お酒にまつわる、エトセトラ   作:駄犬@

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五十鈴華のプチ旅行
彼女が目的地に選んだのは……

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ヴァージン・ロードは、まだ遠い

 インターホンが鳴った。

 ぴんぽんと、間の抜けた機械音。

 1度目は、聞かなかったことにする。2度目は、空耳なんだと思い込む。

 私は、ベッドの上で身体をよじった。隠れるように布団を頭からかぶる。昨日洗ったばかりのシーツだ。もう少し、それに甘えていたい。

 しばらくすると、3度目のインターホンが鳴らされた。「ぴん」と「ぽん」のあいだに、やたらと間のある長い呼び出し音だった。それが続けて2回。来訪者の執念めいたものを感じる。

 うつ伏せになって、布団の隙間から枕元の時計を見る。すると、学生のころから使っている置き時計は、昼の12時すぎを指していた。それから、5度目のインターホンが鳴る……。

 ここまでくると、訪問販売や新聞の勧誘の線は薄いように思えた。届く予定の荷物だって、ない。じゃあ、いったいだれが……?

 だが、考えてみても思い当たる人物など一人もいなかった。

 また、インターホンが鳴らされる。

 最後の抵抗とばかりに、布団の中で身体をよじって、「んああ」とうめく。すると、また間延びしたぴんぽんが聞こえた。

 私の根負けだった。触り心地の良いシーツに後ろ髪を引かれるような思いをしながら、ゆるゆると身体を起こす。

 あくびをしながらリビングに行くと、朝の冷え込みが私を出迎えた。ひやりとした空気が、ふるりと身体を震わせる。暖房を入れても、部屋が暖まるまではだいぶ時間がかかる。そこで、私は適当なカーディガンを引っ張り出して羽織った。だいぶ前に買った、ブラウンのカーディガンだ。

 袖に出来た毛玉を指先でちぎりながら、インターホンのモニターへと向かう。画面の前に立つ。

 一瞬、やたら粘り強い新聞の勧誘だったら――という考えが頭をよぎる。もしそうだったら、またベッドに潜り込んでしまうという選択肢も一緒に。そうして、私は寝ぼけ眼をこすりながらモニターのボタンを押した。

 

 

「お久しぶりです。みほさん」

 対面に座る華さんは、そう言った。謎の来訪者の正体は、五十鈴華――その人だった。モニターに彼女の姿が映し出された時、私はとても驚いた。と、同時に肩の力が抜けた。

 湧き上がったのは、睡眠を邪魔された怒り……ではなく、懐かしさの方だった。

「うん。久しぶり」

「いつ振りでしょうか?」

 華さんは小さく「いただきます」と言って、湯飲みを持ち上げた。

 こんなこともあろうかと、山鹿に行ったときにお茶を購入しておいてよかった。彼女には、紅茶やコーヒーはきっと似合わない。

「えーっと、2年とか……かな?」

「もう、そんなになりますか」

「私が、弾丸成人式で大洗に行ったとき以来だから、多分そうだよ」

 そう言って、私は目を細めた。あの時のことは今でも思い出せる。

 ハタチの時。すでに故郷に帰っていた私は、熊本での成人式に出席してすぐ、大洗の成人式にも顔を出すため、その足で飛行機に飛び乗ったのだ。

 一緒に成人式に出たエリカさんは呆れていたが、結局「いってらっしゃい」と送り出してくれた。熊本空港までのお見送り付きで。そして、大洗の人たちも快く迎えてくれた。あの時のことは一生忘れられないだろう。

 我ながら、無茶をしたな――と、思う。

 あれから2年。高校を卒業してからは、もう4年が過ぎている。

 だけど、目の前の華さんは、記憶の中にある姿とほとんど何も変わってはいなかった。

 服装こそ、ベージュのフルレングス・ワイドパンツに、白いニットという大人っぽい恰好。だけど、長くてつややかな黒い髪に、少し垂れた優しい目。それに、穏やかな物腰。どこを切り取っても、私の知る華さんその人だった。一つだけ、私の知る華さんではなくなっている部分があるとすれば――彼女からは、もう鉄と硝煙の匂いはしなくなっていたことくらいだろう。

「みほさんの姿は、ずっと見てましたけどね」

 と、お茶をすすりながら華さんが言った。

「えっ? どこで?」

 その言葉に、一瞬ぎくりとする。まさか監視カメラとか?

