路地裏の夜明けには、まだ遠かった。
背後から迫り来る殺気から逃げながらも、シオンは必死に対策を立てるため頭を巡らす。
「さあ、どうする? どうやって、この状況を打開しよう?」
全身に張り巡らされる緊張感。
少しでも気を抜けば、すぐに死んで楽になれると囁きかけてくる恐怖の誘惑。
「どうやって、この状況を打開すればいい?」
呻くように、彼は言い続ける。
敵は強かった。さっき一度攻撃を仕掛けてみて、よく分かった。
一対一なら勝てる相手たちだ。それは間違いない。
しかし敵は、まだ4人残っている。2人減ったとは言え、手練れが4人。
それもおそらくは殺しのプロであり、どの攻撃も躊躇なく急所を狙ってくる。奇襲攻撃でどうにかなるような相手ではない。
「このままなんとか、夜が明けるまで逃げ切ることができれば・・・・・・」
そこまで言って、突然シオンは不快そうに言葉を止めると、唇をひん曲げて黙り込んだ。
一対一なら勝てる、4人いれば勝てない。躊躇なく急所を狙ってくる殺しのプロ。
――全部アイツが言ってた通りのことが、当たっていただけじゃないか。
自分が一度攻撃してみて、やっと実感できたことを、アイツは逃げながら反撃した時点で見抜いてしまい、自分では勝てないだろうからと手を差し伸べてくれたばかりじゃないか。
その相手に対して自分は何と言った? 何と答えた?
「へへ・・・・・・ついに諦めたか。手こずらせやがって」
「ふひひ。さぁ、楽にしてやるよ」
「・・・・・・」
突然立ち止まって黙り込んだシオンの背後に、黒装束の男たちが追いついてきて、口々に揶揄するような言葉を吐く。
それでも男たちの方を振り向こうとしないシオンに向かって、黒装束の一人が声をかける。
「おうおう。逃げても無駄と観念はしたが、怖くてコッチを見ることもできないってか?」
「俺が逃げる・・・・・・? なぜ逃げなければならない? 自分で振り払っておきながら、自分が助けてもらう道を拒絶しておきながら。
本当に王になれる器なら、こんな所で死ぬはずがないと、死神に助けてもらえる道を振り払ったのは自分なのに」
シオンは振り向く。
淡々とした口調で語り、熱を込めて更に続ける。
「俺がラグナに言ったことなんだ。王になるなら、こんなところで死ぬ訳がないと。
むしろ貴様ら程度、いや貴様らの後ろでふんぞり返っている兄貴たち程度はアッサリ殺して踏み越えられないなら、死神の助けを断るべきじゃなかったのさ・・・・・・」
口調とは裏腹に、シオンの目は鋭く、体は低く、戦闘態勢へと移行させてゆく。
そんな相手を見た男たちが、馬鹿にしたような笑みを浮かべて下品な笑い声と共にナイフを取り出す。
「まだやるつもりか? 無理だよお前さんにはな、色男さん。
さっきの化け物みてぇなガキにも見捨てられちまったテメェに、万に一つも生きれる道はねぇ」
シオンは構わず力を溜め続け、体に溜め込んだ力をソッと解放する。
ものすごい速さでシオンは敵との間合いを一気に詰めて――戦闘が開始された。
・・・・・・だが、やはり今のシオンには“自力で”この状況を打開する力はなかったらしい。
「うひゃひゃ、遊びじゃないんだぜ色男。これは殺し合いなんだ。ちゃんととどめを刺しとかなきゃダメじゃないか」
「く、くそ」
最初の一撃で昏倒させたと思っていた男が立ち上がり、背後から脳を揺らされる一撃を叩き込まれ、体が思うように動かなくなったところに、黒装束の一人が笑いながらナイフ片手に、ゆっくりと近づいてくる。
――殺されるのだろうか? こんなところで? こんな薄汚い路地裏で? 俺が?
