岸辺露伴は動かない [another episode]   作:東田

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another:18 《むかさり》

 タクシーを降りた俺の身体を38℃の炎天が焼いた。クーラーのがんがん効いた車内との気温差に辟易とする。走り去るタクシーの車両音さえかき消してしまいそうな、あまりにもうるさい蝉の大合唱が、いっそう俺の気を滅入らせた。

 前方にそびえる塀の格子の隙間から、蝉が大量に潜んでいるであろう木々のその奥に佇む洋館を見上げる。戦前日本の面影を残す和洋織り交ざった近代的な二階建建築だ。

 半開きになった門を押し込み、敷地内へと足を踏み入れる。木陰は気休め程度の涼しさを与えてくれた。玄関先まで石タイルの上を歩く。普段のように、家主に何の断りもなく玄関の引き戸に手をかけた。鍵はかかっていなかった。この家の主はいつも鍵を開け放している。夜間は流石に戸締まりするらしいが、それにしても防犯上いかがなものかとは常々思う。東京都はいえ郊外の寂れた町の一角だ。塀に囲われていて見通しも悪いし、何かしらの凶悪犯罪にはもってこいな立地にも見える。

 だがどうも、この家の主はそういったアングラな出来事をむしろ心待ちにしているきらいがあった。

 

 玄関には靴が二つあった。年季の入った茶色い革靴は見慣れたこの家の主人のものだ。だがもうひとつの、白基調のGUCCIのスニーカーには見覚えがなかった。先客がいるようだ。

 

「久土さーん。いるかい」

 

 玄関先で俺は主人の名を呼んだ。少し待ってみたが返事はない。となると、いつもの自室だろう。俺は二つの高級そうな靴の横に、二年ほど前に彼女から貰ったナイキのスニーカーを並べた。どうも見劣りするが、愛着においては負ける気がしない。

 

 ……いや。張り合うだけ空しくなる。俺の年収ではかなりの無理をしなければ買えない代物だ。結局俺は羨ましいだけなのだ。

 

 正面に見える急勾配の階段を昇る。二階に到達すると右に方向転換し、その先の扉をノックする。

 

「久土さん、いるかい」

 

「入りたまえ」

 

 扉の向こうから返事が返ってくると、俺はドアを開けた。冷えた空気とキツい煙草の臭いが廊下に漏れ出した。

 畳のあちこちに、何の規則性もなく本が平積みされた八畳間の窓際に、男が二人座っていた。

 

「遅かったじゃないか」

 

 この家の主、久土悟草(くどごそう)は、書生羽織に身を包んだ、時代錯誤も甚だしい風貌で煙草の煙を吐き出した。

 

「彼が例のかい」

 

 久土さんと向かい合うその男には見覚えがあった。いや、見覚えどころの話じゃあない。俺はあんぐりと口を開けて廊下に立ち呆けるしかなかった。

 

 ギザギザに尖った、やけにデカいヘアーバンド。真っ白で、上下の繋ぎ目が不明瞭な謎の服。古風な久土さんとは対称の、奇抜で前衛的な格好の、一度見れば忘れないであろうその男。

 

「早く入りたまえ。折角の涼しい空気が逃げるじゃないか」

 

 久土さんに急かされ、慌てて部屋に入る。扉が閉まってから再び俺は立ち尽くす。久土さんが煙草を深く吸う。その間しばらく、室内は静寂に包まれた。

 

「彼が俵屋宗次だよ」

 

 久土さんがそう俺を紹介する。もう一人の客人ーー岸辺露伴は、俺の全身を舐めるように眺めた。

 

「君のファンらしい」

 

 俺は生唾を飲み込んだ。彼の作品に出会って15年。当時思春期だった俺は、彼の「ピンクダークの少年」に多分に影響を受けて成長した。彼の作品から受けた“リアリティ”という信念は、夢の俳優になった今でも最も大事にしているものだ。本人を前に自称するのは気が引けるが、俺は彼の生粋のファンである。頬をつねりたくなる衝動に駆られながら、俺はぎこちない会釈をした。

 

「座りなよ。座布団はーーまあそのへんにあるだろう」

 

