岸辺露伴は動かない [another episode] 作:東田
岸辺露伴は子供が嫌いだ。厳密に言えば、自分勝手で全く思うように動いてくれないクソガキみたいな人間が嫌いだ。そういう相手には常に気を配っておく必要がある。なんせ逐一の行動が予測できない。奴らは大抵、露伴のやって欲しいことと正反対の行動を取る。それが彼にとってはこの上なくストレスになるのだ。逆を言えば、例え相手が五歳の幼子であろうと“弁えた人間”であれば、相手をそれなりに扱った。
トーマは“弁えた”子供であった。二人で行動するようになってかれこれ丸二日が経つが、彼が露伴をイラつかせたことは一回もなかった。
彼はドイツにいる露伴の友人の息子だ。日本人とのハーフで、幼少からドイツに住んでいるため日本語は話せない。露伴がドイツ語を喋ればいいのだから問題はないのだが。
「頼むキシベ、この通りだ。四日だけでいい。うちの息子を預かってくれ!」
トーマの父、アベルが手を合わせて懇願する。二日前の事だ。休暇を兼ねた取材旅行にドイツを訪れた露伴とアベルが空港で鉢合わせたのは、全くの偶然だった。
「君にとっては“四日だけ”かもしれないが、僕からすれば“四日も”だぜ?」
露伴は困り顔をする。
「頼む!どうしてもトーマの面倒を見てくれる人が必要なんだ!」
「そう言われてもな――」
アベルは現在、出張中の身である。妻も別件で国を留守にしており、一人残されたトーマは祖母に面倒を見てもらっていた。しかしつい先日祖母が倒れ入院。アベルは一時的に帰宅できたが、直ぐに現場に戻り、もう数日勤める必要があった。その間トーマの世話をしてくれる人間がいない。途方に暮れていたところ、たまたま露伴と出会ったらしい。滞在期間や行程から考えれば、露伴がトーマを預かることは十分に可能だ。だというのに露伴が難色を示す理由は、トーマが子供だからということに他ならなかった。
「そうだキシベ。代わりと言ってはなんだが、何か一つ、君が欲しいものをプレゼントするよ。それでどうか手打ちにしてはくれないか」
「違う、見返りが欲しいって訳じゃない。はっきり言うぞ。僕は子供が嫌いだ。言葉が通じないからな、あいつら」
「そういうことなら安心してくれ。親の俺が言うのもなんだが、トーマは利口な子だ」
頼む。アベルは再度、手を合わせて頼み込んだ。
「どうしたものか――」
言ってしまえば、露伴の気分の問題だ。何か大きな損失が生まれるわけでもない。であるのなら引き受けるべきなのでは?露伴は思慮を巡らせる。
「わかった、引き受けよう」
アベルの表情が明るくなる。
「ただし、僕の本来の予定を変更するつもりはない。数日は国内の観光に連れ回すが、いいな。特別何かしてやるつもりもないぜ」
「大丈夫だ。だだをこねるような子じゃない。ご飯を与えて休憩を適度に取ってくれれば十分だ」
「まあ、疲れて動けなくなられたときに困るのは僕だからな。その辺りはちゃんと見るさ」
「本当にありがとう。お礼はどうすればいい」
「そんなものは要らないさ――と一旦断るのが正しいんだろうが、僕は貰えるものは貰っておこうって考えでね。とはいえまあ君に一任するよ」
“面白い物”を持ってきてくれることを期待してね。露伴は悪戯な笑みを浮かべた。
そんな経緯あって、露伴は今もトーマと行動を共にしていた。トーマの大人しさに露伴は驚いていた。お腹がすいた、疲れたとぐずることもなく、両親が恋しくなって泣くこともない。露伴でさえちょっと心配になってしまうほど従順だ。大人に恐怖心を持っている様子でもない。ただただ“いい子”なのだ。露伴の取材も順調。この二日の間に計六ヶ所の観光地を回れた。気分もすこぶるいい。
マリエンブルク城を訪れた後、二人は宿のあるハーメルン市街へと戻った。地元の伝統的なレストランに足を運ぶ。有名な店だ。
