IS 速星の祈り   作:レインスカイ

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第87話 眩風 夜を越える

教職員用に割り振られた客室で、その者達は箸で多くの海鮮料理に頬を緩ませていた。

 

「う~ん、美味しい…」

 

「ええ、そうね…問題生徒の監視とカウンセリングのために同行させられたけれど、こんな美味しい料理を楽しめるなんてね…」

 

「学園で授業するよりもこちらに同行させてもらえたのは幸運だったかもしれないわね」

 

2年生、3年生のクラスを担当する教職員の一部達は、学園上層部の命令でこちらの臨海学校に出向くことになったが、その職務を全うしていた。

『二人の問題児を監視』『生徒達のメンタルカウンセリング』、この二つが彼女達の職務となっている。

 

監視対象は『篠ノ之 箒』『織斑 全輝』の二人。

一学期の間だけでも彼等は度重なる問題行動の頻発で、要警戒人物として周知されていた。

その二人の担任をしていた織斑千冬は、彼らの問題行動の解決には消極的で頼りにならず、とうとう解雇され、その損な役回りを今回は自分達が請け負う事になっていた。

 

また、先の新宿に於ける爆撃テロでは、未だに生存者報告がされておらず、学園生徒の身内もまた巻き込まれているであろう事も示唆され、メンタルカウンセリングも請け負う事になっていた。

家族を失い、または未だ生き埋めになっている可能性とて考慮されているが、その報告すらされておらず、副次的に起きた電波障害も含めて身内と連絡が取れない事で、生徒の中でも動揺が広がっていた。

その動揺を可能な限り納める、難しい仕事ではあったが、生徒たちのメンタルを考慮し、派遣されていた。

 

そんな難しい仕事を請け負う事になった彼女達だが、今だけは職務を忘れ、海鮮料理に舌鼓を打っていた。

 

「この多くの魚だけれど、3組のハース君が釣り上げたそうよ」

 

「本当に!?」

 

「ええ、釣り上げた魚の殆どをこの旅館に寄贈したそうなのよ」

 

「学園の中でも機械の修理を幅広く請け負ってくれていたのに、今度はこの旅館の為に働いただなんて…良い生徒ね…」

 

本人の預かり知らぬ所で、ウェイルの株は更に上昇していく。

その後もウェイルの話が続くが、その話は学年の溝を超えて浸透していく。

例外なく絶賛が語られるが、その話を耳にしても憎悪を滾らせる人物が居た。

 

監視対象、篠ノ之 箒だった。

 

「そうそう、ハース君が学園に持ち込んできたブーツ、『プロイエット』だけど、学園で正式に教材として使用することになったそうよ」

 

「ああ、その話は私も聞いています。

訓練機は常に不足していますし、その際にはISの速度に慣れていくために、ということらしいですね」

 

「何年かすれば、そのプロイエットも生徒全員に支給出来る日が来るかも、なんてね」

 

「ハース君は『釣りが出来ない』なんてのを言い訳みたいに言って、持ち込んだらしいけど、生徒みんなからは大人気ね」

 

その賞賛は終わる事は無かった。

憎悪している相手が釣り上げた魚を使っているというだけで、目の前に置かれている膳ですら憎しみで染まっていく。

 

「新しい風、変革、革新、そういうものを今後は彼は作り上げていくかもしれませんね」

 

ギリリ…

 

憎悪する対象が、自分の眼前で称えられ

 

「それに比べてこの問題児は…」

 

「何も考えずに暴力を振るう以外に何もしないケダモノだものね…」

 

「試験は赤点続き、何かしたとするなら例外なく問題行動に国際問題」

 

「篠ノ之博士の身内だからというだけで免罪され続けてるっていうんだからね…」

 

「それにあっちの問題児もそうよね、学園の品位を貶め続けるばかり、退学処分にすべきなのになんで上層部は…」

 

「あの人の身内だからってだけでしょ?

