイスティーを一気に飲み干すと立ち上がった。
「こんなんなら、引き受けなきゃ良かったわ。この先の日本美術界を担う天才若手二人の対談だからって息巻いてきたけど―――片方は最悪だったわ」
「おいおい、そこまで言うことかよ。そんなに嫌なら敬語くらい使うぜ?仕事に支障が出ても困るだろ」
「冗談よ。馬鹿みたいに真に受けないで頂戴。仕事はきっちりこなすわ」
「分かったよ。それで、彼の所へはどうやって行くんだ?S市内に別荘があるとは聞いたが、まさか歩いてくわけじゃあるまいな」
「ほら、やっぱり私の話聞いてなかったじゃない。タクシーで行くって言いましたよね、私」
円山は大袈裟に溜息を吐いた。
*
「
荻原 紺葉。五年前、突如美術界に出現し、世界中を虜にした画家である。人物画の専門で、年に平均して三枚ほどの作品を発表。そのどれもが世界中で高く評価されている。将来的にはゴッホやピカソにも並ぶだろうとは、円山が過去に書いた記事の一文でもある。
「二回ほど見かけたことがあるけれど、少なくとも貴方よりはよっぽどまともな人間だったわよ、露伴先生。ちゃんと敬語も使ってたし」
「どうだろうな。実際に話してみたら、もっとヤバい奴かもしれないぜ」
「ありえるわね」
円山は大きく頷く。
「露伴先生がそうだったから。SF的でありながらも、非常に現実感のある世界を描く天才。読者に与える作品への没入感に関しては、後にも先にもこれ以上を描ける者は現れないだろうという評価だったから、どんな人物かと期待していたのだけれど。調子に乗ったクソガキだったみたい」
「ム、今のはカチンと来たぞ。確かに僕は敬語を使っていないが、だからといって世間を舐めてる勘違いじゃあ断じてない。作品に対しては、僕は常に本気だ。自分の作品がこの世で一番面白いと天狗になったこともない。むしろ、いつ読者に見放されるか、不安ばかりだ。面白くなくなったと言われ、誰にも読まれなくなることが何よりも怖い。決して、世間に対して尊大な態度を取ってるつもりはないぜ。君に対しても敬語は使っていないが、だからといって君に敬意を持っていないってわけじゃない。君の書く文章は一流のものだ。それぐらいは僕にも分かるし、僕はそれを尊敬してる」
「あら、それはごめんなさい。そんなつもりで言ったわけじゃないのだけれど、怒らせたのなら謝るわ」
露伴は何とも、決まりの悪い思いをした。
*
荻原 紺葉はS市内在住ではなかったが、現在はS市内の山麓にある別荘で仕事をしているようだった。大型のペンションのようだ。二人はタクシーから降りると、玄関のインターホンを鳴らした。だが、しばらく待っても反応がない。円山は再びインターホンを押した。しかし、それでも屋内からは物音一つ起きない。
「何してんのよ。出なさいよ」
腕時計を眺めながら円山は呟く。
「この時間に来るって言っておいたじゃない」
苛立ったように、もう一度強めにインターホンを押す。遠くで慌ただしそうな音がした。それから、ドタドタと足音が聞こえてくる。しばらくとしない間に、玄関の扉が開いた。
「お待たせ致しました。円山 麻美さんと、岸辺 露伴さんですね。荻原 紺葉です。どうぞ、お入りください」
現れた男は、全身を紺色のツナギで覆っていた。この猛暑日に、暑くないのだろうか。額には薄っすらと汗が滲んでいる。金髪の短髪を逆立たせた髪型は非常にラフなもので、顔にかけた眼鏡が不釣り合いだ。露伴がその出で立ちを観察していたことに紺葉が気付く。
「ああ、この服装ですね。失礼しました。本来客人を迎えるような服装ではないのですが。現在作品を製作中なものでして。ついつい、時間を忘れて没頭してしまって」
露伴はその弁明に頷いた。自分にもよくあることだ。良いネタを思いついた時には彼など、訪問客に対し居留守を使うことも暫しだ。
玄関を通り、廊下に入ってすぐ左手の部屋に二人は通された。部屋の中央にはテーブルがあり、向かい合うようにソファが設置されている。広さは12畳程。