ここハーメルンを舞台にした伝説“ハーメルンの笛吹き”。物語の主格となるのは笛吹き男だが、露伴達の訪れたレストランは、その男が泊まった建物とされていた。石造りの、歴史を感じさせる外観。入り口横の吊り看板には笛吹き男のシルエットが描かれている。現実に笛吹き男が泊まったかはさておき、店内のあちらこちらに、伝承にちなんだものが並べられている。最も目を引くのは壁画だ。騒動の一連の流れを示した壁画が大きく描かれている。
二人の通されたテーブルは入ってすぐにある丸テーブルだ。レストラン名物の“ネズミの尻尾”を一先ず注文する。料理名にはカルチャーショックを受けそうになるが、材料にネズミの尻尾が使われているというわけではない。豚肉を細く切り、ネズミの尻尾に見立てているだけの料理だ。
スタッフがテーブルの横までワゴンを引いてきた。だが、ワゴンの上にそれらしき料理は乗っていない。代わりに空の皿や、具材やら調味料やらの入った皿が並べられている。露伴が首を傾げていると、具材を使ってスタッフが料理を始めた。目の前で調理するサービスらしい。トーマが目を輝かせ、食い入るように眺める。最後にフランベで焼き上げ完成。トーマが歓声を上げた。
その後注文した料理が続々と運ばれる。大した量ではなかったが、トーマの箸の進みは遅かった。
「不味いか?」
気になった露伴が尋ねる。トーマは首を振って否定した。
「ならいいんだがな」
露伴は卓上のワインを喉に流し込んだ。二日間連れ回してるのだ。疲れてるんだろう。気長に待ってやることにした。
二人が食事にいそしんでいると、突然スタッフが声をかけてきた。
「お客様、本日はお帰り下さいませ」
「なに?」
虚を突かれた露伴は思わず聞き返す。まだ皿に料理が残っている。
「何かマナー違反でもあったか?それとも長居しすぎたか?」
スタッフが首を横に振る。
「本日はこの時間をもってしてお子様の入店をお断りとさせていただいているのです」
「聞いてないぞ」
「一時間ほど前から入店いらしているお客様には説明申し上げているのですが――」
露伴は店内の時計に目をやる。来店から二時間近く経っている。露伴は長い溜息を吐くと、荷物を纏めて立ち上がった。店の決まりなら仕方がない。会計を済ませ、不満げな表情を隠さずにいるトーマの手を引き店を出る。店の先で、見送りに来たスタッフが二人を呼び止めた。
「お客様、一つだけお願いがございます」
露伴は振り返る。スタッフが真剣な面持ちで立っている。
「本日の日没は21時47分頃。それまでにホテルにお戻り下さい。それから夜が明けるまで決してお子様を建物の外に出さぬよう」
露伴は腕時計でもう一度時間を確認した。既に21時を少し過ぎている。ホテルには余裕を持って到着できるが、寄り道している時間はないだろう。
「何でだ?」
露伴は尋ねる。
「店の方針なのか?だとしたら大層厚意的なサービスだな」
トーマはまだ五歳だ。言われなくても、その時間までにはホテルに帰るつもりでいた。
「なあ。これは僕の好奇心なんだが、何故“日没”なんだ?一切外に出しちゃいけないってのも引っかかるな。治安の問題か?」
スタッフは首を横に振る。
「詳しくはホテルのスタッフにお聞き下さい。この地域の人間は皆知っています。それよりも日没が迫っています。なるべく早いご帰宅を」
露伴は肩をすくめた。答えになっていない。スタッフが再度、二人に帰るよう促す。露伴は諦めると踵を返した。トーマの手を引きホテルへの道を行く。道中露伴は、すれ違う人々が不安げな眼差しを送ってくることに気付いた。空模様が怪しい。陽は雲の向こうに隠れており、日没まではまだ時間があったものの街頭には既に明りが灯り始めていた。やはり日没までにホテルに戻らなければならないようだ。“街”全体が促してきているかのようだ。
「“子供”がいけないのか」
二人が歩いているのは街の中心地だ。人の気も多い。だがすれ違う人々の中には“子供”の姿が一つも見当たらなかった。地元民はともかく、他の観光客でさえ子連れは居ない。かなり徹底されているようだ。
「だが聞いたことがないぞ」
街全体の規模の独特なルールだ。ガイドブックや何かに紹介されていてもよさそうなものだが。書けない理由でもあるのか?とんと見当が付かない。
「もし」
