森の中を、一人の少女が歩いていた。
虚ろな瞳の色は濁り、空虚な闇を抱いたままおぼつかない足取りで歩を進めていき、やがて足を止めると周囲を見渡し小首を傾げ、自分が何処とも知れない場所を歩いていた事実に“ようやく気が付いた”
「・・・ここは?」
鈴を鳴らすように澄んだ声でしょう女はつぶやき、視線がさまよう。
見覚えはない。見たことのあるモノが何もない。そもそも自分は何を知ってる? 何を覚えている? 自分って誰だ? なんで自分は此処にいる?
知らない知らない知らない知らない。覚えていない。思い出せない。思い出すという行為自体、どうすればできるんだったっけ?
何も分からないまま思い出せもしないまま、少女はただ歩き、ただ進む。
まるでそれが自分という人間の生き方を暗示しているかのように。進むことしか知らず選ばず、行き着く先が奈落の底と知った上で全速力で走り抜けるのが唯一無二の選択肢であると信じ込んでいるかのように。
少女は歩み、見知らぬ世界に足を踏み入れる。
目指す先に広がる空は薄暗く、灰色の雲が垂れ込めていた。
争いに彩られたロードスの歴史に新たな戦乱と、異端の英雄の物語が幕を上げる。
「どうやら作戦を変えないといけないようだね」
苦笑するエトの提言にパーンは、しかめ顔で首肯する。
彼らの目指す先には洞窟があり、そこには今二匹のゴブリンが見張りにたって、彼らの苦手な真昼の奇襲を警戒していたのだ。
この時点で彼ら二人が立てた作戦(実質的にはエトが一人で考えたものだが)は破綻したことになる。
なにしろ彼ら二人による奇襲作戦は、闇の生物であるが故に昼間の太陽を極度に嫌って動きの鈍くなるゴブリンを、こちらに気づかれぬ内に洞窟の入り口まで近づいて若木を燃やし、煙で満ちた巣穴の洞窟から慌てて外へと飛び出してくることでようやく成立する類のモノだ。
奇襲に気付かれるまで飛び道具で狙撃し、気付かれたらエトのメイスとパーンの剣で接近戦を挑む算段だったのであるが、他ならぬエト自身が自らの立案した作戦に不信感を露わにしていた。
「どうやら悪い予感が当たっちゃったみたいだね。
ボクの立てた作戦だと見張りは一匹のはずだったから、二匹のうちどちらかを仕止めそこねたら声を上げられて、他の仲間にボクたちのことを知らされてしまうよ」
「だったら外さなきゃいいだけさ」
パーンは自信満々という程ではないが、自らの弓の力量に確信を持って断言する。
それがエトには微笑ましくもあり、好ましくもあり・・・それ以上に心配事でもあった。
彼は幼馴染みの少年が今回のゴブリン討伐を言い出した背景に気付いており、それが原因で普段以上に彼の使命感と正義感が燃えたぎっているであろうことに不安に覚えていたのだ。
(パーンの正義感は強すぎる。死んだお父さんの影響もあるんだろうけど、今回のは普段よりも頭ひとつ分は突き抜けてしまっている。
村人たちを説得するために良き再会停へ一人で訪れたとき、誰かに何かを言われたんだろうか?)
