翌日の朝、私は永遠亭で目覚めた。
昨日気を失って寝かされていた部屋に泊まらせてもらったのである。
起き上がって布団を片し終えたところで、見覚えのない女性が襖を開き中に入って来た。長い銀髪を三つ編みにしているのも目を引くが、それよりも赤青二色を左右で分けた服が気になってしまった。
布団を畳み縁側に出ようとしていた私は、すぐに彼女と目が合った。
「あら、早いわね」
少々驚いた様子で言う。
私は基本的に日の出とともに起きることが多い。殆ど人間と変わらぬ生活を営んでいるから、ずっと寝ていることはあまりないのである。そう伝えると、彼女は口元を手で隠して軽く笑った。
「ふふ、そう言うことじゃあなくて……気が付いていなかった? あなたに薬を飲ませていたのよ。私特製の……睡眠薬。本当なら昼まで眠り続けるはずだったのだけど、面目丸つぶれね」
そう言って彼女は肩をすくめた。
何時の間にそんなことをしたのだろうか。と言うか何のために。ここに来てから私が物を口にしたのは蓬莱山と酒を飲んだ時だけである。その中に入っていたのだろうか。だとすれば蓬莱山も眠ってしまうことになるけれども。
「何かついている?」
彼女の様子を窺ったが、八雲に似た胡散臭く老獪な雰囲気が伝わってきて、私には到底かなわない相手であると確信し、この件に関しては追及しないことに決めた。
「昨日は大変だったわねえ。私もあなたも」
昨日は巫女と八雲の乱入により弾幕ごっこで異変解決という定番の流れへ入り、白熱の戦いの末に蓬莱山が負けを認め終わった。八雲により延ばされていたらしい夜を蓬莱山が明けさせ、何やかんやで月も戻って朝になったのであった。
しかしまあ、詳しいことは何もわからんし知ろうとも思わんが、八雲も蓬莱山も規格外であることだけは伝わった。夜を延ばしたり朝にしたり、私にはもう何をしようと届かない境地であった。
「ここの結界は私の予想を上回るほど強固なものだった……まさか、意味のないことにこんなに労力を使ってしまうなんてね」
何でもこの異変、実はこんなことをやらずとも月の使者は幻想郷を確認することは出来なかったらしいゆえ、骨折り損のくたびれ儲けと言ったところであるようだ。八雲が分かりやすく挑発的な笑みを浮かべて幻想郷のことを説明していた。
私の方は良いものを見せてもらったと言うぐらいで、爽快な気分のまま寝床に着きたかったのだが、巫女、八雲、蓬莱山の三人による私への弾幕ごっこが始まってしまったのだった。そんなものやったことがないから碌にできないし、一方的な処刑に他ならなかった。今思い出してもあれは酷い。
だが、結果的に全体を通して面白かったし綺麗だったから良し。
「良い顔してる……私の周りには暢気なのしかいないのねえ……」
彼女は嘆息した。
そのまま会話が終わってしまいそうだったゆえ、私は名前を聞いた。
「ああ、名乗っていなかったかしら。私は八意永琳。あなたは日暮ね? 輝夜に聞いたわ。私のことも多分輝夜が説明したでしょう?」
私はうなずいた。酒の席で教えてくれた友人は彼女のことだったのだ。と言うことは私を殺そうと画策したのも彼女であり、となれば私に睡眠薬を飲ませたのもそう言った理由なのかもしれん。割と危険人物かもしれなかった。
「この後はどうしたい?」
私はしばし答えられず逡巡し、蓬莱山に一言告げてから帰ることにした。
「輝夜なら今は外に出ているわ。ちょっと待っていて。送らせるから」
自分で出て行く、そう言ったのだが、彼女は口元を少しゆがめて、笑い損ねのような表情でこう言った。
「あなた、ここからどうやったら出られるか、分かる?」
私は素直に降参した。
そうして縁側に出て待っていた私のもとへ八意が連れて来たのは、良い拳に蹴りを持つ兎耳少女であった。おはようと挨拶をしたのだが、彼女は一瞥をくれるだけで言葉を返してはくれなかった。朝だからだろうか。不機嫌な表情である。これはいかん、一日の始まりは楽しくなくては。
どうにかこうにか笑顔を見ようと試行錯誤していたら、八意が呆れた視線を寄せて来た。
「何やってるのよ……。この子の態度は気にしないであげて? まだ地上の人たちとどう接していいか分からないのよ。ま、要するに人見知りね」
「お、お師匠様! そんなことは……」
「はいはい、いいからいいから。あなたは客人を出口まで送りなさい。私はちょっとやることがあるの」
八意はそう言っていなくなってしまう。
二人になった途端、会話がなくなり静かになってしまった。これはつまらん。と言うことで私は名を名乗り握手を求めた。彼女はそんな私の手を穴が開くほど見つめて来た。何をしたいのか分からんわけではなかろう。いきなり手を握ると言うのは不躾であったか。
「鈴仙……です」
ようやく口を開いてくれたと思ったら、どうにもとってつけたようなです、である。私はそんなのつけんでいいと言って案内を頼んだ。それには素直に応じてくれる様子から、八意のことは信頼しているようだ。