―――死神が伸ばした救いの手を、振り払ってしまったばっかりに・・・・・・
信じられなかった。全てがバカらしく思えてきた思考を抱きながら、振り下ろされてくるナイフの刃を、動けぬ体でただジッと見つめ続けて、それで―――
ビュン―――と。
シオンの目の前を、横から奇妙なものが突然あらわれて、通り過ぎ去っていく光景が視界に映った。
「ぎ、ぐぎゃあああああああ!?」
それが、長い針がナイフを持っていた男の掌に深々と貫き刺さり、手を針に刺し貫かれた男は悲鳴のような怒号を挙げながら。ただ無意味にわめき散らしたあと。
「な、なななんだこりゃあああああっ!?」
「だんごの串だ。見れば分かるだろう?」
淡々と無感情に、人を突き放すような口調で、透き通るような女の声で。
この強行を行った犯人が路地裏に現れ、全ての者がそろって相手の姿に集中する。
そして・・・・・・全員同時に息を呑んだ。
そこにいたのは、信じられないほどの美女だったからだった。
艶やかな長い金髪に、切れ長の青い瞳。異常なほど整った顔に、スタイルのいい華奢な体を白と紺という清潔な道着で包んでいる。
腰にはなぜか帯剣しており、その手にあるのは団子のついたままな二本の串・・・・・・
「て、てめぇがこの串を投げたのか!?」
その手にある串を見咎めたのか、掌を刺し貫かれて悲鳴を上げていた男が痛みからくる憎悪と共に叫び声を上げる。
「ああ。それはもう食べ終わったからな」
「そういうことを言ってんじゃねぇよ!」
男は更に激高し、その怒りと痛みとを結びつけて相手の女体に対する性欲へと直結させると、欲望にギラついた視線で目の前の美女を見る。
「てめぇ・・・・・・こんな事してただで済むと思ってんじゃねぇだろうな!? んあ? 覚悟しやがれよおい。へへへ・・・・・・めちゃくちゃにしてやるからな。なあ?」
「そうか。じゃあこい。相手をしてやろう」
先導するように他の黒装束たちにも下卑た誘いをかける男に対して、女の方はたじろぐことなく剣を引き抜き構えを取る。
・・・・・・片手に、まだ団子を持ったままの状態で・・・・・・
「ば、馬鹿にしやがって!? ぶっ殺してやる!!」
そんな余裕綽々の態度を見せつけられた男たちは更に激高し、怒鳴り散らしながら一人の美女に向かって一斉に襲いかかる。
元より、ザコを殺すだけだと思っていた楽な依頼で、ラグナという想定外の化け物がいたことで仲間を二人も殺され、復讐心と怒りに駆られていた彼らである。
丁度いい欲求不満の発散対象が、口実片手に現れてくれたのだから、据え膳同様に平らげることなく済ませてやる義理も理性も持ってはいなかっただろう。
とは言え、依頼は依頼として果たさねば自分たち全員の命が危うい。
義理や理性は残していなかったが、保身という欲望だけは過剰なほど持ち合わせていた男たちは怒りに駆られて突撃しながらも、シオンに逃げられぬよう押さえつける役の一人だけは残すという最低限度の作戦だけは忘れることなく、他3人だけで猛スピードで襲いかかってゆく。
「馬鹿! 逃げ――――え・・・・・?」
美女の命が自分のせいで危機に晒されている光景を目にした瞬間、シオンは思わず叫ぼうとするが、その言葉を最後まで言えるほどの猶予期間は“男たち”に与えられることはなかった。
襲われたはずの女の姿が一瞬、消えたように思えた直後。
彼女の持つ剣が閃いた時には既に、いつの間にか3人の男たちは地面に倒れ伏していた。
「悪いが、この区画での犯罪行為は課題で許すわけにはいかないのだ。
まして今夜は、いつもより時間がない。夜が明けて帰宅するまでに、あと三件の団子屋を回らねばならん身として、余計な手間暇をかけてやる余裕もない」
