岸辺露伴は動かない [another episode]   作:東田

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another:02 《地獄門》

「初めまして。精神科医の佐久です」

 

 M県S市杜王町につい最近移転してきた“S大学附属病院”。その一室で、佐久と名乗った五十代の男性医師と、岸辺 露伴は対面していた。

 

「漫画家の岸辺 露伴だ」

 

 佐久の差し出した名刺を受け取りながら、露伴も名乗る。

 

「お飲み物はいかがですか?」

 

「構わない」

 

 佐久は、一度浮かべた腰を椅子に下ろした。年相応の、落ち着いた動作だ。

 

「それで―――」

 

  白くなり始めた髪をかきあげながら、佐久は口を開く。

 

「本日は、どういったご用件で」

 

「電話でも話したが、二ヶ月後、マンガの月刊誌に僕の読み切りが掲載される予定になっている。その読み切りを、精神病を題材にするよう注文があってね。僕としても断る理由がないから、それを引き受けたんだ。だからそのために、精神病について専門家である貴方に取材がしたい」

 

「承知しました。患者様のプライバシーに関わらない範囲でお答えしましょう」

 

 佐久が頷く。ありがとう、と露伴は礼を言った。

 

  露伴はまず、精神病の正確な定義から入り、次々と佐久に質問した。質問に対する佐久の受け答えも早く、露伴の取材は順調に流れた。

 

「最後の質問だ。答えられる限りの内容で構わない。これまで貴方が出会った中で、一番“奇妙”な患者、疾患は、どんなものだった?」

 

 佐久は、しばらく思案した後、答えた。

 

「―――このことは、どこにも口外せず、作品にも使用しないと、約束していただけますか?」

 

「約束しよう」

 

  露伴は即答した。彼は、好奇心のうずくものには、どこまでものめり込む性分だった。特に“奇妙なもの”に関して、彼の好奇心が湧かないわけがなかった。

 

「この杜王町のはずれに、この町にしては風変わりな、小さな洋館があるのはご存じですか?」

 

「いいや、聞かないな」

 

「この病院に、元々そこの住民だった方が四人、入院しているんですよ」

 

「一家で事故にでもあったのか?」

 

 いいえ、と佐久は否定する。

 

「彼らはそれぞれ、全く異なる時期にその洋館に入居した、赤の他人です。ええ、ええ。そういう顔をされるのも無理はありません。順を追って説明しましょう」

 

  失礼、と佐久は椅子から立ち上がると、一度部屋の奥へと引っ込み、しばらくして厚いファイルを手にして戻ってきた。椅子に座り直し、露伴には中身が見えないよう、そのファイルを開く。

 

「最初の患者―――A氏としておきましょう。A氏は今から七年前に、旧附属病院に搬送されました。彼は当時、S大学入学の年で、安く貸し出されていた洋館を発見。そこに一人で住んでいました。彼はとても優秀な学生だったそうですが、ある日突然、記憶が退行し、小学一年生程度の知能になってしまいました。脳を調べても特に異常はなく、それまでも発達障害等はなかったというため、脳の先生も、我々もお手上げとなり、現在も彼を保護する形で、この病院に入院させています」

 

 佐久がファイルから顔を上げ、露伴を見る。続けてくれ、と露伴は目で促した。

 

「その二年後、A氏が入院し、空き家となった洋館にB氏が引っ越してきます。B氏はこの町のカメユー系列会社の転勤社員で、A氏と同じく家賃が安いという理由で洋館を借りました。仕事熱心で、当時三十代半ばだったB氏は、そのうち洋館内で“虫の大群”を見るようになります。何度も何度もその“虫”を目にしたため、会社の同僚にも相談し、出来る限りの害虫対策をしたのにも関わらず効果はなく、やがて、洋館以外の至るところでも“虫の大群”が見えるようになったそうです。そのうちに錯乱し、精神が崩壊。現在もここで療養中です。三年後、再び空き家となったところに、S大学への入学を決めたC氏が入居。彼は何の脈絡もなく、突然記憶障害に陥ります。外傷などもなく、まるで記憶を抜き取られたように、自分のことも思い出せなくなるのです。彼もB氏と同じく、現在療養中です。そして今年―――」

 

 佐久は一呼吸置いてから続けた。

 

