「なんでだ……!なんで何もかも上手くいかない…!」
学生寮の自室で、その声の主は憎悪を込めた声を漏らしていた。
思い返すのは、今年の春からの事だった。
思いもよらぬ形でこの学園に編入する事になった。
そこで、6年前に離別した幼馴染みと再会し、嘗てのように親しくなった。
そう、そこまでは良かった。
だが、この学園に編入した男子生徒は
イタリアで発見されたという
その人物よりも、自分こそが優れている。
その人物は、自分よりも遥かに劣っている。
自分こそが特別な存在だと知らしめる。
そう周囲に認めさせる為、尊厳ごと踏みにじり、陥れる為に画策をしようとした矢先、『接触・干渉禁止』の命令を下された。
それも、幼馴染みだけでなく、姉である千冬も一緒に、だ。
自身達よりも優遇されているのが気に入らず、食堂で見掛けた彼を挑発したが、呆気なくあしらわれた。
『自分に向ける憎悪の視線が目障りだから』と言う理由だけで、セシリア・オルコットの憎悪を煽り、ウェイルに差し向けた。
だが、それでも踏みにじるには至らなかった。
ならば、実力で捩じ伏せようと思った。
クラス対抗戦で刃を交えた。
力ずくで、砕いてやろうと思った。
だが、それすら空振りに終わった。
真っ向からぶつかり合い、その上で敗北した。
自身が搭乗する機体である『白式』は第三世代機の機体。
スペックであれば、上回っていた筈だ。
更には姉である千冬譲りの
それを使ってでも、尚も敗北している。
「あいつが現れてからだ、何もかも上手くいかなくなったのは…!」
だが、思わぬ結果を得られたのも確かだ。
幼馴染みである箒が、テロリストにウェイルの名を告げた点に関しては。
ただそれだけで、彼は今後は『生きているから』という身勝手極まる理由だけでテロリストに命を狙われ続ける事になったのだから。
だが、彼…織斑 全輝は悪びれる事は無かった。
振り返る事もしなかった。
悪いのは
それが当然の事であると、そう確信していた。
学生寮のベッドに横たわり、天井見上げる。
「奴さえ、居なければ……!」
考えるのは、自身を見下ろす白い髪の少年を、どのように貶めるかの謀略だった。
他者を見下す事は幾度も経験したが、
そのような存在など、プライドが看過出来なかった。
だから、これまでと同じように、自分の手だけは決して汚さず、他者を利用して貶める。
かつて、
「この借りは倍以上にして返してやる、ウェイル・ハース。
何もかも、お前が悪いんだぞ」
口元が歪む。
繊月のように……。
♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪
その者は、教室の窓から外を見下ろしていた。
いや、憎悪を燃やした双眸で、そこに居る人物を睥睨していた。
イタリアからやってきたとされる少年に、敵意を込めた視線を突き刺している。
「奴の…せいで……!」
一学期が始まると同時に、千冬から口頭ではあるが、イタリアから来た二人に対し、接触・干渉禁止を命じられた。
気に入らなかったのもあるが、幼馴染みである全輝に対し馴れ馴れしい口調で乱雑な言葉を返していたのが気に入らず攻撃をした。
だが、問題なのはそれを、
そして、自身が咎められる側になった事を、
今まで、暴力という手段を使ってでも、相手を黙らせてきた。
力ずくで相手を黙らせる事で、自分の主張が正しいものであると考え、それを疑う事もしなかった。
例え、それが要因で相手の身体に負傷や障害を残そうが、相手の自業自得であると結論を出し続けた。
その度に日本各地を転々とし続ける事にはなったが、それすら誰かのせいにし続けた。
だが、その今までの自分の中での常識が、今になって通じなくなってきていた。
あの少年、『ウェイル・ハース』の登場によって。
自身が慕う幼馴染みの全輝に不相応な態度をとった為に制裁を下そうとしたが、逆に自分が咎められた。
クラス対抗戦で全輝を下した彼に『不正行為をした』と決めつけ、制裁を下そうとしたが、未遂の段階で取り抑えられ、自分が咎められた。
テロ組織による襲撃の際に、放送室に向かう際に邪魔をしてきた見ず知らずの相手を殴り倒した事を咎められた。