その箔以外に何も無いじゃない、それに縋っているだけの寄生虫よ」

 

自身と、敬愛している人物を罵倒され続けるその環境に憎悪を滾らせ続けていた。

ウェイル・ハースが憎い。

そのドス黒い思想だけで、目の前に用意された膳にすら苛立ちが募っていく。

その膳に用意された全ての料理にウェイルが釣り上げた魚がふんだんに使われており、これを食せば、憎い相手を認めてしまう気になってしまいそうで、箸を握る事すら出来なかった。

 

「放送設備の修理や、ソフトボール部のピッチャーマシンだって修理してくれてたわよ」

 

「この前は投影機に放送設備を…」

 

憎い相手が称えられ、自分達が貶められる。

そんな状態が続き、彼女の脳内は怒りと憎悪だけに染まっていく。

 

決して理解など出来なかった。

決して理解しようとしなかった。

 

『正義』である自分達が貶められ、『絶対悪』の筈のウェイル・ハースが称賛されるその理由が何もかも。

 

 

結局夕飯は一度も口をつけずに終わり、入浴に関しても教職員による監視が続き、就寝時間が訪れる。

布団に入り、憎悪を言葉にしていく。

 

「アイツが悪いんだ…!

アイツさえ居なければ…!アイツが…だったら…!

諸悪の根源は奴なんだ…だったらこれは正当な裁きだ…!

私の判断は間違っていない!

私は、常に正しいんだ…!」

 

木剣も真剣も没収されて久しい、だがその意地だけは健在であり、暴力を無作為に振るおうとする意志もまた健在だった。

 

「それに、明日は…!」

 

7月7日、彼女の誕生日。

であれば、姉である束が来てくれる、IS学園に自分が居る以上は、自身に相応しい力を与えてくれるのだと信じて疑わなかった。

そうすれば、その力を使ってウェイルを叩き潰そうと…技術者を目指す彼の道を断つために、腕を使えなくさせようと考えていた。

 

「私の判断は何も間違っていない、私の判断は常に正しいんだ…!

だからこれは正当な制裁だ…!」

 

狂信的な、そして傲慢なまでの正義感が、ただの一方的な言いがかりによって生じた憎悪と嫉妬であることなど彼女は一切理解していなかった。

 

「私が正義だ…!

許されざる大悪人が…!私が裁きを下してやる…!」

 

また認められなかった。

憎悪する相手が賞賛され、自分達が貶められる現実を。

だから、何もかもすべてを壊せば自身が正しいのだと思い込まなければ自分を保てない。

 

 

♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ 

 

 

「ふむ…まぁ、良いでしょう」

 

「やっと終わった…」

 

また別の一室ではもう一人の問題児である織斑全輝が疲労困憊になりながらのため息をついていた。

先の件により、自室謹慎の沙汰が下され、それと同時に毎日反省文を提出することも義務付けられていた。

幼馴染でもある箒も理不尽だと叫んでいたが、共に提出をすることになった。

その内容はともかくとして、毎日提出しなければならないその量の多さに辟易していた。

学園では懲罰房にて、その後は自室にてモニター越しに授業を受け、その傍らに反省文を書き上げ、授業が終わっても反省文提出の作成に時間を費やし続ける。

書いて終われば教職員を内線で呼び出し、食事の受け取りと引き換えに反省文を提出。

それだけで一日の時間の全てを消費し、就寝に至る。

それが毎日続いていた、だがそれはこの臨海学校でも然程変わっていなかった。

旅館の北側にある大部屋でクラスメイトと共に授業を受け、同時に反省文作成をしていた。

休憩時間はカリキュラム一つ毎に10分間用意されているが、その時間すら自由は与えられず、反省文作成にあてがわなくてはならなかった。

だが、それも簡単な話ではなかった。

 

「あの二人、なんで臨海学校にまでついてきてるの…?」

 

「謹慎処分を受けていたんだから、学園の自室に引きこもっていれば良いのに…」

 