 久土さんはへラっと笑いながら煙草で床を指した。雑多に積み上げられた本のタワーの奥から座布団を引っ張り出し二人の前に座る。また沈黙が訪れた。予想外の客人に興奮が収まらない。室内は冷房が効いて寒いくらいだというのに、俺の背中にはうっすら汗が滲んだ。どうすればいいんだ。久土さんに視線で訴えかけるが、彼は俺のサインには気付かない様子だった。いや、わざと楽しんでいるのかもしれない。彼ならそれもありえる。

 

 久土悟草ーー俺の敬愛する岸辺露伴と同じ漫画家である。同じと言っても、出版元も作風も二人は全く異なっている。岸辺露伴が少年誌で異能力バトル物を描いているのに対し、久土悟草の作品はどちらかといえば大人向けな内容だった。岸辺露伴の人気は言わずもがなであるが、久土悟草は“知る人ぞ知る”天才、というような評価らしい。俺自身、彼のことを知ったのは彼の作品の実写ドラマに出演することになってからだった。そっちの業界に詳しい知人曰く“業界では一目置かれた存在”であり、繊細で、それでいて印象派を思わせるようなタッチの絵や、まるで小説を読んでいるかのような錯覚に陥る言葉選びから“漫画界の川端康成”と呼ばれているらしかった。

 

「さっき岸辺君とも話していたんだがね、クーラーってのは実に便利だね」

 

 煙草を吸い終えた久土さんが口を開く。

 

「これなしの生活にはもう戻れないよ」

 

 この家には昨年までクーラーがなかった。昔の人間はこれで生きてきたんだ、と彼は扇風機1台で夏を乗り越えていたのだ。しかし昨年の晩夏に熱中症で倒れ、編集者に説得されて今年からクーラーを導入したという。

 

「君が一方的に喋っていただけだろ。僕は同意した覚えはないぜ」

 

「おや、君はクーラー否定派かい。たしかに地球温暖化には良くないとか言われるが、体調を崩すよりはマシだよ」

 

「おいおい、それは去年の君に言ってやれよ。体調管理は社会人の基本だ。それでなくとも、勝手なプライドで体調崩すようなヤツは一流の漫画家とは言えないぜ」

 

 久土さんはおどけてみせた。宗次はどうなんだい、と俺に矛先を変える。

 

「体調管理は大事だよ」

 

「んだい。君も僕を叱るのかい」

 

 久土さんはふてくされた表情で、床の上に無造作に放り投げられたシガーケースに手を伸ばした。今時、相当な愛煙家でもないと見るのも珍しいアイテムだ。

 

「俵屋宗次です」

 

 俺は岸辺露伴と向き合った。彼はじっと俺の目を見据えた。15年待ち侘びた邂逅だった。いつぞやの正月特集号で見た写真よりも、実物は少しだけ大人びて見えた。そして誌面からは感じることのできない“オーラ”があった。彼の好奇に溢れた眼に、俺のすべてを見透かされているように感じた。

 彼が俺をじっと眺めているあいだ、俺は指の先ほども動かすことができなかった。デッサンのモデルを演じているわけでもないのに何故だ。彼が次に口を開くまでのほんの3,4秒は驚くほど長く感じられた。

 

「最近、変なものが見えるらしいじゃないか」

 

 ドキッとした。まさか本当に心まで読まれたんじゃないだろうな。そこまで考えて、俺はその話の出所に気付く。出所の主は、煙草の煙をくゆらせながら楽しそうにこちらを見ていた。

 

「久土さん、これは一体どういうーー」

 

 “あの話”は他言無用と釘を刺したはずだ。心を許した久土さんだから打ち明けたのであって、いくら敬愛する岸辺露伴相手といえども知られたくないことはある。

 

「宗次君、彼は信用のおける相手だよ。問題解決という点に関して言えば、俺よりも彼の方が適任だ」

 

 岸辺露伴に目を戻す。彼の、何もかもを見透かしたような目はやはり俺を貫いた。

 

「久土さんから何と?」

 

「変なものが見えるらしいという、それだけだよ。君に直接話をさせたいのかしらないが、それ以上のことは何も言いやしない」

 

 最低限のプライバシーは守ったとでも言うつもりだろうか。俺は久土さんを睨み付けた。久土さんに悪びれる様子はない。

 