「そういうことでして、何もおもてなしの用意ができていないもので。お飲み物だけでもせめてすぐにお出ししますので、腰を下ろしていただいてお待ちください」
二人が下座に腰を下ろす。紺葉は小走りで部屋を出ていった。隣の部屋から、ガチャガチャと食器の擦れ合う音がする。数分も経たないうちに紺葉は部屋へ戻ってきた。コップの2つ乗ったトレーを抱えている。それらをテーブルに置いてから、二人の対面に座る。
「麦茶です。外は暑いですから、どうぞ」
「ありがとう。丁度喉が乾いてたところだし、頂くわ」
円山がコップに手をかける。
「それで、円山さん。対談は僕のアトリエでというお話だったのですが…すみません。先程も申しましたように現在作品を製作中なものでして。掃除もろくにしていないもので、アトリエでの撮影はちょっと…」
「そう。分かったわ。他の部屋で構わないわよ。でも、何か作品を見せていただけるというのは大丈夫?」
「ええ、そちらの方は大丈夫です。あくまで撮影場所の変更ということのみですので。一昨年発表したものを、作品は用意してあります」
「そう。なら部屋を移動しましょう。悪いけれど、お茶はもういいわ」
*
廊下の最奥の部屋から数えて二つ目の部屋で対談は行われた。テーマは“日本美術の今・未来”。一時間ほど露伴と紺葉が語らったところで、丸山がストップをかけた。
「荻原先生、そろそろ作品の鑑賞に移りたいのだけれど、絵は持ってこれるかしら」
「ええ、只今。少々お待ちください」
紺葉が席を立ち、扉を開け放したままに部屋を出る。少しして、大きなキャンバスを抱えて紺葉は戻ってきた。紺葉の身長近くあるそのキャンバスは白色の布で全体が覆われ、紐できつく縛られていた。紺葉はそのキャンバスを静かに壁に立て掛けると、紐の結び目を解いた。
「これは一昨年に描いたものなんですが、丁度このS市でテーマを見付けた作品なんです。タイトルは“絶望”」
「聞いたことがあるぞ。過去に見たこともあるかもしれない」
「ええ。大変評価していただいている作品なので、写真などでお目にかかられたことがあるかもしれません」
言いながら、紺葉がそっと布を外す。現れたのは、その真っ白な布とは対象的な、黒を基調とした絵だった。真っ黒に塗られたキャンバスの中央に一人の少女が、膝を抱えて座り込んでいる。頭を垂れており、表情は伺えない。一糸まとわず晒された肌には無数の傷や青痣がある。脇腹に見える火傷は、負ってからまだ時間が経っていないようだ。中央のその少女に目を奪われがちだが、その背後の描かれた闇に、露伴はこの絵の真髄を見た。
紺葉は、この闇を作り出すのにどんな黒を使ったのだろうか。見れば見るほどその闇は暗く、深くなっていく。闇は見るものに不安を与えた。闇に対し、少女は絶望を感じているようだった。
「正直、気分の良い作品ではないでしょう。この少女は、両親から虐待を受けていました。最初は人目につかない暴力でしたが、やがてエスカレートします。しかし、いよいよ少女が虐待を受けていることが目に見て分かるようになっても、周囲は見て見ぬふりをしました。そんな社会に、人生に絶望した少女の絵です」
露伴は絵に近付き、腰を折って覗き込んだ。少女の輪郭は所々が歪んでおり、デッサンも正確ではない。写実的ではなかった。しかし、そこには紛れもなく
「リアリティがある」
露伴は呟いた。
「凄まじいな。この少女がどのような体験をして、何を思ってきたのか。全て追体験しているようだ。想像力が掻き立てられる」
これまでに露伴が目にしてきた絵画と比べても、表現力が桁外れている。決して、描かれている情報は多くない。構成もシンプルだ。だというのに、そこから想起される情景は膨大だ。
円山も露伴の横で絵を覗き込んだ。二人は並んで食い入るように絵を見詰めた。
「まるでヘブンズドアーを読んでいるような…」
ヘブンズドアーはその人の人生を文字に起こす。それを読んでいる時のような感覚を、露伴はその絵に覚えた。
「感嘆、の一言ね。溜息しか出てこないわ。絵自体は単純なものなのに、どうしてこうも沢山の情報が流れ込んでくるのかしら」
