「ふぁぁ……」
思い切り伸びをする。
結局、あれから雪蓮と……思い出せないぐらい、飲んだな。
いろんな事を語ったし、ちょっとだけど本音も話してくれた。
……その代わり、流石に飲みすぎで頭が重いけどな。
とは言え、早朝のせいもあるけど、やっぱり空気がさわやかだ。
あたしのいた時代、中国は急成長と引き換えに、深刻な環境問題に悩んでいる……葛木先生が、授業でそんな話をしていたな。
今時エコエコと騒いでいる連中、この空気を知ったら愕然とするだろうなぁ。
昨日魚を採った川に行き、顔を洗う。
水も程よく冷たいし、澄み切っている。
ついでに、そのまま頭ごと、川の中へ。
ブルブルと水気を切って、手拭いで拭く。
うし、だいぶさっぱりした。
さて、朝の自主トレ開始。
こっちに来てから、あまり手にする機会のなかった、弓矢。
静止して射る事はまずなさそうだけど、折角モノにした腕、むざむざ腐らせるつもりはない。
まずは、身体を軽く解して、と。
弓道部でやっていたのと同じ、ストレッチをひと通り。
弓は、不用意に射ると、筋を痛める傾向があるからな。
特に、これを使うような場面でそのザマじゃ、間違いなく生死に関わる。
そういや、黄蓋さんも、弓を得意としてるって言ってたな。
今度、心構えでも教えて貰おうかな。
だいぶ、身体が暖まったところで、射を開始。
的はないから、手近の大木に、メモ用紙を小刀で留めて、と。
ちょっと小さいけど、無いものねだりをしてもしょうがない。
メジャーがないので歩測でだいたい、三十メートルぐらいの間を置く。
本当は安土(矢が痛まないようにするための盛土)とかも必要だけど……ま、そこまで望むのは贅沢って奴だ。
ちなみにあたしの流派は、特にない。
つーか、所謂弓道で、流派云々、ってのはあまり重要じゃない。
強いて言うなら、あたしのスタイルは武射系。
理由は簡単、その方があたしに合っていたから。
……ま、藤村先生はその辺放任主義って言うか、投げっぱなしだったから、好きにやるしかなかったのも確かだけどさ。
そして、決めた位置に立ち、弓を構えた。
キリキリと弦を弾く。
久々に聞くけど、やっぱ心地よいもんだ。
放った矢は、カツンと的に命中。
どうやら、メモ用紙の真ん中のようだ。
うん、腕が鈍ってなくて何より。
よし、もう一度。
「ふう、こんなモンかな」
小一時間ほどで、自主トレ終了。
「見事な腕前ね、綾子」
「雪蓮か。ずっと眺めていたようだけど?」
「あら、気づいていたの?」
ニヤリと笑う雪蓮に、あたしも笑みで返す。
「ま、弓って奴は無心にならないといけないから。だから、周囲の気配にはより敏感になる」
「なるほどね。でも、こんな的によく当てられるわね」
雪蓮が手にした、的代わりのメモ用紙。
その中心付近は穴だらけ……というか、もはや破れないのが不思議な有様。
「これでも、弓は一番苦手なんだけどな」
「あら、言うじゃない。これなら、祭だけじゃなく、夏侯淵あたりともいい勝負になるんじゃない?」
「夏侯淵? 曹操配下の?」
「ええ。大陸一の弓使い、なんていう人もいるぐらいね」
会ったことはないけど、きっと女性なんだろうな。
「どうかな。あたしのは、競技としての弓だから、実戦だとどうなるかは」
この世界の弓は、あたしのよりも少し小さい。
そして当たり前だけど、鏃は尖っているし、当たれば死に繋がる。
ボウガンでヤガモを撃ったバカがいたけど、生物に対して矢を放つなんて、狩猟以外では許されない行為。
そういう世界にいたあたしに取っては、弓ですら人殺しの道具、というのは未だに違和感がある。
……まだ、覚悟が出来ていない、そう言われても仕方ないな、こりゃ。
「雪蓮さま、美綴さん、朝ご飯ですよ~」
「穏が呼んでいるわ。行きましょ」
「ああ」
とりあえず……難しく考えるの、ヤメ。
なんか、あたしらしくないな、ここんとこ。
……ん?