「あの二人のせいで私達まで臨海学校に来てまで授業を宛がわれる羽目になってるのに、何を考えてるんだろ」

 

二人を非難する言葉が四方八方から突き刺さってくる、白い目を向けられ、視線による弾圧が常時襲ってくる。

隣に居る箒が暴れだしそうになるものの、監視をしてくる教職員がその都度過剰に反応する。

電気銃(フェイザー)を向けられれば、歯向かうことすらできなかった。

その癖、非難をしてくる生徒達には何も反応せず、鋭い視線をこちらに向けてくる。

箒が授業を受けている間に「理不尽だ」と言葉を零していたが、現状では何も出来ないのが現実だった。

いっそ白式を展開して逃げ出してしまおうかとも思ったが、謹慎前にインストールされたプログラムによって、任意の展開が不可能な状態にされてしまっている。

学生寮の自室からは解放されているが、閉塞された空間でのギスギスをした人間関係に悩まされ続けていた。

 

「では、明日からも通常授業を進める予定ですので、反省文提出を怠らないように」

 

千冬が学園から消え去り、担任をしている真耶からは視線も向けずに冷たい言葉を向けられる。

 

「判ってます…」

 

「言葉ではなく、行動で示してください」

 

言葉は冷たいだけでなく、刺々しい。

学園に編入して間もない頃に見せていたほんわかとした雰囲気などそこには無い。

向けられる言葉と視線は冷え切り、同一人物なのかと疑いたくもなる。

食事の時間も、自室でとる事になるが、そこでは並ぶ海鮮料理越しに、ウェイルを称賛する言葉が飛び交う。

用意された食事にすら憎しみが募るばかり。

これを食べれば、憎い男を認めるような気がして、箸を握る事すら出来なかった程だった。

 

「はぁ…」

 

食事後の入浴時間までは監視されずに済んでいるものの、その監視体制故に使用時間は短く設定されてしまっている。

ゆっくりと湯船に浸かる事も出来ず、体の芯まで温もる事も出来ぬままにあてがわれている監視カメラ付きの教職員用の一室に戻る事になり、反省文提出。

これで一日の全ての時間を使い切っていた。

就寝時間になり、布団に入るが眠気はそこまで強くならない。

向けられる冷たい言葉、突き刺さる冷たい視線、無関心ではないのかと思われる事務的な言葉、そしてウェイルへの称賛と、自身への侮蔑。

そういった類のもので精神的疲労で眠気が失われていく。

 

「こんな筈じゃなかったのに…なんでこんな事に…!」

 

身から出た錆、自業自得、因果応報。

そんな言葉は彼の頭に浮かぶ筈も無かった。

『自分は周囲の人間よりも優れている』、『誰からも認められる存在』。

その自尊心故に、自分の犯した非を認められずにいた。

 

自身が咎められるのはウェイル・ハースのせいだ。

自身が周囲から白い目を向けられるのはウェイル・ハースのせいだ。

自身の計画が破綻し続けるのもウェイル・ハースのせいだ。

自身が苦行を押し付けられるのもウェイル・ハースのせいだ。

 

誰からも畏敬されるべき自身が、今こうなっているのもウェイル・ハースのせいだ!

 

「アイツだ…アイツのせいで…!」

 

だからこそ、それらの全ての非と責を他人に押し付けようとする。

今までそうやっては人を切り捨てるようなことをしていたのだから、責任転嫁を繰り返す。

6年前まではそれをするには調度良いサンドバッグが身近に居て、ストレス解消にも間に合っていた。

その人物が居なくなって以降には、そのサンドバッグとして近隣の人間を利用した。

 

学園に編入してからも調度良いストレス解消用のサンドバッグを見つけた。

そう、思っていた。

干渉・接触禁止を言い渡され、行動が制限された。

だがそれでも彼をサンドバッグにしようと風評被害を与えようとしたが悉くが失敗に終わり、そんな自分が今では周囲の生徒から言葉を突き刺すための案山子にされる始末だった。