 私の考えを見透かしたように、華さんが小さく笑う。

「もちろん、テレビで、ですよ」

「あー……」

 なんとなく気恥ずかしくなって、私は指先で頬を掻いた。

 

 空になった自分の湯飲みに、お代わりを注ぐ。

 私は聞いた。

「でも、急にどうしたの? 来るなら、連絡くれたらよかったのに」

 すると、華の湯飲みを持つ手が止まった。ポケットから何かを取り出す。

「電池、切れちゃったんです。〝持ち〟が悪くて……きっと、不良品です」

 携帯だった。画面は真っ黒。それは、最近テレビでコマーシャルをやっている最新の機種だ。

 確かに、彼女が携帯ゲームで充電を食いつぶすのは〝らしくない〟。きっと、言う通り〝はずれ〟を引いたのだろう。

 華さんは続ける。

「熊本に来たのは……旅行です。ちょっと休暇が取れたので。たまには……と」

 彼女の視線が、床に置かれたスーツ・ケースに移った。それは、パープルのサムソナイトだった。

 そういえば、彼女は藤の花がすきだった……。私は、そんなことを思い出した。

「で、私の所にきたの?」

「すみません、ご迷惑を掛けてしまって……」

 華は頭を下げた。机に額をこすり付けんばかりだ。

「そんな! 全然いいよ! 私も、まさか華さんが来るなんて思わなくて」

 言葉の通りだった。

 華さんは卒業後、実家に戻った。『華道五十鈴流』を掲げる彼女の家にも、大勢の門下生がいる。彼女はその跡取りとして、教室を開いたり、展覧会に出品したり……それこそ、忙しい毎日を送っていたはずだった。そんな彼女が我が家のインターホンを鳴らしていたなら、誰だって驚く。

 華さんは、ふわりと笑った。

「でも、本当に助かりました。熊本に来たのは良かったんですが、何も予定も立てていなかった上に、地理もさっぱりで……携帯も〝アレ〟ですし……教えて貰った住所を控えていてよかったです」

 何も予定を立てずに来た、という所がなんとも華さんらしい。

 私はうなずく。

「役に立ってよかった。私も今日はとりあえずオフだから、案内してあげられるよ」

「ほんとうですか!?」

「うん」

 華さんの目が輝く。

 携帯の充電切れで、出鼻をくじかれた熊本旅行。見知らぬ土地で、不安だったの想像するのは簡単だった。

 ふと時計を見ると、もう昼の1時を過ぎていた。そろそろ……。

「じゃあ、みほさん……私……」

 と、華さんが何か言いづらそうにしている。

「お腹がすきました」

 やっぱり、変わらない友人だった。

 

 

 新水前寺駅から市電に揺られること約15分。到着したのは通町筋だ。

 新水前寺から通町筋までは、市電に乗って約15分の距離。タクシーを使う手もあったが、電車を使ったのは華さんたっての希望だった。

 道路の真ん中を車と並走するように走る電車。それは私にとっては見慣れた景色だが、県民以外には珍しいらしい。隣に座る華さんは、しきりに声を上げている。こんな、熊本の見慣れた景色も、今だけは少しだけ違って見えた。