「C氏の居なくなった洋館に、D氏が入居しました。D氏は地元育ちのS大卒の方で、独り暮らしがしてみたいということで、洋館に住みました。心臓に軽い持病はあったものの、特に問題はなく、健康的に生活していたD氏でしたが、突然音信不通になり、不安になった両親が洋館を訪れてみたところ、意識不明の状態で発見されました。その後、何とか一命はとりとめたものの、体の主要器官のほとんどが動かなくなってしまい、現在も、意識回復の目処は立っていません」

 

 佐久はファイルを閉じた。

 

「“奇妙”な話でしょう?一つの洋館から、四人もこの病院に患者が出ている。病院界隈では、“呪われた洋館”と有名です」

 

「なあ、無理な話だとは思うんだが―――四人の中の誰か一人でも、面会することは出来ないか?」

 

 彼らの身に何かが起きたのは明白だ。その“何か”は、露伴になら判るかもしれなかった。

 

「少し時間をいただければ―――B氏になら、面会できるかもしれません」

 

「出来るものならお願いしたい」

 

 それから数枚の書類に手続きを済ませ、露伴はおよそ一時間後にB氏との面会を果たした。

 

  それなりに設備の充実した個室の隅で、B氏は膝を抱えて座っていた。顔色は悪く、手足も細い。栄養が十分に摂取できていないのだろうか。

 

「幻覚などによる精神の衰弱が原因で、あのような状態になってしまっています。心の問題ですので、我々にも、治しようがないのです」

 

 佐久の言葉を聞きながら、露伴はB氏に近寄った。B氏 は露伴に対し、特に怯えたりする様子もなく、じっとそこに座り続けた。

 

「君には“虫の大群”が見えることがあるらしいが―――それはどんな虫だ?」

 

  露伴はB氏の前にしゃがみこむと、そう尋ねた。しかし、彼はじっと露伴を見詰め続けるばかりで、何も答えなかった。

 

「―――分かった。質問の仕方を変えよう。あの洋館で、君の身に何が起きた?」

 

 それにもB氏は答えなかった。

 

「岸辺さん」

 

 佐久に呼ばれ、露伴は振り向いた。

 

「彼は喋れません」

 

「精神異常でか?」

 

 佐久は腕を組むと難しい顔をした。

 

「いいえ。ただ喋れないというだけではないんです。彼は―――言葉を忘れてしまったのです。話すことも、聞くことも、書くことも、読むことも出来ません」

 

「それは、彼が見た幻覚とは関係しているのか?」

 

 分かりません、と佐久は素直に答えた。

 

「彼の脳の働きは、至って正常なのです。確かに、精神の方は不安定ではありますが、言葉を忘れるような障害は、脳にはないのです。まるで、彼の記憶から“言葉”という概念そのものが消えてしまったかのような、そんな印象を私は受けます」

 

 露伴はB氏に向き直った。

 

「触れてみても?」

 

「申し訳ありませんが、それは認められません。目の前に手をかざすぐらいでしたら可能ですが」

 

「そうか」

 

 露伴は、B氏の顔の前に手をかざした。

 

「“天国への扉(ヘブンズドアー)”」

 

  露伴が小さく呟く。B氏の左頬に、縦に亀裂が走り、そこから本のように、彼の顔の皮膚がめくれた。皮膚の下に、本のページが現れる。それを一目見て、露伴は絶句した。

 

「これは―――」

 

「いかがなされました?」

 

 思わず漏れた露伴の声に、佐久が反応する。何でもない、と露伴は答えると、B氏の皮膚の下のページを一枚めくった。

 

<一体これは―――どういう事だ?こんな現象、初めて見るぞ>

 

 B氏の皮膚下に現れたページは、ところどころに“穴”が空いていた。

 

<まるで、植物の葉や、保管の適当な古本によく見られる“虫喰い”だ――――いいや、これはまさにそれだ>

 

 職業柄、露伴はそういった“虫喰い”のある本を見かけることがたまにあった。露伴の記憶する限り、その“虫喰い”のある本は、目の前のB氏のものと同じ状態だった。

 

<“虫の大群”―――>

 

  B氏は、洋館で“虫の大群”の幻覚を見るようになった、と佐久は話していた。もし、その“虫の大群”が幻覚ではなかったとしたら。もし、このB氏の記憶のページの穴が“虫喰い”であるとしたら―――

 

<僕のヘブンズドアーは、他人の“記憶”や“人生”を読むことの出来る能力。それで開いたページに“虫喰い”があるということは、“記憶”が“喰われた”ということ―――>

 

 B氏が言葉を忘れたのは、“言葉”という記憶を食べられたからだ。露伴はそう結論付けた。

 