「素直に感動した。素晴らしい作品だ」
紺葉に向き直り、露伴は絵を絶賛する。紺葉は微笑んだ。
「ありがとうございます。そう言っていただけることが何よりもの幸せです」
ところで、と紺葉が続ける。
「僕も、先生の作品を見せていただきたいのですが。漫画でありながら、芸術としても一方で評価されていらっしゃるという作品。その原稿を生で拝見させていただけるということで、とても待ち遠しいもので」
「ああ、すまない。ついつい魅入ってしまって、忘れていたよ」
露伴はバッグを手にすると、その中からプラスチックのケースを取り出した。その中に収められた原稿用紙を抜き、紺葉に渡す。拝見させていただきますと、丁寧にそれを受け取った紺葉は、原稿に目を通した瞬間に瞳孔を大きく開いた。
「これは―――これはッ!」
それから、凄まじい早さで原稿を読み進める。
「何だこれは!面白い!面白すぎる!ページを捲る手が止まらない。どんどん続きが読みたくなる!」
一話分の原稿二十枚弱を、ものの二分で読み終える。読み終えると紺葉は最初から読み直し始めた。
「岸辺先生!貴方は天才だ!」
紺葉が叫ぶ。
「これはもう、毎週購読するしかない!岸辺先生、このシリーズの単行本は今、何巻ぐらいまであるんですか?」
「三十巻くらい…かな」
デビューしたのが18歳の時。それ以降連載の続いている《ピンクダークの少年》は、三ヶ月に一巻のペースで刊行される。単純計算で三十巻程度だ。
「現在刊行されてるのは三十三巻ね。今月末には三十四巻が刊行される予定だけど」
円山が詳細を答える。
「一冊が四百円くらいだから、一万五千円もあれば揃うわね」
「一万五千円か――明日にでも買いに行こう」
尚も原稿を捲りながら、紺葉は楽しげに呟いた。
それからまた一時間ほどの対談を挟んだ。一通りの会話を終えて一段落ついたところで、紺葉がある提案をした。
「岸辺先生、アトリエご覧になられますか?」
「いいのか?製作中だから入れないんじゃあないのか」
「それと散らかってるので。撮影はしてほしくないですが、ご覧になられるだけであれば大丈夫ですよ」
「なら是非見てみたいな。君も、撮影できなくてもいいだろ?」
露伴に尋ねられ、円山が頷く。では、と紺葉が部屋を出る。二人もその後に続いた。紺葉の向かった先は廊下突き当りの一番奥、たった今まで居た部屋の一つ隣だった。
紺葉が扉を開けると、モワッとした熱気が飛び出してきた。肌に絡みつく不快な空気だ。露伴は思わず顔をしかめた。
「すみません。閉め切っていたので。今開けます」
露伴のその表情を見た紺葉が急いで窓に駆け寄り、開放する。山麓の比較的涼しい空気が部屋に入り込んできた。
「円山さん、念のため、カメラ類はそこの机の上に置いておいて頂けますか?」
五つある窓を端から開けながら、紺葉は入口横にある机を示した。円山はバッグからカメラを取り出すと、そっとそこに置いた。
改めて、露伴は室内を見渡した。先程までの部屋と比べると、この部屋は“広間”とでも呼ぶべきだろうか。四倍ほどの面積がある。四方はおよそ三十mか。その面積の割には、備えられた五つの窓は小さめだ。取り込まれる光の量が少ないため部屋は薄暗い。室内には“絶望”のキャンバスと同じサイズのものが、専用のスタンドに掛けられた状態で無数に、無造作に置かれてある。部屋の中央にも一台、キャンバスがあり、それはきっちりと布で覆われ、紐で縛られている。状態からして、おそらくそれが製作中の作品というやつなのだろう。
「中央のものは発表予定の作品なのでお見せできませんが、その他のものは全て発表する予定のないものなので、ご自由にご覧いただいて構いません」
「絵の具とかの道具は置かれていないが――何で描いているんだ?」
キャンバス周辺には、筆やパレットもおろか、ペン類も何も置かれていない。
「それは企業秘密ですよ、岸辺先生。それはまだお見せすることはできません」
人差し指を口の前で立てて、紺葉が小さく微笑む。