危害を加えようものなら必ず糾弾され、白い目を向けられる。

 

かつて、自らの弟にしてきた行動がそっくりそのまま自分に返ってきている。

そのような考えが思いつくことなど到底出来なかった、そして、認められなかった。

 

 

♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪

 

 

「いやぁ、凄かったなぁ」

 

大広間で行われたマグロの解体ショーには多くの生徒が見ている中で開催された。

俺とメルクと鈴とティナは最前列で見物させてもらった。

ヴェネツィアの港でも同様の催しがされたりしていたが、ここまで近くで見せてもらったことはなかったからなぁ。

 

「いつもは人がごった返して前では見られなかったですから…」

 

そこから解体された魚は、刺身にされたり、握り寿司、炙り寿司、ステーキ、鉄火巻きに鉄火丼など様々な料理に化けていった。

日本人の食へのこだわりをしっかりと見せてもらう事が出来てお腹も胸も一杯だ。

感謝状だとか金一封だとか旅行券を贈呈されるのは予想外にも程があるが、これは後々にイタリア本国の家族へ送ろうと決めた。

姉さんも喜んでくれるだろうな。

それと、切り身の一部は冷凍で空輸してもらう手筈にしてもらった。

こっちはこっちでシャイニィが喜んでくれるだろう。

 

「へぇ、じゃあ釣りは以前からの趣味だったのね…」

 

食事も入浴も終わっているので今は旅館の当てが割れた部屋に戻ってきていた。

小鳥型ロボットを諦め、ウミネコ型ロボットについて考えていたが、それも後回しにして、今日一日使い続けていた釣竿のメンテナンスに移る事にしていた。

こういう道具は日々の手入れでその耐久性を伸ばす事が出来るのだから手入れは手抜きをしてはならない。

…出番を与えたのは実に4か月ぶりだけどさ。

 

「ええ、地元にも釣りのスポットがあるので、週末には釣りをして過ごしていたんです。

釣りは良いですよぉ、心が落ち着きますから」

 

「アンタ、今日は絶叫してたわよね…」

 

右隣に座る鈴が変な合いの手を入れてくるが、あーあー聞こえナーイ。

左隣に座るメルクは苦笑いをしているが、どうやらしっかりと見ていたらしく、フォローを入れてくれる事は無かった。

ちょっと傷つく。

 

「それに皆の分の釣り竿も学園の廃材で作り上げるほどなんだから、釣りマニアもいいところよね…」

 

そう言って返すのは、ティエル先生の隣に座っているティナだった。

鈴とティナは部屋が別の筈なのだが、食事が終わってからもこの部屋に当然のごとく居座っていた。

ティエル先生がそれについて指摘しないのなら、俺から言う事も無いけどさ。

 

「でも、そんなお兄さんと一緒に釣りをする仲の良い人も沢山居るんですよ!」

 

「年上…年代的にはオッサンばっかりなんだけどな。

ああ、でも…写真が今は一枚も持ってきてなかったな」

 

「あらあら、その内に見せてほしいわね」

 

今度の期末試験が終わったら各自帰省を言い渡されているし、休校が終わり次第、その時には写真を実家から持ってくるとしよう。

自宅から持ってきさえすれば。皆にも見せる事が出来るだろうからな。

あ、でも姉さんが一緒に写っている写真は避けておかないといけない、姉さんの存在が判ってしまったら面倒なことにもなるとは言われていたし。

 

「誕生日プレゼントにはそんな人たちから海釣り用の極太ロッドとか貰っていたんだよなぁ…」

 

「その極太ロッドをもらって大はしゃぎしてましたよね」

 

「目に浮かぶわぁ…」

 

あの頃の俺は、な…。

 

「釣り人として生計を立てようなんて考えていた頃もあったよ。

だけど、メルクの目標だとかを知ったら、俺はそちら側を優先することにしたんだよ。

だから今は本職は技術者兼テスター、釣りは趣味って感じだな」

 