 旅人の華が、私にも新しい発見をさせてくれているのかも知れない。

 電車は大江本町を抜けて、九品寺へ。そして、ゆっくりと白川の上を渡る。

 窓から見える広い川は、とても穏やかに流れていた。水面には、水鳥の姿もあった。薄いガラスのようになったその上を、滑るように泳いでいる。

「みほさん。この川は?」

「白川、っていうんだ。たまに、氾濫しちゃうんだよ」

 やがて、電車は国道3号線を越えて街に入った。この辺りからが、熊本市の中心部だ。大きなビルの数が途端に増える。前方には、熊本城も見えてくる。

 熊本県民は、この辺りのことを〝街〟と呼ぶ。

 水道町の電停を乗り過ごして、もう一つ先の通町筋電停へ。やがて、電車が止まる。人が出口に向かって動き出す。

「華さん。ここ」

「はい」

 私はICカードを使って降りた。華さんは、小銭をじゃらじゃらと料金箱へ流し込む。

この電停は、車道の真ん中にある。陸の孤島のような状態だ。目と鼻の先を車が走り抜けていく。電車のタラップから注意深く降りる華さんの姿が、なんとなく微笑ましい。

 この陸の孤島では、もちろん信号が変わらないと動くことはできない。丁度、車道の信号は青だ。

 私は、大きく口を開けるアーケードの入り口をさして言った。

「あっちが、上通り」

 そして、反対方向をさす。

「こっちが、下通り。で、あれが……」

「熊本城、ですね」

 と、華さんが言った。その視線の先には、城の本丸が顔をのぞかせている。

「行ってみたいです」

 華さんは、そう言って目を細めていた。

 

 

 そこから、色々な所を回った。

 まずは、タイピーエン発祥の店らしい紅蘭亭で腹ごしらえだ。

 華さんは、もちろんおかわりをする――大盛りで。そのオーダーに、店員が一瞬顔を引きつらせたお陰で、私は笑いを必死に堪えなければいけなかった。

 お腹も膨れた所で、熊本城へ向かう。

 二人して、県立劇場の前の加藤清正像になんとなく一礼。そのまま、入り口を目指して坂を登る。途中、両端に植えられた桜の枝には、蕾が芽吹いていた。もう少し暖かくなれば、この坂も桃色に飾られるのだろう。

 坂を登り切ると、本丸への入り口が見えてくる。ここで、料金を払って入場するのだ。

 しかし、財布を取り出そうとした私を、華さんが止めた。

「みほさん、ここは私が」

「えっ? 悪いよ。華さん、お客さんだし」

「いえ、私のワガママに付き合って貰ってますから。これくらいは……」

 その口ぶりから、華さんの意思は固いことがうかがえた。

 ここは、一旦甘えておこう。

「ありがとう。華さん」

「こちらこそ、です」

 

 地震で被害があった部分も、今ではほとんど修復されていた。

 ブルーシートだらけで痛々しい姿だった――と、言っても今では誰も信じないかもしれない。

「すごい石垣ですね」

 と、華が見上げながら言った。

 私は、同じように見上げながら答える。

「武者返し、っていうんだよ。上に行くほど傾斜がきつくて登れない……お侍さんも帰っちゃうから、武者返し」

 私の説明に、華は「へぇ……」と息をもらした。

 二人の後ろを、観光客の団体が通り過ぎて行く。

 日本語が聞こえなかったので、多分外国の人。平日の昼間でも、アジアからの観光客は多い。彼らの後ろ姿を見ながら、華さんが口を開く。

「外国の方、やっぱり多いんですね」

「うん。最近は特に凄いかな」

「なんか、おトクな気分です」

「なんで?」

 私は首をひねった。

「韓国旅行も同時進行しているみたいで」

 と、華さん。

 私は、肩を揺らす。

「その考えはなかったなぁ」

「今度は私、もっと遠くへ行ってみたいです」

「茨城から熊本でも、十分遠いよ」

 と、私は笑う。

 不意に吹いた風に、砂埃が巻き上がった。

 私は、目をつむる。

 風に紛れて、華さんの声がする。

「そうですね。十分に、遠い……」

 呟くような声だった。

 

 熊本城のふもと。

 観光施設でお土産のコーナーを二人で物色しているうちに、気がつくと夕方の6時を回っていた。ちらりと見た右腕の時計が、夕陽を反射してピンク・ゴールドに光る。

 季節が春めくにつれ、日は長くなった。

 が、流石にあたりは暗くなりはじめている。

「もう、こんな時間だね」

「本当ですね。全然気がつきませんでした」

 窓からは、ライトアップされた熊本城が見えた。夕暮れに、堂々とその姿を映している。

 しばらく、二人でそれを見つめていた。

「じゃあ、夕ご飯にしよっか」

「はい。私も、ちょうどお腹空いてきました」

 と、華がお腹をさすりながら言った。

「あんなに試食してたのに?」

「みほさんだって……それに、ご飯と試食は別腹です」

 そう言って、華さんは頬を膨らませる。

 意地汚さを押し付け合うようなやり取りに、私たちは顔を見合わせて笑った。

 地平線に、夕日が沈んでいく……。

 

