サーティ・プラスワン・アイスクリーム   作:ルシエド

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出席番号9番、斬撃エレクトリカルパレード・剣崎敬刀の場合

 ヴァニラ・フレーバーは人が良い。

 が、人が良いだけでなく、策謀も出来る少女だ。

 善意と打算の合間で折り合いを付けられるのが彼女の強みであり、損得勘定で善性を捨てきれないのが彼女の弱さ。

 彼女は地球人のお披露目や、地球人との友好アピールも兼ねて、和子を護衛の一人として連れて国外の会議に出席していた。

 

 それが、自国に利益をもたらし、朔陽達にも利益をもたらすと信じて。

 

「ワコ様、今日はありがとうございます」

 

「構わない」

 

「悲しい犠牲が生まれてしまいました。でも、結果的に良い方向に向き始めたようです」

 

 ヴァニラ姫が訪れた会議は、そんなに肩肘張ったものではない。

 要は、"料理の技術交流をしよう"という提案を煮詰めるためのものだった。

 

 ドライの襲来と大暴れが各国に与えた衝撃、及び影響は予想以上に大きかったようだ。

 ある宮廷料理人が言った。

 今度同じようなことがあれば俺達が自分の手で魔将を撃退できるようにしよう、と。

 ある大衆食堂の男が言った。

 地球の料理にこの世界の料理が負けてると思われちゃ業腹だぜ、と。

 ある閑村の料亭の女が言った。

 できればいつかあの地球の料理人と料理の話がしたいわね、と。

 

 この会議はヴァニラが見届人となり、魔将に対抗する技術レベルを確保する目的で行われた、料理人主導の会議だ。

 将来的に世界規模の技術交流会になる、正式な技術交流会の雛形と見ても良い。

 ゆえに、本来ならば厳格で真面目な雰囲気があるべきなのだが、何故か途中から暖かで楽しげな空気が広がっていた。

 それは、平民の料理人が会議に混ざっているから、ということだけが理由ではない。

 

 ある者は、地球の技術を盗もうと目をギラつかせていた。

 ある者は、地球の美味い飯をもっと食べたいと思っていた。

 ある者は、地球の料理を自分の手で作ってみたいと思っていた。

 このみが最後にカレーで見せた『未来』の姿は、彼らの中に地球への興味と、未来へのワクワクした気持ちを呼び覚ましていた様子。

 

 更には、素晴らしい料理を作ったこのみと、戦慄されるほどの覚悟を見せた朔陽が、彼らの中に『地球人への確かな敬意』を根付かせていた。

 

「帰りましょう、ワコ様」

 

 会議が終わり、ヴァニラは和子と伴の者を連れて帰国する。

 

「あの会議の結果はいい感じ? 姫様」

 

「ええ、いい感じです」

 

「お疲れ様。姫様はいつも頑張ってて、すごいと思う」

 

「……ありがとうございます。その言葉だけで、また明日からも頑張っていけます」

 

 普段淡々と話し、あまり表情を見せない和子からそんな気遣いを貰えるなんて、ヴァニラは想像もしていなかった。

 普段から和子は朔陽にベッタリで、朔陽ばかりを気にかけているから、なおさらに。

 ちょっと嬉しい気持ちになって、また頑張ろうという気持ちになってしまう。

 こういう情に深いところがあるがために、ヴァニラは人を切り捨てる決断をしないといけない役職に向いていないのだ。長所と短所は表裏一体。

 

 嬉しそうに王都を歩くヴァニラの手を、和子が掴んで止めた。

 

「あ、ちょっと待って」

 

 ガキン、とクナイが石に浅く刺さる音がする。

 ヴァニラが和子の手元を見れば、そこにはクリーム色のウジ虫に似た10cmほど虫が、クナイに突き刺されてビクンビクン動いていた。

 やがて虫は動きを止め、その体をドロドロに溶かし、霧散する。

 

「これは……虫でしょうか」

 

「私の父が、洗脳蟲を使うタイプの忍だったから。似た気配は感じられる」

 

「こ、個性的なお父様だったのですね……洗脳蟲?」

 

「王都に居たのはこれが最後の一匹」

 

 和子曰く。

 あの料理大会の日から、時々この虫を見るようになったらしい。

 

「蚊とかハエとかみたいに、害虫っぽいのは潰しておかないと」

 

「分かります。わたくしも虫はどうにも苦手で……」

 

