烏なき島の蝙蝠─長宗我部元親(ただし妹)のやっぱりわたしが最強★れじぇんど! 作:ぴんぽんだっしゅ
《1553年》天文22年─土佐・岡豊城二の丸
長宗我部弥三郎宗親
これはなんだ、此れはなんだ?此れはなんだッ!!
僕は狼狽える。昨日までなら机の上に広げた本に無心になって読み耽っていれば良かった。昨日までなら。
今日は、違う。机の上に広げた本も両腕で押し退けてしまう。嫡男らしく振る舞うとはどうしたらいいんだよ……。
慣れ親しんだ岡豊城の自分の部屋から急に引き摺って出されたと思えば、敵の名を父・国親より与えられ、宗親となった。
そんな名はいらない。僕の言葉は父上に届いていない。
無理からぬ運命を呑ませられた。
そして、部屋を出て外に出よと言う。
おかしい、幾日、幾年、あの自分の部屋で本を読むだけの生活を強いられて居たと言うのに、いざ出ろと言われて、今度は出たいと思わなくなっている。
おかしい──どれほど今日この日を待ち望んでいたんだ?僕は、なのに、今は。
いっこうに立ち上がらず。目に映る光景は、古びた木の机。昨日までと同じ机の前で頭を抱えているッ!
おかしい、どうして!?
何故だ、何故?
本を読むだけの日々はもう嫌だったのではなかったのか弥三郎ッ!
おかしい、この部屋から出ることを夢見て、父より御呼びがかかることだけを胸に過ごしてきた日々では無かったか。しかし、今。
「で、……出るのが……う……怖い」
何故そう思うのか判らない。だけど、脇息と座卓と本棚だけのこの空間がいやに落ち着くんだ。
僕は、おかしくなってしまったのかも知れない。
いや、とっくにおかしいだろ……これまでずっと窓もない、明かり取りの光こそ立ち上がった時の胸元にくる位置に穿たれて壁に空いて穴から差し込んでくるけど、それだけ。
この暗くじめじめした部屋ではどうなるかな?
人だって腐るのでは。
改めて親しんだ部屋を見て思った。
このような部屋で過ごすことを望んだのは僕。
父より、愚息の真似をしろと言われまず眩しい陽は愚息には強すぎて、その誘惑に勝てない。
外に出てみんなと遊びたい、外に出てみんなと喋りたい、外に出て父より誉められたい、外に出て優秀な秦氏の後継として立派な人間と成りたい。
しかし、それは禁じられている。
立派な人間と思われては我が家が危険視されてしまう。
ひいてはまた攻め滅ぼされてしまう。
跳ね返し、反逆者どもを摘み取るその日まで愚息として過ごすこと。
それを父より、家の皆々から望まれたのだからだ。父の望みは皆々の望みだと思った日々だったんだ。
再興して間もない我が家は脆く、弱いのだと肌で感じた。
生まれる前、祖父のもちえた長宗我部の領地は広く大きかった、と教わりこれを取り戻すまでは仇討ちなど出来ないことを聞かされた。
それを納得した、僕は。全てを受け入れる事にしたんだよ。
だから、父上に言ったんだ。暗い、陽の入らない部屋を下さい。立派に愚息に見えるよう敵を欺けるよう頑張りますと。
そうだ。僕は、嫡男と言われ後継ぎと言われ、その日から全てが狂っていったんだった。
陽の射さず、世を捨て、一心不乱に本だけを読む人生。
僕にはそれが全てだった。それを望んだのは僕。それを受け入れる事にしたのは僕。しかし、それは昨日までの僕。
今日からは生まれ変わって嫡男として振る舞わないとダメだ!
だけど、この部屋に囚われた僕の心はそう易々(やすやす)と解き払えないんじゃないだろうか?