 

 その30分後、私たちは銀座通りにいた。

 下通りと交わる部分から数百メートルに渡りアーケードを作っている、大部分が歓楽街の賑やかな通りだ。その一角。菅乃屋という郷土料理店で、馬刺しに舌鼓を打っている。

「初めて食べましたけど、これ、本当に美味しいです」

 と、華さんが言った。

 頬が落ちそうなのを押さえるかのように、左手は頬に添えられている。

「でしょ。ひともじぐるぐるとか、辛子レンコンとかあるけど……正直、あんまり私は好きじゃないから」

「そうなんですか?名物だ、って聞いていたので、てっきり普段からよく食べられてるんだとばかり」

 私は首を振る。

「ううん。めったに食べないよ。私なんて、最後に食べたの10年以上前だもん。しかも、一回きり。お母さんに、『みほ、食べなさい』って。今の高校生とかだと、知らない子もいるんじゃないかな」

 私は続ける。

「でも、やっぱり馬刺しだけは鉄板」

 というと、華さんはとても驚いたようだった。

 でも、これが本当なのだ。

 正直なところ、ひともじぐるぐるなんて観光客におススメ出来るか? と聞かれると、私でも首をひねってしまう。

「お姉ちゃんも、あんまり好きじゃないって言ってたなぁ」

「まほさん、ですか?」

「うん。ちょっと甘酸っぱい草の味って」

 言いながら、私は眉間にシワを寄せる。それは、仏頂面をした姉のモノマネだった。

 料理がおいしいと、会話も弾むがお酒も進む。特に、華さんは相当イケる口らしい。机の上の白岳のボトルは、もうすっかり軽くなっていた。

「もう、帰りたくなくなってきちゃいました」

 華さんが、ポツリと言った。

 手にはグラスが握られている。

 頬は、アルコールにほんのりと染まっていた。

 私は笑う。

「元気に家に帰るまでが、旅行だよ」

「そう、ですね……」

 そう答える華さんの視線は遠い。

 口に当てられたグラスの傾斜がきつくなる。

 イケる口と言うよりも、ザルに近いのかもしれない。あまり強くない私からすると、少しうらやましい。

 ふと、ポケットの中で携帯が震えていることに気が付いた。途切れることのない、長い振動。電話だ。私は「ごめん、電話だ」と言って席を立つ。

 誰だろう、なんて思いながら携帯を取り出す。すると、画面には「沙織さん」の文字。

 一体どうしたのだろうか。急な用事でないなら、連絡用のSNSでもいいはずだ。あんこうチームの5人で作っているグループだって、ある。

 私は首をかしげながら通話のボタンを押した。携帯を耳に当てる――

「もしも――」

「みぽりん!」

 ――と、同時に叫び声が聞こえた。思わず、携帯を耳から離す。

 私は、もう一度携帯を耳にやった。

「もしもし?沙織さん?」

「みぽりん!居なくなって!華が!あのね!大変なの!居なくなって!」

「さ、沙織さん。落ち着いて……」

 電話口で、沙織さんが早口でまくし立てる。

 話がブツ切りになっているせいで、どうも要領を得ない。

 いない?華さんが?どういうことなのだろうか。

 やがて、電話の向こうが静かになった。ごそごそと雑音が聞こえる。どうやら、誰かが沙織さんから携帯を奪い取ったらしい。すると、打って変わって落ち着いた声が聞こえてきた。

「もしもし、西住さん?すまない。沙織の奴、パニクってて」

「まこさん……?」

 声の主は、まこさんだった。沙織さんとは打って変わって、冷静な声色だ。

 だが、同時に深刻さも感じる。そんな声。後ろでは、相変わらず沙織さんが叫んでいるのが聞こえる。ずるずると、鼻をすする音もする。

 通話口を押さえて喋ったのだろう。まこさんが「さおり。ちょっと黙ってろ」と言ったのが小さく聞こえた。

 私は聞いた。

「どうしたの?すごく久しぶりだけど……」

「ああ、久しぶり。ほんとはゆっくり話したいんだけど、ちょっと問題が起きちゃってな」

 まこさんは〝問題〟と言った。さっき沙織さんが叫んでいたことと、なにか関係があるのだろうか。

「問題?」

 と、私は聞いた。

「ああ……」

 と、まこさんが答える。

 なにかを言いよどんでいるらしい。少し間をおいて、耳を疑うようなセリフが聞こえた。

「五十鈴さんが、行方不明なんだ」

 