エトはそう思ったが口には出さない。ただでさえ戦闘前で気が立っているパーンを刺激したくはなかったし、前向きで明るい幼馴染みが持つ数少ない過去の傷跡を思い出させて塩を塗りたくるような真似をしたくはなかったからだ。
しかし、彼の予測は的中していた。
あの時、ザクソン小村で唯一の酒場“良き再会停”に集められていた三十人ばかりの戦える村人たちを前に、ゴブリンの危険性と村人たちが持つべき正義、そして山賊たちを相手に一人で挑んで戦って死んだ自分の父親の勇気について熱く熱を込めた口調で語り、村の情報通として知られる雑貨屋の主人からこう言われていたのだ。
「その話なら聞いたことがあるぞ。確か、お前の父親は騎士の任務を放り出して逃げる途中で山賊どもと出会って殺されたのではなかったかな?」
ーーこの言葉にパーンは怒り狂い、思わず剣の柄へと手が伸びかけるのを「騎士の正義に悖る」と言う理由から無理矢理抑え込んで酒場を飛び出し、その足でエトの待つ自宅まで戻ると彼が立案してくれた作戦を即座に実行に移す決意を固めた。
パーンは正義感の強い若者だ。純朴で恐れを知らず、勇気と優しさに満ちあふれている。
だが、その一方で彼は他人の気持ちというものには鈍感を極めた。自らの正義を信じすぎるあまりに自身のはなった一言が相手を深く傷つけ憤慨させてしまっていることに思い至ることがまるで出来ない性格なのだ。
今回の件でもそうだ。
彼が村人相手に演説をかましている最中、何度も連呼したのは「正義」「村の名」「誇り」「尊厳」「勇気」、そして「臆病」。
それらは名誉ある戦いを重んじる騎士たちにとって、さぞや大切で尊いものなのだろう。貫き通して死んだとしても一切の悔いが残らないほど、名誉ある生であり死と言うべき物なのであろう。
しかしそれらは、村人として過ごす一生においては必要のない物でもあった。彼らが欲しているのは日々の糧であり、安定した平和で豊かな生活だった。名誉ある死よりも、穏やかで平凡な長い人生をこそ彼らは望み欲していたのだ。
彼らの抱いた切なる願いは、自分の正義を貫くためなら死をも恐れないパーンには分からないし、分かりたいとも思っていない。彼の持つ価値基準では、敵を前にして戦わないのは臆病であり、多数の敵を相手に戦って死ねるのは正義で正しい行為なのだ。
それ故に自らの発した数々の暴言が村人たちの尊厳を深く傷つけたことに気付いていない彼は、反感から発せられた雑貨屋主人の言葉を額面通りに受け取って激高し、「自分たちが敗れた後、ゴブリンたちが攻め込んできたとしても誰一人として戦おうとはしないだろう」と勝手に思い込んでしまっていたのだ。
それが今の窮状を招いていた。
普段から退くことを知らないパーンは今回、物理的にも後には退けない状況にあるのだと“自分一人だけで信じ込んでおり”相方エトとの意志疎通が不完全な状態にあったのだ。
「オレは右を狙う。エトは左だ」
これが致命的な失敗を招くこと恐れがあるとは露とも思わず、彼は背中に背負っている矢筒から矢を抜き出して弦につがえ、エトはスリングに手頃な大きさの石を挟み込んでゆっくりと振り回しはじめた。
パーンも弓の弦を引き絞る。
「今だよーーっ!?」
十分に狙いを定めてから、エトは合図を送ったーーはずだった。
しかし彼の行動は意味を成さずに作戦は崩壊し、必要性もなくなった。
なぜなら彼らのような未熟者の手など必要とせぬ絶対的な強者が、ゴブリンどもの巣穴に正面から戦いを挑んで粉砕してしまっていたからだ。
「なにが・・・起こったんだ・・・」
唖然としながら見つめるしかないエトの視線の先では絶対者、黒いドレスを纏った金髪の少女剣士が軽々と小枝を振り回すようにして巨大な黒い大剣を振るいゴブリンどもを首諸共に一刀両断し続けていく。
彼女の一撃を、武器で防ごうとした者もいた。
ーー掲げた棍棒ごと身体を真っ二つにされ、左右に倒れ伏して死んだ。
彼女の左右から襲いかかって挟み撃ちしようとした者共もいた。
ーーコマのように回転しただけで剣の切っ先が相手を得物ごと粉砕してしまった。
命乞いでもしようとしたのか武器を捨て、両手を上げようとした者は両の手の先を切断されて苦しみ藻掻くままに放置され、まだ戦う力を残している者から優先的に殺していく戦い方は確かに効率的ではあっただろう。
だが、しかしーー
「こんなのは・・・正義の戦いなんかじゃない。一方的な虐殺だ」
パーンのつぶやきにエトは、心からの同意を込めて賛同する。
これは正義を成すための戦い方ではない。こんなものは間違っている。光の至高神ファリスだけでなく、戦の神マイリーさえお許しにならない蛮行だろうと。