全作品にいえるのですが、〈〉くくりの曲名や、
カタカナの固有名詞などはググるともう少しだけ楽しんで読んでいただけるかもです。
ドラマチックな感じが、どうもうまく表現できませんね。
pixivにも掲載中です
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=9313685
観客のいないスタジアムに、規則的な靴音が響いていた。
今にも雪が舞い落ちて来そうな曇天の1月、初旬。低い雲に風は冷たく、あらゆる物に所かまわず突き刺さる。
だが、次に聞こえて来た声は、わびしく空を飛ぶカラスの鳴き声ではなく――寒さを吹き飛ばすような、熱のこもった声だった。
「次、ラスト一周!」
ぱん、と手のひらが弾ける。その音と声に足音の速度が増した。軽快で、〝飛ぶように駆ける〟という表現がぴったりな足音だ。
やがて、足音が止む。
足音の主がどさりとトラックに倒れ込んだ。そのまま仰向けに寝転がる。
「もう……動けませんわ……」
呻くような声。赤いジャージに包まれた胸が、遠目でも分かるくらいに激しく上下していた。
横浜市港北区にある横浜市国際競技場のトラックは、一周で400メートル。そこを最初から最後まで、変わらないペースで走り続ければ誰だってこうなるだろう。しかも、それを10周も20周もするとなれば、尚更だ。
「ほら、起きなさいローズヒップ。身体が冷えるわ」
「はいですの、アッサムさま……」
ローズヒップの返答は、息も絶え絶えだ。そんなローズヒップに、アッサムはタオルを差し出す。
ローズヒップは上体を起こした。「ありがとうございますですわ」と、タオルを受け取る。
もうしばらくすれば、WRTCのシーズンが始まる。それに、今回の第一戦の開催地は、なんと日本。願ってもない好条件だった。それだけに、練習にも熱が入る。
WRTCのドライバーは、戦車に乗ることだけが練習ではない。うだるような暑さや、身も凍るような寒さ。それに、耳をつんざくエンジン音。窮屈な車内に何時間も閉じ込められた極限状態で、冷静かつ的確な判断が求められる。こういった陸上でのトレーニングも欠かせないのだ。
ローズヒップの額には、玉のような汗が滲んでいる。それが、練習の激しさを物語っていた。
すると、タオルで顔を拭っていたローズヒップが突然顔を上げた。アッサムは首を傾げる。
「どうかしたの?ヒップ」
「いえ、アッサムさま、柔軟剤変えましたの?」
「あら、よく気が付いたわね」
「アッサムさまのことなら、なんでも分かりますことよ!」
「それは、喜んでもいいのかしら?」
「それはもう!」
そう言って笑顔を見せるローズヒップ。彼女には、いつも驚かされてばかりだ。感覚の鋭さは、本当に野生の動物を思わせる。前世はネコ科の猛獣かなにかだったのだろうか?
アッサムは、ローズヒップから受け取ったタオルを見つめながら、そう思った。
乾いていたタオルは汗をたっぷり吸いこんで、少しだけ湿っぽい。
「アッサムさま」
「今度は何? 洗剤までは変えてないわよ」
「いえ、そうじゃなくて。あれって……」
そう言って、ローズヒップは誰も居ないはずのスタンドを指さしている。その先には、真っ白なコートを着た人物が立って
いた。その人物には、たった一人だけ心当たりがあった。
「ダージリン……?」
アッサムが呟くのと、ローズヒップが駆け出していくのは、ほとんど同時だった。
◇
「久しぶりねアッサム。それに、ローズヒップ」
ダージリンは、真っ白な手袋を外しながらそう言った。純白のレザーには、汚れ一つ見えない。
ローズヒップはといえば「ダージリン様!」と、嬉しそうに飛び跳ねている。そうやってじゃれつく姿は、飼い主と再会した動物のようだ。さっきまでの疲れっぷりが嘘のよう。それほどまでにダージリンとの再会が嬉しいのだろう。
ローズヒップをなだめながら、アッサムは軽く頭を下げた。
「お久しぶりです、ダージリン。本当に、久しぶり」