露伴が思考を巡らせていたところを老婆が呼び止めた。六十――いや七十代か。
「アジアのお方、今日は何の日かご存じか」
「知らないな」
“何かの日”であることは間違いなさそうだが、それが何なのかは露伴の考えの及ぶところではない。
「今日は日没以降子供が外へ出てはならない日なのです。日没まであと二十分といったところです。早くホテルへお帰り下さい」
「それは知っている。何故なのかは知らないがな」
「ご存じでしたら良いのです。失敬失敬」
踵を返しその場を去ろうとする老婆を、今度は露伴が呼び止める。
「なあ、ちょっと待て。どうしてなんだ?理由を教えてくれ」
老婆はレストランのスタッフと同じように首を振った。
「ホテルの人間が説明してくれるはずです。わざわざここで立ち止まって話す意味はありません」
なあ。露伴の視線が老婆を射る。
「“知ってる”とは言ったが“従う”と言った覚えはないぜ」
老婆は目を見開いた。露伴に正対し、溜息を一つ吐く。
「お若いの。年の盛りに乗って世に反抗するのは結構。貴方の好きなようにするがよろしい。だが従った方が良いものは存在する。若気の至りで大切な命を奪うことはあってはならない。今すぐ、ホテルへ戻りなさい。さもなければその子の命はないと思って戴きたい」
老婆はトーマを指さした。
「そういう脅しもいらない。老化で耳が遠くなってるのならもう一度聞くぞ。何故日没後に子供を外に出してはならないのか。その理由を教えてくれ」
二人は互いに睨み合った。老婆が再度溜息を吐く。
「今夜は何処にお泊まりの予定で」
「答える必要はない」
「何もそこまで敵意を剥き出しにせんくとも――そこまで歩きながら話そうというだけのことだに」
露伴は無言のまま歩き出した。老婆がその隣を歩く。
「今日は――六月二十六日じゃが――何の日か知っとるか?」
「いいや」
「なら“ハーメルンの笛吹き男”の物語は知っておるか」
「知っているが。それが?」
「笛吹き男が子供達を連れて消えた日付が六月二十六日。今日と同じ日付でね」
へえ。露伴は生返事を返す。それがどう繋がるのか。
「“奴”は未だに根に持っとるのだよ」
「“奴”?」
「笛吹き男じゃよ。あの事件から数百年経った今でも奴はこの日、この街に現れ子供達を攫ってゆく」
「“日没後”にか?」
老婆が肯く。
気になるな――見てみたい。相手は伝説の中の登場人物だ。だがトーマを危険に晒すわけにもいかない。露伴は煩悶する。
突如、空に鐘の音が鳴り響いた。
「何の鐘だ?」
空を見上げて露伴は尋ねる。老婆からの返答はない。
「なあ聞いて――どうした」
老婆の顔から血の気が失せていた。
「日没はまだのはずだ――なぜ――」
「おい大丈夫か。何が起きた」
露伴に揺すられ、老婆は正気を取り戻す。
「連れの子が危ない!」
老婆が露伴に訴える。
「早く追うのじゃ!手遅れになるぞ!」
「何を言って――」
そこで初めて、左手に握っていたトーマの手の感触が消えていることに露伴は気付いた。
「なにッ」
周囲にトーマの姿を探す。だがその影はどこにも見当たらない。
「トーマッ!」
返事もない。露伴は焦りを覚えた。道行く人々の視線に哀れみを感じるのは気のせいではないだろう。
「中央広場じゃ!“奴”と子供はそこにおる!急げ!」
老婆の叫びを耳にした露伴は反射的に駆け出した。
中央広場に近付くにつれ、人の通りは減っているようだった。彼らは明らかに広場の周りを避けている。
広場の手前でとうとう、露伴の視界から人が消えた。規則的に並ぶ街灯の、温もりを感じさせないくすんだ黄色の光が寂寥感を助長する。だが、その空気を気にかけている余裕は露伴にはなかった。大通りから広場に侵入する。
広場の中央、レストランや出店のために設けられたテラステーブルの群れの前。一人踊る
露伴は足を止め、目を細めてピエロを眺める。先端に赤い毛玉の付いた、三角のピエロハットを頭にかぶり、両手両足を軽快に振り回しながら一体の操り人形を踊らせる。静寂というバックサウンドの中で、まるで音楽に合わせて踊っているかのようなその姿は滑稽だ。タカッタカタカタと、靴底がタイルの上でリズムを刻む。開放された空間に響くその音は、どこか不快な印象を露伴に与えた。