全輝の活躍の場を奪おうとしたウェイルを引っ込ませようとフルネームで怒鳴った。
結果、自身に重罰が課せられ、懲罰房に押し込まれた。
自身に押し付けられる責任全てを理不尽と考え、納得など到底出来なかった。
それを課せられた事すら、ウェイル達のせいだと、彼等の仕業だと考え、疑いもしなかった。
だから、自分が悪いなどとは欠片も思わなかった。
自分の行いによって、ウェイルがテロリストに狙われようと、彼の家族や故郷、所属企業をも巻き込んでいるとしても、「だからどうした」と言う考えしか沸いてこない。
『自業自得』であると本気で思い込んでいた。
「私達は何も悪くない。
何もかも全て、私達を貶めたあの男が…奴が何もかも全て悪いんだ…!」
篠ノ之 箒は当たり前のように自己正当化と責任転嫁を繰り返す。
言葉に困れば暴力を振るう悪癖は幼少の頃から何も変わらない。
責任転嫁を繰り返し、自分の振る舞いを顧みない。
彼女の中では『他者を力ずくで黙らせる=自分が正しい』という野蛮な図式が刻まれているのだから。
♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪
あれからどれだけ経っただろう。
彼女は、全てを失った。
けれど、それは自業自得と言える結末。
でも、それだけでは終わらなかった。
裁かれたのは、自身だけでは済まなかった。
世界から、イギリス国家が裁かれた。
その補填の為に自身の全てを国に奪われた。
富、名声、爵位、その他にも数え上げれば切りが無い。
思い付く物の全てと言ってしまえば、もっと早いかもしれない。
「……どうして……?」
彼は彼女を知らなかった。
彼女は、彼の事を知ろうとすらしなかった。
顔も知らず、声も知らず、どんな人かも知らなかった。
当然だった、知ろうとすらしていなかったから。
5組のクラス代表代理として依頼された人物。
最初はそれだけだったのに……。
初対面の段階で、怒りを込めて頬を叩いた。
罵倒を、罵詈雑言を浴びせた。
それでどこか胸の内の鬱憤が僅かに晴れた。
けど、その一瞬後に更に怒りが込み上げるのが感じられた。
自分よりも弱い。
なのに、自分ではなく、こんな男が頼られている。
その現実を許せなかった。
それが何処かから、耳にする話が変化していたのかもしれなかった。
自分の存在を知っていながら、クラス代表代理の依頼を受諾した、と。
そこから彼女の暴走に至るまでは長くはなかった。
いや、既に暴走していた。
だから彼の事情も構わず罵倒を繰り返した。
自身が彼よりも優れている事を証明する為に、その瞬間に迷いもなく引鉄を引いた。
その結果と、結末が、今………。
窓も扉も無い石の部屋、そんな狭い部屋に、天井の穴から放り込まれた。
壁の隅に細いスリットから、最低限の食事が入れられて来るが、それが定期的なものかも、今はもう判らない。
部屋の中には外からの光も差し込まず、風の音すら聞こえない。
だから、時間の感覚は失っている。
半月と言われれば、そうかもそれない。
一ヶ月と言われれば、それでも納得してしまう。
それほどまでに、精神も疲弊してしまっていた。
「此処から……出して……謝りますから、だから……助けて…」
誰に謝れば良いのか、今となっては判らない。
何から詫びれば良いのかかも判らない。
だが、既に哭いて謝って済む話ではないのは理解出来ていた。
身にまとっているのは些末な囚人服。
プラチナブロンドの長い髪も、今では枝毛が目立ち、肌もシミが増えていた。
嘗ては豪奢な衣装を着飾り、メイクを施していた頃の自分の姿など見る影もない。
形だけのボロボロのベッドに横たわり見上げても、蛍光灯の灯りが無機質に光を放つだけ。
あれが壊れてしまえば、この部屋は真の暗闇に覆われてまう。
その瞬間を考えただけで恐怖する。
そう成り果てるよりも前にこの部屋を出してもらえるかは判らない。
なら、いっそ……
「考えるなら、後でも出来ますわ……」
何かを考えていれば、理性を失わずに済む。
そう信じ、再び過去の記憶を掘り返す事にした。
そもそもの始まりを。
彼を一方的に憎むようになったのは何故なのかを。
彼、ウェイル・ハースが5組のクラス代表代理に推薦されたから?