「それで、何が見えるんだい?この男が“面白い話がある”と言うからこっちまで出向いてきたんだ。もったいぶらすようなことは好きじゃない」

 

 岸辺露伴は久土さんを顎で指しながらそう言った。観念するほかないようだ。

 

「“花嫁”が見えるんです」

 

 岸辺露伴は面食らったようだった。それもそうだ。彼が期待していたのは、きっと幽霊や妖怪といったオカルトの類いだろう。拍子抜けもいいところだ。大別すればこれもその部類かもしれないが、それにしたって予想外の角度だろう。

 

「久土悟草、話が違うぞ。“花嫁が見える”だと?こいつただの精神疾患じゃないのか?」

 

「岸辺君、話はまだ()()()だよ。君はまだ核心を何も聞いちゃいないじゃないか」

 

 岸辺露伴は懐疑的な目を俺に向ける。そう思われても仕方ないだろう。だいいち、俺自身その可能性を疑っている。不定期に、俺の視界に突然現われる“花嫁”の姿は、俺の創り出した幻覚ではないのか?

 

「まあ聞くだけ聞いてやるよ」

 

 岸辺露伴は俺と正対するように身体を傾けた。彼の目は至って真剣である。だがそれは、目の前に居る精神錯乱者の狂言をどう説き伏せてやろうかと企てている風にしか俺には感じられなかった。漫画家岸辺露伴への尊敬と、個人としての岸辺露伴への信用はイコールではなかった。

 

「不安も不満ももっともだがね」

 

 しばらく沈黙を貫いていると、久土さんが口を開いた。

 

「僕は自分自身より、岸辺君の方が君の悩みの解決の助けになると思って彼を呼んだんだ。“花嫁”が怪異でも、君が気狂いでも、どっちにしたって岸辺君は助けになる」

 

「久土悟草はこう言ってるが、僕は助けるなんて一言も言ってない。そこは勘違いしないでくれよ。無償の善意で赤の他人を助けるほど、僕はお人好しじゃあないんだ。君の話を聞いてその気になったらアドバイスくらいはしてやるかもしれないがね」

 

 二人して勝手な事を言ってくれる。だが久土さんが“怪異”と口にしたときも、岸辺露伴は眉一つ動かさなかった。この男はそういう話に耐性があるのかもしれない。そう思うと、全て話してしまおうという気になった。精神科に通ったところで根本的な解決には繋がっていない。今更誰に話そうが同じだ。

 

 初めてそれに邂逅した、二か月ほど前のあの日まで、俺は記憶を遡らせた。

 

 

 

 

    *

 

 

 近場の飲み屋で高校時代の級友と呑んだ帰りの話だった。売れない役者の俺は、前日に入った久土さんの作品の実写ドラマの仕事に舞い上がっていた。主役級への配役ではなかったが、それでも複数話にまたがって登場するそこそこの役回りだった。当時は久土さんのことなんて知らなかったから作品に対する思い入れはなかった。それでも地上波で放映される予定だし、超売れっ子の若手が主役に抜擢されたことで話題性もあり、俺はもう有頂天になっていた。そんなわけで、学生時代から俺の夢を応援してくれていた友人と盛大に呑み交わした。

 

 夜も更けたところでお開きとなった。友人とは店の前で分かれ、駅と反対方向の自宅へと歩いた。

 店から家までは徒歩十五分程度。夜は飲み屋で賑わう表通りを外れ、住宅街の方へと向かう。件のためにすっかり調子に乗った俺はひどく酔っ払っており、足下もおぼつかなくなっていた。

 正直、当時の鮮明な記憶はほとんどない。確かに自分の足で帰宅した事は覚えているが、それもいつも歩く道を帰ってきたのだろうという予測半分で成り立った記憶だ。だが確かに、その日の俺は()()を見た。

 

 多分、自宅手前の交差点で信号を待っているときだったと思う。対面の歩行者信号の根元に、真っ白な“花嫁”がいた。

 

 柄のない純白の和装の花嫁衣装に身を包んだそいつは、両方の口角を上げて、少し俯き加減で突っ立ていた。綿帽子のかさで目元は見えなかったが俺はどうしてか「目が合った」と感じた。