<これは、他の三人の記憶も調べる必要があるな>

 

 露伴は立ち上がった。

 

「もうよろしいのですか?」

 

「ああ、ありがとう。――なあ、他の三人には、どうしても会えないのか?」

 

「本日中、ということであれば不可能です。少なくとも、一週間はお時間をいただかなければと」

 

「二週間でも、三週間でも待とう。会わせてくれないか」

 

 露伴は迷わず答えた。

 

 

 

 三週間後、露伴は許可の得られなかったD氏を除いた、A氏とC氏にそれぞれ、間を置いて面会した。二人ともの記憶を読んでみると、やはりB氏のように“虫喰い”状態となっていた。

 

 四人が住んでいた洋館には、何かがある。露伴は、原稿を描き上げた後の暇な一日を使って、その洋館を訪れた。

 

 洋館は、露伴が想像していたものよりも小さかった。鉄製の、シンプルなデザインの門には、立ち入り禁止の看板と錠前が掛けられている。建物は、正面玄関から左右対称に棟が展開されていた。見た者に、いかにも洋館ですよと訴えかけるようなそのデザインが、露伴は気に入らなかった。

 

「“平凡であること”には一種の芸術性があっても、意図的に“平凡であろうとすること”には、芸術性は感じられんな」

 

 露伴は立ち入り禁止の看板を無視し、三メートルほどの門を器用に乗り越えた。つい数か月前まで人が住んでいた事もあってか、玄関前の庭には、整備された後が見えた。

 

 露伴は一度、建物の周りを一周した。戸締まりもよくされていて、どこからも侵入できる様子がない。一周して玄関に戻ってきた露伴は、駄目元で玄関の扉を押した。やはり、鍵が掛かっている。

 露伴は家の中にヘブンズドアーのヴィジョンを出現させた。露伴の連載するマンガ“ピンクダークの少年”の主人公に瓜二つの姿をしたそのヴィジョンは、家の内側から玄関の鍵を開けた。

 

 露伴がゆっくりとノブを回すと、軋む音をたてながら扉が開いた。扉の隙間から館の中を覗く。窓という窓が、侵入防止のために板を打ち付けられているため、館の内部を照らす光は、玄関口から射し込む太陽光のみだ。

 

 露伴は、館の中へ足を踏み入れた。床にうっすらと積もった埃が舞う。

 

 玄関を入ると、そこは広間だった。広間は二階まで吹き抜けになっており、露伴の正面に、その二階まで続く階段が設けられていた。玄関の両脇から左右には廊下が走っていて、その廊下に沿っていくつかの扉が並んでいた。露伴は、向かって右側の廊下に足を踏み入れた。一番手前の扉をゆっくりと開ける。大体、学校の教室大の広さの面積をした部屋だった。家具類が一切置かれていないため、何に使われていた部屋だったかは分からない。露伴は部屋の内部を一通り、ざっと調べると、部屋を出た。続いて、奥の部屋へと進む。

 

 一階の全ての部屋を見て回った露伴は、最初の広間へ戻ると、二階への階段に進んだ。

 

「それにしても」

 

 階段をゆっくりと登りながら、露伴は呟く。

 

「独り暮らしをするには、大きすぎないか?この館」

 

 入院中の四人は、いずれもこの館で独り暮らしをしていたと言う。しかし、館の広さは、少なくとも五人以上の家族でないと余りある広さのように思えた。

 

「家賃の安さに目が眩んだか、相当な物好きかのどちらかだろうな」

 

 二階の床に足をかけながら、露伴は言う。四人の入居期間には、二、三年の差がある。それぐらいの頻度なら、そんな変人が一人二人杜王町に引っ越してきたところで、不思議とは言い切れないだろう。

 

「そもそも、この杜王町には変な奴が多いからな」

 

 自分の事を棚にあげて、露伴は愚痴をこぼした。

 

 二階にも、一階と同じだけの数の部屋があった。露伴同じように、全ての部屋を調べて回った。どの部屋にも、これといって不審な点はない。拍子抜けした表情で、露伴は階段を降りた。

 

 突然、ポケットの中で電話が鳴った。露伴はスマホを取り出すと、発信源を確認した。山崎、と電話帳に登録されてある。しかし、露伴には見覚えのない名前だった。

 

「もしもし?」

 

  不審に思いながら、露伴は電話に出た。

 

『岸辺先生、只今、宜しいですか?』

 