だが、それは人から訊いたと言うだけ。
では、誰がそれを……?
クラスの誰かがそう言っていたような………?
それは、誰?
今となっては古くなった記憶を思い返す…。
あの時はまだ、クラスメイトの顔と名前も一致させていなかった。
クラス代表を決める際に、あの男と闘い、敗北してから疎外されていた事も…。
仲良くしてくれた人なんて居なかった…。
なら、引鉄を引いた、最後の過ちの日は……?
「………あ………」
ウェイルが五組のクラス代表代理を正式に受理をしたと人伝に耳にした。
あの、時………
微かに記憶が呼び起こされる。
その話を訊いた時、
「わ、私は………まさか………………利用された……………?」
思い出す
自分の行いを
繰り返した暴言と、傲慢。
感情の爆発と暴走による振る舞いを。
あのまま続いていたら、周囲の教員の言っていた通りに死者とて出ていたのは否定出来なかった。
でも、自分はそんな当たり前の事も考えられなかった。
もしも、それすらもあの男の企みだったとしたら……?
「そんな……そんな邪悪な人間が…居るだなんて……」
今更ながらに後悔が濁流のように押し寄せる。
だが、もう全てが手遅れだった。
出る事の叶わぬ無間の独房に閉じ込められたのだから。
♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪
学園の自室で彼女は暖かな紅茶を淹れたマグカップを持ち、窓から外の光景を眺めていた。
普段は子供舌を隠す為にも、カフェオレを嗜んでいたが、プライベートでは粉末タイプの甘めの紅茶を好んで飲んでいた。
「…はぁ…」
溜め息が思わず零れる。
尊敬していた人物の、見たくなかった姿。
それがこの半年にも満たぬ時間の中で次々に露呈していっていた。
そしてその弟でもある少年の内面すら露になった。
「まさか、本当だったなんて……」
信じたくなかった。
だから、監視役を担わされた際には即断して了承した。
思い出すのは、教職員に箝口令が敷かれる前、本土側で衣服を買いに行った際、たまたま入った店で、今のように甘い紅茶を飲んでいた際の出来事だった。
「相席させてもらっていいかな?」
唐突にかけられた声に視線を向ける。
そこに居たのは見知らぬ女性だった。
肩口で切り揃えられた夜明色の髪も印象的だったが、それ以上に目を惹いたのは…レディーススーツの右腕部分だった。
袖口から右手が見えておらず、そもそも袖全体が空調に合わせてユラユラと揺れている。
数秒かけて、その人物が隻腕だと理解した。
「あ、はい、どうぞ」
店の中は人が居ないわけではなく、席は多少空いている。
それでも自分が使っている席に相席を求めてくる理由が判らなかったが、断る理由も無い為、受け入れる。
シートに座り、片手で紅茶を飲む姿は、例え片手だけの姿でもどこか優美さを感じられた。
「ミス・真耶」
「ひゃ、ひゃい!?」
唐突に名を呼ばれ、声が裏返る。
目の前の女性は紅茶を飲みながら、片目を開き、眼差しを突き刺してくる。
敵意こそ感じられないが、好意が宿っているようにも見えない。
だが、そもそも真意も計れない。
「あ、あの…私、名乗ってませんよ!?