 

 電話で聞いた内容はこうだ。

 華さんが、突然姿を消したこと。その足取りも掴めないこと。華さんのお母さんが警察に失踪届けを出そうとしている、ということ。それに、沙織さんもまこさんもとても心配している、ということ――

「もし何か分かったら連絡して欲しい。みんな、心配してるから。……沙織、泣くな。 じゃあ、西住さん、また」

「うん。また……」

 そうして、電話を切る。

 電話の向こうでは、沙織さんが最後まで泣いていた。胸が、ちくりと痛んだ。

「今、熊本で一緒に馬刺しを食べてるよ」とは言えなかった。言えるはずも、ない。

 華さんは、そんな突飛なことをして周りを困らせるような人ではない。きっと、何か理由がある……。みんなに本当のことを話すのは、その理由を聞いてからでも遅くはない。 そう、思った。

 

 私は、元いた個室に戻った。

 扉を開ける。すると、卓上の皿はほとんど空になっていた。

「お待たせ。ごめんね。ちょっと長くなっちゃった」

「いいえ。お仕事のお電話ですか?もうすぐ、シーズン始まりますもんね」

 華さんは、手元のグラスを見つめていた。そのグラスも、もう空っぽだ。

 私は首を横に振る。

「ううん……」

 華さんは「じゃあ、だれ?」とは聞いて来なかった。

 私の様子が変わったことに、彼女も気がついたのだろう。どことなく重い沈黙が流れる。

 私は、一度奥歯を強く噛んで華さんを見る。

 目が、合う。

「華さん。お家、出てきちゃったの?」

 その言葉に、華さんは驚くでもなく――ただ、ゆっくりと息を吐いた。

「もしかして、とは思ったんですが……やっぱり、その電話でしたか」

「うん。沙織さんと、まこさん。沙織さん、泣いてた」

「そう、ですか……」

 溶けた氷が、グラスの中でくるりと踊った。

 からり、と音が響く。

「グルメツアーをしに来た、じゃ納得していただけませんよね」

 華さんは小さく笑った。

「なんでって聞いてもいい、かな」

 私がそう言うと、華さんは無言でうなずいた。

 それから彼女は、息を吸って、吐く。その間が、私にはずいぶん長く感じた。

外の通路では、ほかのお客が行き来している。その気配が消えた頃、華さんはようやく口を開いた。

「お見合いをするのが嫌で、逃げたんです」

 と、華さんは言った。そして「コドモみたい」とつぶやく。

 私は、黙ったまま聞いている。

「別に、結婚するのが嫌という訳ではないんです。私だって、五十鈴流華道家の端くれ。 それを次の世代に、とも思います。母の気持ちだって分かる。孫の顔を見たら、どんなに喜んでくれるだろうか、とも……」

 そこで華さんは言葉を切った。深く息を吐く。

「でも、もうウンザリしてしまって……。展覧会の度にとりあえず挨拶って、母が私の知らない誰かを連れてくる。すると、次の日にはその方の写真が家に送られてくる。それを断ると次の展覧会で五十鈴流の娘が、どこそこの方をフッたと、噂される。そして、また母が……。そんなのに、疲れてしまったんです」

「……」

 華さんは華道家の一人娘で、跡取りだ。彼女には、私の計り知れない苦労や心労があるのだろう。かける言葉が見つからなかった。ただ、俯くことしか……。

「でも、多分……嫌、というよりも怖いんです。本当に、この人でいいのだろうか。相手のお家とは、うまくやって行けるだろうか。幸せに、なれるんだろうか……そんなことばかり、考えてしまうんです」