 消えた虫の形が、姫の頭の中で何かの記憶に引っかかる。

 姫はその違和感がどうにも気になって、今消えた虫の形をより鮮明に思い出しながら、頭の中で引っかかっている記憶を思い出す。

 あ、と綺麗な姫の唇の合間から、声が漏れた。

 

「まさか」

 

 まだ霧散しきっていない、僅かに残った虫の体液に魔法をかける。

 解析の魔法だ。

 姫は溶けた虫の残滓を調べ、理解し、表情を深刻なものへと変える。

 

「これ、魔将です」

 

「え」

 

 どうやらあの大会の期間、ドライが王都に残したものは、意外と多かったらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 剣崎敬刀(けんざき けいと)は、剣道部の頂点に立つ男だ。

 中学三年時に剣道を習い始め、そこに通信教育の古流剣術をミックスし、高校一年生時には剣道で全国大会に出場。全国ベスト8という好成績を残したほどの男である。

 その剣は正確無比にして無二の剛剣。

 県内でも間違いなく指折りであると言える剣士だ。

 顔面に斜めに入った切り傷と、本気になった時に巻くハチマキは、県外の剣道部にも知られている彼のトレードマークである。

 

 朔陽が聖剣を継承してから既に数日。

 朔陽は剣の扱いを覚えるべく、敬刀に剣を習っていた。

 屋敷に備わった中庭で、聖剣を構えた朔陽が、竹刀を構えた敬刀に斬りかかる。

 

「せいっ!」

 

 敬刀はひらり、ひらりと聖剣の斬撃をかわしていく。

 額に米粒を付けて敵に米粒だけを切らせることができたという、宮本武蔵を思わせる回避だ。

 聖剣の切れ味がどんなに優れていようと、当たらなければ危険はない。

 敬刀は軽やかに斬撃をかわし、わざと分かりやすくゆっくりとした攻撃の予備動作で聖剣を防御に構えさせ、聖剣の腹に突きを叩き込んだ。

 

 朔陽の足が浮く。

 朔陽が吹っ飛ばされる。

 だが吹っ飛ばされた朔陽が聖剣を離しそうになった時、『聖剣の柄が朔陽の手を掴み』、朔陽は聖剣を手放すという最悪の事態を回避していた。

 

「いい剣だな、朔陽。主のために自分の意志で動いてくれる剣なんてそうないぞ」

 

「そ、そりゃどうも……」

 

 今、朔陽は30mほど吹っ飛んでいた。

 普通なら聖剣を吹っ飛ばされ、聖剣の加護が消えた状態で転がされ、傷だらけになっていたことだろう。聖剣のカバーが冴え渡っていた。

 

 宇宙の真理にも通ずるという肥田式強健術の創始者・肥田春充は、剣道にて75kgの肉体を持つ男を突きで10m近く吹っ飛ばしたという逸話を持つ。

 肥田春充は、幼少期に病弱に痩せ細っていたことで有名だった。

 虚弱な子供でも、鍛えればそこまでいけるのだ。

 朔陽も、もしかしたらそこまでは行けるかもしない。

 竹刀で突いて人を吹っ飛ばせる剣士になれるかもしれない。

 この際、この逸話が創作であるという可能性は考慮しないこととする。

 

「最初から力が入りすぎだ、朔陽。

 最初は柔らかく、最後に鋭く振れるよう、力は徐々に入れろ」

 

「わかった」

 

 弱く振り始めて強く叩き込むのは、長物の基本技術である。

 敬刀は一つ一つしっかりと、基礎技術を叩き込み、それを実戦形式で朔陽の体に染み込ませていく。基本は鍛錬、鍛錬だ。必要なのは鍛錬である。

 朔陽は超人にはなれないが、小さな積み重ねは決して無駄にはならない。

 

「そい!」

 

 朔陽の握力がなくなって、聖剣の補正だけでは剣が握れなくなるくらいにへとへとになって、それでようやく鍛錬は終わった。

 朔陽は座り込むも、敬刀は汗一つかかないままに佇んでいる。

 

「はー、やっぱり敬刀くんは強いね」

 

「素人には負けられんさ。俺にも意地がある」

 

 休憩にしよう、と言い、敬刀は朔陽に水筒を差し出した。

 

「だが、低いのは技術だけさ。

 やる気と志はとても高い。

 なんだかんだ言って、人が強くなるのにはやる気が一番大きな要素だ」

 

「何かに備えて自分を磨いておくのは普通だよ、普通。

 賢明に努力した一時間は、きっと自分を裏切らないって、信じたいじゃない?」

 

「良い考え方だ。俺もそう信じたいな」

 

