「……それで、また残業で遅れたと」
「……すみませんでした」
賑わう居酒屋の小さなテーブル越し、十年来の後輩である彼女の責めるような視線に、思わず頭を下げた。事前に連絡したとはいえ予定していたより二時間近くも遅れての僕の登場に、彼女は少しだけ不機嫌なようだった。
「……別にいいです。最近は私がお待たせしちゃうことも多いですし、ちょっとくらい遅くても待つって言ったのは私なんですから」
後輩の健気な言葉に良心が痛み出す。妙齢の美女のはずなのに、少量のアルコールに頬を染め、そっぽを向いて拗ねたように話す彼女は仔猫のように可憐だ。自然、謝罪にも力が入る。
「それでも、ごめん。待たせた分は僕が持つから」
その言葉に若干苦笑しながら彼女、我が後輩である七咲は伝票を僕から遠ざけるように引き寄せた。
「いいんです、そこまで気にしなくたって。先輩も部署を異動になってから忙しそうですし、こうして先輩と一緒にご飯できるだけでも私は嬉しいですから」
アルコールが入っているからなのか、いつもと少しばかり違う明け透けな好意に怯みながらも、これ幸いと言い訳を並べる。
「そうなんだよ!部長ったらまた僕だけオフィスに残してお説教でさ!たしかに僕の企画書にも問題は有ったかもしれないけれど、それにしたって終電ぎりぎりまで……」
「……へえ、“森島先輩”と夜中のオフィスで“二人きり”だったんですか」
背筋に冷たいものが伝う。自身の失敗を悟りながら、恐る恐る向かいの席に目を向けた。
「そうですか、私が一人寂しく味噌バターラーメンを肴にビールを煽っている間に、先輩は美人の上司と二人っきりで夜のオフィスに……へえ、本当に仕事をしていたのか怪しいものですね」
拗ねた横顔の可愛い仔猫は、うすら寒くなるような笑顔、牙をむき出しにした肉食獣の笑みを浮かべる大虎へと変貌していた。
お酒の場でまで仕事の話をする僕の無神経さが気に障ったのか、七咲の機嫌が目に見えて悪くなったのを悟る。
「……そ、そうなんだよ!僕だけなにかと因縁つけてさ!毎日毎日監視しながら残業させるんだ!たまったもんじゃないよね!……他になにか食べたいものある?なんでも言ってよ!今夜は奢るから!」
話題を切り替えようと一息に言い切り、メニューを七咲の前に差し出し、ご機嫌伺いをするように猫撫で声を絞り出す。
「ふーん……“毎日”のように、先輩“だけ”、なにかと“理由をつけて”まで、“二人っきり”で、“遅く”まで……そうですか……先輩はやっぱり会社でも“先輩”なんですね」
……なにが先輩なのかは分からないが、どうも七咲の機嫌は悪くなる一方だ。このままでは拙い、拙過ぎる。七咲は結構怒ると怖い。普段は馬鹿なことを言っても呆れて叱るだけだが、たまに地雷を踏み抜いた時、それはもう凄まじい怒りっぷりを見せるのだ。
「……ふふっ、なーんて、分かってますよ。先輩にそんな甲斐性が無い事ぐらい」
どうにか軌道修正しようと僕が懊悩する様をしばらく眺めた後、急に目から力を抜き、からかう様に彼女は言った。
「……先輩はまだそういうの無理ですよね。いいんです。その為に私がいるんですし、こうやって二人でご飯食べに来てるんですから」
……そう言って七咲は悲しさと寂しさ、そして喜びが綯い交ぜになった笑顔で僕の顔を見つめる。その視線はテーブルの上のビールよりも冷たく僕の胸を刺激し、苦く甘く締め付け、アルコールが回るよりも速く僕の心を解かしていく。
……不意に頭を過ぎる彼女、いや彼女たちの泣き声。心地よい酩酊感が不愉快な胃のムカつきに姿を変え、僕を襲う。
―――卒業式を終えた僕を待っていたのは当時仲の良かった後輩からの告白。
伝説の樹の下、なんていう洒落たスポットは我が母校には無かったけれど、テンプレート通りに、彼女はまず僕の制服の第二ボタンをねだった。
顔を真っ赤にしながら、彼女は高校時代には見せた事の無かった表情で僕に愛を囁いた。その時の彼女の顔は今でも心に焼き付いて忘れられない。
そんな彼女に魅入られた僕は何も言えずにただ立ち尽くすだけ。
本当は心のどこかで期待し、また恐れていた。そんな展開に僕は…………。
「先輩!聞いてるんですか!?」
記憶の中の恥じらいの紅さとは違う、アルコールによる顔の赤さ。ふと我に返って前を見ると、拗ねた七咲。どうやら追憶に浸りすぎて、七咲の話が聞こえていなかったらしい。
「先輩……?またなにか嫌な事思い出しちゃいましたか?」
僕の表情から何かを感じ取ったのか、一転して不安そうな表情。こんな顔を七咲にさせるなんて、と自分自身に苛立つ。
―――自身の想いを知りながら、こんな風に振る舞う僕を彼女はどう思っているのだろう。
いっそ嫌ってくれればいい。憎んで、顔も見たくないと言ってくれればどんなに楽か。
それをしない彼女の好意に甘え、苦しみ、僕はのうのうと日々を過ごしている。
……でも今はそんな僕の都合は関係ない。ここにいるのは全てを知って、なお僕を受け入れてくれた大切な後輩だ。
そうやって頭を切り替え、僕は今にも泣き出しそうな仔猫の機嫌を取るべく気合を入れるのであった。
「この若鶏の唐揚げ頼まない?二人で分ければそんなに重くないでしょ。」
「いいんですけど、先輩大丈夫ですか?」
「ん?明日の仕事ならもう開き直ったよ。ははっ、どうせ最初から地獄だしね……」
「いえ、チキンだから共食いになるかと」
「………………」
「まあ今日は先輩持ちですからいただきますけど」
「………………」
……訂正。やっぱり七咲は猫じゃなくて虎だった。
せっかくだから!(コンバット越前)
遅くなりましたけど、これからも細々と続けていきます。
所詮元わなびのオナニーなんで、あんまり期待しないでネ