「マリッジ・ブルー?」

「そうかも、しれないです。結婚が決まった訳でもないのに……ヘンですよね」

 そう言って華さんは微笑んだ。自分を嘲るような、そんな微笑みだった。

「なんで熊本に?」

 と、私は聞いた。

 少しだけ躊躇って、華さんが口を開く。

「みほさんがいたから、でしょうか」

 その回答に、驚きが「え」の音になって漏れた。

「結局、誰かに聞いて貰いたかったんですよ。学生の頃もそうでした。一人じゃ何もできない。一人じゃ何も決められない。皆さんに、ウチまで来て貰ったこともありましたね……。それに、みほさんも家元の方。私の話を分かってくれる、ヒドイ話だ、って言ってくれる。勝手に、そう思い込んでたんですよ」

 華さんは、グラスの中の氷を指先でくるりと回した。濡れた指先を、おしぼりで拭う。

「ほんと、バカみたいですよね」と、華さんは小さく笑った。

 

 

 会計を済ませて店を出る。

 華さんが腕の時計を見た。

 私もつられて時計に目をやる。時刻は、もう夜の9時近い。私たちはずいぶん長いこと話し込んでいたらしかった。

 通りには、人があふれていた。会社帰りの人から、酔っ払って千鳥足の人もいる。色んな人がいる。

 だけど、こんなに多くの人の中で、今の華さんと同じ境遇の人がいるだろうか……?

「本当に美味しかったです」

 と、華さんが言った。

 ――いや、きっと、いない。それは、私を含めて。

 このまま、解散してもいいのだろうか。私はなんの力にもなれていない。ここまできても、何の言葉も出てこない。

「華さん、私ね……!」

 喉を絞りに絞って、出てきたのがそれ。自分が情けなかった。

 言葉が、喉に詰まって息苦しい。なにかを言おうとして、口を閉じる。言おうとして、

閉じる。周りから見た私は、とても滑稽だっただろう。

「お魚みたいですよ」と、華さんが苦笑する。そして、続けた。

「今日は、ワガママに付き合わせてしまってごめんなさい。本当に楽しかった……。ワガママついでに、もう一ついいですか?」

 すると、華さんの姿がぐっと近くなる。そして、手を握られた。

 私の手よりも、ほんの少しだけ大きな華さんの手のひら。それが、私の手を包んでいた。

 無言のまま、ほんの一瞬だけ。やがて、手のひらから温もりが離れる。

「私、明日の朝一番で帰ります。みんなにきちんと謝って……それから、お母様と話しをします。沙織さんにはヤキを入れられてしまうかもですけど」

 彼女の手の感触を、私は覚えていた。アレは確か、私が大洗に越してきてすぐ。生徒会長室でのことだった。勇気を貰えたあの時の私のように、私も華さんになにかを上げることができただろうか。

「じゃあ、また」

「うん。気を付けて……」

「旅をするのには慣れてますから」

 しっかりとした口調だった。そして、別れる。

 去っていく彼女の背中を、私はぼんやりと眺めていた。

 暖かい風が一つ、前髪を揺らした。その風に乗って、花の香りがした。

 

 

華さんから連絡が来たのは、それからしばらく経ってからだった。

 

――――――――――――――――――――――――

 

先日は、お世話になりました。

やっぱり、大洗はまだ寒いです。熊本はとっても暖かかった……

あれから、みんなに頭を下げて回りました。

母にはとても叱られました。

沙織さんにはヤキを入れられることはありませんでしたが、何軒も付き合わされました。

あの時、熊本でみほさんに会って、話せて本当に良かったと思っています。

アーケードや熊本城の景色を時々思い出します。焼酎の味も、馬刺しの味も。

熊本にいたのは少しの間でしたが、一生忘れないと思います。

最後に、一つだけ謝らないといけません。

携帯、不良品と言いましたが、連絡が来るのがイヤで電源を切っていただけだったんです。

ほんとうに、ごめんなさい。

それでは、お体に気を付けて……。

 

五十鈴華

 

――――――――――――――――――――――――

 

 私は、その文面をべランダで読んだ。華さんらしい、丁寧な文章だと思った。

 目の前には、熊本の夜が広がっている。

 たまに街を歩くと、華さんと一緒に歩いたことを思い出す。

 ふと、あの時の花の香りがした……そんな気がすることがある。

 

fin

 


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