ふと、感じた妙な違和感。
その刹那、あたしは本能的に、手にした矢を放っていた。
「ギャーッ!」
見知らぬ男が、あたしの矢を肩に受け、転げ回っている。
……いきなりだったので、反射的に放った矢。
それが、人間を傷つけている。
「あなた、何者?」
雪蓮が、男に剣を突きつけている。
頭に黄色いバンダナ……というか、ただの布を巻いている。
「た、助けてくれ! お、オレはまだ、死にたくない!」
「なら、知っている事を話しなさい。でないと」
雪蓮の愛剣『南海覇王』が、朝日を受けてギラリと輝く。
昨日、教えて貰ったんだけど、何でも孫堅さんの形見というか、孫家に代々伝わる名剣らしい。
当然、相当な
「わ、わかった! な、何でも話す!」
雪蓮の気迫に加え、首筋に南海覇王を突きつけられてるんじゃ、抵抗するだけ無駄だろう。
「あれね」
「ああ。ざっと、二百ってとこか」
男に洗いざらい吐かせたところ、やはり賊がすぐそばにいるらしい。
しかも。
「黄巾賊……いや、黄巾党、か」
「何か知ってるの、綾子?」
「……ああ」
三国志の世界をかじった人間なら誰でも知る、一大事件。
世界は違っても、歴史は変わらない……そういう事なんだろうな。
「じゃあ、貴方が戻り次第、わたし達を襲う手はずになっている。それで間違いないのね?」
「へ、へい! ありやせん!」
「そう。他には?」
「そ、それだけしか知らないでさぁ! ほ、ホントですって!」
男の必死さから見て、ウソではなさそう。
「そう。なら、貴方はもう用済みね」
雪蓮は眼を細め、南海覇王を振り上げた。
「ひ、ひいっ! や、約束が違うじゃねぇか!」
「約束? 正直に話せば殺さない、って事?」
「そ、そうだ! なのに、俺を殺す気かっ!」
「そうよ。だって、あなたを許したら、また罪もない民が悲しむもの」
「ひ、ひぃぃぃっ!」
男は、一太刀で頸動脈を切られて……事切れた。
目の前で、人が死ぬ。
……あまりの事に、現実感がない。
「綾子」
「…………」
「わたしを、非情だと思う?」
雪蓮の目は笑っていない。
いつもの明るく陽気な彼女ではなく、そこにいるのは……まさに覇王、というべき気迫を持った、強い女性だった。
「……わからない。でも、間違っているとは思わない。確かに、雪蓮の言う事も一理あるから」
ごめんなさいで済めば、警察は要らない。
あたしの世界で時々聞いたフレーズ。
……これも、やっぱりそうなんだ。
今は物言わぬ存在となった賊の男。
みっともなく命乞いはしたけど、何人かの命を奪ったのだろう。
……それも、自分たちの欲望を満たす、という理不尽極まりない理由で。
あくまでも推測でしかないし、偏見かも知れない。
……でも、あたしはこの男よりも、雪蓮を信じたい。
いや、信じなくっちゃ。
預かった真名に、あたしなりに応えるためにも。
男の情報を元に、雪蓮と二人、偵察に来たあたし。
やはり黄色い布を巻いた連中が、一カ所に固まっている。
「どうする?」
「そうね。放っておく訳にはいかないわ。商隊が襲われたら、守るのも大変だし」
打倒漢王朝という大義名分があっても、所詮は反乱でしかない。
こうして、守るべき民衆を襲うようなマネをしている限り。
歴史の事実としてそれは知っていたけど、実際に目の当たりにしてみると……やっぱ、許せない。
「やるしかない、か」
「ええ。戻って作戦を立てましょ」
「……いや、そんな余裕はなさそうだ」
「どういう事?」
「ほら」
雪蓮は、あたしの指し示した方を見て、あっという顔。
「火の始末を始めている……って事は」
「そう。そろそろ動き出す、って訳じゃないか?」
「でも、戻って待ち構える時間も……くっ」
カチャリと、剣を手にする雪蓮。
「おい、まさか一人で斬り込みかける気?」
「……ええ。二百と言ってもたかが賊よ。何とでも」
「無茶だって。雪蓮にもしもの事があったらどうする」
「その時はその時。蓮華もいるんだし」
「バカッ!」
思わず、あたしは手を出してしまった。
「綾子?」
雪蓮の頬が、赤くなっている。
「ゴメン。でも、落ち着いて。昨夜の誓い、忘れてないだろ?」
「そんな訳ないじゃない。わたしにも、大切な誓いだから」
「だったら、もう少し自分を大事にしろ! いいか、今は無茶をする時期でも場面でもない」
「でも、放っておいたら!」
「わかってる。でも、雪蓮のやろうとしている事は、ただの蛮勇だよ。それがわからない雪蓮じゃないだろ?」
「…………」
下唇をギュッと噛みしめながらも、あたしの言葉を聞いてくれている。
「大丈夫。それより、あたしに策がある」
「策?」
「ああ。……周泰、頼みがある。出てきてくれない?」
あたしの言葉を合図に、周泰登場。
しっかし、つくづく忍者だわこの娘。
「気づかれていましたか。いつからですか?」
「うん? 南陽を出たあたりかな?」
「最初からですか。私もまだまだ未熟ですね」
周泰、がっくりと落ち込んでいる。
「いや、それは違うさ。だって、雪蓮も気づいたの、さっきだろ?」
「全く、鋭いわね綾子は。そう、さっきわたしが叩かれた時に、ね。……冥琳が気を回したんだろうけど、わたしでも全然わからなかったのに。綾子、つくづく底が知れないわね」
主が平手打ちを喰らって、僅かだけど空気が動いた。
……でも、あたしってこんなに鋭かったかな……?