「ええ。会えて嬉しいわ二人とも。元気そうでなにより」
2人きりだったスタジアムに、3人目の声がする。
さっきまで感じていた身を斬るような寒さ。それが、少しだけ和らいだのは気のせいだろうか。アッサムは小さく鼻から息を抜いた。
「貴女こそ。どこかで野垂れ死んでいないかと心配でしたよ」
「死にそうなほど忙しかったの。それに、まだ死ねないわよ。この子が表彰台の一番上でシャンパンの栓を抜くまではね」
ダージリンは、アッサムの方を見ずに答えた。片手では、ローズヒップの頭を撫でている。その表情には、どきりとするくらい優しい微笑みが浮かんでいた。すると、それまで黙って撫でられていたローズヒップが口を開く。
「ダージリンさま! 何日かお暇ですの? 私、ダージリンさまと沢山お喋りしたいですわ!」
その言葉に、ぴたりとダージリンの動きが止まった。ゆっくりと手が下ろされる。
「私もよ、ヒップ。貴女の言う通り、沢山お喋りしたいわ。日が暮れて、夜が明けるまでね。でも、ごめんなさい。そんなに長くはいられないの」
表情を曇らせたダージリン。その言葉に、ローズヒップは「そうですの……」と、悲しそうな顔をする。ころころと変わる彼女の表情は万華鏡だ。
アッサムは溜息をはいた。
「もっとゆっくりできる時にいらしたらよかったのに。可哀想なローズヒップですこと」
そう言って腕を組む。
ダージリンは笑いながら答えた。
「人生は何事もなさぬにはあまりにも長いが、 何事かをなすにはあまりにも短い」
「ああ……ここに、ペコがいないのが悔やまれます。電話をしたら来てくれるかしら」
「私を腫物扱いするのは貴女くらいよ、アッサム。ペコをフード・デリバリー扱いするのも」
「腫物どころか爆発物です。彼女は、優秀な処理班ですから」
そう言って、アッサムは再びため息をはいた。さきほどのため息よりも、2段階は深い。
ローズヒップは、二人のやりとりを不思議そうな顔をして聞いている。
可笑しそうに笑っているダージリンに向かって、アッサムは続けた。
「では、私も同じ言葉を借りますが……貴女は、今日ここに〝何事かをなしに〟いらしたのですか?」
じろりとした視線をダージリンに向ける。
今まで音沙汰のなかったダージリンが、わざわざ姿を現した――。ということは、何か目的があるのだろう。ただの暇つぶしではないことは間違いない。練習を冷やかしに来るような人でもない。けれど、その目的が何かまでは分からない。
ダージリンがゆっくりと口を開く。
「同級生と、昔話をしにきた……では、理由にならないかしら?」
首を捻っているアッサムに、わざとらしいウインクが投げつけられた。
◇
ダージリンはぐるりと首を回して、店内を見渡す。
「素敵なお店」
アッサムは得意げに答える。
「私のとっておきですから」
「そう言われると勘ぐってしまうわね。誰か〝素敵なヒト〟と?」
「下衆の勘繰りって、そういうのを指すんでしょうね。〝もし本当にそうであれば〟絶対に貴方を連れて来たりはしませんよ、ダージリン」
2人がいるのは関内駅からほど近い、老舗のジャズ・バー。
平日ではあるが横浜の人気店だ、流石に貸し切りというわけにはいかない。店内にはそこそこの数のお客が入っていた。テーブル席が取れなかったので、座っているのはカウンターの席。
「いけずね」と唇を尖らせたダージリン。彼女を横目に、アッサムは演奏されている音楽に耳を傾けた。ジャズ・アレンジをされたE・クラプトンの〈Layla〉が、低く静かに流れている。どうやら、メドレーで演奏をしているようだ。
アッサムが口を開いた。疑問を解消したかった。
「それで、今日は何の用ですか? まさか、本当に昔話をしに来たワケじゃないのでしょう?」
「どうしてそう思うの?」
「私も貴女も、昔話で酔えるほど年をとっていないから」
そう言って、アッサムはグラスを傾ける。
「真理に年齢はない、わ。アッサム」
「ロダン……ですか?」
ダージリンはゆっくりとうなづいた。