「まあいい。それを聞くのはまた今度の機会にしよう。ところで、あの中央の絵以外には触れても大丈夫なのか?」
「傷つけたりされなければ問題ありません。ご自由にどうぞ」
露伴はまず、右手側にあるキャンバスに寄った。キャンバスの表は壁を向いている。回り込んでそれを覗く。描かれていたのはやはり人物画だった。杖をついた、横向きの老人の絵だった。背中と腰が、S字を描くように異様に曲がっている。構造が歪な上に、描かれている老人もどこか扁平な印象を受ける。“絶望”と比べると、確かにこれがボツ絵であることに納得がいく。どこか陳腐なのだ。
近場のキャンバスを覗いてみても、やはり一目でボツだと理解できるものばかりだ。二十代くらいの若い女性や、中学生の男の子など、描かれている人物の年齢や性別はバラバラだ。人物画であるということ以外、共通点は見当たらない。部屋に置かれたそれらを全て見終えるのに、十分もかからなかった。
「新作というのは、いつできあがるんだ?」
部屋を一周し、扉の前に戻ってきたところで露伴は紺葉に尋ねた。
「あと数日で完成する予定です。既に仕上げに入っていますので」
「次の作品は発表されるのか?」
「そればかりは、完成してからでないと言い切れません。制作途中までは傑作になると確信していたものが、仕上がってみるとその輝きを失っていたことや、その逆のこともありますから」
「そうか――」
「気になるようでしたら岸辺先生、完成したところで真っ先にお見せしましょうか?」
露伴の眉がピクリと動く。
「いいのか?」
「ええ。岸辺先生なら構いません。先生はこちらの芸術にも造詣が深そうですし、最初に批評していただけたら私も嬉しい」
「光栄だな。製作者である君がそれでいいと言うのなら、僕からも是非お願いしたい」
「決まりですね。では完成したらまたこちらから連絡致しますので、またここへいらしてください」
「あら、二人で楽しそうね。私は仲間外れみたい」
ゆっくりと絵を見回っていた円山が二人の会話に入り込んでくる。
「荻原先生、不躾なお願いなのだけれど、私にも見せていただけないかしら、新しい作品の完成。勿論、個人的にだけれど。発表前にリークするだとか、そういうことはしないと約束するわ」
「ええ、勿論。その方が、発表するときの僕の自信にもなりますから」
*
「じゃあまた、絵が完成した時に。数日後って言ってたわね。それまでは市内に滞在するわ。いつでも連絡をちょうだい」
玄関口で見送る紺葉に円山は言う。紺葉は微笑みながら頷いた。
「ええ。またお越しいただける時を楽しみにしています」
紺葉に手を振られながら、二人は別荘を後にした。呼んだタクシーを見つけに、少し下ったところにある大通りへ向かう。
「やっぱり、貴方とは違って礼儀正しい人だったわね」
道中、円山が口を開く。
「まだその話を引っ張るのか」
「当たり前じゃない。貴方が敬語を使うようになるまでは、少なくとも使い回すつもりよ」
「ふん。君がそう言うのなら、僕はあえて、二度と君に対して敬語を使わないぜ」
円山が溜め息を吐く。
「何のプライドなんだか。全く」
それから間を置かずして、円山があっと叫んだ。
「しまったわ」
円山が立ち止まった。タクシーの手前だ。露伴も歩みを止め振り返る。
「カメラを忘れたわ。彼のアトリエに置きっぱなし」
取りに行かないと。円山が踵を返す。
「おいおい、大事なものじゃあないか」
「ええ、今日の対談の写真も全部入ってるわ。よりにもよってカメラを忘れるなんて」
「タクシーはどうするんだい。待ってもらうか」
「いえ、貴方だけ乗って帰ってて頂戴。どうせ行き先は違うんだし、待ってもらうのも気が引けるわ」
「ならそうさせてもらう」
「ええ。また今度、彼の作品が完成したところで会いましょ。まあ私は、そんなに会いたくもないのだけれど」
「君がどう思おうと、僕は別に構わないがね」
「そうね。今度会うときにはもう少し冗談が分かる人間でいてくれればいいのだけれど」
露伴一人がタクシーに乗り込む。円山は鼻を鳴らすと紺葉の別荘へと道を戻った。