 

 ()()が普通の人間でない事は一目で分かった。あまりにはっきり見えすぎたんだ。夜だっていったって街灯なんかがあるから当然だと思われるかもしれないが、そうじゃあないんだ。衣装の皺の一つ一つや、指の関節部分の皺、綿帽子の奥に覗く後ろ髪の一本一本、それらが全部鮮明に認識できるんだ。道路の幅は少なく見積もっても五メートル。その距離ではっきりと見えたんだ。それにそもそも、()()は夜の中で浮いていた。花嫁の見える感じが、街灯の明りを受けてという風ではなかったのだ。夜景の写真の上に、別の写真を載せた感じ。この空間に居るという感じではなかった。

 

 そのときの俺は酔いすぎでどうかしてたんだろう。青信号に変わっても動かないそいつの横を、「珍しい奴がいたもんだ」なんて思いながら通り過ぎた。

 

 俺は幽霊とか妖怪とか、そういう非科学的な存在は信じない人間だ。世の中の全ての出来事には科学的な原理があって、幽霊とか妖怪も近代以前の人間が非科学的な根拠をもとに存在を認識していただけだと考える。だからその花嫁も、多少の違和感はあったがすべて気のせいで片付けた。そもそも酔っ払っていた状態での記憶は信用できない。花嫁は、些細な記憶として記憶の隅へと追いやられた。

 

 それから数日後に“花嫁”は再び現われた。今度は昼間の、都内の雑踏の中。仕事場へタクシーで向かうその途中、やはり信号待ちで停車しているときだった。この間とは変わって大きな交差点だった。

 信号待ちの人混みの中に“花嫁”の姿があった。“花嫁”はやはり景色の中で浮いていた。人々の肩越しに見えるその“花嫁”と、やはり「目が合った」。俺はあの夜の、それに出会ったときの記憶だけを鮮明に思い出した。気味が悪かった。何時に帰宅したのかさえ曖昧な記憶の中でも、“花嫁”の記憶は浮いているのだ。

 俺は視線を逸らすと、運転手に頼んで冷房を切ってもらった。ただ寒かった。

 

 “花嫁”はそれから、ことあるごとに俺の視界に現われるようになった。時も場所も問わず、いつでも、どこにでも、気付けば“花嫁”が居た。

 最初にストーカーを疑った。売れないといっても一応俳優だ。一人くらい、そんなファンもいるかもしれない。気味悪がる反面で、俺はどこかそんな人間の存在を期待していた。だが、“それ”は普通の存在ではなかった。あれだけ目立つ格好をしておきながら、周囲の人間は誰も“花嫁”に反応しないのだ。それに景色の中で()()()見える事も謎だ。だから次に幻覚を疑った。俺の気が触れたのか、疲労が溜まっているのか。原因は不明だが、いずれにしろ幽霊や怪異というよりは合理的だった。

 

 “それ”の現われる頻度は日に日に増えていった。玄関先、現場、果ては夢の中まで。そのうち脳裏にあの白い花嫁衣装がこびりついて離れなくなった。

 

 初めての遭遇から一か月も経っただろうか。“花嫁”が二人同時に現われた。現場での出来事だった。撮影した映像を確認していると、画面の中に“花嫁”が二人映っていた。やはり、合成でもしたかのようにそれの存在は浮いていた。画面に現われる事も、それに誰も気付かない事も慣れていたが、二人という初めての出来事にそのときばかりは叫んだ。服の皺も、指の関節の形も全く一緒。やはり細部まで見えるそれらが同一のものだと気付いていよいよ暴れた。

 

「何なんだ!!お前ら一体何者なんだ!!!」

 

 いきなり叫んだ俺に周囲は困惑したようで、その日の俺の撮影はそこで中断した。

 

 周囲は俺が狂ったのではないかと噂した。事務所側は薬物か精神病かでイカれたと考えたに違いない。関係者に箝口令を敷いた上で俺はしばらくの休暇を貰った。翌日には半ば強制的に病院で検査を受けたが、結局原因は分からずじまいだった。

 とってつけたような休養と睡眠導入剤のみを与えられて放り出された俺の精神は限界に近かった。休んだところで、やつらは執拗に俺の視界に現われる。更にその数は日を追うごとに増加した。二人が三人に、三人が四人に。