今でこそFIATではアルバイトの扱いだからな。

この学園を卒業し、大学にも入って勉強し、それから就職へ至るつもりではある。

とはいえ、このISの時代もいつまで続くかは判らないから、次の事業もそのうちに企業が考えていくのだろう。

その内に国境を超え、地図にも残るような事業へ至ったりして…まさかな。

 

「ウェイルは卒業したらどうするつもりなの?」

 

「大学に入って勉強、だな。

どこまでついていけるかはわからないけど、メルクを支えていくにも知識はあって困るような事じゃないさ。

大学も出たら、それから就職だな、国家資格を獲得した技術者になって今後のモンド・グロッソでメルクを専属技師として陰からしっかりとサポートしないとな」

 

そう、それが俺の今の目標だ。

いつまでもビーバット博士に頼りっきりじゃ駄目だからな。

しっかりとした技術者にならないと。

 

 

♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪

 

 

ウェイルはハッキリとした目標を私に聞かせてくれた。

これには私も改めて驚かされた。

それでいてどこか悔しいとすら思える。

 

私は一夏を見つけることを第一目標にして、この6年間を全て費やした。

他の目標なんてそんなに見つけられなかったというのもある。

叶うのなら、一夏を見つけ、昔のことなんて見向きすることが出来ないような、新しい未来を創ろうと決めていたから。

でも、それがどんな未来なのかはまだハッキリと見えてはいないのかもしれない、そう思ってしまう。

 

「どうしたのよ鈴?」

 

「ううん、なんでもない」

 

もしかしたら、もしかしたらウェイルは一夏かもしれない。

そう思ってずっと接していたけれど、今になってもその兆候が見え隠れし続けているけれど、確信にはどうしても至らない。

共通点が多少は在るけれど、今ではそれだけだものね。

 

もしも、私の予想が当たっていたら嬉しいとは思うけど、ウェイルにとってはこの学園に来てからの態度は初対面のそれだった。

 

もしも、私の予想が間違っていたら私の勘違いだったというだけであり、今後も友人としての付き合いをすればいいだけ。

調査は何もかもやり直しにはなるけど、ね。

 

「なにもかも遠いなぁ、なんて思っただけよ」

 

今度の夏休みにはウェイルはイタリアに帰るのだとも語ってみせていた。

そうなってしまったら、今以上に近づくのも難しいと思う。

欲を言えば、この一学期の期間で、私の予想が的中していたのか、的外れだったのかの確信を得ておきたい。

 

廊下から空を見上げれば、星が空を埋め尽くしている。

私の掲げる目標は、あの星の更に遠くに存在しているかもしれない。

でも、いつかは掴んでやる…!

 

「そういえば…一夏の家は不審火で燃え落ちたのよね…」

 

先日聞いた話を思い出す。

少なくとも、一夏を閉じ込めようとする場所は失われている、それも物理的に。

あの輝く牢獄が失われ、一夏の所有物も何もかも失われてしまっているだろうとは思う。

もとよりあの場所にはもう何も手掛かりらしきものは残っていないだろうから、私としてどうでもいい。

残されたものは、私の手元に存在している鞄一つだけ。

遺品ではなく、預かりものという扱いで手元に置き、使わせてもらっている。

これを返せる日は近いのだと思っていたけど、未だに先の見えない道の上に居るのかもしれない。

 

「まだまだ道半ば、か…」

 

この日の夜は、少しだけ涼やかな風が流れていた。

だけど、私はこの時にはまだ知らなかった。

地獄の門は、開け放たれたままだということを。

 

 

♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪

 

 

鈴さんが部屋を後にしてから、私は床に就いた。

この日本の旅館の部屋にはベッドは無く、草で編まれた床、鈴さんが言う『タタミ』の上に布団を敷き、それで眠るのだと教わりました。

イタリアの実家とも、学園の部屋とも違う風習に少しだけ違和感を感じつつも、眠りについた。

深夜、少しだけ眠気が弱くなっては目が覚める。

 