こいつが老婆の言っていた“奴”か?広場一面を見渡しても、二人の他には誰も居ない。
「“笛吹き”と“ピエロ”じゃあ余りにものが違うが...」
ピエロに向け足を踏み出す。ピエロは露伴に気付いていないのか、はたまた職人気質なのか演技を中断しない。露伴はあと数メートルというところまで近付いた。
「トーマはどこだ」
踊り続けるピエロに業を煮やした露伴は自ら尋ねた。ピエロは答えない。口角を吊り上げたまま、視線を明後日の方向に向けて人形を操る。そのときになって初めて、露伴は人形を注視した。その目が大きく見開かれる。
「まさか――貴様ッ」
人形の服装に見覚えがあった。どこかで見ていた?思い出すまでもない。さっきまで見ていた。トーマの服だ。
ピエロが動きを止める。露伴は身構えた。ピエロはトーマの格好をした人形と一緒に深々とお辞儀をした。顔を上げ、それからピエロは口を開いた。
「ようこそおいで下さいました。我ら宵のサーカス、泥梨の使者なり。世に不条理あり、人は哭く。されどそれ、不条理に非じ。天を仰ぎ冥に乞う。此正に世の条理なれば、何を不条理と呼ぶか」
息を継ぐ間もなくピエロは言い切った。ピエロの目を睨む。ピエロの視線こそ露伴の方向を向いていたが、焦点はやはり定まっていなかった。笑みを浮かべつつも一切の柔らかさも光もないそれに、露伴の背筋は粟立った。
「――何者だ。“笛吹き男”の話はデマだったようだが」
露伴は慎重にピエロとの間合いをはかる。少しでも不審な動きをすれば即座にヘブンズドアーを叩き込んでやる。
「ようこそおいで下さいました。我ら宵のサーカス、泥梨の使者なり。世に不条理あり、人は哭く。されどそれ、不条理に非じ。天を仰ぎ冥に乞う。此正に世の条理なれば、何を不条理と呼ぶか」
ピエロはしかし、全く同じ文面を繰り返したのみだった。
「答える気はないってか?」
間合いをそのままに、露伴はピエロの背後に回る。ピエロは正面を向いたまま。隙だらけだ。
露伴は別の可能性を考える。このピエロが老婆の言っていた“奴”でない可能性は?操り人形の格好も、偶然トーマの服装と似ていただけという場合はないのか?
「チャンスをもう一度やろう。もしお前が一般人だというのなら今すぐ答えろ。さっきと同じ言葉を喋ってみろ。安全は保証しないぜ。――トーマはどこだ」
「ようこそおいで下さいました。我ら宵のサーカス、泥梨の使者なり。世に不条理あり、人は哭く。されどそれ、不条理に非じ。天を仰ぎ冥に乞う。此正に世の条理なれば、何を不条理と呼ぶか」
まるでそう答えるようにプログラミングされた機械であるかのように、ピエロは再三同じものを繰り返した。
「なるほどな。なら僕も、それなりの対応というものを取らせてもらおう」
露伴は苛立った様子で頭を掻くとピエロの後頭部を見据え、それから間髪入れずに“ヘブンズドアー”を発動させた。
「ヘブンズドアーッ!」
ピエロは背後の露伴に向かって仰向けに倒れ込んだ。露伴はその体を支えながら、ヘブンズドアーによって露わになったピエロの記憶を読む。
〈ようこそおいで下さいました〉
書き出しに違和感を覚えた。ヘブンズドアーは対象の記憶や思考などを読み解くものだ。この文章はピエロの記憶か?思考か?なぜ先頭に“挨拶”の、しかもその文面が書かれている。続きに目をやる。
〈我ら宵のサーカス、泥梨の使者なり〉
そこまで読んだ時点で露伴は気付いた。同じだ。ピエロが何度も繰り返したあの言葉と一字一句違わない。その後も同じだ。
〈世に不条理あり、人は哭く。されどそれ、不条理に非じ。天を仰ぎ冥に乞う。此正に世の条理なれば、何を不条理と呼ぶか〉
だが異常なのはそれだけではなかった。次の文章に目をやった露伴は一瞬、己の目を疑った。
〈ようこそおいで下さいました。我ら宵のサーカス、泥梨の使者なり。世に不条理あり、人は哭く。されどそれ、不条理に非じ。天を仰ぎ冥に乞う。此正に世の条理なれば、何を不条理と呼ぶか〉