それとも何処かでお会いしましたっけ?」
「まさか、一方的に知ってるってだけだよ。
生憎と、私は本名を名乗る事が出来ないけど…都合が有って色々と使い分けていてね。
そうだね…今回は…『
ティーカップを置き、胸元から万年筆を取り出し、テーブルに置かれているナプキンに、流暢に筆記体で記していく。
記し終わったそれを真耶に渡し、彼女は再び紅茶に手を伸ばす。
まるで何事も無かったかのように振る舞う彼女の様子に辟易しながらも名が記されたそれを受けとるしかなかった。
「えっと……」
見知らぬ人物が相席してきて、更には堂々と偽名を名乗って、偽名を記したナプキンを渡してくる。
考えた事も無ければ、想像した事も無い状況に頭が追い付かない。
「今回、貴女に相席をしたのは偶然じゃなくてね、しっかりとした目的を持って接触させてもらったの。
何処かで腰を落ち着かせて、話しておきたかったから」
「私に、ですか?」
その時点で嫌な予感は確かにしていた。
人知れず自分の名前を調べられた挙げ句に、接触をしてきたのだから、その目的などマトモなものではないと、そんな予感が。
「ある人物を見極めてほしい。
本当に信頼に足るのか、はたまたそんな価値すら無いのかを、ね」
「何故、そんな話を?」
「その人物に対し、貴女が最も近しい人だから。
尊敬はしているようだけど、それと『理解している』かは別の話。
第三者視点で見てほしいって事」
『最も近しい』
その言葉で見極めてほしいという対象は凡そ察していた。
『織斑 千冬』その人であると。
だが、相変わらず理解が追い付かない。
自分の知る彼女は、厳しい面が目立つが、IS学園講師としては優秀な人物であり、かつては誰よりも優れた搭乗者だったから。
だからこそ理解が追い付かない。
「私としては信用がそんなに出来なくてね。
でも私が動けば面倒な事にもなる、だからミス真耶に頼みたいの」
「見極めたとして、それで私にどうしろと言うのですか?」
「見ているだけで構わない、何も報告をしてほしいわけじゃないから。
でも……そうだね、私がその人物を信用出来ない要素はいくつかあるから、それをメールでミス真耶の端末に送っておくよ」
ティーカップを置き、ホットサンドをにかぶりつく。
味わいながら楽しんでいるコニッリョの様子に完全に毒気を抜かれ、真耶も紅茶を飲むのを再開する。
だが、会話をしている最中ですっかり冷めてしまっていた。
学園の私室に戻り、ノートパソコンを開けば一通のメール。
まるで見覚えの無いアドレスから届けられたメールを開けば、今日会ったばかりのコニッリョからの文書だった。
アドレスを教えた覚えも無いのに届けられたメール、そこに記された内容は、自分が尊敬していた人物について記されたものだった。
だが、それは…自分が知らない誰かのようにも感じられた。
その数日後だった。
ウェイルのプロフィールと共にイタリア政府からの文書がIS学園に届けられたのは。
そこから真耶が彼女に向ける視線は一気に変わった。
あの日、喫茶店で出会った女性に感化されたからではなかった。
いや、多少なりとも影響が在ったかもしれない。
だが、それ以上に信頼どころではなく、信用すら出来なくなってしまった。
理想と現実は違う。
それと同時に、憧れと現実の差をそこに見てしまっていた。
自分の見ていない所で何かをしていた。
それも、遠く離れた国が『報復』という物騒な言葉を使う程に。
国家が個人に対して、敵視されるかのような何かを。
時に、国家間の信頼を失いかねない何かを。
そして彼女はそれを自覚し、黙秘を続ける。
新学期が始まり、件の少年達が学園に来訪した直後に事が起きた。
起き続けた。
イタリアにて発見された少年が一方的に被害を受け続ける形で。
その都度、彼女は黙秘を続け、対処にも動かなかった。
接触禁止、干渉禁止の命令が下されているのは理解しているが、対処にも動かないのは不自然に思えて仕方無かった。