「―――君は誰だ?」

 

『編集部の山崎です。先生に依頼している読み切りについて、お詫びしなければならないことがありまして』

 

「読み切り?何の話だ?」

 

 え?と、山崎と名乗る編集者が声を漏らす。

 

『二ヶ月後に掲載予定の、精神病をテーマにした読み切りですよ』

 

「―――悪いが、全く記憶にない。本当に、そんな話をしたか?」

 

『岸辺先生、冗談はよしてくださいよ。そちらで打ち合わせもしたじゃないですか』

 

 露伴にからかわれていると思ったのか、山崎は笑った。しかし、露伴にはその記憶がない。

 

『―――本当に覚えておられませんか?』

 

「ああ、さっぱりだ」

 

『多分、打ち合わせの時に先生、ノートを使っておられたと思うんですが―――今、ご自宅ですか?』

 

「いや」

 

 露伴は広間の中央で、周囲を見回した。

 

「――――――ちょっと待っててくれるか?」

 

 そういえば、どうして自分はここに居るんだ?露伴は不意に疑問に思った。何が目的で、この館に来たのだったか。

 

<そうだ。確か、S大学附属病院の精神科に入院している四人の患者が、共通してこの館に住んでいたんだ>

 

 その四人は、何かによって記憶を失っていた。

 

「――記憶を―――失なって」

 

『どうされました?』

 

 思わず露伴が呟くと、山崎が反応した。

 

「なあ、悪いんだが、また後でかけ直してくれないか?今忙しいんだ」

 

『はあ、それは失礼しました』

 

  露伴は電話を切ると、再度周囲を見渡した。

 

「既に術中って訳か―――やはりこの館、何かあるぞ」

 

 ゾクリ、と露伴の背筋が粟立った。広間の奥の闇に、何かの気配を感じる。露伴はその闇に目を凝らした。

 

「誰か居るのか!」

 

 闇に向かって、露伴が声を張り上げる。しかし、闇の中の“何か”は、反応を示さなかった。

 

 恐怖よりも、好奇心が勝った。露伴は闇に向かって一歩、足を踏み出した。

 

「出てこいよ。僕はここだぜ」

 

  二歩、三歩と、ゆっくりと歩みを進める。あと五メートルと少しというところで、露伴は足を止めた。これ以上は危険だ。しかし、それでも気配に動きはない。痺れを切らした露伴は、スマホを取り出し、ライトを点けると闇を照らした。ガサガサと何かが蠢く。

 

 照らした先には壁があるばかりだった。だが、何かが蠢く、乾いた音は付近から聞こえる。露伴は固唾を飲むと、ライトをゆっくりと床に這わせた。その光が、気配の正体を照らす。

 

「ッ―――これは」

 

 気配の正体は、二十匹程度の、体長が一センチほどある黒い“虫”だった。

 

「虫―――か?見たことのない種類だが...観察するべきか?」

 

 ああ、いや、駄目だ。と、露伴は自分の言葉を否定した。

 

「B氏はこの館で“虫の大群”を見たと言っていたな―――だとすれば、この館で起きた奇妙な出来事の原因は全て、こいつらだったってことか」

 

  大群と呼ぶには少ないようにも思えたが、それは個人の感覚の問題であるとして露伴は片付けた。

 

「こいつら、どう処理すればいいんだ?普通の虫と同じように、潰したり燃やしたりすれば死ぬのか?」

 

 “虫”達に、露伴を襲ったりするような様子はなかった。露伴はその場にしゃがみこみ、遠目から“虫”の群れを観察した。群れは、露伴の視界から外れない程度の範囲を不規則に移動した。

 

 昆虫類の、それも甲虫だろうか。脚は六本あり、外殻の形から、羽が畳まれているのも分かる。カブトムシのメスに近い見た目だ。形状や大きさに、個体差はない。それがやはり、この“虫”が異常であることを知らしているようにも思えた。

 

「生態が気になるな。さっきから、ずっと一定の範囲を動き回っているが、この行動にはどんな意味があるんだ?特徴や体内構造はどうなっているんだろうか」

 

 興味が溢れて止まない。露伴は既に“虫”の観察にのめり込んでいた。

 

「写真も撮っておこう」

 

 スケッチも持ってくれば良かったなと、露伴は後悔した。数枚の写真を撮ると、露伴は立ち上がった。

 

「捕獲キットとかも持って、また来よう」

 