神速の如き神業を見せつけられ、シオンも男も呆然としている中。目の前の美女は団子をパクつきながら金色の髪をひるがえし、無表情だが美しい瞳でこちらを見据え――
「だからもし、まだ続けたいというのなら・・・・・・殺す」
「ひぃッ!?」
食べ終わった団子の串を、先の男の掌に突き刺したのと同じように残った男の眼球に向けて突きつけるように言ってやると悲鳴を上げ、押さえつけていたシオンを離して仲間も置き去りにしたまま一目散に逃走する道を選ばせる、てきめんの効果を発揮したようだった。
「・・・・・・」
シオンは、そんな彼女を呆然としたまま見つめ続けることしか出来なかった。
信じられないことだった。
彼はこれでも、今年のローランド帝国王立軍事特殊学院の中では格闘でも魔術戦でもトップの成績を収めている優等生だったが、それでも先程の黒装束たちには圧倒されることしかできなかった。
そんな相手たちをこの女は、団子を食べながら片手間にアッサリと撃退してしまったのだった。
まるで、かなう気がしない。もしも敵として対峙したら瞬殺されてしまうだろう。
まさに化け物だ。そんな言葉さえ頭に浮かんだ。
あのローランドの黒い死神と同じように。
いやもしかしたらラグナ以上の強さを持った、美しい神速の化物・・・・・・
「ん。もう夜が明けるな」
だがその時、美しき化物は団子をパクつき続けていた美しき化物の美女は、突然に空を見上げて呟くと、
「犬は一度恩を受けると一生忘れないという」
「・・・・・・へ?」
唐突に妙なことを言いだして、九死に一生終えたばかりのシオンに間抜けな声を上げさせて、
「私に助けられた犬は、その恩を決して忘れずに毎年三番地区のウィニットだんご店『おすすめ詰め合わせセット四番』を私に届けるようになる。犬は賢いな。
団子屋でエリス家の美人さんに届けてくださいと言えば、ちゃんと私に届くことを心得ているのだから。―――そういうことだ」
なんてことを真顔で平然と、驚異的な強さと美しさを見せつけたばかりの相手に要求すると、彼女は無表情のまま満足げに頷いて歩き出し・・・・・・最後に一言だけ、こう付け加えて去っていった。
「最近では・・・・・・夜間に男が男を堂々と襲うようになったのだな。
美女にとっては恐ろしくて夜道も歩けない、大胆な時代になったものだ」
「はぁッ!?」
とんでもない濡れ衣を着せられたような気がして、シオンは呆然の上に混乱も付け足されて唖然としたまま美女を見送り――やがて気付く。
「・・・やっぱり、死ななかった・・・」
夜が、明けていたのである。
死を覚悟した夜が明け、神様はまだ自分を、ここでは殺さないでいてくれた。
偶然に雲の隙間から射し込んできていた、朝日に照らされる美女の後ろ姿に目線を戻し。
美しく艶やかな金髪がきらめく姿を見て、シオンは思う。
あの姿は、化物なんかじゃない――と。
女神か天使だ――と。
では―――ローランドの黒い死神もまた、自分にとって、どのような存在になる男なのだろう?―――と。
そして時は移って翌日の・・・・・・いや、既に当日になった後の昼過ぎのこと。
いつもの様にいつもの如く、ラグナは授業中にも眠れず苛立っていた。
と言うより今日も昨日も一昨日も、一日中寝れていない。不眠症だからだ。病院行け。
「・・・・・・ったく、やっと夕暮れかよ。遅すぎんだろ、あの丸暗記棒読みムノー教師共の授業ゴッコはよぉ・・・」
「まだ昼よ!!」
ようやく昼休みになってラグナが声を発したと思ったらコレだったので、とりあえずキファが突っ込んでおいた。言うだけ無駄だと分かってはいたけれども。
ちなみに場所は、ローランド帝国王立軍事特殊学院にある教室だ。
ラグナはここに、キファによって無理やり引きずられるようにして席に着かされていることが多く、その日常を継続しなければ出席率は、ほぼゼロに近いと言っても過言ではない。