だから、内心では訣別すべきではないかとすら考えてしまう。
「千冬さん、貴女は何を考えて傍観しているんですか…?」
食堂での騒動。
セシリア・オルコットの暴走。
中国国家代表候補生への暴行と器物損壊。
機体整備中の生徒への奇襲。
そして、イタリアで発見された少年の情報をテロリストに開示。
度重なる問題と、とうとう起きてしまった国際テロ問題。
その全てに対し、消極的な彼女には溜め息しか出てこない。
これ以上の問題が生じなければいい。
そう考えても現実は常に非情。
何事も起きない未来など、最早想像が出来なかった。
想像出来る未来など、それこそ問題ばかり起きる日常に頭を悩まされる自分の姿だった。
溜め息を一つこぼしながら、紅茶を一口飲んでみる。
マグカップの中の紅茶は、すっかり冷めきってしまっていた。
「……もう、悩んでなんていられない」
かつての憧れに背を向け、一歩目を踏み出した。
♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪
鈴ちゃんとの情報を交換を終え、私は学園に戻り、部屋で天井を見上げていた。
箱をひっくり返してみれば、過ぎ去った切れ端のような情報ばかり。
「虚ちゃん、どう思う?」
「何もかも先手を打たれてしまっている、その言葉に尽きます。
ですが……何一つ証拠が在りません……」
「こっちもよ、どうなってるのよ…もう…」
ウェイル君が何らかの被害を受ける度に、何処かで誰かが何者かに襲われている。
襲われているのは、千冬さんのもう一人の弟だった『織斑 一夏』君を虐げ続けていた悪童達。
そして現状最後の被害者は小学校の教諭。
歩道橋の階段から突き落とされ、全身粉砕骨折。
そして今は病院で意識不明の昏睡状態。
でも、その女性は………かつて、自分が受け持っていたクラスで発生していたイジメを隠蔽していた過去を持っている。
そのイジメの対象は、一夏君と鈴ちゃん達だということは判ってる。
でも、その犯行の瞬間が何処にも残っていない。
周囲に監視カメラすら無い場所ばかりだった。
「弾君は、自身も何者かによって粛清されると予想していましたが…」
「それでも、弾君達は一夏君との再会を目指しているのよね…」
そうなる未来が見えていても、それでもと親友の為に歩みを止めず、目標に向けて歩み続ける彼等は…正直眩しい。
背中を押してあげたいけど、それはまた別の話。
今はウェイル君の身の安全を考えなくてはいけない。
もしも……もしも、本当にウェイル君の状況に呼応して事件が起き続けると言うのなら、ウェイル君を守る必要がある。
これは以前から決めていた事だというのに、いつも後手に回ってしまう。
自分達よりも先に行動をしている者が居るのは確かな事であると把握している。
なのに、その影を掴む事さえ出来ない。
「悔しいわね、私達でさえ後から動くしか出来ない。
先んじるには、事が起きないように守るしかないなんてね……」
でも、それで何も起きずに済むと言うのなら、それでも良い。
それでも、絶対にそんな平穏な結末なんて望めないだろうとも思う。
織斑 全輝が狡猾な人物であると言うことを、私達は把握してしまっている。
他者の気持ちや心を掌握し、利用して、自分は動かずとも目的を達成する。
更に、その明確な証拠を残さない。
神童と言われていた過去も在ったようだけど、影では暗躍をしながら、他者を踏み躙っていたようね。
「何が神童よ…!本当に凄いのはそれでも耐え続けながらも未来を夢見て歩き続けていた一夏君のほうじゃない…!」
弾君から教えてもらった情報を見て思わず呟く。
一夏君は、ズタボロにされ、同学年の女子生徒『篠ノ之 箒』ちゃんに右腕を折られた。
その時点で通っていた剣道を挫折。
でも、残酷なのは彼は剣道を挫折するよりも前に、野球に興味を惹かれていたということ。
……希望は、未然に砕かれたという残酷な真実だった。