*
それから三日としないうちに、紺葉から作品が完成したと連絡が入った。紺葉の“絶望”に触発され、ひたすら原稿にのめり込んでいた露伴は、その日二件目の留守電で初めてそれに気付いた。
翌日露伴は、紺葉の別荘のインターホンを押した。今度は即座に扉が開かれた。満面の笑みを浮かべた紺葉が露伴を出迎えた。
「お待ちしていました、岸辺先生。さ、中へどうぞ」
紺葉に案内され、露伴は別荘へと入る。廊下最奥のアトリエへと紺葉は直接足を向けた。
「彼女――円山 麻美はまだ来ていないか?」
紺葉の一歩後ろを歩きながら露伴は尋ねる。
「いいえ。彼女は仕事が入って来られなくなりました。残念ですが」
それ以上何かを聞くわけでもなく、そうかと露伴は一人頷いた。アトリエの前に到着する。紺葉がその扉をゆっくりと開いた。
「ッおお――」
アトリエ中央にキャンバスが一つ、正面を向いて置かれていた。まだ開ききっていない扉の間からそれを目にした露伴は感嘆の声を洩らした。
まず何よりも目が奪われるのは、きらびやかなその背景である。キャンバスの中央には男が立っている。その周囲のキャンバスは、金に塗りつぶされていた。男は大きく口角を釣り上げて笑っている。
紺葉が露伴のために道を開ける。露伴はキャンバスへと一直線に向かった。最初は惹き込まれるようであった露伴だったが、あと数歩というところでピタリと足を止めた。
「いや、これは――何だ」
違和感があった。これは本当に紺葉が描いたものだろうか。背景の金は、最初こそ輝きに圧倒されたものの、よく見れば深みがない、安っぽさのある金だ。描かれた男性の浮かべる笑みも、どこか表面的だ。“絶望”にあったような、見ているこちら側に迫ってくる何かがない。失敗作か?だが露伴は、即座にその可能性を否定する。彼が、そのような失敗作を見せるためだけにここに呼ぶはずがない。彼には芸術家としての誇りがあるはずだ。失敗作であるなら、こうも嬉々として自分を迎え入れはしないだろう。きっと来訪を断るはずだ。だとするとこれは紛れもなく彼の作品だ。それも、一つの作品として完成されているはずだ。
ならば紺葉は、この作品を通じて観ている者に何かを伝えようとしているはずだ。だとすると、この絵から露伴が感じる“何か”とは――
「この作品のタイトルは“偽物”です」
いつの間にか、紺葉は露伴の隣に立っていた。
「我ながら素晴らしい作品ができたものだと思います。高尚なようでありながら下品で、満たされているようでいて空虚で。私の作品でありながら、まるで私の作品でない」
紺葉は更にキャンバスに近付くと、うっとりとした表情で絵を撫でた。
「テーマを見付けた時は、こんな作品になるとは思いませんでしたが――いいものを残してくれました」
その紺葉を尻目にふと顔を上げた露伴の視界に、別のキャンバスが一つ飛び込んできた。部屋の隅に、布と紐で縛られた状態でこちらに背を向けて立ってある。不思議なのは多くの、おそらく失敗作のキャンバスが、その一台を隠すように囲んでいることだ。
「なあ、あれは何だ?」
「ああ、見付かってしまいましたか。まああれだけ露骨な隠し方をしていれば、見付からない方がおかしいかもしれないな」
紺葉がそのキャンバスの群れに足を向ける。
「次の作品です、これは。またいいテーマを見付けたんですよ」
失敗作のキャンバス群を脇にどかしながら、布に覆われたそれを引っ張り出す。
「見せてくれるのか?」
「いいえ。それは流石に」
申し訳なさそうな表情を浮かべ、キャンバス上部の縁を撫でる紺葉。
「どうしても駄目かい。絵の制作過程に非常に興味が湧くんだが」
「先生、この間も申し上げましたが、こればかりはどうしてもお見せできません。誰であろうと、絶対に」
「なあ、どうしてもか?そんなに特殊な技法なのか?」
「ええ、まあ。そんなところです」
露伴の好奇心に火がついた。
「別に模倣したり、どこかに公表したりとかはしないぜ。あくまでプライベートとして、だ。単なる好奇心だ。動機はそれだけなんだ」