「ってラグナは本当にもう・・・・・・いい加減もうちょっと真面目にやらないと、この学校追い出されちゃっても知らないわよ?」
「あん? アホかお前。そんだけの理由で追い出すんだったら、とっくの昔に永久追放されてんだろ普通に考えてよぉ」
「・・・・・・まぁ、そうなんだけどね・・・・・・ほんと自覚してやってる問題児って性質悪いわ・・・」
呻くように、相手の言葉の正しさを認めずにはいられない優等生の女生徒キファ・ノールズ。
実際キファの強制ありでも、出席率が「ほぼゼロに近い」のは、ラグナ自身が気まぐれのように出席してくることも一定数はあり、無断でサボる時と混在していて法則性が全く見いだせないのが理由になっている部分でもあった。
授業に出るか出ないかというのが完全に気まぐれで、その日の天気や気分で決めることもあれば、眠り方の本を読んで試すための実験場所として利用しに来ることもある。成功したことは一度もない。
死体のような目付きをしながら、呆れたように教官からの質問に答えて、回答内容は全問正解するか出題者をバカにするかの二者択一のみ。
それがラグナの日常的な学校生活であり、軍に自分を高く買ってもらうため売り込む以外に生きる術のない者ばかりが集められているこの学園に、ラグナがまだい続けていられること。
その一事によって学園側自身が、ラグナを残し続ける道を選んでいる証拠になっていたのがラグナ・ミュートという問題児すぎる異端児の特色だったのだから・・・・・・
「ん、んん!! ま、まぁそれは別の時に話すとして。ちょっとバカやっちゃって作り過ぎちゃったから食べてもらえないかしら?
中身が入ってるとお弁当って重いのよね~。あー、肩がこるわー、主に胸が」
「・・・・・・ウザ」
とか言いながらキファが、どう見ても余り物には見えないお弁当を取り出して、ラグナに小声で突っ込まれて、とりあえず鉄拳炸裂させて手を痛めて、キファだけが涙目になる。
いつも通りの日常、その繰り返し。
それら一連の光景を見せつけられたクラスの男子生徒たちから、嫉妬や劣等感やコンプレックス混じりの見下しなど様々な悪感情が込められまくった視線の集中砲火を浴びても一切気にせず、片割れの少女の方まで気づきもせず、いつも通り平和な昼休みは過ぎていく・・・・・・
「や。お二人さん、相変わらず仲いいねー」
そんな中で、いつも通り爽やかな声と共に、昨夜の事件で登校が遅れたシオンが教室内へと入ってくる。
「え、ちょ、シオン!? な、なに言ってんのよ全くも~♡
わ、私たちの仲なんて友達よね友達。うん。ラグナだってそう思うでしょ?ねぇ?」
「・・・・・・ウゼー・・・・・・マジ超ウゼ~・・・・・・」
そして、そんなこと言われて顔を赤くして照れまくったキファに、ウザったそうな表情でそんなこと言うもんだから再びキファから鉄拳ツッコミ入って、再びキファだけ涙目になり、再び男子たちから負の情念というか狂わんばかりのドス黒い感情の熱量を上げていく。
平和すぎる、そんな日常の繰り返し――
ただ一方で、平和な場所に戻ってきても、半端に平和じゃない世界を忘れないでいる奴も偶にはいる。
「よう。どうやら殺されずに済んだみてぇだな。
どんな奇跡が起きた結果かは知らねぇし興味もねぇが、結構なこった」
「お前・・・なぁ。勝手に殺されるのが当然扱いしてくれるなよ。お前の方こそ――問題なかったんだろうな、普通に考えて・・・」
「そうでもねぇよ。よく分かんねぇが、お仲間だとでも勝手に思い込んだらしくてな。
犬が何匹か吠え掛かってきやがった。邪魔なのだけ蹴っ飛ばしながら帰ってやるのは面倒だったし、おかげで朝っぱらからキファがご機嫌斜めみてぇで可哀想なことさ」
