トクトクトクと、酒を注がれた。
「さ、グッといけ。遠慮なぞするな」
「は、はぁ……」
杯……というよりも、大ぶりなそれは茶碗に近い。
それになみなみと注がれた酒……濁り酒のようだ。
この時代、清酒なんてある訳がないし、ビールやウイスキーもあり得ない。
酒と言えば、たぶんイコールこれなんだろうな。
「では、いただきます」
運動系部活なので、どうしても……まぁ、飲む機会ってのはある訳で。
でも、飲んだ事のない種類を一気に呷れるほど、酒量に自信がある訳でもないんだけどさ。
とは言え、ちびちび飲んだら黄蓋さんに何を言われるか。
ええい、ままよ。
覚悟を決め、杯の中を一気に空けた。
あれ、結構薄いかな?
匂いから、きつめを連想していただけに、ちょっと意外かも。
「ほぉ、良い飲みっぷりではないか。さ、もう一杯」
「いえ、あたしからもご返杯を。でないと、失礼に当たります」
「気にせんでいい」
「そうはいきません。これ、あたしの国では礼儀ですから」
実際のところ、本当に礼儀なのかどうかは知らない。
ただ、酒は差しつ差されつつ、というのが暗黙のルールらしい。
「む。礼儀では仕方あるまい。では、いただこう」
「どうぞ」
あたしのよりも、ちょっと大きめの杯。
……てか、ご飯茶碗ぐらいあるんですけど、黄蓋さんのは。
「んぐ、んぐ、んぐ……。ふう、甘露甘露」
「でも、いいんですか?」
「何がじゃ?」
「何がじゃないですよ。孫策は、袁術の食客なんですよね?」
「一応、そういう事になっておるが?」
「いくら食客とは言っても、その配下がこんな朝っぱらから酒とか」
すると黄蓋さん、
「はっはっは。お主、公瑾のような事を言うのぉ」
いや、周瑜じゃなくてもそう思うし普通。
「儂はの。嬉しいのじゃよ」
「嬉しい?」
「うむ。お主がここに来てから、策殿が楽しげで、な」
「そうなんですか?」
「ああ。堅殿が亡くなられてからは、策殿は必死であった」
「…………」
「……呆気ないものじゃな。『江東の虎』と呼ばれた御方も、病には勝てなんだ」
確か、孫堅は病死じゃなかった筈。
……こんなところにも、違いがあるんだ。
「じゃが、策殿はただ、悲しみに暮れておればよいか、と言えば否じゃ。曲がりなりにも、儂らの主となったからには、それなりの実力を見せねばならぬからの」
「実力、ですか。でも孫策は、腕も立つし覇気も備えていますよね?」
「それはそれ。実績がなければ、兵も民も従う訳がなかろう? ましてや、堅殿の威光がなくなり、去っていく者も大勢おった中じゃ」
「そんな……。冷たいですよ、あんまりにも」
が、黄蓋さんはニコリともせず、続けた。
「未だ皇帝は健在とは申せ、この乱世じゃ。自らを守る力のない君主に、従う民はおらぬ。兵もまた然り、己の働く場がなければ、食うにも事欠くのじゃぞ?」
「…………」
「じゃから、必要なのは実績、そして力じゃ。理想を唱えるのは、その裏付けがあってこそ」
「……わかります、何となく」
比べたら怒られるかも知れないけど、これって部活にも当てはまる。
実績があり、実力がある奴がレギュラーになり、主将やキャプテン、部長になる。