「お兄さんの様子は…」

 

イタリアに居た頃から、夢見が悪くなってお兄さんは魘される事が時折見受けられ、お姉さんや両親も夜な夜な様子を見に来ることがあった。

私も気になっていましたが、両親達とは違って夜中に眠気がなくなるという経験が多くなく、こうやって様子を見る機会はとても少ない。

 

「…良かった…」

 

今は静かに眠っている。

夢見が悪い時には、夥しい汗を流しながら、苦しむような表情を見せることもあったから、私としては何もできない自分がもどかしかった。

無理してまで起こしても、お兄さんは夢の内容を殆ど覚えていないことが大半で、その苦しみを取り除く事も出来なかった。

記憶を失い、『ウェイル・ハース』として生きている今でも、『織斑 一夏(イチカ オリムラ)』として生きていた頃の記憶に苦しめられているのかもしれないと、お姉さんは語っていた。

 

今の私達に出来るのは、苦しみを少しでも取り除くことだから…。

どうか、穏やかな日々が来てくれることを…

 

「おやすみなさい、お兄さん」

 

その為にも、私はお兄さんの隣で眠りに就いた。

 

 

 

翌朝、目が覚めると鈴さんが額に青筋を浮かべながら笑顔を見せるという器用なことをしているのが見え、一気に眠気が覚めた。

 

「メ~ル~ク~?

アンタ、そんなところで何やってんのかしらぁ~?」

 

「えっと…どうしました?」

 

何か怒っているようですけど、私には何も思いつく事が見当たらないです…。

 

「お兄さんがまだ寝てますから、静かにしてください」

 

「はいはい鈴、ちょっとは落ち着きなさいって、そう尻尾を太くしてたらマトモに話なんて出来ないでしょうに」

 

「そこ!私を猫扱いしない!」

 

だから少しは静かにしてください。

この状態の鈴さんをおとなしくさせるのに30秒程要することになりました。

その間にティエル先生も起床し、少しだけ騒がしくなりました。

それでもお兄さんは起きず、静かに眠っていたのは…驚きですけど…。

 

お兄さんの眠りを妨げるわけにもいかず、旅館の食堂へと移り、話の続きをすことになり…

 

「それで、話は大体理解したわ。

トーナメント戦で、ウェイルからは私と組むように要請されて、その代わりに添い寝をさせてほしい、と」

 

「はい、そうです」

 

「まさかトーナメントが終わってもその約束が有効だなんてね」

 

「期限を言っていませんでしたから!」

 

「へんな所で狡猾になってんじゃないわよアンタは!」

 

家族なんですから、添い寝をしても何も変じゃありませんよ、鈴さん?

こんな話をしていると、ようやく眠りから覚めたのか、お兄さんも食堂へ入ってくる。

 

「ん?何かあったのか?」

 

「べっつにぃ~?」

 

鈴さんは朝から随分と機嫌が悪いみたいでした。

この調子がいつまで続くかわかりませんけども。




新宿の現状について
凛天使の爆撃テロによって、新宿駅を中心に一帯が火の海になった。
直径5kmは円を描くようにビルが連なる形で倒壊し、内部からの脱出、外部からの侵入を阻む防壁のようになってしまっており、巨大な密室になった。
その状態での見境の無い爆撃攻撃となり、被害者数がすさまじい数に上る要因となった。
また、貫徹ミサイルが使用されたことで、屋内、地上、地下を問わずに崩壊しており、復興への道も殊更に遠ざかっている。
被害者数は最低でも250万人とも言われ、今後も増えていく一方だと思われる。
現状、報道番組では昼夜を問わずに放送されているが、報復攻撃を恐れ、凛天使に対してのコメントは控えられている。
また、ウェイルのフルネームや顔写真についても報道番組では出ないように根回しされているが、篠ノ之箒と織斑全輝が散逸させた情報は静かにネットワーク上に蔓延している。

また、円状に倒壊したビルが原因となって、救援活動は遅々として進んでいない。

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