「いや、後半の方は十中八九、お前が原因だと思うぞ? いやマジで本当に」
最後だけ至極真面目な表情でそう言うと、シオンは「まぁいいか」と何かしら割り切ったような表情で色々なことを振り切るか、あるいは棚上げにして脇に置いておくことにする。
せっかく、自分が巻き込んでしまった昨日のことがあるので、今日ぐらいはキファに普段よりも放っておいてやるよう取りなしに来てやったと言うのに、こうまで普段通りの日常を見せつけられると言う気も失せるし、バカらしくなってくる。
って言うか秀才美青年シオンでも、流石にイラッとするのを感じずにいるのが難しくもなってくる。
「まぁお互い無事だったんなら、それでいいことか。じゃあ僕はそろそろお二人さんの邪魔しちゃ悪いから行こうかな」
「ってだから、そんな気をつかわないでよ! わ、私たちはそんな関係じゃないのに! ね? そうよねラグナって、またいなーい!?」
そして今日も、気まぐれのように気配を消して、いつの間にか姿も消えてなくなって去っていってる。
これで授業が始まる寸前には帰ってくるならキファとしても、チャッカリしてるとだけ思って割り切れるのだが、現実には帰ってくることもあれば帰ってこない時もあり、授業中に帰ってきて怒鳴り声挙げる教官に『ウゼェ。怒鳴るのと教科書朗読しか教えれねぇなら来んな。邪魔だボケ』とか罵って自分の席に戻ってしまう時すらあるので・・・・・・まっとうな学校生活しか知らない常識人のキファとしては心配せずにはいられない。
それが“ラグナ・ミュートにとって”の日常的な学校風景。
「んもう・・・・・・なにかやってるんだったら言いなさいよね・・・・・・そしたら私だってきっと・・・・・・馬鹿ラグナ・・・・・・」
空になったラグナの席を見つめながら、寂しそうに呟くキファの横顔を見て、シオンは逆に微笑ましい思いを感じて、実際に嘘偽りない微笑みを顔に浮かべた。
「じゃあ、僕はこれから行くところがあるから」
「あ、うん、今日の集まりは・・・・・・?」
「昨日の夜に、ちょっと野暮用があってね。付き合ってもらった人に挨拶しに行かなくちゃならないから、今日は僕は出られない。皆には適当に言っといて」
「ああ、そういう事情なら分かったわ。皆にもそう言っとくから大丈夫よ」
「ありがとう。それじゃ、よろしく」
そう言って、シオンは教室を出て行って、“昨夜の野暮用に付き合ってもらった相手”の屋敷へと、お礼の品を注文通りに届けに赴く。
・・・・・・それが自分の出会う、三人目の死神で、三匹目の化物と呼び得る存在との初対決になることなど予想さえしないままに。
そして、それが後に大陸全体の運命さえ揺るがすに至る切っ掛けの事件になることなど、化物たちの誰であってさえ気付かぬままに・・・・・・。
――そしてまた、異なる闇たちも蠢きはじめる。
ローランドの闇に住まいし、ラグナ・ミュートが本来いるべき側の住人たちが――。
「お、遅れて申し訳ございません閣下。馬車の車輪が泥濘みにはまってしまい、その・・・」
雨の中、秘密の会合に遅れて到着した貴族の男は、既に集まって席に着いていた面々から非難の視線を浴びせかけられ萎縮したように俯いて、しどろもどろに言い訳がましい言葉を並べだすのを聞きながら、座長格の男が片手を挙げて発言を制した。
「いやいや。この季節に、この雨だ。あなたが遅れるのも無理はない。気にやむ必要はないから席に着きなさい、子爵」
穏やかな声と口調でありながら威圧感が伴った言葉。
言葉遣いこそ丁寧だったが、言っている内容を要約すれば只一言。
【言い訳はいい。とっとと座れ】
――という意味を込めた命令を発した男の言葉に、遅れてきた貴族は震え上がって席に着き、モゴモゴと口髭を揺らしながら感謝の言葉と非礼の謝罪とを交互に幾度か口にする。