どうも、こっちに来てから、いろいろとパワーアップしている気がする。
……ま、今は気にしないでおこう。
「で。本隊に戻って、この事をまず陸遜に伝えて。あと……」
「わかりました。ではすぐに戻ります」
再び姿を消した。
「どうするの?」
「ま、見てなって」
「お待たせしました」
約束通り、十分程で周泰が戻ってきた。
「美綴さんの弓と、かき集めた矢。それに、荷駄の中にあったこれを」
「ありがとう」
「何それ?」
革袋から取り出した物を、雪蓮に見せた。
「花火?」
「そう。これを、矢にくくりつけるんだ。悪いけど、二人とも手伝って」
「は、はい!」
「いいけど、どうするの?」
「へへ、ロケット花火もどきを、ね」
「ろけっと花火?」
「ま、いいからいいから」
準備が整うと、あたしは弓を手に立ち、
「周泰。合図したら、こいつを反対の丘で派手に叩いて欲しい」
「それで、銅鑼を? 構いませんが」
「頼む。合図は、花火の三発目だ」
「わかりました。では!」
再び、姿を消す周泰……流石にもう、驚かない。
「で、雪蓮には……」
作戦を告げ、任務を耳打ち。
「いいけど、それだけ?」
ちょっと不満そうだ。
でも、作戦の変更はしない。
「それだけだ。じゃ、頼む」
「はーい」
「さて、と」
一人になったあたしは、賊の集団を見やった。
「よーし、野郎ども。行くぞ」
「応!」
頭とおぼしき奴を発見。
あたしはそこで、大きく深呼吸。
……そして、これからの事に覚悟を決める。
大切な人を守るため……そう。
バシッと両手で頬を叩き、気合を入れた。
「よし!」
そして弓を構え、盗賊の頭に狙いをつける。
慣れ親しんだよりも少し離れているけど……不思議と、あたしは外す気がしなかった。
「……
矢は狙い違わず、頭に向かい。
「グワッ!」
その眉間を射貫いた。
もちろん、無事では済まない……恐らく、即死だろう。
とうとう、この手で人を……殺した。
その事実は、もう消しようがない。
震える手を、あたしは無理に抑えつけた。
「済まないな。だけど……」
さっき準備した、花火付きの矢をつがえ、放つ。
賊が混乱の最中でなければ、この策はあまり効果がない。
だから、後悔は後ですればいい……いや、そうでなければ。
パーンと派手な音が響いた。
火薬とはいえ所詮は花火。
だが、混乱から立ち直る前の賊には、十分な効果があった。
「お、お頭がやられた!」
「て、敵襲~!」
「くそ、どこだ!」
この辺りは木立が密集しているから、そうそう見つかりっこない。
そして、三発目を打ち込んだ。
すかさず銅鑼の音が響き渡り、連中はますます混乱する。
「盗賊ども! 貴様らは完全に包囲されている! 命惜しくば、武器を棄てて投降しろ!」
そして、凛々しい雪蓮の声。
戸惑う賊。
うん、いいぞ、その調子だ。
……が、やはりというか、そうそう思い通りには行かないようで。
「騙されるな! てめぇら!」
次席の指揮官……いや、次席の頭(?)らしき奴が、鎮めようと懸命だ。
そして、騒ぎ立てる仲間を何人か、斬り捨てはじめた。
非情だけど、流石に効いたのか、混乱が収まり始めた。
……やれやれ、しょうがない。
あたしは、残った矢を、立て続けに射つ。
連射なんて練習した事もないのに、あまりにもスムーズに身体が動いた。
そして、叫んでいた幹部と、その周りが矢を受けて倒れた。
「さあ、どうする? 次はお前だぞ! 後から増援も迫っているぞ。皆殺しに遭いたいかっ!」
ナイスタイミングで、雪蓮の畳み掛け。
更に、彼方で土煙が上がる。
観念したのか、賊たちはついに武器を捨て出した。
……ちなみに、あれは周泰に、とにかく土埃が立つように派手に動き回って貰っただけで、遠目だからこそ使えるトリック。
ま、結果オーライって事で。
「お見事でした」
「美綴さん、まさに文武両道ですねぇ」
陸遜が警護の兵士を引き連れてきて、賊は皆連行。
もちろん、こちらは被害なし。
雪蓮は暴れ足りなさそうだけど。
……で、陸遜も周泰も、しきりに感心……というか、何かあたしを見る目が変わってないか?
「いやいや、たまたまさ。それに、こんな子どもだまし、相手がまともな軍隊なら通用しないさ」
「いえ。流石は雪蓮様が、真名を預けられただけの事はあります」
「……知っていたのか」
「昨夜、聞いてしまいました。申し訳ありません!」
「ま、聞かれて悪い事はないし。な、雪蓮」
「そうね。だから明命、気にする事ないわよ」
「は、はい。わかりました」
と、雪蓮があたしに顔を寄せてきた。
「綾子」
「ん?」
こうしてみると、ホント美人だよな~。
あたしも容姿にはそれなりに自信があるけど、並んだら……負けそう。
「……後悔、してる?」
「……いや。もう、吹っ切れた。やるさ、皆のためにも」
キッパリと言い切ったあたしを見て、雪蓮は満足そうに頷いた。
「ん、ならいいの。さ、行きましょ」
「ああ」