グラスを置いたアッサムと入れ違うように、ダージリンがグラスを手に取った。それには、真っ赤に燃える夕焼けのような色をしたカクテルが注がれている。
「アッサム」
「なんでしょう」
「キレイな色だと思わない?」
ゆったりとダージリンの手の中で回されたグラス。その水面の上を転がるようにして、スポット・ライトが赤く反射する。
本当に夕焼けのようだとアッサムは思った。
「ええ、きれいな色ですね。ヨコハマ……でしたか」
「そう、ヨコハマ。帰ってくると、いつも飲みたくなるわ」
「前言撤回します。今のは少しおばさん臭かったです」
ダージリンのじろりとした視線を感じて、アッサムは口元を隠してくすくすと笑う。
聞こえて来た「失礼しちゃうわ」と、咎めるような視線には素知らぬ顔で対処。肘で小突かれた分は、小突き返したのでおあいこだ。
おもむろに、ダージリンがチャームのドライ・フルーツを摘まみ上げた。
彼女の指先で、水分の抜けたレーズンは、皺が寄った黒真珠のようにも見える。
「ローズヒップの調子はどう?」
ぱくりとレーズンを口に運ぶダージリン。アッサムもそれに習う。
奥歯で噛み潰すと、わずかに残った酸っぱさと、ほどよい甘みが口の中に広がった。
「最高ですね。去年よりも、更にモチベーションも高い。まぁ……あの子のモチベーションが低かったことはないんですが……。とにかく、今までで一番のベスト・コンディションですね」
「そう。それは良かったわ。去年の最終戦、私も見ていてよ? もちろんテレビ放送で、だけれどね。あの子らしい走りだった」
「ええ……本当に……あの子らしい走りでした」
ダージリンの言葉を繰り返す。
訥々と語るダージリンの話は、今となっては少し懐かしくもある話だった
彼女は決して「惜しかった」とは言わない。勝負の世界に「惜しかった」なんて言葉が存在しないのを、ダージリンは良く知っているのだ。それを軽々しく口にするのは、お金で雇われた解説者か評論家気取りの〝自称〟業界人だけ。
2人の間に、すとんと無言が落ちた。
薄暗い店内と、眩しいスポット・ライト。その下で演奏しているのは3人。彼らの演奏は、かなりのレベルだった。目を閉じて聞き入っているお客もいる。しっとりと始まった〈Crossroads〉が、どこか遠くに聞こえた。
やがて、ダージリンがぽつりと口を開く。
「あの子の走りに、デジャヴを感じたわ。何故かしら」
ダージリンは、手元のカクテルグラスを見つめていた。
「起伏の激しいグラベルコースを物ともしない走り。それに、ここ一番でアツくなるクセ。〝誰かさんにそっくり〟だった」
覗き込むようなダージリンの視線。
大げさに息を吐いて見せる。
「なるほど。それが本題、ですか」
「そうよ? だから言ったじゃない。昔話をしにきた、って」
ダージリンは、ほほ笑む。
「私には、贔屓のドライバーがいたの。そのレーサーはあらゆるデータに裏打ちされた走りをしてた。精密機械……なんて呼ばれてたかしらね。デビュー戦で、いきなり表彰台に立ったときなんか飲んでいた紅茶を噴き出しそうになったのも、覚えてる」
彼女の目は、ここではないどこか遠くの日を見ていた。そして続ける。
「そして、そこからの快進撃はすごかった。本当にすごかった。国内のタイトルはほとんど総なめ。紅茶の園では、モンスターを栽培しているのか?って言われたこともあったわ」
「……」
「彼女も今のローズヒップと同じ、真っ赤なレース・ウェアが良く似合う人だったわ。そうね……」
そこでダージリンは言葉を切った。手元のグラスに視線を落とす。
「ちょうど、このヨコハマみたいな色の、真っ赤なレース・ウェア」
アッサムは、黙って聞きながらグラスに口を付けた。ショート・カクテルはもうぬるい。
「でも、彼女は華々しいデビューからしばらくしてドライバーを辞めてしまった。忘れもしないわね、サーキットを飛び出して、国内ラリーへの挑戦を表明したその年の第一戦。大変な注目度だった。そしてレースの当日、あの日の北海道は雨が降っていたわね」