まるっきり同じ文章が繰り返されている。しかも――全面。ページの隅から隅まで、全て同じ文章で埋め尽くされている。
「どういうことだ...」
次のページへ捲っても、やはり一面が〈ようこそ――〉から始まる文章で覆い尽くされている。次のページも、その次のページも。露伴は困惑する。
「記憶が書き換えられた?...いや、最初からこうだったと見るべきか」
判別のしようがない。そもそも、このピエロはこの世の者なのか?今一度、文章を目で追う。
「“我ら宵のサーカス、泥梨の使者なり”...」
“泥梨”。平たく言えば地獄の最下層のことだ。つまりこのピエロは、地獄の使者を名乗っている。飛躍した話ではあるが否定しきれない。何せヘブンズドアーの法則性を完全に無視しているのだ。思考と記憶が一つの短い文章のみで形成された人間など存在するわけがない。露伴は試しに書き込みをした。
〈トーマを連れ戻せ。今直ぐ〉
ヘブンズドアーによる命令は強力だ。普通の人間や生命相手であれば、その効果は絶対と言い切ってしまってもいい。神のような超次元な存在でもない限り抗うことは出来ないだろう。だが
「何だ――これは」
ピエロに現れた反応はそのどちらでもなかった。
〈断る〉
何もなかった空白に、くっきりとその文字が浮かび上がった。露伴は動揺した。
「どういうことだ。記憶が追加された?」
それは間違いなく、露伴の書き込んだ命令に対してのアンサーだった。誰からの返答か。おおよその推察を、露伴は既に終えていた。
「“泥梨の使者”――」
その一節に答えが詰まっている。このピエロが地獄よりの使者なのだとすれば、回答者とは。彼の主とは。余白に露伴は書き込む。
〈トーマはどこに居る〉
程なくして回答が浮かび上がる。
〈そこにいる〉
周囲に人影はない。
〈人形のことか。貴様らの目的は何だ〉
返答まで、今度は少しの間があった。
〈一介の人間に答える必要はない〉
「そうかい」
露伴の目が据わる。
「それで僕が手を引くと思ったのか。この岸辺露伴、“約束”は果たす」
露伴は怒っていた。トーマの子守は仕事ではない。友人からのプライベートな頼み事だ。それは金銭で保証された仕事以上に、露伴という人間の信頼あってこそ成立するものだ。その信頼を今、露伴は裏切ろうとしている。相手が人を超えた何か?知ったことではない。露伴にとってそれは言い訳にすらならない。
「ヘブンズドアーッ!!」
露伴は再びヘブンズドアーを発動させる。今度は操り人形に向かって。
「どういう理屈か知らんが、トーマがそこに閉じ込められていると言うのなら――――ヘブンズドアーで無理にでもこじ開ける」
ヘブンズドアーの有効範囲は露伴でさえ把握しきっていない。ただこれまでの経験から確実に言えることは“魂を持つ相手であれば作用する”ということ。相手が幽霊や、人間以外の生物であっても魂あるものには効力を発揮する。トーマの“魂”が操り人形に閉じ込められているというのなら、ヘブンズドアーは間違いなく効く。
「的中だ」
果たしてヘブンズドアーは作用した。人形の胴部表面が剥がれるようにして、トーマの記憶が現れる。
〈パパの友達と何日か一緒に暮らすことになった。いつも怒ったような顔をして怖い人だけど、色々なところに連れて行ってくれて楽しい〉
記憶がある。トーマはまだ生きている。露伴と過ごした際の記述を漁る。現在の出来事についてのものはない。ピエロも、操り人形も登場しない。意識はないようだ。幸いと言うべきか、怖い思いはさせずに済んでいる。
「多少強引な手にはなるが...」
〈自分の体は十分前の状態に戻る〉
この書き込みが効果を成すのかは分からない。だが露伴は信じる。魂ある相手なら“ヘブンズドアーは絶対”だ。
溶けるようにして人形から服が消え失せた。木造の肌が露わになる。デッサンに使うモデル人形と酷似している。露伴は人形を見詰めると、仰向けに倒れるピエロの腹にそれを放った。
〈天を仰ぎ冥に乞う。此正に世の条理ぞ。汝、それに違背するか〉
