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年度が変わって黒森峰に新入生が入学して一月ほど時が過ぎ、既に暦の上では立夏が近くなっていた頃、ふと逸見エリカは去年の事に思いを馳せていた。
去年の敗戦は苦い記憶ではあったが、あれからもう一年弱も経つのだ。
剛健たる我が黒森峰は敗北を忘れないが引きずられる事も無く、今年の栄光の奪還を目指して奮励努力に勤しんでいた。
…いや、苦いというのは敗北した事に感じた味覚ではないだろう。
結局の所、副隊長であったあの子に全てを押し付けてしまった事に対する後悔と罪悪感から感じているのだろう。
我々黒森峰の基本的な戦闘教義は、頭となる指揮者の命令に素早く確実に実行する事をである。
これを実行して打ち勝つには指揮官となる者の能力と、それに対応する一般隊員の錬度。
それに加えて更に運用する戦車の質も必要となる。
それらを全て兼ね備えている黒森峰だからこそこのドクトリンが実行できるのだ。
無論、不足事態が生じた時に個々で咄嗟に対応しにくいという欠点もあるが、
それは有能な指揮官が事前に「ここから何が起こりうるか」を予測し不確定性を可能な限り潰し、不足事態を起さぬようにするのだ。
もちろん、これは生半可な指揮官では到底できない事であるが、我らの隊長はあの西住まほなのである。
西住流の次期家元である彼女は突出した戦車道の才能を見せ、その指揮と予測能力ならば不測の事態など滅多に起きないのだ。
・・・・・そう、滅多に起きないという事はゼロではないのだ。
あの日、天候と地形という悪条件に重なって起きた不測の事態。
その場にいた手足に過ぎない我々は指示外の出来事に身を固めるしかなかったのだ。
しかし……唯一、隊長以外で頭となっている人物がいた。
それがあの子……副隊長のみほだった。
日常ではあれほど抜けている彼女も、戦車道においては鋭く素早い判断力と行動力を示してきた。
だからだろう……ここで自分が動かなければ水没した戦車の乗員は助からないと判断できてしまったのだ……。
我々が苦いと感じている事が決勝敗退した事自体にではなく、副隊長―――いや、元副隊長か―――に全てを押し付けてしまった事に対してならば、
元副隊長が黒森峰を去ってから半年もたっていない事になる。
果たして……我々は本当にもうその事を引きずっていないのだろうか…?
……勿論、そんな訳が無い。
少なくとも私は一年処か十年、二十年…いや、死ぬまで後悔するだろう。
-2-
「エリカ、夕食はもう済ませてしまったか?」
訓練が終わり、清掃当番の仕事を終えて大浴場から帰る途中で私は隊長に呼び止められた。
「あ、いえ。今日は戦車の清掃当番だったのでまだ食べていません」
「そうか、それなら丁度良かった。
久しぶりにカレーを作ったんだが作りすぎてしまってな。
もし良ければ一緒にどうだ?」
隊長の手作りカレー…!
「は、はい!もちろん喜んでご相伴に預かります!」
「そうか、それは良かった。
では私の部屋に来てくれ」
普段、隊長と何かを話したり相談したりするのは隊長室だったので、隊長の私室にお邪魔するのは久々だ。
以前に訪れた時と何も変わっていない。
必要最低限の物しか置かれておらず、年頃の女の子の部屋と感じさせる物は一切無かった。
この無機質で機能だけを優先させた部屋はまるで西住流の道だけを歩む隊長の本質を表しているかの様であった。
その中で一点だけ……作業をするためだろう机の隅に置かれた一個の写真立て……。
隊長と一緒に笑うみほの写真とその横に添えられた小さな包帯を巻いたヌイグルミだけが、この鉄で覆われた空虚な心の中で隊長の感情を主張している様だった。