いつの間にか〈Crossroads〉の演奏が終わりに近づいていた。
「朝から酷い豪雨だった。決行か、延期かで競技会が揉める中、赤いウェアの彼女は決行を支持。最終的にレースは予定通り開催された……そして……」
「国内ラリー史上最悪とも言われる大クラッシュが発生。死者が出る悲惨なレースとなった」
と、アッサムはさらりと言った。周到に用意していた言葉だった。
ぬるくなったカクテルを、ぐいと飲み干す。
空になったグラスを、力を込めて握る。
「本人も重症を負い、しばらくはベッドの上にはりつけ。その間、彼女はずっとこう考えていました。あのクラッシュの原因は自分にある、と。延期を支持していればこんなことにならなかった、と。そのまま、彼女は病院のベッドの上で引退を表明した」
アッサムは、目を閉じて上を向いた。
今となっては珍しい白熱電球の灯が、瞼を通して赤く光っている。
〝And I'm standing at the crossroads, believe I'm sinking down.〟
と、最後の一小節が歌いあげられた。店内では控えめな拍手が沸き上がる。その音が鳴りやむのを待って、アッサム。
「ひどく残酷な昔話です。グリム童話よりひどいかも」
今度はダージリンが黙る番だった。
アッサムの口調は飄々としていて――なのに、彼女の表情には深い後悔の色が痛々しいほど浮かんでいたからだ。
ダージリンは言葉を探す。その隣で、アッサムはバーテンに「おなじものを少し強めに」と言った。
◇
オーダーしたアルコールが届いた頃、アッサムは思い出したように懐に手を差し入れた。何かを探しているらしい。
やがて、手が止まった。お目当てのものを見つけ出したのだろう。ことりと、それがカウンターに置かれる。
「タバコ、吸っても?」
置かれたのはウィンストン・キャビンの5ミリ。ボックスだ。
少しだけ面食らって、ダージリン。
「構わないけれど、貴女吸うのね」
「こういう時だけです。ローズヒップには内緒ですよ」
かきん、と音がする。ライターはダンヒル。シルバーの本体に彫金が施された、シンプルなデザインだった。
ダージリンは首を傾げる。
ダンヒルと言えば、男性からの圧倒的支持を受けるブランドだ。それをまさか彼女が持っているなんて……。
「また渋いチョイスのライターね」
「〝ホンモノ〟は、天地がひっくり返っても〝ホンモノ〟ですよダージリン。男モノだからとか、女モノだからとか……そんなの、気にしていては息が詰まります」
「それは否定しないわ。でも、じゃあ、今日の貴女の下着はトランクスなのかしら?」
「まさか。見てみます?」
「それは勘弁願いたいわ」
そう言って、いかにもわざとらしくダージリンは顔をしかめた。再び、会話が途切れる。
やがて、アッサムが火を点けたタバコの灰の長さが小指の第一関節を超えたころ、ダージリンが口を開いた。
「単刀直入に言いましょう。アッサム、復帰する気はない? 今の私には、復帰した貴女を迎える十分な準備と、後ろ盾があるわ」
これまでにないハッキリとした口調だった。
アッサムがゆっくりと吐き出したウィンストン・キャビンの煙。人工的なバニラのフレーバーが、少し鼻をつく。
「それは、友人としての言葉? それとも、ファンとしての言葉? もしくは、ビジネスかしら」
「全部よ、アッサム。全部。友人としてもファンとしても、そしてビジネスとしても……私は貴女に復帰してほしいわ。一度の挫折がなに?確かに、あのクラッシュは元をたどれば貴女が原因かもしれない……でも、貴女は今こうして私の隣にいるじゃない。チャンスはいくらでもあるわ」
お互い、視線は交わさない。交わされないまま、会話は続く。
「確かにそうかも知れないけれど、もう私の両手はそれを掴むほどの握力がないんです。なんどか運転席に座って見たこともあった。でも、やっぱりダメ。そもそも、あの狭い車内が怖い。トラウマなんです。あの時のことを思い出して、子供みたいに眠れない夜もある。押しピンがいるんじゃないかってほど、手が震える時だってある。そういう時は、キッチンに逃げ込む。それから潰れるまで〝キツイの〟をやるんです。何杯も何杯も……誰もがジェームス・ハントになれるとは限らないんですよ、ダージリン」