「できればその言葉を信じたいものですが――ですが、絶対に人には見られたくないのです」
そこに、着信音が鳴った。露伴のものではない。紺葉のポケットから音はしていた。
「――ちょっと失礼」
紺葉はポケットに手を突っ込みながら部屋を出ていった。露伴はふと、この間に絵を覗き見てしまおうと思い付いた。そっとキャンバスを縛る紐に手を伸ばす。しかし、紺葉は直ぐに戻ってきた。
「何でもない要件でした。すみません」
露伴は慌てて手を引っ込め、何事も無かったかのように振り向いた。
「折角ですから岸辺先生、飲み物でもお出ししましょうか。ちょうどいい機会です。先生と少し話したい」
「それは構わない。君となら幾分会話も楽しめそうだ」
再び着信音がした。今度は露伴のものだった。露伴は紺葉を一瞥した後に、彼と同じように一人廊下に出た。円山の勤め先の編集社からの着信だった。
『もしもし?よかった。やっと繋がった――岸辺 露伴先生ですね』
知らない男の声がした。
「やっと?今日着信のあった覚えはないぞ」
『いえ、2日ほど前から何度かおかけしていたんですがりどうも先生の側が出られなくて』
「それはすまない。ここ数日、ずっと机に向かっていた。全く気付かなかったよ」
露伴は昨日、二件留守電が入っていたことを思い出した。紺葉の新作に気を取られてすっかり忘れていたが――そうか、あれのことか。
『それよりもです、先生。お尋ねしたいことがあるんです。うちの円山 麻美はご存知ですよね。先生と荻原 紺葉先生の対談を取材した記者です』
「彼女がどうかしたのか?」
『実は、お二方の取材日以降、彼女と連絡がつかないんです。音信不通です。原稿の入稿日のこともあって、彼女の動向が知れないのは会社としても困るものでして』
「それで、最後に彼女と接触していた僕に電話か――悪いが、取材後の彼女の動向は一切分からない」
『そうですか――ありがとうこざいます。この先もしかしたら、警察の方から連絡があるかもしれませんが、そういう事情ですのでご容赦下さい。お忙しい中ありがとうございました』
通話が切れる。
「音信不通か――僕も電話を掛けてみたほうがいいのか?彼女が僕の番号に出るかどうか知らないが。もしかしたら無視するかもな」
言いながら、電話帳から円山のものを探し当ててコールする。
「うん?」
耳に新しい着信音が流れた。ついさっきどこかで聞いたような――。露伴はすぐに、いつの事なのか思い出す。最近なんてものではない。つい数分前に聞いた音だ。
露伴はゆっくりと、アトリエに顔を向けた。部屋の入口付近で、紺葉が携帯を片手に立っていた。露伴は自身の携帯をゆっくりと耳から離した。そして、同じ着信音が紺葉の持つ携帯から流れていることを確認した。
「なあ、僕が間違えたのか?」
携帯には、間違いなく“円山”とある。登録時に入力を誤っていない限り、露伴は今、円山 麻美の携帯に電話をかけているはずだ。紺葉は無言のまま、小さく笑みを浮かべた。
「そもそも荻原 紺葉――お前、何て言った。彼女が来ていないかを僕が尋ねたとき、何て言った」
アトリエへの案内の途中、紺葉は確かに言った。
「“彼女は仕事で来られなくなった”と言ったな。何で君がそれを知っているんだ。会社が知らない彼女の動向を、何故赤の他人である君が知っている」
紺葉は答えない。露伴は電話を切ると紺葉に正対した。
「答えろ、荻原 紺葉。彼女はどこだ」
「遅かれ早かれ、知れてしまうものでしたから――もう必要ない」
紺葉は円山の携帯を投げ捨てた。
「もう一度聞くぞ、荻原 紺葉。円山 麻美に何をした」
「彼女はカメラをこのアトリエに忘れたと言っていました。無事にそれは取り戻せたのでしょうか」
「なるほど、答える気はないというわけか」
扉の横で笑う紺葉へと、露伴は近付いた。
「だがそれでも構わない――ヘブンズドアーッ!!」
ヘブンズドアーが発動し、紺葉は仰向けに倒れ込む。
<“偽物”が完成した>
露伴はその横にしゃがみ込むと、紺葉のページを捲った。