だから、こんなにもこの部屋を後にするのが苦痛なんだ僕は。僕の心はこの部屋にまだ棲んでいる。
長い時間を共にした部屋に、もうお前は必要ない、僕は変わるんだからと別れを切り出しても、部屋に言われた気がしたんだ、その時。
お前は自分が何者か判っている、賢いお前だからこそきっと必ず、この部屋から逃れられ無いことを気づく。そう、すぐに戻ってくる。
いや……。部屋は語らない。
語るのは僕だ。弱い、父の言いなりの身だった弱くてずるい僕の内の声。
それなら、それでいいと思っていたから幾年もこの部屋に暮らして居たんじゃないか。
父のせいだとは恨みがましいのではないか。
僕は結局、この暗い部屋の住人なんじゃないか。
「なぁーに、シケた面(つら)して机とにらめっこしてるのよ。本読みは止めたんでしょ?」
その時。そうだ、僕の声じゃない声がした。
僕の内の声と僕が必死に戦っているその時。
ゆっくりと振り返る。声の主は、良く知っている妹だ。妹の小昼に間違いなかった。
今や、それまでの例外を無視して髪結いの式をしたその次に、武家の男子の習いである元服をして武士となった妹。
同じ人間と思えないほど、はつらつで同じ人間と思えないほど覇気がみなぎっている妹だ。
「あ…………う……こ、……小昼……居たの」
「にーさまを見てたら、一日が終わりそうなくらいには大人しく見守ってあげてたのよ。なのに、身動ぎするだけで立とうとすらしないんだもん」
「そ……う……」
見られていた。ずっと、僕の、僕が、僕と、戦っているその姿を。
外からの目である妹の目からは全く動いていなかったんだ。
そう、見えていたらしい。焼きもきするだろう。僕だって、自分に今。やきもきしているんだから。
くッ!
情けない!
男子で!
嫡男で!
後継ぎで!
家族を!
一族を!
守っていかねばならない運命を持って産み落とされたはずの僕が!
妹の言葉ひとつに動揺するなんてッ!武士として僕はッ!情けないッ!
「あー見てらんないわね。父上からは放っておけ、男子は自らで動かねばならず!とかいわれたけどさぁ。にーさま、このままだとまた元のひきこもりを引き摺ってくだけだもん」
小昼のその声にその通りだ!と思った。衝撃だった。僕より、僕のことを妹が判っていることに。
反射的に小昼の顔を瞳を見ていた。丸く大きく僕を射ぬいてしまうその鋭い瞳を。目が合うと小昼はにぃと笑った。何が面白い?何が嬉しい?何が納得した?
妹がその時何を思ったからそんな笑顔を見せたか、判らない。ただ、気づくと視界から姿が消えていて。
「だから!小昼が出してあげる!この部屋から!」
嘘……だろ?
妹だ。妹の小昼にだ。僕はひょいと持ち上げられた。
足こそ地に着いているけど、まるで物の見事に。そこまで、僕は、軽い命なのか?
小昼には両脇に腕を差し込まれ、そのまま持ち上げられた。ふわ、とその瞬間。自らの匂いではない他の人の匂いを久しぶりに嗅いだ。
鉄の錆びたような匂いが微かに漂い、それを消すように新鮮な匂いが鼻を擽った。
僕は、他の人の匂いひとつ。
普段から嗅いだ事が無かったんだ。と、その時初めての感情が生まれた。イヤ、既にもっていたのかも知れない。これは憧れか、嫉妬か。胸がじくじくと痛い。
布と背中越しに明らかに自らのものではない肉の感触を感じ、嫌ではない。
寧ろ、なんでか満たされたような気がした。
そんな、考えを続けながら僕は移動させられ、持ち上げられたまま、引き摺られて次に気づけば部屋の外へ出されていた。
「ほら、部屋から出れたよ。でもこれだけじゃダメですね、にーさまには見て貰いたいものがあるのですよ」
怪力か。怪力なのか?
妹だ。妹のはず。妹だよな。その妹にぐいぐいと引っ張られ着いたその先の光景は──忘れられない。
きっと、今よりもっと成長してもこの光景だけは脳裏に焼き付いて離れないだろうな。
「ひ、……陽が……黄色……い」
「何当たり前の事に時間使ってんの。太陽は黄色いよ。キモチイイでしょ?んー風が吹いててさらにキモチイイ!」
僕の瞳に写し出されたのは眩しいまでに射し込む雄大な太陽の光と、その光に照らし出されて悠然と広がる城下の姿。
そして、視界いっぱいの金色の野。
そして、今まで気付くこともなかった、賑やかに明るい人々の声が響き渡る、城下町の五月蝿いくらいの喧騒が耳に届いた。
「あ……な、……なんだ?僕は何を見ているの。僕の知らない景色だよ」
去年の新年だったか。最後に岡豊の景色を見たのは、暗く寂れた印象だった。今は夏がそこまで来ている。
一年経った。だからか。うーん、一年経ったくらいでこれほどの人が増えるだろうか。
増えるとしたら戦に勝ち、敵地より奪った住民だろうか。
それにしては皆声が明るい。
自らの土地を離れて、無理に連れてこられた住民がこれほど明るく賑やかに過ごすことが出来るだろうか。
いや、敵地に入ってここまでの心からの笑い声や、明るくわいわいとした賑わいは、そんな事情の住民からは出てこないのではないか。
では、一体これは。
それに、あのおよそ見たこともない稲穂の群れはなんだ?