もちろん、面倒見の良さとか、人当たりとかもあるだろうけど。
「じゃが、想いだけでそれは身につくものではない。それ故、策殿は苦しみ、悩んでおった」
大変なんだ、人の上に立つ、ってのは。
「のう、美綴」
「はい」
「お主はまだ、何か秘めたるモノがあるようじゃ。……その力、策殿に役立ててやってはくれぬか?」
「黄蓋さん?」
「この通りじゃ、頼む」
そう言って、頭を下げる黄蓋さん。
「あ、あの……。でも、あたしで役に立つ、と?」
「儂はの、そこいらのひよっ子どもよりも遙かに多くの戦場に立ち、多くの人を見ておる。じゃが、お主のような娘は、未だ出会っておらぬ」
「でも、周瑜とか甘寧とか、何より黄蓋さんがいるじゃないですか。孫策には」
「無論、儂らとて、策殿を盛り立てるため、力は尽くす所存じゃ。だがの、そこにお主が加われば、より未来が開ける……儂は、そんな気がするのじゃ」
空になった杯に、新たな酒が注がれる。
「ほれ、飲め」
「……はい」
今度は一気に干さず、ゆっくりと口に含んでみる。
フルーティーな香り、悪くない。
「黄蓋さん」
「うむ」
「あたし、正直どこまで自分がやれるのかは、まだわかりません。ただ……」
「ただ?」
「……詳しい事は話せませんが。この乱世、終わらせたいと思っています。孫策がそれを目指すなら、あたしもそのために頑張ってみます」
「……そうか。わかった、お主の志。儂はしかと、見届けようぞ」
正直、こんな事を言う自分に驚いている。
……でも、黄蓋さんは、決して酔った勢いで話している訳じゃない。
だから、あたしも真剣に答えたつもりだ。
「あら、祭に美綴?」
孫策がやって来た。
「おお、策殿か。どうじゃ、一緒に飲らんか?」
「そうしたいのはやまやまなんだけどね」
「ん? また冥琳に何か言われたのか?」
「違うわ。袁術ちゃんから、また雑用を押しつけられたの」
う~ん、心底嫌そうだ。
「雑用?」
「ええ。蜂蜜が切れたから、手配するらしいの。で、その商隊の護衛をしろって」
「そのような事、策殿である必要はなかろう?」
「そう言ったわよ。……そうしたら、張勲の奴に、『孫策さんはお強いですからね~。美羽様の為に、是非一働きして下さいね~』って。もう、本当にむかつくわ!」
袁術はともかく、張勲って……思い浮かばない。
「あの。張勲って誰……かな?」
「袁術の守り役兼軍師、ってところかの。そこそこ頭も腕もいいが……どちらかと言えば、悪知恵が働く奴じゃ」
「……絶対、いつか殺す」
背景に文字が書けるなら、『ゴゴゴゴゴ』とでもなりそう。
「そんな訳で、これから打ち合わせに行かなきゃいけないの。あ~あ、わたしもこんな事してないで、一緒に飲みたいな~」
……そうだ。
思い立ったあたしは、声をかけた。
「なあ、孫策」
「うん?」
「その任務、あたしに手伝わせて貰えないか?」
「え? 美綴が?」
あたしは、大きく頷く。
「あたし、何も仕事がないし。でも、頭使うの苦手だから、何か手伝えないかな、って」
「ふむ……。よし、その意気じゃ、美綴!」
黄蓋さんが、あたしの背中をバシバシ叩く。
結構力があるってか、痛いんですけど?