<このシーズン、この別荘帯ではやはり多くの“テーマ”が見付かる。今年も当たりだ。新たに二人の“テーマ”を見付けた。二人とも最高級の素材だ。これまでは凡人ばかりを扱ってきたが、その道々の天才は、作品の新たな境地を開いてくれるかもしれない>
読み進めながら、露伴は首を傾げた。文章に何か違和感がある。ふとすれば見逃してしまいそうな、微妙な違和感を感じる。
<“偽物”も完成した事だ。直ぐに一人目に取り組むことにした。最初は“円山 麻美”が“テーマ”だ。彼女はどんな世界を見せてくれるのか。今から楽しみだ>
そこまで読んで、露伴はあることに思い至った。紺葉をそのままに立ち上がり、布に包まれた新作というキャンバスに向かう。布を縛っていた紐を解き、布をはがした。
「――ッ!これはッ!?」
現れたキャンバスに、露伴は目を見開いた。キャンバスに描かれていたのは――いや、描かれたと言っていいのだろうか。これでは映ってると言ったほうが正確であるような――ともかく、そこには円山 麻美の姿があった。
「これは――荻原 紺葉が描いたものか?これまでのものとまるで雰囲気が違う」
これまで露伴が見てきた紺葉の人物のデッサンは、どれも歪だった。どこか抽象的で、しかし観る者にはそのリアリティを訴えかけてきた。そんな神秘性が彼の描く人物画の特徴でもあった。だが、いま目の前にあるそれは、限りなく現実的だった。極限的な写実絵だった。写真をそのまま貼り付けているんじゃないかとすら露伴は疑った。
「見てしまいましたか。企業秘密と言ったじゃあないですか」
背後から紺葉の声がした。
「何ッ!」
露伴が振り向く。ヘブンズドアーは発動したままだったが、紺葉は目を覚ましていた。
「それじゃあやっぱり、これは円山 麻美本人ってわけか」
露伴はなるべく平静を装った。へぇ、と紺葉は感心した。
「察しがいいと言いますか、発想が流石といったところですね、岸辺先生。普通なら考えられない事実であるでしょうに」
「生憎、こういう奇妙なものの類とは縁が多くてね」
「正解ですよ。これは円山 麻美そのものです」
紺葉はキャンバスに寄ると、その中の円山 麻美を撫でた。彼女の輪郭が、心なしか先程よりもぼやけているように見える。
「それで?彼女はどうすれば元に戻る」
「戻る?何を仰っているんですか岸辺先生。戻るわけがないじゃないですか」
「何だと」
「当たり前のことじゃないですか。不可逆性ですよ。一度変化したものは、二度と元通りにはなりえない。一度このキャンバスに“塗り込まれた”人間は、永遠に絵画として存在する他ありません」
「本気か?これまでの作品も、全部そうやって実在した人物を閉じ込めてきたってことか?」
「では逆に聞きますが岸辺先生。貴方は他人の不幸を悲しみますか?例えば、特に親しくもなかった隣人の親類が亡くなったと聞いて、貴方の心は悼みますか?」
「何が言いたい」
「どうなんですか?質問しているのは僕の方です」
「さあな。特に感じないだろうな」
「そうでしょう?結局、他人の不幸なんて知ったことではないでしょう?」
「ああ、そうだな。だからそれがどうした」
露伴は次第に苛立ち始めた。
「だから、そういうことですよ。人が一人居なくなったところで、それを悲しむ人数なんてたかが知れてる。世界全体で見ればむしろ、僕の作品を待ちわびてくれている人の方が圧倒的多数だ。それだけ沢山の人を感動させることができるのなら、その他の、ほんの一握りの関係者の悲しみなんて気に留める必要もありませんよ」
「正気か?やってることは殺人と何ら変わりないぜ」
「ですが、世間は実際そうなんです。赤の他人の不幸なんて、自分に被害が及ばない限り知ったことではないんです。だから僕の作品は成立している。僕が作品を出すタイミングと人が一人行方不明になるタイミングが一致しても、その作品の人物が行方不明者と似ている気がしても、世間は誰も気にはしない」
露伴は呆れたように、ただ紺葉の言葉を聞いた。