 

 つい二週間も前のこと。町中に買い物に出かけた帰りに“花嫁”が現われた。その日は真夏日だったことも手伝って俺はイライラしていた。その上でそれに遭遇したもんだから、プッツンきてしまった。

 

「いい加減にしろ!!お前らのせいで仕事まで潰れそうだ!!何が目的なんだ!!!俺につきまとうのは止めろ!!!」

 

 怒鳴ったところで何の意味も無い事は十分理解していたが、それでも人の目も気にせずに吠えた。吠えずにはいられなかった。周りの人間はさっと俺から距離を取って、皆遠巻きに俺が暴れるのを眺めた。カメラを向けられるのはマズい。これでは事務所の大人達の苦心も水の泡だ。しかし当時の俺にそんな理性が働くはずもなかった。

 

「誰に怒ってるんだい?」

 

 そんな俺に声を掛けてきたのが久土悟草だった。大概彼もイカれている。町中で虚空に向かって叫び散らす人間が正常なはずがない。だというのに彼はコミュニケーションを図ってきたのだった。

 

 久土悟草という男は本当に不思議だった。彼に話しかけられた途端、俺の心はすっかり落ち着いた。正体不明の“花嫁”の姿は依然はっきりと見えていたが、何だか大したことじゃないように思えた。

 

「君知ってるぞ。俳優の俵屋宗次だろう」

 

「知ってるのか?珍しいな」

 

「ああ。俺のマンガの実写作品に出演するんだろう?」

 

()()()()()……もしかして貴方が作者?」

 

「久土悟草。よろしく」

 

 久土さんは楽しげな表情で俺に握手を求めた。何だか決まりが悪かった。今は休養を貰って撮影には不参加。降板の可能性だってある。

 

「ひとまずどこか落ち着ける場所に行こうか。君もここでは何かと不便だろう」

 

 俺は初めて周囲を見渡した。無数のカメラが俺と久土さんを取り巻いていた。自分の失態に気付き青ざめた。

 

「安心したまえ。スキャンダルにはならないよ」

 

 パチン

 

久土さんが指を鳴らすと,群衆は急に冷めたように散開した。催眠でもかけたみたいに、人々は完全に俺らから興味を失ったようだった。

 

 

 

 

 

 

    *

 

 

 

「それが今から二週間くらい前の話です。久土さんに俺の悩みを打ち明け、久土さんはそれを馬鹿にすることなく親身になって聞いてくれた」

 

「尤も、根本的な“花嫁”の解決には至っていないがね」

 

 久土さんが補足を入れる。足下の灰皿には吸い殻がたまっていた。思った以上に長く話し込んでいたみたいだ。

 

「それで僕にどうしてほしいんだい。まさか“治してくれ”なんて言うわけじゃないだろうな」

 

 僕は医者でもカウンセラーでもないんだぜ。岸辺露伴は不機嫌そうに言った。

 

「俺じゃあ原因の特定がどうも難しくてね。内面的な情報収集が必要なんだ」

 

()()と?」

 

「端的に言えばそうだ」

 

「断る。僕に何のメリットがあるんだ」

 

「頼むよ岸辺君。見るだけだ。それ以上は求めない」

 

 二人の間では、俺の知らざる駆け引きが行なわれているようだった。

 

「まあ――君が頼ってきたんだ。それだけ面白くて、それだけお手上げってことなんだろ」

 

「助かるよ」

 

 どうやら岸辺露伴が協力することで話が纏まったようである。しかし俺は疑心暗鬼を捨てられずにいた。本人も言っていたが、彼は医者でもカウンセラーでもなくマンガ家だ。言っちゃあ悪いが、彼に何ができるというのだろうか。そんな俺の不安を見抜いてか、久土さんは俺に煙草を差し出した。つまるところ“落ち着け”のサインである。そういう趣向が好きなのだ。久土さんから煙草とジッポを受け取り火を点けると、大きく一吸いした。強烈なニコチンの味に頭がクラクラする。

 岸辺露伴が膝を一歩前に出した。ペンを胸元から取り出し、俺の眼前にそれを添える。

 

「何を……」

 