「いいの、本当に? 言っておくけど、危険を伴うわよ?」
「わかってる。この時代、この大陸じゃ、危険を避けて生きる、なんて無理だろうから。それに、あたしもいろいろと見てみたいんだ、この大陸を」
「そう……。わかった、じゃあお願いしちゃおうかな?」
さっきまで暗かった孫策、一気に明るくなったな。
……黄蓋さんとの約束だ、やれるところからやってみるさ。
三日後。
袁術御用達の、蜂蜜商隊が出発。
で、護衛を命じられた孫策も、
「やれやれ。じゃあ、行きましょうか」
やはり気が進まないみたい。
「なぁ、孫策」
「何?」
「一つ、疑問があるんだが。何故、蜂蜜でここまで大仰な事になるんだ?」
砂糖もないこの時代、甘味料として貴重な存在なのはわかる。
……にしても、ちょっと大げさすぎるんだよな、どう考えても。
いくら物騒なご時世とは言え、交易商品に軍隊の警護付きとか、コスト悪すぎだろう。
「……簡単よ。袁術ちゃんの好物が、蜂蜜水だから」
「……は?」
ちょっと待て。
「やっぱり、変だとお思いですか~?」
間延びした声で、陸遜が話しかけてきた。
何かあった時のために、という周瑜の判断であたし達に同行している。
もっとも、黄蓋さんに言わせると、彼女は九節棍の遣い手でもあるらしい。
……あの巨大な胸が邪魔しなければ、の話らしいけど。
「そりゃ、あたしでも変だと思うさ。だって袁術一人だろ、実際に必要なのは」
「確かにそうなんですけどぉ。でも、袁術さん、何かというと蜂蜜水、ですからね~」
「おまけに、あの張勲が袁術ちゃんをダシに腹黒い事をする時、ご機嫌取りに飲ませるから。減りも早いのよ」
「それにしたって……」
まだ、釈然としない。
「だいたい、蜂蜜なんてミツバチを飼えば済む事じゃないか」
「……は?」
「ええと、美綴さん?」
二人がポカーンとあたしを見ている。
「な、何か変な事……言ったか?」
「変よ……。どうやって、蜜蜂を飼う気?」
「え? だって、こんな四角い箱に、巣みたいな模様を……」
そこまで言って、ふと気がついた。
「な、なぁ、陸遜」
「はい~、何でしょう?」
「もしかして……。蜂蜜って、天然だけ? 養殖ってないの?」
「仰る意味がよくわかりませんが~。蜂蜜は全部、野生の巣を集めて作ってますよ~」
「げ? なら、とっても手間がかかって……あ」
「ご明察ですね~。そうなんです、蜂蜜はかなり高価な品物なのです」
「ま、袁術ちゃんの消費量が尋常じゃない、ってのは置いといて。警戒を厳重に、ってのはあながち不可解でもないのよ」
う~ん、あたしの世界じゃ、蜂蜜を手にするのにそんなに苦労とかあり得なかったからなぁ。
車も飛行機もない、道路もまともに整備されていない、治安も悪い……。
つくづく、あたしは恵まれた世界にいたんだなぁ、ってのを再認識。
「……だからって、わたしにやらせる事はない、と思うけどね」
「袁術さんの軍、こういう任務ですら、担える人材がいませんからね~。雪蓮さまがお出になるかはともかく、ですけどぉ」
「あれ? でも袁術の配下って……紀霊とかいなかったっけ?」
「紀霊?……穏、知ってる?」
「いいえ。美綴さん、どなたですかぁ、その方?」
ありゃりゃ、紀霊は存在していないのか。
……あと、袁術の配下って誰がいたっけか?
蒔寺の奴なら、スラスラと出てくるんだろうけど……う~ん、思い浮かばん。
「美綴さん、本当に不思議な方ですねぇ」
「……そうね」
そんな、生暖かい目で、あたしを見るな!
日が傾いた頃。
「今日はここいらで野宿ね」
「じゃあ、まずは火をおこさないとな。あと、水」
これなら、あたしも率先して動ける。
「……随分、手慣れてない?」
「ま、サバイバルならお手のものさ」
「さばいばる? 何ですかぁ、それ?」
「あ、野山である程度自給自足するというか……まぁ、野宿もその一つだ」
「ふ~ん。ま、いいわ。なら、わたしは軽く一杯……」
早速酒かい!
が、あたしがツッコミを入れるまでもなかった。
「ダメですよ、雪蓮さま。皆さんの支度が調ってからです」
「ぶーぶー。いいじゃないの、穏のケチー」
「冥琳さまから、ちゃ~んと監督するよう言われているんですぅ。だから、あまり我が儘言わないで下さい」
「わ、わかったから泣かないの。全くもう」
この主従のことは、とりあえず置いておこう。
あたしは、商隊を率いる男に話しかけた。
「おい、食材の用意はあるな?」
「え、ええ。と言っても麦に干し芋、あとは野菜と干し肉……ですかね」
「う~ん、イマイチもの足りないな。お、そうだ」
おあつらえ向きに、すぐ近くに川が見える。
そんなあたしに気づいたのか、孫策がやって来て、
「あら、今から釣りをする気? 夜が明けちゃうわよ、魚だって寝る時間だもの」
「わかってる。だから、叩き起こす」
「え?」
両手で持てるぐらいの、小さめの岩を見つけた。
うん、思ったほど重くない。
「せーのっ!」
ブンッ!
