私は気が付きたくない事実に気が付きつつあった。いや、実はもう知っているのだ。ただそれを認めてしまうと確実に面倒なことになる。そしてなんやかんやあって私は死ぬことになるに違いない。
特に意識しないと気にならん程度の弱い妖気が人里を覆っていた。薄い霧がその発生源であることは確実であろう。そして何かを探っている。私はこの霧に大いに心当たりがあった。八雲の言葉もここにきて頭の中で繰り返されていた。ああいやだ、いやだ、と思いながらも、私は家を出て酒を買い込むことにした。私の分がなければ飲み会とは言えまい。
どうにも最近、博麗神社で宴会が良く行われているらしい。いままでも多く催されていたが、三日に一回はさすがに多すぎる。けれど私を誘ってくれないのはいかがなものか。確かに異変解決で手に手を取っての連携などは皆無だ。しかし社交辞令で一度声をかけてくれても良いではないか。
私は悲しみに暮れ、一人自宅で酒をちびちびなめていた。寂しいわけではない。ただ礼儀的な問題があると思っただけである。これはそろそろがつんと言ってやらねばならん時期に来ているのかもしれない。そう、宴会に好き嫌いはなしで行こうと。
「随分と暗い顔で飲んでるねえ」
その声で馬鹿らしい思索はさっとどこかにすっ飛んでいった。声の主は過去からそのまま現れたみたいに何も変わってはいなかった。私は諦めに近い境地で、いきなり出て来た奴に苦笑混じりに言葉を返した。
――待っていた、伊吹よ。一杯どうだ?
我らの密かな飲み会は大きな事件もなく、平和に進んだ。いつの間にか私が用意した酒は残り少なくなっていた。伊吹はよく分からんが酒が出て来る夢のような瓢箪を持っているから、そんな心配は必要ない。以前くれとわがままを言ったこともあったが、絶対に手放そうとはしなかった。そりゃそうだ、私がもし持っていたら同じようにする。
「何か楽しいことはあったかい? いつも言っていたからねえ、楽しきことが肝要だってさ」
お互いにかなり飲んで場が温まって来たところで、伊吹は唐突にそんなことを言って来た。
懐かしく思った私は昔話のように語り聞かせてやった。鬼たちがいなくなってからは天狗たちが勢いを増してそれはそれで騒がしく面白いこと、良く死ぬことになるが阿呆らしい充実した毎日を送っていること、何より周りには楽しい奴ばかりだと言うことを。
淀みなく続ける私を伊吹は静かに見ていた。
「なるほどねえ。よかったじゃないか。あんた寂しいと死んじゃうからね」
死んじゃうことはない、私は瓶の底に残っていた酒をぐいっと呷って断言した。確かに誰か相手がいる方が楽しいのは確かだが、私一人だって十分楽しい。うむ、そうに違いない。新たな酒瓶を傍に寄せながら私は口早に言った。
だが伊吹は手を打ち鳴らしからからと笑った。
「そりゃあ強がりってもんだよ。それに寂しくないとは言わないんだね」
私は答えに窮した。するとまた笑った。よく笑うやつである。私の記憶にあるこいつもほとんどが笑っていた。ああ、だから私はいつもこいつと酒を飲んでいたのかもしれない。いつも楽しそうで、私もついついのせられるのだ。
長い時が経ってからようやく気が付いた。楽しい奴の隣は楽しい、当たり前のことだった。私は大口を開けて笑った。なるほど、なるほど、そう言うことだったのか。自分の中の理由が分かって気分が良くなった。
「おお、のってきたねえ。久しぶりに一発いっとくかい?」
――おお!