金色の野と勘違いしてしまうほどに風にそよぎ、元気に育っている。
ここ岡豊は、水害に悩まされるか、じゃないと逆に水が全くといって足りない領地だったではないか。
うん、考えても知らないものは答えが出てこないよ。
でも、この光景は僕の知っていた岡豊を遥かに上回り、凌駕していることだけは確かだ。
明の本や京の本にあった通りに、どの区域も視界に捉えられる範囲は道と家とが区切られていて綺麗に見える。
何よりその規模だ。昨年見た岡豊はまだ荒れ地や泥の目立つ地もあったのに、今目の前に広がる大きな町はまるで本の中に妄想した京の都のようだよ。
いや、それ以上かも知れない。
目の端、西と東の辺りにはそれぞれ大きな砦のような建物が多く立ち並んでいて、それがまだどれも建てられている最中だ。
つまり、相当数の兵士を岡豊は抱えることが出来る事が容易になったわけだ。
あれだけの砦が立つなら一万、そう悠に一万の兵を我が岡豊は抱えるんだ。
納得した。父上が、僕の戒めを解き放つだけの貯えとそれだけの戦力が揃っているとね。
「──ま、にーさま、おーーい!聞いてる?」
「あ、……済まぬ。妄想の虜だよ、……ぼ、僕は」
隣に妹の小昼がいる事も忘れて僕は、しばらく呆然とその光景を目にして心ここに非ずだったようです。
隣で小昼は頬を膨らませて大きな瞳をつり上がらせている。
「しっかりしてよ。一人じゃずっとは立ってられないくせにいきなり、力抜くなんて。腑抜けてるわね」
「あ、……ああ……」
僕は妹の首に腕を回しながらも、滑り落ちていたらしいんだ。
気づけばぺたんと庭の地面の上で座り込んでいた。
「それにいきなりぶつぶつモゴモゴと、坊さんか狂人みたいな事始めないで?心配するじゃない。にーさまは我が長宗我部の嫡男なんだからさ」
「そ、……その座を……あ危ぶんで……武士となったくせ……に」
いきなり予想外過ぎる。
この望外の妹は僕の愚かさぶりに愛想を尽かして武士の道をえらんだはずだよ。
確かだ。そう、元服した日に言い放ったのだから、僕の目の前で。
あれは──『小昼は陰口は性に合わないから敢えて今言います。
にーさまが腑抜けでちっとも強そうに見えなくて我が家が小昼は心配です。
だから、武士の道を選びます。
憐れと思うなら強いとこを兄弟や小昼に見せてください。にーさまが貰うはずの名・元親は小昼が戴きました。
返して欲しいなら強くなって小昼から奪い取りに来てね。それまで預かっておいてあげるのですよ』と、そんなだったか。
この妹には後継ぎも取られ兼ねないと心底恐れ、最近ではとみにその傾向が強くなっていたんだったな。
追い付けないかも知れない、茂辰の義兄さんが言うように廃嫡となるのではと焦り、その妄想をして押し潰されそうだった。
その妹が。嫡男は僕だと言うんだ。僕は立ち直らなければならない。
だけど、今は熱いものが込み上げてきてどうしようも出来ないよ。
次から次から涙が零れ出して止まらないよ。
どうしよう。みっともない。
妹だってそう思うはず。
「はい、どうぞ」
「……う、……うん」
そう言って妹が差し出してきたのは、涙を拭いてのつもりだろうか。紙だった。
有り難く受け取ったものの紙だった。本の一枚に相当する紙だったんだよ。
たぶん、小昼は書き物をするのが好きで持ち歩いていたんだろうか。
やはり、小昼の差し出してきたのは本の一枚に相当する紙だった。
涙を拭くに値しない良い紙だった。このような良質の紙を涙を拭くために使っていいんだろうかと頭を過ったが、家族の妹がかけてくれた情愛と感じたんだ。
これを使って礼を言うんだ。その方が人間らしいと。
「こ、……小昼、……僕のためにこんな紙を……。あ、有り難く使わせてもらう」
「いいから……さっさと拭く!拭いたら、お礼を言う!それで小昼は満足するのですよ。まったく、紙一枚で拭くか拭くまいか一分以上も頭をフル回転させるなんて、にーさまくらいですよ?そんな勿体無い頭の使い方をしない!この頭の使い道は民を導く術を紡ぎ出すためのもの。そうでなくては読みに読んだ本の中身が無駄遣いなのですよ」
妹に叱られているのは解った。だが、その叱ってくれることですらいとおしい。
今までにない経験だからだった。