思い切り、川に向かって岩を叩き付けた。
ガン!
岩と岩をぶつけると、当然その衝撃は周囲、つまり水中に伝わる。
その結果。
「あ、魚が浮いてきた」
「気絶しているだけだけどさ。でも、これなら楽だし手っ取り早いだろ?」
「そりゃそうだけど……。美綴、あなたも案外、荒々しいわね」
孫策に言われたくないぞ、おい。
そして、日がすっかり暮れた頃。
「お待ちどうさん」
何故か、料理当番みたいな格好になってしまったけど、別に嫌いじゃないのでいいや、と。
獲った魚は半分を火で炙り、残った半分は野菜と一緒に揚げてみた。
天ぷら粉がありゃいいんだけど、片栗粉とかすぐに手に入りそうにないので断念、衣は一応ついているけど、ほとんど素揚げ状態。
干し芋や干し肉は水で戻したり、軽く炙ってから麦と一緒に鍋に。
雑多と言えば雑多だけど……でも、あたしはこの方が得意だし。
人数が多いから、量を一度に作れるのはむしろありがたい。
「じゃ、いっただっきまーす」
「では、いただきます」
孫策と陸遜の声を合図に、一同食事開始。
「この雑炊、美味しい!」
「うわ~、揚げ物も美味しいです~」
他の面々も、どうやら喜んでくれているみたい。
さて、あたしもいただきますか。
「美綴」
後片付けを終えたあたしのところに、孫策が来た。
もともと手伝ってくれる、という期待はしてなかったけど……案の定。
まぁ、将来の王様候補だし、別にいいけどさ。
「つくづく、不思議ね、あなたって」
「そうかな?」
「ええ。明命や思春をあしらう強さを見せたかと思えば、あんな風に料理まで出来て。それに、わたし達にはまだ見えない何かを、貴女は見ている」
「……そんな、大層な奴じゃないよ。あたし、頭を使うよりは身体を動かしたい方だし」
「あはは、その意味ではわたし達、気が合うわね」
「……かもな」
ふと、あたしは思い浮かんだ台詞を、口にする。
「なあ、孫策」
「うん?」
「アンタとは、殺す殺さないの関係までいきそうだ」
「……美綴? あなた、まさか……」
慌てて身構える孫策。
あ~、誤解されちゃったかな?
「待て待て。何も、孫策を害するつもりはない」
「……じゃあ、さっきの言葉の意味は、何?」
「お前とはとことんまでやりあえる友人になる、そう言いたかったんだけど。どうだろう?」
「……美綴」
「何となく、そんな気がするんだよ。あたしは」
「……そう。ふふっ」
と、孫策はどこから出したのか、徳利と杯を置いた。
そして、酒を満たすと、旨そうにそれを干す。
「今日は月が見事よ。こんな日に、月見酒しないのは、無粋じゃない?」
「……全く、黄蓋さんといいお前さんといい、酒好きだな」
「ええ。今日は、とことん付き合って貰うわよ? だって、こんなに気分がいいんですもの」
「……そうだな。それも悪くない」
あたしも、倣って杯を干した。
「……美綴。貴女がそう言うのなら、わたしもあなたに言う事があるの」
「何?」
「名前。孫策じゃなく、雪蓮でいいわ」
真名。
神聖だからこそ、迂闊に名乗るべきでもなく、また呼ぶべきでもない……それは、ここに来て強く実感しているもの。
それを許す、と?
「いいのか?」
「ええ。その代わり、わたしも貴女の事、他人行儀で呼びたくない」
「なら、綾子でいいよ。あたしは、真名がないからさ」
「……うん。改めてよろしくね、綾子」
「こちらこそ、雪蓮」
カチンと杯を杯を合わせたあたし達。
……桃園の誓いならぬ、満月の誓い、って奴かな?