電話が鳴る。
5回、6回……無視を決め込む。
7回。鳴りやむ気配はない。
8回目。仕方がない。
暗闇の中、枕元に手を伸ばす。携帯を探すためだ。寝る前に読んでいた恋愛小説をベッドから叩き落としながら、やっとのことで携帯を見つける。通話のためのボタンを押し、端末を耳に当てる。
「はい……」
口の中が渇いていて、上手く声が出せない。
聞こえてきたのは、飄々とした、どこか掴みどころのない――そんな声だ。
「やっほ、チョビ」
私のことをそんな風に呼ぶのは、アイツしかいない。
「あのな、杏。私を叩き起こすのが新しい趣味にでもなったのか?」
「そういうなよ、チョビ」
「ニワトリよりも早起きなのは感心するけどな。今、何時だと?」
一言一言に溜息を混じらせて、どうにかやり取りを続ける。
目をこすりながら身体を起こす。携帯の隣に据え置いた目覚まし時計を見ると、まだ5時半過ぎだ。
「悪い悪い。でも、久々に会えないかなと思って」
途端にしおらしい声。こういう所は、マネできない彼女の武器だ、と思う。
なんというか、そう、ズルい。
「私は、今日も明日も明後日も仕事だぞ」
「チョビは一日24時間なら働いてるの?3日で72時間だぞ」
「そんなことが出来る人間がいるか」
「じゃあ、決まり」
「相変わらずだなぁ。とりあえず私は眠いから切るぞ」
そう言って、私は一方的に電話を切った。その内、メールが飛んでくるだろう。
一拍置いて、携帯が震える。文面はこうだ。
『今日、練習見にくるよ』
思った通りだった。私は時計を見る。気がつくと、もう6時前になっていた。欠伸を噛み殺しつつベッドから落ちた小説を拾い上げる。一番盛り上がるシーンのページには、折り目が付いてしまっていた。
「お疲れさん。チョビ」
杏が現れたのはその日の練習も終わり、生徒たちが全員帰った頃だった。
「練習、見に来るんじゃなかったのか」
「と、思ったけどね。やっぱりやめた」
「そういうとこも変わらないな、杏は」
「誉め言葉?」
にやりとする杏に私は、大げさに首をかしげて見せる。
「さてね」
斜陽に山際が赤く燃える。差し込む赤い光線に照らされて、漂う埃すら金色の雪のようだ。
小さな豆戦車が押し込まれるように並んだ倉庫。その床に置かれた工具箱に、私は腰を降ろした。額に滲んだ汗をぬぐう。
生徒たちにも簡単な整備をさせてはいる。
だが、最終確認は私の仕事。ゆくゆくは最期まで完璧にできるよう、教え込むつもりだ。
私の格好を見て、杏が小さく肩を揺らす。
「まぁ、でも似合ってるよコーチ・アンチョビ」
彼女が言う通り、私はもう〈ドゥーチェ〉ではない。卒業後地元に戻り、子供たちに戦車を教えている。だから〈コーチ〉。
「それは、誉め言葉だろ?」
「もちろん」
茶化したつもりだったが、真顔で頷く杏。私は何となく気恥ずかしくなって、そっぽを向いた。陽の光が、頬の赤みを塗り潰してくれるのを期待するばかりだ。私は、わざとつっけんどんに言い放つ。
「で、今日はなんで?こんな場所だ、まともなおもてなしは期待するなよ」
「久々に会いたくなった、って言った」
「本当は?」
ここまで、詰めないと本音を言わない。角谷杏とは、そういう人だ。立ちっぱなしの彼女に、下からぐいと視線を向けた。
倉庫の外から、少しだけ長生きしたのだろう鈴虫の声が聞こえる。
「……チョビ、こないだ誕生日だったろう?」
「うん」
「それを、祝いに来たんだ。それとも遅刻者には罰則を?バケツを持って廊下に立つのは勘弁だよ、コーチ」
何かをバッグから取り出しながら、杏が笑う。
「良い指導者が、そんなことするもんか」
釣られて、私も笑った。
工具箱を二つ。その間に作動油の缶にベニヤを置いた簡単なテーブル。でも、それで十分だった。杏が催してくれた、小さなバースディ・パーティ。
「チョビ。氷ある?」
「あるけど。そろそろその後ろに隠したボトルを見せてくれないか?」
「ん。ああ、忘れてた」
そう言って、ベニヤの上に置かれたのは金色の箱だった。
「ディ、ン……プル?」
「そ、ディンプル。これがね、いい名前だし、ウマいんだ」
「名前?」
「そ、〝えくぼ〟」
わざとらしいウインクを飛ばす杏。
「いい名前だけど、ウイスキーはなんか杏のイメージとちがうな」
「そう言うなよ。折角見繕ったんだ。グラスは?」
「ここにスワロフスキーがあるとでも?プラスチックのやつなら」
「十二分だね」
私は、練習中の給水に使う小さなプラスチックのカップを二つテーブルに並べる。使った後はしっかりと洗っておかないと、子供たちが千鳥足になってしまいそうだ。
「テーブルよし、グラスよし、ドリンクよし。あと、BGMは?」
「ばかいえ」
カップに氷を3つずつ入れて、練習用のタンク・ジャケットの上着を脱ぐ。コップにウイスキーを注ぎながら杏が言った。
「私が歌ってやろうか?」
「それはありがたいね。何を?」
「『Birthday』」
「私の採点は厳しいぞ」
「それは勘弁願うよ。チョビ」
小さなカップの琥珀の海に、氷がフロートのように浮かび上がる。
私は、きっと幸せものだ。一年に〝2度も誕生日を迎えられた〟のだから。
「じゃあ、乾杯」
「だね」
無言でカップを合わせる。
いつの間にか、鈴虫の声も聞こえなくなっていた。