「直ぐに用意するからそこで座って待っていてくれ」
「あ、手伝います!」
よそうだけだからいいよ…と笑いながら隊長はキッチンに向かっていった。
……良かった笑えるようになったんだ。
最近の……というよりみほが転校してから隊長はどこか塞ぎがちだった。
笑うというのもどちらかと言えば嗤うといった表現が似合う自嘲とも言うべきものであった。
隊長がみほを溺愛していたのは良く知っていた。
去年の間も私にみほの様子はどうかと、困っていないかとよく聞いてきた物だ。
一方でみほは時々、本当に疲れていた時に私に愚痴を漏らしてくれた。
少しでも何かを吐き出してくれるのではないかと、ストレスが幾らばかりか減るのでないかと私も抱きしめながら頭を撫でつつ聞いてやったものだ。
私の胸の中で泣きながらつらつらと「皆に名前で呼ばれたい」「またお母さんに叱られた」と零すみほを「黒森峰なのだから公の場では仕方がないわよ。でも皆貴方の事は尊敬しているわ」「これからしっかり西住流の戦車道を続ければきっと褒めてくれるわよ」とあやしたものだ。
……尤も、それがみほにとって求められていた言葉かというと、今思えば的外れな事だったのだろう。
そのみほの零す愚痴の中に当時は受け入れられないものがあった。
『姉に避けられている。ひょっとしたら嫌われている。』
こればかりはとてもではないが容認できなかった。
どれだけ隊長が貴方の事を心配していると思っているのか。
どれだけ隊長が貴方の事を愛していると思っているのか。
そう言葉を重ねたがみほ信じなかった。
今から思えば無理も無い、隊長はみほの前では「西住流次期当主」と「黒森峰機甲科隊長」であろうとしていていたのだから。
隊長がみほの事を深く愛している事は両者の間に立って俯瞰して見ていたから理解していたに過ぎない。
当事者たるみほには姉としての隊長は見えないのだから知らなくて当然なのに。
想像力の足りなかった私はあの最後の日に決勝のあの時から精神を疲弊させていたみほについに言ってしまったのだ。
「貴女が羨ましい!貴女になりたかった!」
「隊長も貴女も私を見ていない。
私を通して隊長とみほを見ているだけ。」
その次の日に、みほは黒森峰から姿を消した。
みほの転校を知らなかった私は後悔し、もはやいないと解っている筈の学園艦中をみほの残滓を求めて探し回った。
それからみほには会っていない。
謝ろうと、私を見て欲しかったのだと伝えようと思ったら既にみほは消えていた。
それから副隊長に任命され、私は振り切るように頑張った。
みほの穴を埋めようと、隊長に心配をかけないように……。
だからこうして隊長から食事に誘われて、隊長が笑ってくれて心から嬉しかったのだ。
-3-
「さぁ、食べてくれ。
久しぶりだから上手くできたかどうか心配だったが」
「はい!頂きます!」
目の前に置かれた湯気の立つカレーは見ただけで美味しそうであった。
ごろんと転がりながらも柔らかそうなジャガイモ、甘くよく煮込まれている人参、飴色になるまで炒められた玉葱。
見ているだけで食欲が沸いて来る物だ。
まずは一口はと口に運んでみると……ん?
「…どうした?口に合わなかったか?」
「あ、いえ!美味しいです!とても美味しいです!
……けど意外ですね。甘口だったもので驚いて」
そう、隊長が食堂でカレーを食べているのは良く見かけてはいたが、よく中辛以上のカレーを食べているのに対して甘口のカレーを食べているのは見かけなかった。
だから隊長がカレーを作ったと聞いて、舌が程よく辛味のあるカレーを受け入れる心算だった所に不意打ちで来たのだから驚いたのだ。
「ふふふ、そうか。成程確かに…
いや、甘口の方が好きだろうと思ってな」
…うん?私が甘口カレーが好みなどという話はしただろうか?
