‐‐‐あの日僕が犯した過ち、それは許されないものだ。
「橘君、以前提出してもらった企画書だけど、残念ながら没よ」
‐‐‐自分では十二分に苦しんで、報いは受けたつもりだけど、そんなものじゃまだ足りないとばかりに頭の上に小言が降ってくる。
「内容の杜撰さもあるけれど、そもそも誤字脱字が多すぎて読むに堪えないレベルね」
‐‐‐この会社に居続けたところで僕の未来は無いだろう。そもそも上司がこのお方の時点で昇進は絶望的だ。
「それらの問題を踏まえた上で私の意見を言わせてもらうと、着眼点は悪くないもののコストパフォーマンスが絶望的よ。このプロジェクトが我が社に利益を生むとは到底思えないわ」
‐‐‐それでも僕がこの会社を辞めないのは、偏に目の前の彼女への罪悪感と、ほんの少しの下心が原因だろうか。
「今度は地価と開発コストに主眼を置いて、もう一度最初からプロットを練り直してちょうだい。期限は明日の……橘君、聞いているの?」
「……聞いていますよ、森島”開発部長”」
ポケットに潜ませた胃薬に手をやりながら、我が上司のお小言に答える。
「そう、それならいいわ。明日の午前十時、私が現場視察に出る前に提出を命じます」
言外に残業を強制する言葉。少々の落胆はあるが、このまま森島”先輩”と退社なんていう、僕の胃にパンチを入れるような事態にならなくて安心だ。そもそも僕の書類が彼女のチェックを一発で抜ける事の方が稀だ。ポケットの中に伸びた手を引っ込める。
「分かっていると思うけど、明日の視察、あなたも同行するのよ?」
……そんな僕の内心を見透かしたように先輩は告げた。
「……明日の僕の業務は?」
一抹の希望に縋り付く僕。何の意味も無い事が分かっていても、つい言葉に出してしまう。
「部長命令を出しておきます。もちろんあなたの確認はいるでしょうけどね」
事実上の死刑宣告。なんてこった。今週も休日返上は確定らしい。心の中の予定帳、後輩との食事の予定を黒で塗りつぶす。ため息を吐きながらポケットに手を突っ込み、小瓶を揺らして錠剤の残り具合を確かめたが、昼食と一緒に飲み込んだ一錠で看板だった事を思い出す。心中でのため息は舌打ちに変わった。
「それではまた明日。今度のプロットはもう少しましな出来である事を期待しているわ」
期待なんてものを一切表情に浮かべず彼女は言い放ち、颯爽と自分のデスクに戻った。後に残された僕は突き返されたプロットと、明日現場へ向かう車内での吊るし上げの未来に頭を抱える。パンチどころか胃がシュレッダーにかけられているような感覚だ。退社したら、まっすぐにコンビニに駆け込んで、切らしてしまった胃薬を補充することを心に決めた。
‐‐‐彼女が感じた痛みは、僕も経験したものだ。それが彼女になんの関係も無い事は分かっている。むしろそれを知れば、彼女の心の痛みは増すかもしれない。”どうしてそんなひどい仕打ちを私にもしたの?”と。それは僕にも分からない。十年前のクリスマスのあの日、僕は約束の場所へ行けなかった。過去に受けた心の傷、先輩に二度振られた事実、当時仲の良かった彼女たちへの想い。それらが幾重にも僕の足に絡まり、約束の場所への歩みを縛り付けた。
‐‐-そして僕はその過去を振り切った。裏切られたクリスマスの記憶を。そして裏切ったクリスマスのあの日を。がむしゃらに勉強し、有名大学に入り、一流企業と呼べる会社に就職し、その多忙さをもって思い出に蓋をして、記憶の底に沈めた。
……それでも、彼女の中では完結していないのかもしれない。僕の中では決着したつもりになっている事でも、彼女の中では未だに燻り続けているのかもしれない。
デスクの中から一枚の異動令状を引っ張り出す。
「橘純一に開発部転属を命ず、か……」
最高裁判所からの死刑通知、死ぬ事が確定した戦場への赤紙、十年分の恨みが篭った果たし状。受け取った瞬間連想したものはそんなところだが、最後に少し、ほんの少しだけの期待が胸に残った。
「まさか……ね。」
もしかしたら彼女なりの和解のつもりなのかと。もう一度やり直そうと十年越しのラブレターを送ってくれたのではと考えてしまった自分の楽観を笑い飛ばし、携帯を取り出した。見慣れた登録名にコールをかける。
「もしもし、”七咲”?ごめん残業くらっちゃった。晩御飯はまた今度って事で……って、いいの?……そう、分かった。じゃあ結構待たせると思うけど、ごめん」
どちらにしても確かめる術は無い。今更そんなことを彼女に問う資格は僕に無いし、口に出す勇気はもっと無い。
「さて、じゃあこいつだけ片づけるとしましょうか!」
十年来の後輩が待つ居酒屋へ急ぐため、パソコンを立ち上げた。記憶の底からこちらを覗く、乗り越えたはずの苦い思い出と、先輩の責めるような、泣き出しそうな表情を頭から振り払って。
オレ、投稿スル、ハジメテ。オレサマ、あまがみ、マルカジリ。コンゴトモヨロシク。