「それに僕もそこまで鬼ではありませんからね。基本的には存在価値のない人間を選んでテーマにしている。最終的に、殆どの人は損をしていないんですよ」
「少し前、同じような質問を僕にしてきた奴が居た。そいつは、他人が自殺した時、心が動くかと聞いてきた」
露伴は胸ポケットに常備しているペンを取り出した。あのとき、その男はこの胸ポケットのペンで自殺を図った。今思い出しても迷惑な話だ。
「その時に一つ学習したことがあってな。“先手必勝”というやつだ。君みたいなタイプの人間は、いくら話したところで他人の意見を聞き入れやしない」
紺葉に近付き、露伴がペンを紺葉の顔の前まで上げる。
「しばらく気絶してもらう」
“気絶する”
そう紺葉に書き込んだ。再び倒れ込んだ紺葉に、更に露伴は書き込む。
「とりあえず“安全装置(セーフティーロック)”を掛けておこう」
“岸辺露伴に危害を加えられない”
と書き込んだ。これで、仮に紺葉がまた目覚めることがあっても、露伴の安全は保証された。
「さて――ああは言っていたが、本当に彼女は戻らないのか?」
紺葉のページを捲り、“塗り込み”について詳しく書かれたものを探す。
「あった。これだ」
<原理については、自分でもよく分からない。だが、気付いたときには“塗り込み”という才能が自分には芽生えていた。キャンバスに人を“塗り込む”と、ゆっくりと、時間をかけながら絵が完成する。その絵は、塗り込まれたその人の人生を表す。虐待を受けてきた少女を塗り込めば、虐待によって絶望した少女の絵が出来上がる。絵の完成度はその人の人生の深みによって決まる。より濃厚な人生を送ってきた人物の絵ほど、魅力的な傑作となる。塗り込まれた後、絵の中でもその人物が生きているのかは分からない。生きているかもしれない。死んでいるかもしれない。どちらにせよ、彼らが二度と絵の中から戻ってくることはない。彼らは絵画として、永遠に存在し続けるしかない――>
“塗り込まれた”人々を元に戻す方法は、やはり紺葉さえも知らなかった。露伴のヘブンズドアーには嘘はつけない。真実は全て晒される。
「戻ってこないのか、彼女らは――だが、僕にできることはここまでだ。僕のヘブンズドアーでは、これ以上はどうしようもない」
どうにかできるかもしれない心当たりはないわけではない。しかし――
「不可逆性、とこいつは表現したな。その摂理に従った方が賢明かもしれないな。特にあの少女――」
露伴は“絶望”の少女を思い出す。
「戻らない方が幸せかもしれない。どちらを選んだところで、彼女を待っているのはおそらく“絶望”そのもの」
<“塗り込み”を忘れる。跡形もなく>
露伴は紺葉にそう書き込んだ。せめてこれ以上の犠牲者が出ないように。
「そもそもネタが分かってみれば――僕はこんなものを芸術としては認めない。“芸術”とはリアリティある創作だ。これはただの、“本物”の流用だ。美術的ではあっても、芸術ではない」
そう言い訳をしながら。
*
<天才画家 突然の引退>
二人の対談が掲載される予定だった雑誌は、担当記者の行方不明とそのビッグニュースにより差し替えられていた。露伴は自室の椅子に座って、今朝刊行されたその雑誌を読んでいた。
「<今年初の新作を発表した荻原 紺葉(24)は、発表会の壇上で引退を表明>か」
“塗り込み”がなければ、何もできなかったようだ。今となっては、なぜ自分があれほどの絵を描けたのかすら、彼は忘れている。
「だが――世間は無関心、か。それに関してはどうも、奴の方が正しかったようだな。もしくは、絵の放つ魅力はそのための防衛能力か」
机の上の携帯が鳴った。雑誌の編集社からだ。露伴は雑誌を見開いたまま机に置くと、携帯を手に立ち上がって部屋を出た。
雑誌には、荻原 紺葉が発表した新作の絵と並んで写っていた。新作は、無数の白紙が舞う中に立つ女性の全身像だった。
皆様明けましておめでとうございます。《御神渡》を投稿してから八ヶ月強。Twitterでそろそろ投稿できるかも…?と呟いてからおよそ半年。大変長らくお待たせしました。