私はまた彼女の後ろをついていく。既視感を覚える光景であった。昨日は何も話さず終わってしまったが今日は違う。一日一日着実に進歩していると言うところをお見せしよう。
私は無言を貫き通す鈴仙に声をかけた。
反応はない。
作戦を練る必要があった。
私は脳内で喧々諤々の論争を演じた。その末に出たのは共通の話題を話すというものだったが、我々の関係は如何せん浅すぎる。脳内会議の面々は使い物にならん。私は自分を信じることにした。
私はもう一度声をかけた。
黙々と歩くと言う行動で返された。天晴れである。
ならばと竹林での戦闘について話す。
すると彼女の兎耳がぴくりと動き、反応を示してくれた。
「……何よ。謝ってほしいの?」
そんなことはない、すぐさま否定する。私に対して悪印象だからとはいえ、曲解されて更に溝が深まるのはよろしくない。私は彼女の格闘能力の高さを話した。無論私見でしかないからためになるかは微妙なところだが、私ほど多くの人、妖怪、鬼、その他諸々に殺された者はおらんだろう。助言するに足る人物であると言う自負を持ち、私は彼女を力は足りないが技で十分他の妖怪を圧倒することも出来る技巧派と評した。
そんなことを伝えたら、鈴仙は立ち止まってこちらを見た。
生意気にも知った風な口をたたいてしまったから怒らせてしまっただろうか。
「変な奴……」
ぼそっ、とした小さい声だったが、こちらの耳にははっきりと届いた。私は知っていた。私を変な奴と言ってくる奴は大抵変な奴なのだ。風見がその最たる例と言える。
「な、何笑ってるのよ!」
思わず頬が緩んでいたらしい。怒られてしまった。
だがしかし、どうやら少しばかりだが距離が近づいたように思われた。
よきかな、よきかな。
「……はあ。何だか馬鹿らしくなったわ」
鈴仙はそう言うと私の隣に並んだ。
「あなた……いえ、日暮! お前には分からないだろうけど、輝夜様が客人を連れてここに来るなんて特別なことなの。しかもそれが地上の妖怪だって言うのだもの。しかもしかもよりによって昨日よ昨日。その時の私の気持ちが分かる? どうすればいいか分からなくなるに決まってるでしょ? だから私は人見知りとかそう言うんじゃなくて……分かった!?」
あまりの剣幕でまくし立てて来るものだから、私はうなずく他なかった。
その後彼女は聞こえよがしに馬鹿、阿呆と言って盛大なため息を吐き、早足で先へ行こうとしていたので、慌てて後を追ったのだった。
永遠亭を出てすぐ、屋敷を囲む塀を背にして、蓬莱山は竹林を眺めていた。
鈴仙は私が外へ出られたのを見届けたらすぐに中へ戻って行ってしまった。まだあまり仲良くなれていない。いつかともに酒を酌み交わしたいと思った。
私はわざと足元の葉を踏み鳴らし、蓬莱山の横に同じようにして立った。
今日も変わらずの竹林である。
ちょいと霧が薄い気もしたが、その程度ここでは些事であろう。
さて、帰る挨拶とはどうしたものか。
気の利いた言葉が思いつかんかと思案を巡らせていたら、先手を打たれてしまった。
「昨日は楽しかった。あんなに心から笑ったのは久しぶり」
私はそうか、と相槌を打った。
蓬莱山が微笑んでいる、それがとても嬉しく思えた。
やはり何においても笑顔が一番なのだ。
大口を開けて豪快に笑うのもいいし、こうして静かに笑むのもまたよい。
「ありがとうね」
そう言いながら彼女はひらりと、藤原との死闘の時に見たものよりもさらに軽やかに、さらりとした艶のある黒髪をなびかせて私の前に移動した。僅かばかりの日差しが彼女を照らし、およそこの世のものとは思えない美しさと言う言葉が思い浮かび、そうしてなぜか、かぐや姫と言う名を思い出させた。
『行動を起こせ、人生を楽しむならばそれが必要だ。』
私の脳裏に在りし日の彼女のつまらなそうな姿が思い出され、そうして捨ててしまいたい恥ずかしい台詞までもが浮かび上がった。あの時の私はさぞ得意げな顔であったことだろう。忍び込んだことなどどこかの棚へ上げ、言ってやらねばと言う衝動に身を任せていたのである。悶絶必至であった。頬が赤くなっていくのを自覚して、私は蓬莱山から顔を背けた。
「どうしたの? 熱でもある?」
大丈夫だ、とだけ返し咳払いした。
彼女が覚えていないようであるのがせめてもの救いである。
「遊び過ぎて疲れでもした? もう少し休んで行ってもいいのよ?」
首を横に振る。ぼろを出してしまう前に退散するのが得策であろう。
私は片手を上げて、また会おうと告げた。
「ええ、またね。今度はもっと大勢で遊びましょう――」
逃げるように去っていく私の背中に、懐かしい名前を呼ぶ声が飛んできた気がしたが、そんなもの確実に気のせいである。でなければ恥ずかしすぎるではないか。ただの阿呆みたいではないか。貫禄が、我が威光が忽ちのうちに何処かへ霧消してしまうではないか!
――分かっていればもっと格好つけたのだぞぉ!
稗田のように見たものを忘れない能力が欲しいと思ったのは、これが初めてである。