お付き合いいただければ、と思います。
あれ?この戦車って、もしかして……
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「きたぞー」
肩に薄く乗った雪の欠片を軽く払いながら呼びかけてみる。
静かな整備場の中で、返答はなかった。
代わりに、ギア・レンチがカリカリと鳴く音が聞こえる。暫くすると、車体の下から低床クリーパーに背中を預けたナカジマが顔を出した。その顔は油で真っ黒だ。
「お、誰かと思えばホシノじゃんか」
「こんな所。他に誰かくるとでも?」
「確かにそうだ」
ナカジマは身体を起こし、つなぎの袖で顔を拭う。付いていた油は塗り広げられてしまい、逆効果だったようにも見えた。
「お疲れさま。はい、差し入れね」
「ありがと」
私はナカジマに向かって缶を投げる。ゆるい放物線を描いてナカジマの手に収まったのは、缶コーヒーのホット。彼女が好きな銘柄だ。
自分用のコーヒーに口を付けながら私は指さす。
「コレは?」
威圧感のある鉄の巨体からは長い砲身が伸び、左右には二つの履帯を備えている。それは、戦車だ。しかも、コメット巡航戦車。学生時代には実物を見たことすらなかった、イギリス製の傑作戦車である。それが、薄暗い整備場に堂々と鎮座していた。
「あー……なんか、飛び込みでね。もっと大きい所がありますよ、って言ったんだけど。『ここがいい』んだってサ。前金まで貰っちゃったよ」
「ふうん」
腕が鳴るよ、とナカジマは肩を回して見せた。普段はもっと小さな豆戦車や、それこそ2輪や4輪の整備ばかりしている彼女からすれば、確かにこれは大仕事だろう。
締め切られた整備場には、石油ストーブが一つだけだ。外は、クリスマスから降り続いた雪で、積雪が既に10センチはある。私だって、寒さのせいで鼻が痛い。
だけど、ナカジマの首筋には汗の球が浮かんでいる。それからも、彼女がこの仕事に熱中していることがうかがえた。
高校を出た彼女は、専門学校に進んだ。更に専門的な整備の知識を蓄え、技術を磨くために。この整備場は、元々個人で整備工をやっていた彼女の親の工場だった場所。
彼女の親父さんは、もう隠居してしまっている。そんな親父さんに、ナカジマが頼み込んで自分の名義にして貰っているのだ。カエルの子はカエルだって言われたよ、とナカジマは笑っていたのを覚えている。それから私は、暇があれば茨城から車を飛ばしてここを訪れるようになっていた。それは、私の密かな楽しみだった。
私は、コーヒーを一口すすった。
「ナカジマ、楽しそうだね」
「そりゃあそうだよ。きっと、このコは戦車道……やるはずなんだ」
「どうして、分かるの?」
ナカジマは汚れた手袋を外して、車体に手を置いた。目を閉じる。
――戦車と会話をしている。そんな光景だった。
「んー……勘、かな?」
そう言って、彼女は目を細めた。
缶コーヒーが開けられる音がする。ナカジマは缶に口を付けた。風呂上がりに牛乳を呑むような、豪快な飲み方だった。
二人で、オイル缶に腰かける。その上に敷いた段ボールは、TEINの車高調が入っていた段ボールだ。いつ頃だったか、地元の後輩のセダンに取りつけたモノらしい。
前に置かれた石油ストーブに手をかざすと、ほんのりと温かかった。今年の冬は特に寒い。来年は春の訪れも、少し遅れてやってきそうだ。私の車のスタッド・レスも、今年はフル稼働ということになるだろう。
「ホシノの方はどう?」
しばらくじっとしていて、身体が冷えて来たのだろう。手を擦りながらナカジマは言った。
「どうって?」
「調子、とか?」
「ぼちぼちかな。こないだ、新車のテストドライブさせて貰ったよ。コースをぶっとばすの、楽しかったな……」
そう言って、私はハンドルを握るふりをして見せる。口では、エンジン音のマネ。
あの経験は、今思い出しても鳥肌が立つようだった。工場からリフト・オフされたばかり。ダズル・カモフラージュが施された車体は、混じりっけなしの新車だ。そのテスト・ドライブ。
踏み込んだアクセルに呼応して唸りを上げるエンジン。タイヤを通して伝わってくる硬い路面の感触。それらは、私が憧れていた全てのことだった。心残りがあるとすれば、2ドアのスポーツ・カーではなく、4ドアのセダンだったこと位……
「へぇ、いいなぁ。最近忙しくって、ドライブにも行けてないよ」