「は、ははっ! 閣下のご寛容にはまこと感謝の言葉もございません・・・・・・」
「お気になさらず。――それで? 先日確認をお願いした情報は確かだったろうね?」
ギラリと、穏やかだった相手の両目に危険な色が宿るのを見せつけられ、世間ではそれなりに武断的支配で名の通っている貴族の男は真っ青な表情になって首をガクガクと上下に振り回しながら、自分が掴んできた情報を会合に集まった全ての貴族たちの前で開陳する。
――今期、雨続きだった仇敵エスタブール王国内では大河の氾濫が発生し、一部で食糧不足に陥っているらしい。と言うのが、その情報の始まりであった。
そして、食糧危機に対処する術を見いだせなかったエスタブールの国王は、ローランドへと侵攻して乗っ取ることで危機的状況を解決するため密かに戦争準備をはじめたらしい――。
それが遅れてきた貴族からもたらされた報告であり、話を聞いた座長格の男としては思わず「おやおや」と、敵国の民衆共に同情を誘われずにはいられない。
「無能な王に率いられた民というのは哀れなものだな。わざわざ勝利の美酒を敵に飲ませるため、生け贄にされねばならんのだから」
男は嗤って、エスタブールの愚かさと近視眼な戦略とを同時に鼻で笑い飛ばす。
古来、飢えた軍隊が勝利した例など一度もなく、なんの戦略的優位を確信した訳でもないのに、食糧危機への焦りを理由に出兵を決めてしまうなど、負けるために戦争を再開するのと同じようなものだった。
まして、危機に焦るエスタブールには、出兵準備を隠すための偽装も、偽情報に対して警戒する防諜戦でも雑さが目立っており、コチラの流した偽情報の真偽を確認することすら満足には出来ていないようなのだ。
彼ら貴族が持つ傲慢さと、先に示した敵国民への同情とは矛盾しない。
なぜなら「同情」とは常に、上位者から下位の者へのみ向けられる感情であり、格下の者が格上にある者を同情することなど、まずあり得ない。
部分的であろうとも、相手より自分の方が優位に立ったと確信した時だけ感じることが可能になる感情。
それが「同情」であり「哀れみ」という名の「見下し」なのだ。
その点で、彼ら腐ったローランド貴族たちがエスタブールの民たちに同情を感じた気持ちに嘘偽りは微塵もない。
ただ、彼らが相手を養ってやらねばならぬ義務を負った立場に立っていたなら、別の感情を抱いて言った言葉にも嘘偽りはなかったろう。
「――先の戦争では、戦略的条件が互角に近かったからこそ休戦せざるを得なかったが、今回は勝てる戦だ。乗らぬ手はない。陛下には私からお伝えして、出兵準備と宣戦布告のご許可を明日にでももらっておくとしよう。
きっと陛下も喜んで戦争再開に賛成してくださるはずだ、“あの陛下”なら確実にな」
ニヤリと笑った座長格の男の言葉に、集まっていた貴族たちも同様の笑みを浮かべ返す。
彼ら、腐ったローランド帝国の支配者階級たる貴族たちにとって、国王とは貴族たちを富ませるための政策を行う者のこと。
貴族たちが立案した国策にサインをし、国王の名の下に実行すべき、貴族に奉仕する一介の役人と同義の存在。
ただの神輿でしかない男に、過剰な権力と豪奢な生活、多額の献金を贈ってやっているのだから、それぐらいの責任と職務をこなすのは当然の義務でしかない。・・・・・・そう信じて疑ったことなど一度もない、そういう考えの持ち主たちだけが、この会合の場に集められていた。
「全くですな。それでですが、皆さん。この期を利用し、“例の王子殿”も処分しようかと思うのですが如何でありましょう?」
その中の一人が厭らしい笑みを浮かべながら、自分が担当している工作の成果に利用しようと身を乗り出す。