ピエロの記憶のページに、新しく文字が刻まれる。露伴は鼻を鳴らすと踵を返した。知ったことではない。アベルとの約束を守ることの方が重要だ。
再びトーマが捕らわれる前に保護しなくては。露伴は広場を後にした。
老婆と別れた場所へ戻るも、トーマの姿はなかった。露伴は激しく動揺した。まさかすれ違いになったか!?再び広場に戻ろうと駆け出した露伴に、頭上から声がかけられた。
「あんた!こっちだ!」
足を止め、声のした方を見上げる。通りに面した民家の二階の窓から、見知らぬ男が顔を覗かせていた。
「ばあさんから話は聞いてる。子供は保護した。上がってくれ」
玄関を潜ると、リビングで見知らぬ子供と遊ぶトーマの姿が目に入った。その様子を眺めながら大人の女性と談笑していた老婆が露伴に気付き、トーマに声をかける。
「良かった。貴方が探しに行って少しした後に、急にこの子が帰ってきての」
トーマが俯き加減で露伴の元にやって来た。
「元気か?」
頷くトーマの頭を撫でる。
「日没も過ぎてたからこの家で保護してもらったわ」
老婆の言葉に、隣の女性が頷く。
「今日はここに泊まっていってください」
二階から先程の男が降りてくる。家主だろう。
「遠慮は結構です。今日はそういう日ですから。事情を知らない観光客の方はよく日没後まで子連れで出歩いてしまうんです。街全体でそれを保護しようと言うことになっていて」
「ホテルも今日だけは当日キャンセルを無料で受け付けておる。一本電話を入れれば十分じゃ。ここにお世話になりなさい」
老婆と男の二人が露伴を説得する。露伴はそれをすんなり受け入れた。外が危険なことはもう理解した。トーマの安全が第一だ。ホテルに電話で日没のためキャンセルの旨を伝えると、露伴は家主にもてなされるがままリビングの椅子に腰を下ろした。家の子供がトーマを再び遊びに誘う。退屈もしないだろう。
「それにしても。お上手ですね、ドイツ語」
どこかで習ったのか?どこの出身?職業は?その後家主らに質問攻めされる露伴だった。
*
約束の四日はその後何事もなく過ぎた。トーマをアベルに引き渡した露伴は、その足でイタリア行きの飛行機に乗った。窓際に座る露伴は、遠ざかるハノーファーの景観を眺めた。六月二十六日の、あの夜の出来事を回顧する。あの日抱いた違和感は未だ拭えない。
ピエロは日没の際に現れた。だが伝説では、“笛吹き男”が街に現れ子供を攫っていったのは朝の出来事だ。あのピエロは老婆の言っていた“笛吹き男”なのか?子供を攫うという点では確かに類似しているが、イメージも出没時間もかけ離れている。そもそも“奴”が現れるのは日没後ではなかったのか?なぜあの日は日没の際に現れた?
「“奴”は奴ではなかったのか」
だとしたらあのピエロは何者だ。“奴”はなぜ現れなかった。全部が噛み合わない。おかしいのは誰だ?
「“泥梨の使者”、か」
そういうことにしておこう。“笛吹き男”とは別の存在だったのだと。“奴”よりも上位の存在だったのだと。目的は不明だ。“笛吹き男”と同じように子供を攫うだけなのか。それとももっと高次元な何かが絡んだ、人間の抑制機能か。はたまたただの現象か。
「...空調が寒いな」
考えるのは止そう。これ以上首を突っ込む必要も意味もない。好奇心を満たすことと無謀とは違う。ヘブンズドアーの効かない、勝ち目のない相手の懐に自ら飛び込んでどうする。流石の露伴もその見分けはついた。
空調のつまみを回し、風を弱める。
ハーメルンには“日没後子供を外に出してはならない日”がある。郷に入っては郷に従え。それだけの話。本来の目的を見失ってはならない。これは休暇兼取材旅行だ。次の目的地イタリアに、露伴は思いを馳せた。
お待たせしました。
前回質についてのご意見を戴いたので、今回はなるべく意識して丁寧に書いてみました。出来はまあまあ、と言ったところ。まあ満足するまで書き続けたら一生書き終わりませんし、このくらい余力を残しておくのがちょうどいい、ということにしておきましょう。しておいて下さい。
年内になんとか投稿することが出来て良かった。来年も宜しくお願いします。