一発の意味は計れなかったが、なにか楽しいことだろうという根拠なき自信で返事をした。
私は幸せであった、この後何が起こるかも知らなかったのだから。
我々は人里を出て夜闇を月光が照らす中を歩いていた。そうして適当に歩き木々もなくだだっ広い場所を見つけると、伊吹が立ち止まり屈伸を始めた。私は意味が分からずどうした? とのほほんとした口調で問うた。すると奴は上機嫌に答えた。
「前の喧嘩じゃあ負けただろ? 私も悔しくてねえ。今回はそのリベンジさ」
途端に酔いが醒めた。自ら地獄へ足を踏み入れていたと気が付いたのである。私は慌てて口を開いた。お前は知らんかもしれんが、私は死んでも死なん能力を持っておるのだ、だからそんなことやっても意味ないんじゃなかろうか。それに私は何回も死んでいるのだから負けに数えてもらって結構だ。それを皮切りに怒涛の如く命乞いが口をついたが、伊吹はやれやれと首を振った。
「最初から知ってるって。私が負けたのはあんたの諦めないで食いついてくるその精神だよ。あんたが諦めて立ち上がらなくなるか、私のスタミナが底をつくか。その勝負だ」
私はこの後の展開を想像して身震いした。
腹は凹み足は折れ頭は潰れ数分経てば消し飛ぶに違いない。目の前の鬼は私がどれだけ死ねば気が済むだろう。
「おや、武者震いかい。やる気満々だねえ」
んなわけあるかいと突っ込みたかったが、もうどう足掻いてもやることは変わりそうもない。ならば心を落ち着けるほうがずっと有意義である。ほう、と息を吐いて姿勢を正した。どうせ死ぬなら格好良く、潔くの精神だ。
「お、やる気になったか。よし、やろう」
やろう、そう返事をしたくなかった私はせめて一発殴ってから死んでやる、と地を蹴り距離を詰め頬を目がけて拳を振るった。けれどやはりと言うべきか、届く前に奴の拳が私の腹を貫く。喀血し吹き飛んだ。これで一度死んだ。
「いいねえ。昔から鬼の喧嘩を買ってくれるのは少なくてさ、その中でもあんたは格別いい」
意識が戻るとそんなことを言っていた。自分勝手に私を評するのもいい加減にしろともう一度殴りかかったが、簡単にいなされ裏拳が背骨を折って死んだ。障害物もないゆえ、一度吹き飛ばされたら随分と距離が開いてしまう。その分休めるのでいいのだが、これでは奴のスタミナを削り切るのは何時になることやら。
「はははは! 楽しい、楽しいねえ! やってきて良かった!」
吹き飛ばされないように死に続ける私に猛攻を加えながら、伊吹は高らかに叫んでいる。戦闘狂のようでもあり、鬱憤を晴らすようでもあり、どこか悲しみを帯びているようでもあり。死にながら私は、ぶつけたい想いがあるのだろうと考えるようになっていた。
ならばそれに付き合ってやるのが友の役目だ。
依然として伊吹の拳は腹を貫き、蹴りは骨を折り、叫びは体を震わせる。生物としての格の差と言うのだろうか。鬼の強さを思い知る。だが過去の経験よりも大分雑な動きをしているように見える。これでは無駄に体力を消費しているのではなかろうか。
「もっと、もっとだ! もっとやろう!」
何時か聞いた言葉だった。あの時は結局どれだけの時間殺されていたのか定かでない。私は避けることを止め、全ての痛みを受け入れる。不意に受ける死よりも、こうして意識を変えたほうが幾分楽だ。
「やり返してきなよ!」
そんなことを言われても出来るわけがない、死なないことが唯一の取り柄で長生きしているだけだ。戦闘能力何て雑魚の中の雑魚である。最早私の血を全身に浴びて悪鬼の如き伊吹を殴れるわけがない。
まあ、隙があったら遠慮なくやるのだが。
私は血飛沫で奴の目を覆った瞬間、拳を腹に打ち込んでやった。とは言えダメージなんて全くないらしく、呻きもしなければ微動だにしていない。
「お返しだ!」
何百倍なのかと言いたいお返しは、紙のように私を吹き飛ばした。襤褸雑巾のような私は服も破けてほぼ半裸である。人里では捕まってしまいそうだ。
「はあ、はあ、はあ……」
肩を回しながら伊吹に近づいていくと、俯いて苦しそうにしている奴の声が聞こえた。
――今回は早く決着がつきそうだ。
私は嘲りや達成感よりも何よりもまず安心感からその言葉を呟いた。そうしてさて、また死ぬかと気合を入れるが伊吹が顔を上げる気配がない。どこか悪くしたのだろうか。心配になった私は声をかけた。
「そんなんじゃないよ。……なあ、一つ聞いていいかい?」
その姿がどこか幼子のように見えた私は、自然とうなずき言葉を返していた。
「あんたに聞くのもおかしいかもしれないがね……人と鬼は共にいられないのかな?」
私は人間と鬼の間で何があったかは知らない。しかしその何かは両者を分かつほどに強い影響を与えたのは分かる。共にいられるか、という問いにはとっくのとうに答えは出ていた。
そうさなあ、と私は思案を巡らせる振りをして伊吹の様子を窺った。未だ俯いている。荒い呼吸はもうなくなっていた。こいつに気休めを言ったところで無駄だろう。私の言葉をこいつは必要としているのだ。だから出来るだけさらっと言ってやった。
――無理だ、伊吹萃香。鬼たちはなあ、強すぎたんだ。
そして笑って続けた。
――だがな、鬼って種族じゃなく、お前個人としてなら分からんぞ? 人間だっていろんな奴がいる。悲観しすぎるのもいかん。そう、何事も楽しんだもの勝ちなのだからな。
「そっか……」
伊吹は小さく笑って後ろに倒れた。大丈夫かと駆け寄ると、夜空を眺めて涙を湛えていた。
「なあ、私はどんな鬼なんだろうな?」
そんなの決まっている。私は意地悪く笑みを浮かべて教えてやった。
――寂しがり屋の馬鹿野郎だ。