 朔陽のポジティブな方のスタンスに、敬刀はうんうんと頷く。

 

「それにほら、努力は一瞬の苦しみだけど、能力不足は一生の苦しみだし。

 努力が結果に繋がることは確定じゃないけど、怠惰はほぼ確実に結果に繋がるからね」

 

「……良い考え方だ。俺は見習わんがな」

 

 朔陽のネガティブな方のスタンスに、敬刀はうーんと悩む。

 明るいやる気は大歓迎だが、暗めなやる気は歓迎しない、そういうタイプの性格であるようだ。

 敬刀はポケットから黒いハチマキを取り出し、頭に巻き付ける。

 彼が本気を出す時の証だ。

 ハチマキを巻いた敬刀は竹刀を構え、ぐっと力を込め、横薙ぎに振るう。

 

 すると、竹刀から飛んだ斬撃が、遠方の大岩を真っ二つに両断していった。

 

「とりあえず、朔陽の当座の目標はここだな」

 

「いや、斬撃は飛ばないから」

 

「今は飛ばせないだけだ」

 

「今も未来も飛ばせないよ、僕は」

 

「俺にできることがお前にできないわけないさ」

 

「うーん無理だと思うな! 絶対!」

 

 剣崎敬刀(けんざき けいと)は朔陽と幼い頃に面識があったが、一時期いじめにあってしまい、それがきっかけで剣道を学び始めた少年だ。

 中三から剣を始めて、高一で全国ベスト8に入っただけでも凄まじい。

 ……だが、彼の快進撃もそこまでだった。

 

 公式大会のルール改定である。

 全日本剣道連盟の理事・評議員の過半数が結託し、年々問題とされていた「飛ぶ斬撃は剣道の試合でありなのか?」という問題にメスが入れられてしまったのだ。

 近年の剣道の試合は、全国大会でも距離を取って互いに飛ぶ斬撃で遠距離戦、という光景が珍しくなってきた。

 それを封じ、近接戦を行う古き良き剣道を取り戻そうという運動があったのである。

 飛ぶ斬撃で試合を作る敬刀の試合スタイルは、この改訂で完全に殺された。

 

 敬刀は竹刀で鉄も切れるが、それだけだ。

 カーブだけで勝ち抜ける高校野球があるだろうか?

 リフティングができるだけで優勝できるサッカーの大会があるだろうか?

 これはそういうことだ。

 一芸だけできたところで、勝ちに直結するわけがない。

 

 かつては飛ぶ斬撃が主流だった剣道界も、今は昔。

 高二の夏では、去年は全国ベスト8だった敬刀も県内ベスト4止まり。

 高三の今年が最後のチャンスで、今年こそ勝ち抜いていけなければ、"高一の時が全盛期だった"という最悪のレッテルを貼られることだろう。

 毎日毎日剣を振り、毎日剣士として成長している敬刀に対して、その言葉は最大限の侮辱と中傷として機能する。

 

 敬刀は毎朝、どの部員よりも早く部室に来て剣を振り、皆が帰った後も素振りをしてから帰るような男だった。

 朔陽は毎朝毎夕、頑張る彼を見守ってきた友人だった。

 二人は同様に、剣崎敬刀の勝利と、努力の結実を願っている。

 

「休憩終わったら朔陽には特別に俺の飛ぶ斬撃のコツ教えてやるからさ、な?」

 

「やってもできないと思うけど……はぁ、分かったよ、付き合うよ」

 

 飛ぶ斬撃は、敬刀の誇りだ。

 親しい友人である朔陽に剣を教える以上、このくらいは習得して貰いたいのかもしれない。

 飛ぶ斬撃を教えようとする敬刀だが、その視界にヴァニラと和子を乗せた馬車が屋敷に突っ込んでくるのが見えた。

 

「サクヒ様!」

 

「え、ヴァニラ姫? ええと、んん、今日の服も可愛いですね」

 

「ありがとうございます。サクヒ様にそう言って貰えると嬉し……っと、そうじゃなくて」

 

 こほん、とヴァニラは咳払いした。

 前の大会の時の心を剥き出しにした褒め言葉が欲しい、という言葉を覚えていてもらったことが意外に嬉しかったらしい。

 だが、今はそんなことをしている場合ではないのだ。

 

「サクヒ様、王城で見てもらいたいものが二つあります。馬車に乗っていただけますか?」

 

 朔陽の目がチラッと敬刀の方を見る。

 今日は一日剣の修業を付けて貰う予定だったのだ。

 敬刀は首を振り、にこやかに笑い、約束を守ろうとする朔陽の背を姫の方に押す。

 