「ちょっとした催眠みたいなものだよ」

 

 久土さんが答えた。岸辺露伴は真剣な表情で俺の顔をジーッと眺めた。その目に動揺が走ったのを、俺は見逃さなかった。

 

「おい久土悟草。こいつは断じて精神病や疲労じゃあないぞ」

 

「何が見えた?」

 

 状況を理解できない俺を尻目に二人が言葉を交わす。

 

「“絵馬”だ。この男と“花嫁”の二人が描かれている。結婚か?」

 

「その“花嫁”が幻覚の正体か」

 

「既に八割ほどが()()()()()()()()()。待て。端に文字が書かれているぞ。“202X年6月26日 俵屋宗次、朱実 ○×神社”。この名前に覚えは?」

 

 俺は首を横に振った。聞いたこともない。だが“花嫁”の幻覚が始まったのも6月末からだ。

 

「○×神社は?」

 

「知らない。そもそも俺は未婚です」

 

「おい久土悟草」

 

「今調べてるよ」

 

 久土さんは部屋の隅に積まれた本の山を一つ崩した。無造作に置かれているように見えるが、彼は大体の場所を把握しているらしい。

 

「あった。Y県だ――もしやムカサリ絵馬か?」

 

「「むかさりえま?」」

 

 俺と岸辺露伴は同時に尋ね返した。

 

「Y県に伝わる風習だよ。詳しくは知らないが、確か未婚で亡くなった若者を供養するための絵馬だ」

 

「それが“花嫁”の正体?」

 

「分からないよ。ただ無関係ではなさそうだろ」

 

 岸辺露伴は持ち前のノートを取り出すと、何やら筆を走らせた。ものの数秒で描き上げ、そのページをちぎると俺に差し出した。紙には今し方話題に上った“絵馬”が描かれていた。

 

「○×神社に行ってこれと同じものを探すんだ。もし奉納されていれば、それが原因だろう」

 

「もし同じものがあったらどうすれば?」

 

「さあな。壊せば終わるんじゃないのか」

 

 適当なことを言う。久土さんは何故この男を信用しているのだろう。岸辺露伴の言動には突飛な宗教勧誘にも近い不信感がある。この男は何を見て絵馬を描いたんだ?俺は科学主義者だ。透視や預言のような戯言も信じない。

 

「君が僕を信用しようがしまいがどうでもいい。そんなのは勝手にすればいいんだからな。僕は頼まれたとおり、()()()だけだからな。後は好きにすればいい」

 

「宗次君、君がどう思うかは問題じゃない。だが君の身のためにも忠告しておくよ。神社には行った方がいい」

 

「神頼みは好きじゃないんですけどね」

 

 だがどうも、二人の忠告は本気のようだった。

 

「宗次君、俺らも非科学主義者ではないよ。ただ科学の及ばない物事がこの世にあることを知っているんだ」

 

「放っておいたって好転しないんだ。行きますよ」

 

 もうどうにでもなれ。俺は煙草の火を揉み消した。

 

 

 

 

 

   *

 

 

 ひどく寂れた境内だった。

 

 元はそれなりの勢力を持っていたのだろう。敷地面積はなかなかに広く、鳥居から拝殿までの参道は無駄に長く、道中には小さな社や物産販売所と思われる建物がちらほら見えた。しかし無人とあって、それらはまるで機能していなかった。周辺は雑草で荒れ、至る所に蜘蛛の巣なんかがひっついていた。神様というよりもお化けの方が棲み着いていそうだ。

 

 辛うじて拝殿は整備されているようだった。他と違って建物の色がくすんでいない。ただ正面の障子戸には小さな穴が開いていたりと、どこか杜撰だ。

 

 拝殿で参拝を済ませると、俺は周辺の散策をはじめた。参拝はオマケだ。形式に従わないのはバッドマナーだからな。

 

 拝殿の側に立つ、比較的小規模なお堂が目に入った。他にも建物は幾つかあったが、そのお堂が特別なことは一目で分かった。拝殿よりも綺麗なのだ。俺はそれに近付くと、そっと木製の引き戸を開いた。

 

 白い頭飾り。

 

 俺は咄嗟に戸を閉めた。またあの“花嫁”が?――いや。 はやる動悸を抑え、深呼吸する。

 