ハゲ頭で小太りの中年貴族で、好色そうな顔をした如何にも欲深そうな男だが、爵位だけはそれなりに良い。
それ故、この種の仕事には、うってつけの人物たり得る。
深い事情にまで首を突っ込もうとせず、計画の全体像も知りたがらず、ただ目の前に美味しそうな成功報酬だけを釣らせてやれば、後は手前勝手な理屈で自主的に動いてくれる。
「軍は飢えた野盗同然とは言え、エスタブールの魔法騎士団は強敵です。奴らに邪魔されぬため、餌で釣るにはそれなりに見栄えのいい餌が必要になりましょう。
魔法騎士団に対抗できるのは魔法騎士団だけ。エスタブールを攻めるため、我がローランドの魔法騎士団が奇襲部隊と共に本国を強襲しようとしている。
それを率いているのは、身分を隠したローランド帝室の血を引く、諸子ながらも皇子――如何でしょう?」
「素晴らしいアイデアだ、ブロフス卿。やはり君を招き入れた私の目に狂いはなかった。
第一王位継承者の皇子様も、さぞお喜びになるだろう。さっそく私から進言して許可をもらっておくことを約束するよ」
「ははぁ! ありがとうございますステアリード閣下!」
平身低頭し、即位した皇子に引き上げてもらい新たな地位に就ける未来を夢想しているらしいブタのことは、計画の責任者として任命してやった時点で頭から追い払い、ローランドの闇に潜む者たちの纏め役を担っている男は、別の人物へと視線を移した。
「さて、例の皇子殿を謀殺するため、君の手駒にも役だってもらいたいのだがね?
たしか二人ほど残っていたはずだ。そうだろう? “園長”くん」
「・・・はい、閣下。終戦間際に捕まえ、紐として使っているスパイが一匹と――あの生意気な死神が一匹だけしぶとく生き残っております。
アレなら魔法騎士団相手であっても、ただでは殺されますまい。4、5人程は確実に道連れにしてから死ぬのは確実です。充分に餌としての陽動役は果たしてくれるはず・・・」
陰惨な笑いを浮かべながら、瞳にギラつく復讐心を隠そうともせず。
園長と呼ばれた男・・・・・・休戦によって組織を失い、帝国王立軍事特殊学院にお株を奪われ、最近では冷や飯を食わされ気味の立場になっていた人物。
年齢的にも、再度の復権を果たすには今回の戦乱で貢献するしかないと、残された手駒を生け贄にすることを決意した《ローランド三〇七号特殊施設》の責任者だった過去を持つ、《黒い死神》にとっては“一応は”上役に当たる小柄な老人。
「では、諸君。杯を手に取りたまえ。勝利の確定した戦争の前祝いだ。
ローランドの繁栄と、我ら貴族の更なる飛躍のために―――乾杯ッ」
『乾杯っ! 全てはローランド帝国のために!!!』
熱の籠もった声と口調で、空しく響く言葉を唱和しながら、ローランドの貴族たちは再び戦争を再開するための準備を進めはじめるため、各々の担当部署へと散っていった。
否、ローランドの貴族たちだけではない。敵国エスタブールの貴族たちと国王も、食糧危機にあえぐ国民たちから徴発をおこない、開戦のための準備を水面下で推し進めていた。
表面的には両国の関係はまだ穏やかだったが、この時点で既に実質的な戦争は始まってしまった後であったことが、後々になってから振り返れば分かることが出来たであろう。
だが、現在進行形で今を生きている者たちにとって、自分たちに知ることの出来る情報は非常に少なく限られている。
その点において、ローランド帝室の血を引く諸子も、ローランドの黒い死神も、彼らの情報を知らせるために紛れ込まされている人物もまた、一人として例外はない。
一部の者にしか知らされぬまま、二つの国は愚かな戦争を再開する道へと舵を切り、その道を突き進んでいく。
まるで、『そういう風にしか自分たちは生きられない』と信じ続けて憎み合う、双子の兄弟であるかのように・・・・・・。
つづく