 群れに背を向け、ポケットにスマホを仕舞う。その手が、ポケットの中で何かに触れた。

 

「な!?」

 

 露伴は慌ててポケットから手を抜いた。

 

「何だ?今のは」

 

 再びポケットに手を入れ、それを握る。露伴の手の中で、それは蠢いた。露伴はそれを取り出すと、スマホの灯りで照らした。

 

「―――何だよ。驚かせやがって」

 

 中に居たのは“虫”だった。

 

「勢いで触っちまったが、毒とか持ってないだろうな」

 

 露伴は手の上の“虫”を、より近くで、まじまじと見詰めた。“虫”は、露伴の手の匂いを嗅ぐような仕草をすると、頭から、露伴の掌の中に消えた。

 

「なにぃッ!?」

 

 まるで、水の中に潜っていくかのように、静かに、滑らかに、“虫”は露伴の体内へと侵入したのだった。そこに穴などの傷はない。露伴は“虫”が消えた一点を見詰め、しばらくしてからハッとして叫んだ。

 

「まさか!ヘブンズドアーッ!!僕自身を本にしろ!」

 

 ヘブンズドアーにより、“虫”の消えた露伴の掌が本になる。ページをめくるまでもなく、“虫”はそこに居た。露伴の記憶の書かれたそれを、“虫”が食べている。

 

「ああ、クソッ!やっぱりだ!!」

 

 露伴は空いている左手で“虫”を剥がすと、遠くに投げた。対処が早かったこともあり、幸い、記憶は無事だ。

 

「長居するのはマズいな―――早く出よう」

 

 玄関を向いた露伴の背後で、“虫”の群れの動く、カサカサとした乾いた音が鮮明になった。

 

 露伴はピタリと立ち止まると、ゆっくりと、汗を滴らせながら背後を振り返った。

 

「おいおい.......マジかよ」

 

  露伴の背後の床を、無数の“虫”が埋め尽くしていた。それらが、一斉に露伴に向かってくる。

 

「さっきので全部じゃなかったってことか?こいつら、一体どこに隠れてたんだ!」

 

 “虫”の大群が露伴に迫る。そのスピードが、思いの外速い。露伴は慌てて、走って館から抜け出そうとした。

 

 しかし、玄関との距離が一向に縮まらない。

 

「どういうことだ。まさか、現象は“虫”だけじゃあないのか!?」

 

  露伴は一度、背後を振り向いた。“虫”が更に迫ってきている。

 

「ハッ!」

 

 そして気付いた。

 

「何だ、これは―――まさか、“忘れた”のか!?」

 

 露伴は再び前を向いた。やはり、玄関との距離は縮まっていない。

 

「僕は走っていなかったッ!いや、それどころか、その場から一歩も動いていないんだ!!」

 

 道理で、玄関に辿り着かない訳である。露伴は走っても、まして歩いてもいなかった。ただその場で足踏みをしているのみだったのだ。

 

「喰われているのかッ!?既に!ヘブンズドアーッ!!」

 

 記憶を確認している暇はない。ヘブンズドアーで、露伴は自分自身に書き込んだ。

 

「“館の外まで走れ。今すぐ”!!」

 

 ヘブンズドアーにより書き込まれた命令には、逆らうことは出来ない。それは例え、露伴自身であってもだった。しかし、露伴はやはり、その場から動けなかった。やがて、足踏みすら出来なくなる。

 

「“走らない”だと!?こいつらに喰われると、記憶から“概念”そのものが無くなるのか!?」

 

  仮にそうだとすれば、いくら体に“走れ”と命令したところで、走れない。何故なら、露伴の体は“走り方”を“知らない”ということになるからだ。露伴には現在“走る”という“概念”が無かったのだ。魚に“二次関数を解け”と言っても、無理な話であるように、今の露伴には“走る”というのは不可能なことだった。

 

  ついにら露伴の足元に“虫”の群れが到達する。群れは、露伴の足を這い上がると、次々と露伴の体内へ潜っていった。

 

「うおおおおおおッ!」

 

 体のあちこちを本にしながら、露伴が叫ぶ。

 

「こいつらのこの“順序”!―――こいつらが行っているのは“狩り”だ!!」

 

  露伴の記憶のページのほとんどが、“虫”で埋められる。露伴はヘブンズドアーのヴィジョンを出現させ、“虫”を攻撃した。しかし、数匹を潰したところで、全体に影響はない。

 

「クソ!数が多すぎる!」

 