 アレとは違う。アレはもっと異質だ。お堂の中のそれは空間に溶け込んでいた。この世のものだ。“花嫁”はもっと違和感のある――

 

 もう一度、戸を開く。お堂の中には人間大の人形が並んでいた。造形はお粗末なもので、どれも素人が作ったようなクオリティだ。こんなものをあの“花嫁”と見間違えるとは。

 

 そうと分かれば怖くない。一気に扉を開ける。日光が入り込んで、堂内が照らされた。

 

 男女混淆の人形が八体。どれも着物や袴で着飾っている。“花嫁”“花婿”姿だ。陳腐な出来だったが、気味悪かった。全部が正面を向いているため、どうしても見られている気がしてならない。目を逸らすようにして壁面を見る。床から天井ギリギリまで、一面に絵が飾られていた。絵にはやはり“花嫁と花婿”の姿が。その配置には見覚えがあった。岸辺露伴に渡されたあの絵とそっくりだ。どうやらこれらが“ムカサリ絵馬”のようだ。絵馬と聞いて木製の小さなものを想像していたが違ったらしい。

 

 僅かに確保された堂内のスペースに侵入する。何十枚と飾られた絵馬の中から、岸辺露伴が描いたものと同じ絵柄を探した。

 

 数分間探し続け、やっとそれを見付けた。お堂の右隅、俺の背よりも少し高い、天井から20㎝ほど下がったところにその絵馬は飾られていた。邪魔な人形を押しのけ、その絵馬に手を伸ばす。

 

 “202X年6月26日 俵屋宗次、朱実 ○×神社”

 

 絵馬の隅にそう書かれていた。これで間違いない。ホッと一息つき、さてどうしたものかと絵馬に目を落とす。

 

 ()()()()()

 

 ゾクゾクと背中に悪寒が走った。浮世絵みたいな絵柄で描かれていたはずの絵馬の中の花嫁は、いつものあの“花嫁”に変貌していた。

 

 思わず絵馬を取り落とす。

  

 違う。違う違う違う。これは幻覚だ。幽霊や怪異なんてものはこの世には存在しない。この世界は法則で動いているんだ。不条理なんてものは存在しないんだ。“花嫁”も、俺の心が創り出したまやかしだ。

 

 ()()()()

 

 一つじゃない。十……いや、もっとだ。

 

 堂内の花嫁人形が、花婿人形が、絵馬の中の花嫁や花婿が、全てあの“花嫁”に変わって、少しだけ俯いて、少しだけ微笑んで、綿帽子の向こうから俺を見詰めた。

 

 本当に恐怖を感じたとき、どうやら人は叫ばないみたいだ。声をあげたつもりだったが、俺の喉からは途切れ途切れの不完全な呼気が漏れただけだった。

 

 過呼吸になりながらも、何とか足下の絵馬を拾い上げる。絵馬の中の俺の隣で“花嫁”が笑う。とにかく怖い。素性の知れないこいつが怖い。

 壊さなくては。額に入ったそれを頭上に掲げ、床に向かって振り下ろす。その腕を誰かが掴んだ。“花嫁”だ! あいつが俺の腕を掴んだんだ! 絵馬の破壊を妨害しようとしているに違いな!

 

「おい! 落ち着け! 俺だよ宗次君!」

 

 その声にハッと我に返る。“花嫁”ではない。久土さんだ。俺はおそるおそる顔を上げた。堂内はまだ“花嫁”でいっぱいだ。だが側に立つ久土さんを見ると、心が落ち着いた。

 

「落ち着いたかい」

 

「どうして久土さんが?」

 

「気になって少し調べた。“ムカサリ絵馬”っていうのはお寺に奉納されている例が多い。なのにここは神社だからな」

 

「でも――」

 

 まるで答えになっていない。久土さんは続ける。

 

「さっき住職さんに話を聞いた。神仏習合の名残で今もこの神社は絵馬を取り扱ってるらしいよ」

 

 そんなことじゃなくてだなと、久土さんは俺の手から絵馬を取り上げる。

 