だけども言われて見れば確かに私の舌は食事に関しては子供舌かもしれない。
ハンバーグが好きと言うのもその一環だろう。
飲み物に関してはブラックコーヒーを好むのだが…。
いや、それよりも
「私に合わせてくれたって……先ほどは作りすぎたからと」
「あ……いや、これはしまった迂闊だったな。
……実は最初から二人で食べる予定だったんだ。
最近はよく頑張っているし、少しでも慰労になればとな」
「あ、ありがとうございます……!」
……隊長にそこまで見てもらえたとは…。
やはりこの人には敵わない。
最近は隊長こそが元気がないと、どうにか励ませないものかと思っていたのに。
まさか此方が激励されるとは…。
どこまでいっても私が尊敬し憧れるその人なのだ。
二人してしばらく沈黙が続き、無言でカレーを食べ続けた。
しかしこの沈黙も重苦しいものではなく、互いに照れて話しかけるものができないという何処か心地良い物であった。
「それで、最近は副隊長として良くやってくれているな。
私の指示を良く理解し、噛み砕いて皆に解り易く伝えてくれているから助かっている」
「はい!去年までは一隊員としての責務を果たしていれば良かったのですが、副隊長を任命された以上は副隊長としての役割もあると思いまして!」
「そうだな、私は自分の考えを一般隊員に伝えるのは苦手だからな…」
それは仕方がない…隊長はこと戦車道に関しては天才なのだから。
物事を教えたりするのは天才が必ずしも向いているとは限らない訳だ。
むしろ、一般人と同じ方向性に努力している秀才の方がどこが解らないのか、どう教えればいいのか理解しているのだろう。
だから感覚で理解してしまってきた隊長はどう上手く説明すればいいのか解らないのだ。
その為に橋渡し役として重要なのが副隊長なのだと私は思っていた。
その点ではみほは副隊長として紛れも無く最適だった。
同じ天才であるが故に隊長の僅かな言葉で真意を理解し、そしてそれを他に素早くしかも的確に伝えるのだ。
特に驚愕に値するのは天才同士だからかはたまた姉妹だからか、そういったやり取りも無く、隊長の考えを見抜いて指示ができる事であった。
つまり、去年の黒森峰は隊長と副隊長ではなく、指揮官である王がその意思と考えを共有して二人いるような物であった。
……とてもではないがみほが副隊長をしていた頃には追いついていない。
それでも参考にはなる。今までみほの一番近くにいたのは私なのだから。
「……しかし、隊長って自炊できたんですね」
みほを参考にした事は言わなかった。
あの子の名前を出せば空気が重くなる事は解っていたから。
「意外か?私だって簡単な料理くらいはできるぞ」
「いえ、だって……」
「……?だって?」
「あ、に、西住のお嬢様ですからそういった事も自分でやる事はないのかと思いまして」
『だってみほも全部菊代さんっていう女中さんが全部やってくれていたからできないって言ってましたので』
危ない所だった。
またみほの名前を出すところだった。
……思い返すと、みほと隊長の二人と私事として話す時は常に片方のコンバーターでしかなかった様な気がする。
そうか…エリカとして二人と話した事がないのだから、隊長とみほの話題抜きにして話す事ができないのも当然か…。
「ははは、それは酷い偏見だな」
「ふふふ、そうですか?」
二人で笑いながら会話をしている時点で楽しいからそれでいいじゃないか…。
そうして二人でみほを介さない話題を求めて趣味の話や戦車道の強豪校についての話題を広げていった。
今まで知らなかったのだが、隊長はチェスが趣味らしくなんとも隊長らしい格好のよい趣味だろう。
継続の隊長の掴めなさは隊長も感じていたようだ。
にもかかわらず戦車道の強者なのだから恐れ入る。
隊長の数少ない電子機器に疎いという欠点にも話がいき、今度私がスマホについて教える事になった。
楽しい。
久々に楽しい会話だった。
そうして会話を楽しんでいる内に多く盛られていた筈の私の皿は空になっていたのだ。
「ははは……そうか、聖グロの隊長にそんな事を・・・
・・・ん、皿が空になっているな。
御代りはいるか、"みほ"
それを言うないなや、隊長はハッと口元に手を当てた。
沈黙が場を支配する。
しかし、その沈黙は先ほどの物とは違い、まるで部屋全体が海水によって満たされたかのような息苦しい沈黙だった。
……そうか、そういう事か。
会話の中でずっと違和感があった。
この部屋に入ってから、一度たりとも隊長は私の名前を呼ばなかったのだ。
この甘口のカレーもそうだ。
イメージ通りの子供舌を持つあの子は辛いカレーが苦手で、よく甘口のカレーを作ってあげては子供の様に喜んで食べていた。
副隊長として頑張っているという会話も何も矛盾がない……。
そうか、私は隊長にとってあの子の代替品なのだ……。
…
……
………
「…そうですね、美味しいですからもっと食べられます。
お願いします」
「そ、そうか!
沢山あるから好きなだけ食べていってくれ」
明らかに無理のある聞かなかった事にした私の返答に、隊長はほっとしたように乗っかった。
そうだ、それでいい。
私はみほの替わりになるように頑張っているのだ。
隊長にみほの代替品として見られるのはむしろ我が望みだ。
元々、私は二人の間を橋渡しするコンバーター。
それが三人から二人になり、コンバーターとしての意味を成さなくなったから今度はダミーになっただけ。
それで隊長の心の隙間が埋まるなら、それで喜んでくれるならそれでいい。
決して本物のには敵わないと解っていても、この人間味の無い部屋から机の端に置かれた僅かな隊長の心をも消し去る訳にはいかない。
机の上に写真立ての代わりになれるのなら喜んでなろう…例えその写真に何も写っていなくとも…。
-了-