ナカジマが唇を尖らせた。私は、彼女を覗き込むように言う。
「助手席、空けとくよ?」
「何言ってんだか……ホシノ、恋人は?」
「……クルマ!!」
「言うと思った」
私たちは顔を見合わせて、拳を合わせた。
「ま、今日はこんなもんかな」
ナカジマがスパナを作業台に置いた。かしゃん、と音がする。鋼にモリブデンが加えらえたそのスパナは、彼女が父親から譲り受けた特注のモノらしい。ここには、それがあらゆる大きさで一式揃っている。改めて買おうとすればいくらかかるのか、私には見当も付かない。
黄色い電灯を跳ね返して、手入れの行き届いた銀色の工具たちは鈍く輝いていた。
既に日付は変わっている。
だというのに、ナカジマの顔には疲れの色一つ見えない。戦車に触れる時間――それは彼女にとって、とても幸せなことなのだろう。
「流石だわ、ナカジマ」
「でっしょ?」
自慢げに胸を張るナカジマ。私は、短く息を吐いた。高校時代から変わっていない〝そのサイズ〟と、彼女の仕事っぷりに、である。
ナカジマは思い出したように口を開いた。
「あ、なんか飲む?」
「お、イイね。貰おうかな」
「ん」
小さく頷いて、ナカジマは片隅に置いてある冷蔵庫に近づいた。中から取り出したのは、発泡酒だ。どうやら、これで今日の疲れを癒してしまおう――と、言うことらしい。
「乾杯」
片手に発泡酒の缶を持った私たちは、どちらともなくそう言った。
気温のせいもあるのだろう。喉から食道を落ちていく炭酸は、氷のように冷たい。その刺激のせいで、目じりに涙が浮かぶ。
そこで、壁に貼ってある一枚のポスターが私の目に飛び込んで来た。それは、あるプロ戦車道チームのポスターだった。大仰なキャッチ・コピーと共に、選手たちが腕を組んで整列している。シンプルなデザインだ。
私の視線に、ナカジマも気が付いたらしい。
「アレ、いいでしょ?」
「うん。カッコいい」
私は、頷いて答えた。
戦車道に本気で取り組んだ時期があったからこそ、私はポスターに映る選手たちのことを本気でカッコいいと思ったのだ。その言葉に、少しも嘘はない。
「本当に、カッコいいよねぇ」
ナカジマは噛み締めるように言った。
ぐい、と缶を傾ける彼女の横顔を私は見る。その表情には、何とも言えない憧れが滲んでいた。あるいは、悔しさだったのかも知れない。
「ナカジマさ〝アレ〟ってまだ本気なの?」
「〝アレ?〟ああ――勿論本気だよ。ここで、こうしてるのはそのための第一歩。あのランボルギーニだって、最初は小さなショップから始まったんだ。〝やれないことはない〟よ。いつか、絶対ね」
そこまで言って、ナカジマは頭を掻いた。少しだけ頬が赤い。
「うわ、青春しちゃった」
こちらを向いた彼女は、笑っていた。
悪戯がバレた少年のような顔だった。
「コレ、いつまでに仕上げるの?」
聞くと、ナカジマは壁に掛かったカレンダーを見ながら答えた。
「えーとね、3月末までには絶対にってさ」
「え。もう時間ないじゃない。一人で間に合うの?」
「まぁ、何とかなるよ。それに今更、出来ないなんて言いたくないしね」
ナカジマは拳を握ってそう言った。力強い答えだった。
私は、彼女の姿に喉元まで出かかった『手伝うよ』の一言を飲み込む。その言葉は、今の彼女にかけるには余りにも無粋だ。
「そっか」
彼女の頼もしい姿に、自然と目じりが下がる。
「試運転の際には、是非ご用命を」
「それ目的?」
「私だって久しぶりに戦車乗りたいし」
「はいはい。ホシノには黙って、こっそり納車しちゃおうかな」
「それやったらもう絶交だからね」
「小学生?」
吹き出すナカジマの脇を私は小突く。そして、もう一度戦車を見上げた。
このコメット巡航戦車は、いざ戦場に出れば大活躍をしてくれるに違いない。
だって、このナカジマが手掛けるマシンなのだ。そこで、整備が好評で話題になる。その手腕が口コミで広がる。たくさんの仕事が来る。そして……
――もし、本当にそうなれば、彼女は〝第二のフェルッチオ・ランボルギーニ〟だ。
いや、きっとそうなるだろう。
「あ、そうだ」
私は、あることを思いついて手を叩いた。
「なに?」
「秘密」
この戦車が仕上がったら、お祝いをしよう。納車と、ナカジマの夢の第一歩に。その時、何が飲みたい?と聞けば、きっと彼女はこう答えるはずだ。
冷蔵庫の発泡酒――ではなく。
――『スクリュー・ドライバー』と。