  ふと、ヘブンズドアーが“虫”の一切集まっていない記憶を見付けた。

 

「―――これは」

 

 ヘブンズドアーを通して、視覚が露伴に 共有される。露伴が先程書き込んだ“走れ”という命令には、“虫”が一匹も寄り付いていなかった。

 

「ヘブンズドアーによる書き込みは、奴らの喰らう“記憶”の対象外なのか?――だとすれば!」

 

 新しく書き込んだ情報は、食われることなく残るのだとすれば、露伴にはまだ勝機があった。

 

「こいつらが僕の記憶を喰らうってんなら、記憶を消せばいい」

 

 一見、滅茶苦茶な事のようにも思えるが、露伴のヘブンズドアーであれば、それが可能だった。

 

「ヘブンズドアーッ!!僕の記憶を消―――――いや!!待てッ!それじゃあ駄目だ!」

 

 露伴はかつて一度、自分の記憶を全て消した時の事を思い出した。

 

「記憶を消しても、“生きている”以上、こいつらからは逃れられない!」

 

 この“虫”に襲われた四人のうち、D氏は、生命維持に必要な、一部の生命活動が停止している状態にある。

 

「こいつらは、僕の中の“走る”という記憶を食べた―――それはつまり、こいつらはそのうち、“心臓の動かし方”とか、そう言うような記憶まで食うって事だ―――」

 

 記憶を消したところで、露伴の生命活動は続く。

 

「アレをやるしかないのかッ!?―――――――切り抜けるには、やるしかない!!」

 

 露伴は覚悟を決めると叫んだ。

 

「ヘブンズドアーッ!!!」

 

 

 

 はっとして、露伴は目を覚ました。いつの間にか床に横たわっていた体を起こし、周囲を見渡す。“虫”の大群は消えていた。

 

「賭けは―――成功したのか?」

 

 露伴は、本になっている左手の甲を眺めた。

 

“三十分間、全ての記憶を失い、仮死状態となる”

 

 

  甲にはそう書かれてあった。

 

「さて」

 

 露伴は、その文字を右手で擦って消すと、顔を上げた。

 

「一先ず、この館から出よう」

 

 露伴は一度、歩けるか試みた。しかし案の定、その場から足は動かない。仕方なく、露伴は床を這うことにした。いつ再び“虫”に襲われるか分からない状況である以上、一刻も早く館を出なければならなかった。

 

 館の外の門まで這った露伴は、門に体を預けると、スマホを取り出し電話を掛けた。

 

『もしもし。佐久です』

 

 かけた先は、S大学附属病院精神科の佐久医師だった。

 

「先日取材をさせていただいた岸辺 露伴だ」

 

『ああ、どうも。お久しぶりです』

 

「貴方にお聞きした、奇妙な洋館というところに今訪ねているんだが、面倒なことになった」

 

『とは?』

 

「説明は後回しだ。貴方が一番その辺の事情を知っているから、貴方に電話した。兎に角、救急車を手配してくれ。歩けないんだ」

 

『分かりました。直ぐにそちらへ向かわせます。あの洋館ですね?』

 

「ああ、宜しく頼む」

 

 電話の先で、佐久が誰かに指示しているのが微かに聞こえる。

 

『今、向かわせました。怪我ですか?』

 

「いや、これは―――怪我ではないな。そういったところも、そちらで話す。救急車を向かわせてくれたというのなら十分だ。ありがとう」

 

 露伴は電話を切ると、館の玄関を眺めた。その中に“虫”の群れを見付け、露伴は身構えた。しかし、“虫”は館から外へと出る様子がなかった。

 

「館から出られないのか?それとも、他に何か要因が?」

 

 襲ってこないというのなら、問題はない。露伴は洋館を見上げた。

 

「記憶を喰らう“虫”―――僕のヘブンズドアーとは、およそ対極的だな」

 

 館の後方に太陽がある。とっくに昼を過ぎているようだ。

 

「僕の能力が“天国への扉”であるとすれば、この奇妙な現象と、その原因の“虫”は、さしずめ“地獄門”といったところか」

 

 自分は一体、どれぐらいの“記憶”を奴らに喰われたのだろうか。露伴は思いを馳せる。

 

「歩けないのはイタいな。どれぐらいのリハビリが必要になるんだ?」

 

 歩けるようになったら、不動産屋に書き込んで、この館を取り壊させよう。

 

 救急車が来るまでの間、露伴は太陽光に目を細めて洋館を眺めた。




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