「“ムカサリ絵馬”には実在する人物を伴侶として描いてはならないんだよ。これは独り身で亡くなった若者を供養するために、あの世で結婚させてやるという意を込めたものだ。だからこの絵馬に実在する人物を描くと、その人物はあの世に連れて行かれるのさ。むこうで供養された若者と一緒になるためにね」

 

 久土さんの話は今なお信じられるものではなかった。だが仮に俺が精神的にイカれてないとすれば、他に科学的な説明が付かないのは事実だ。自分がイカれてると思うか、幽霊の存在を信じるか。久土さんの話を信じざるを得ない。少なくとも、自分のことを精神病と思うよりは希望のある話だ。

 

「テレビやネットなんかの普及で有名人の顔を無断で描く奴も増えているらしくてね。そういうのは依頼の段階で断るようにしてはいるんだが、その効果を知ってか知らずか、たまに勝手に描いて勝手に奉納するような輩もいるらしい。君もその例なんじゃないかって話だったよ」

 

「そう……ですか」

 

「で、どうするか。君がこの呪いから逃れる方法は二つ。“絵馬を破壊する”か“身代わりの人形を奉納する”か。ここに並んでる人形は身代わりのものらしいよ。高くつくらしいがね。それに対して破壊するのは無料(タダ)だ。その代わり、絵馬が破壊されれば供養された魂は地獄に落ちる」

 

「久土さん、俺は――」

 

 久土さんは手で俺の言葉を制する。

 

「地獄はあるよ。まあ俺らの想像しているようなものではないだろうけどね」

 

 久土さんはどこか遠くを見た。

 

「この“花嫁”のことは許してやってはくれないか。事の原因は絵馬を奉納した遺族にある。彼女は生前、君のファンだったのだろう。あるのはひとつの尊い魂だよ」

 

 依然、俺の周りを“花嫁”が囲んでいる。だが先ほどと違って恐怖は感じなかった。彼女は報われない魂なのだ。

 

 彼女と向き合う。

 

 いい顔で笑っている。彼女はあの世で幸せを手にするのだ。それを壊す権利は俺にはない。

 

「許す許さないは閻魔様が決めてくれるでしょう。俺の決めることじゃない。人形は住職さんに頼めば?」

 

「助かるよ」

 

 久土さんもまた笑った。

 

 

 

 

 

 

    *

 

 

 人形の奉納を終え、憑き物が落ちた顔をした宗次を見送った悟草は、境内を出ると近所の食事処へと向かった。郷土料理を提供する、小さな個人経営の店だ。店内では扇風機が回っていた。

 

「助かったよ岸辺君。礼を言う」

 

 店内で席に着く露伴を探し当てた悟草は、その向かいに相席した。

 

「あの住職はどうしたんだい」

 

「放っておいたよ」

 

「本気かい?」

 

 悟草が目を細める。

 

「彼は“ムカサリ絵馬”の危険性を理解しててやっていたんだろう」

 

「ここの神社は穴場らしいからな。絵馬の存在も殆ど知られてない。それで良い商売になると思ったんだろう」

 

 定食をつつきながら露伴は答える。

 

「君にだって被害が及ぶ可能性はあるんだぞ」

 

「むしろ大歓迎だね。面白い体験ができそうだ」

 

 悟草は頭を抱える他なかった。

 

「君はお人好しが過ぎる」

 

「どうだかね。岸辺君だってお人好しな一面はあるじゃないか」

 

 露伴の箸を動かす手は止まらない。

 

「何の話だ」

 

「話によれば、あの絵馬に描かれた者の寿命はせいぜい二ヶ月ってところなんだろう。君が相談を受けたあの日で二ヶ月は近かったはずだ。君が何かしてくれたんじゃないのかい」

 

「知らないね」

 

 露伴は興味なさそうに返した。

 

「僕に何ができるって言うんだい。人の寿命を延ばせるほど、僕は万能じゃあないんだよ」

 

「まあ、君がそう言うならそうなんだろう」

 

 世の中には知覚しえない物事が無数にあるのだ。

 

「しかし暑いな。クーラーはないのかい」

 

 襟元を扇ぐと、悟草は悪態をついた。

 

 

 

 

 




 ほんと夏は暑いですね。マスクして外出すると死にそうになります。みなさんはちゃんとクーラーつけましょう。

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