「俺はここで剣振ってるから、帰ってきたらまた練習しよう。それがいいさ」

 

「ごめんね。できるだけ早く帰って来るから」

 

 朔陽を乗せるやいなや、馬車は王城にむかって発車した。

 

「申し訳ありません、お忙しいところにお呼び立てしてしまって……

 ケイト様にも、ひょっとしたら嫌な思いをさせてしまったのかもしれません」

 

「敬刀くんは滅多に怒りませんから、大丈夫ですよ。

 彼は人間の良い人悪い人基準が極端に低いので、滅多に人も嫌いませんし」

 

「あの方には、後日改めてお詫びさせていただきます。

 ですが、今はそれよりも、すぐにサクヒ様の頭の中に入れるべき知識があるのです」

 

 ヴァニラ姫は朔陽の前で紙にペンを走らせ、ほんの数秒で先程和子と一緒に見た虫の姿を、寸分違わぬ形で書き上げ、朔陽に渡す。

 

「これは、フィーア・ディザスター。

 『文明寄生蟲』の二つ名で知られる魔将の一人です」

 

「!」

 

 『不死身』『消葬の双子』『吸血鬼の王』『必殺料理人』に続く、新たなる魔将。

 その名も、『文明寄生蟲』。

 

「これが王都で見つかりました。

 サクヒ様には、仲間の方々と共にこの存在の詳細な知識を頭に入れておいて欲しいのです」

 

「あの、この魔将にはどんな力が……?」

 

「分裂と寄生、その二つです。

 この魔将は無数の寄生虫が一つの意志の下に動く群体の魔将。

 生物の中に侵入し、脳の中に入り、その生物を操る能力を持っていました」

 

「うげっ」

 

 最近寧々と脳についての話をした覚えがあったせいか、朔陽は心底嫌な声を出してしまった。

 

「この魔将は、ともかく数が問題でした。

 分裂するせいで、最終的にどのくらいの数になるのかも分からなかったのです。

 軍部の推測には、現在の文明の人類全てに寄生も可能なのではとさえ言われていました」

 

「文明規模……」

 

「文明規模で寄生し、寄生先を死なせることもある、極大規模の寄生蟲。ゆえに文明寄生蟲」

 

 実際に文明を丸ごと乗っ取れるかどうかは分からない。

 だがダッツハーゲンの軍人は、それも可能かもしれないと推測していた。

 人間の文明という体に寄生し、繁殖する寄生虫。

 

「全ての個体が、少し短絡的な人間程度の知能を持っていると推測されています。

 タイプとしては魔法使い型の魔物なので、魔法を使える個体も多いようですね」

 

 朔陽は少し、首を傾げた。

 

「そんな恐ろしい生物が居て、王都にも居て、皆さん日常を過ごせるものなんですか?」

 

「以前、プリンヤキ公国の国民全員が寄生されてしまったことがありました。

 ですが国民・兵士・臣下の全員がその身を賭して、公を守りました。

 公は国に千年かけて仕込まれた自爆装置を作動。

 『貴様らが我らを地獄に落とすというのなら、我らも貴様らを地獄に落とそう!』

 と隣の国にも聞こえるほどの叫びと共に、フィーアの全個体を吹き飛ばしたのです」

 

「国家自爆とかロックですね……」

 

「なので、わたくしも今日までこの魔将が生き残っていた可能性を考慮していませんでした。

 自身の未熟を恥じるばかりです。かの国の自爆以来、フィーアの目撃は初となります」

 

 国民全員を寄生操作すればいくらでも他の国を崩せそうなものだが、それを実行に移せるとは恐ろしい。それを自爆でどうにかする国とそのトップも凄まじいが。

 

「中核個体は存在するはずなので、それを潰さなければなりません」

 

「僕らのフィーアへの攻撃姿勢はそれでいいとして、防御面はどうするんですか?

 確か、王都にはいくつもの魔術による対魔王軍用の警戒システムがありましたよね?