それでも、彼は未来への道筋を考えていたらしい。
でも、それは10歳にも満たない子供が考えるような案件じゃない。
「一夏君の案件も正気とは思えないわ、中学卒業の時点で蒸発しようとしていたなんて…それも、家族はおろか友人にも一切相談もするつもりが無かったなんて…」
「鈴さん達の予想では、名前も偽名を名乗り続けるつもりだったのではないか、とも言っていましたし…」
小学生が考える話じゃない。
でも、その裏付けに彼の勉強机には、『求人情報誌』『賃貸住宅情報誌』が確かに置かれていたと、彼らの証言もある。
今となっては過ぎ去ってしまった過去の話であり、当然、人は過去へ遡ることも、無かったことにも出来ない。
でも、悲劇は更に続いた。
第一回国際IS武闘大会モンド・グロッソで、千冬さんの棄権を望む何者かによって一夏君は連れ去られて行方不明に。
在ろう事か、フランスと日本はその情報を仔細に把握しながらも、自身等の利益の為、事件そのものが黙殺され、結果的に一夏君は見捨てられた。
大会終了後に情報がリークされたが、日本は全ての責をフランスに押し付け、フランスは全世界から一方的に非難される事に。
そしてフランスは零落し、今に至る。
一夏君は…犯行グループの声明通りと考えるのならば、千冬さんの出場が中継された時点で生きていないことが判る。
でも、誰も彼の死を確認していない。
生きているという証拠こそ存在していないけど、同時に、彼の死も証明されていない。
それを理由に鈴ちゃんたちは今に至るまで捜索している。
そして今年、唐突に欧州イタリアに現れたのがウェイル君だった。
『希望は捨てなかっただけ価値がある』とあの子たちは言っていたけれど、その希望が可能性として現れたようなものだろう。
私達更識は国からは『監視』を仰せつかったけど、内密に調査し、国が彼を拘束したがっていることも把握できた。
国の上層部は間違いなく不穏分子とも繋がっている。
クラス対抗戦の折りに拘束した凛天使のメンバーの半数が姿を消していることからもその程度は勘づく事は出来る。
「…私たちも、日本政府に従い続けるのは辞め時かもしれないわね」
「反対こそしませんが、それはまだ数年先に引き延ばすべきかと。
簪お嬢様は当然ですが、ウェイル君も卒業するまでは待ったほうがよろしいかと…」
そこなのよね…。
この先もまだまだ波乱が発生するのが見えてしまっている以上、私達だけが姿を消したりするわけにはいかない。
『監視』の名目はあるかもしれないけど、私達はすでに国の意思から離れ、ウェイル君の『護衛』をしている。
なら、彼を今後も守り続けないとね。
「GWが終わってからは…ウェイル君は妙に頑張ってるみたいね…」
そう、休暇の間は故国イタリアに帰郷し、何かを掴んできたのか、学園では訓練を続けている。
通常の訓練であればまだ理解できるけど、夜間もアリーナを予約して夜間訓練に勤しんでいる。
妹のメルクちゃんも一緒に訓練をしているからそんなに危険な事はしていないと思うけれど、態々貸し切りにしてまで何の訓練をしているんだろうかと思う。
気になるのは、アリーナ内外を問わずに監視カメラまで停止要求しているとの事。
今日の夜間訓練に行く前にちょっと聞いてみたけど、ウェイル君曰く「試作品の稼働もあるので知られたくない」との事。
そんなのイタリアで済ませてからにしなさいっての!
とはいえ、所属企業の都合もあるのなら強くは言えない。
そんなわけで、監視カメラ停止要求には了承するしかなかった。
「早朝訓練に、夜間訓練、疲れがたまる一方でしょうに…」
「ええ、それに…来週からは更に過酷さが増すでしょうね…」
明日、フランスとドイツからの転入生が学園に所属し、それぞれクラスに配分される。
それに伴ってウェイル君の身辺はますます荒れることになるだろうと予想が出来る。
「早く、出来るだけ早く対策手段を用意しないと…」