アッサムは、手元の灰皿でタバコをもみ消す。
かろうじて上がっていた糸のように細い煙。それは溜息でかき消され、やがてゆっくりと見えなくなった。
「あの子は……ヒップは私とは違います。違うんですよ、何もかも。学生の時から才能はあった。眩しくて嫉妬してしまうような才能が。興味本位で運転席に座らせてみたことがあったんです。簡単なコースでね。1周目は慣れない操作に戸惑って勿論がたがたのレコード。2周目はアクセルの踏みすぎでコースアウト連発。でも3周目にはもうコースレコードに近いタイムを出していた……。彼女は誰もがブレーキを踏むところで、躊躇いなくアクセルを踏み込むことが出来る。ヒップには、感覚以上に〝勇気〟っていう才能があった。私にはこれっぽっちもないモノ。ホンモノですよ。まったく、ほんとうに恐ろしい話だわ」
全てを聞いた話のように語るアッサムの複雑な表情は、ダージリンにそれ以上の追及を許さなかった。捩じって捻ってこねくり回した、繊細なガラス細工のような笑顔だった。
アッサムは首を振る。
「でも、まだ世界に私のファンがいただけでもうれしいわ。ここに貴方と私の二人きりなら踊り出してしまいそうなくらい……」
◇
「ご足労かけたのに申し訳ありませんでした、ダージリン。貴女を手ぶらで帰らせる日が来るなんて」
店を出ると、いよいよ雪が降りそうな天気になっていた。そんな予感に、2人して上を見上げる。
だけど、夜空を覆う雲からは、なんの感情も読み取れなかった。
上を向いたまま、
「いいのよ」
と、ダージリンが言った。
「同級生と昔話ができた、それだけで十分すぎるお土産だわ」
「それはよかった」
「ありあけハーバーの数倍の値打ちはあったわ」
アッサムは肩をすくめる。
その姿に、ダージリンは小さく笑った。
◇
「じゃあ、明日も練習があるのでそろそろ……。寝坊なんてしたら、ローズヒップになんて言われるか」
と、アッサムが腕時計を見ながら言った。
時刻は、夜の11時になろうかという所だ。アッサムの言葉に、ダージリンがうなづく。
「そうね、私もホテルに戻らないと。まだ仕事が残ってるの」
「では、また」
「ええ、また」
ダージリンは、右手を差し出そうとして――やめた。頭を下げるアッサムに向けて、小さく手を振る。
アッサムがくるりと背中を向けた。歩いていくのは駅の方角だ。
店の中ではまだ演奏が続いている。音楽が漏れ聞こえてくる。
さっきの言葉は本心だった。
久しぶりに帰省して、古い友人と昔話ができた。これだけで、値千金だ。アッサムの気持ちだって知ることができた。それに、妙な確信もある。
今年、きっとローズヒップは表彰台の一番上に昇るだろう。そして、その隣で笑っているのは間違いなく彼女――アッサムだ。ヨコハマに似た、真っ赤なレース・ウェアに抱きついて、それこそ夕日のように目を泣きはらして……。
ダージリンは口に手を当てて声を上げた。
「アッサム!」
もう豆粒のようになっていたアッサムが、はたを脚を止めた。
けれど、彼女は振り向きはしなかった。構わず、叫ぶ。
「自分の人生は、自分にしか作ることができない!」
いつぶりにこんな大声を上げただろうか。わずかに上がった息が、白く夜空に消えていく。
アッサムの姿は遠い。
右手を挙げた彼女の姿は、頬を掻いたようにも目を拭ったようにも見えた。
しかし、ダージリンにはそれを確認するすべはなかった。
また、歩き出したアッサム。あっという間に小さくなっていくその背中は、大きな傷と大きな覚悟を刻み込んだ背中だった。
「タバコ、ヒップはきっと気づいてるわよ」
ぽつりとつぶやいたダージリン。
アルトサックスが〈Change The World〉を奏でているのが聞こえた。
fin