 それをどうくぐり抜けて来たか、そのあたりが分からないと危険が……」

 

「ワコ様と少し話したのですが、ドライの体内に居たのではないかと」

 

「……ああ!」

 

 ドライの能力は、料理勝負が成立している間外部からの干渉をカットすること。

 ドライの体内に居たならば、ドライと共に王都の警戒システムの干渉を受けることはなく、王都の中でドライ体内から出て動き出せば、警戒網をくぐり抜けることは可能なはずだ。

 

「分かりました。僕の方から皆にも連絡を回しておきます」

 

「ありがとうございます、サクヒ様。それと、もう一つ」

 

「もう一つ?」

 

「世界間の転移・召喚・送還技術のための実験を、近日行いたいと思います」

 

「……こんな状況じゃなければ、嬉しかったんですけどね」

 

 姫は少しづつ、彼らを元の世界に帰すため、積み上げている。

 目標地点が遠いとはいえ、一歩ずつでも『勇者として召喚した者達を元の世界に返す』という目標に近付いている姫は、朔陽視点好感の持てる誠実な少女だ。

 こんな時でなければ、もっと喜んでいたことだろう。

 

 姫が前に朔陽に説明した通り、姫が最初に使っていた勇者の召喚術式では、暴走により変な形で召喚された彼らを元の世界には返せない。

 ならば、一から技術蓄積を始めるしかない。

 今話している実験は、その積み上げの一環だ。

 

「今回の実験では雛形の術式を試そうと考えています。

 召喚できるものは物質のみ。

 生命体は召喚不可能。

 召喚対象は現段階における地球に存在する何か。

 召喚に時間設定があるため、召喚したものは五分で元の世界に戻るでしょう」

 

「それだと、あんまり面白いことには使えなさそうですね」

 

 五分限定の召喚術式。

 確かに、あまり汎用性はなさそうだ。

 例えば人は括約筋を見た時、「尻の穴に頭を突っ込んで括約筋で首が締まったら死にそう」といった風に、その活用法を考える。

 そういった応用があまり思いつかないということは、最初から限定的な、特定のデータを集めるための術式として開発されたのだろう。

 

「『術式を確実に成功させること』。

 『できれば転移事故が起こった修学旅行当日の時間に送ること』。

 『物質の転移に成功したら、次は生命の転移を成功させること』。

 『転移後の揺り戻しでこちらの世界に戻ってこないようにすること』。

 『検証不足と実験不足によるデータ不足を解消すること』

 ……他にも問題は山積みです。ですが、必ず実現してみせます!」

 

 ぐっと拳を握る姫を見ていると、朔陽の心の奥底にあった"もしかしたら帰れないんじゃないか"という不安が消えていく。

 

 正しい計算の仕方と根気さえあれば、いつかは正解に辿り着く。

 かつて地球で恐竜が滅びた頃、生きていた人間が居なくて口伝が残っていなくても、現代の研究で痴球に淫石が落ちたことが原因であったと突き止められたのと同じことだ。

 淫石攻めの痴球受けのカップリングこそが恐竜滅亡の真実。

 研究や実験は、一つの正解を見つけるためにやるものだ。

 

「そのためにも、召喚実験は先送りにしたくないのです。

 フィーアは単体だと極めて見つけにくく、この国は警戒態勢に入るでしょう。

 兵士の移動などで数日後には警戒態勢に入ると思いますので、その前に……」

 

「先にやっちゃうってことですね」

 

 ヴァニラ姫曰く、和子は「王都に居たのはこれが最後の一匹」と言っていたという。

 フィーア・ディザスターも王都内の個体を全部潰された以上、次の動きを始めるだろう。

 逆に言えば、それまでは余裕があるということ。

 姫は明日明後日なら、まだこの実験をやれるだろうと考えている。

 逆に言えば、数日後以降はそんな実験をしている余裕もなくなるかもしれないということだ。

 

「大体分かりました。

 僕はフィーアとその実験に関する書類か何かに目を通せばいいんですね?」

 

「はい、その通りです。どちらもサクヒ様達と無関係ではありませんから」

 

 朔陽と姫を乗せた馬車が、王城に到着した頃。

 屋敷の中庭で、敬刀は和子と顔を合わせていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 和子は朔陽からクラスメイト一人一人の人柄を聞いていた。

 聞けたのは"優しいけどエッチぃことに興味津々"といった人柄の評価だけであったが、和子はそこから友達になってくれそうなメンツをリストアップしていたのである。

 そうして友達候補の一人に挙げられていたのが、敬刀だった。

 

 男子の中では指折りに真面目で、クラスでも指折りに優しい。

 滅多に怒ることはなく、他人には比較的寛容で、悪いことをしてしまった人間にも比較的優しいのだとか。

 怒られるか怒られないかを友人の選択基準に選んでいるあたり、和子の元ひきこもりのチキンハートな部分が伺える。

 

「あ、あの」

 

「そんな緊張することはないさ。

 俺は朔陽の友達。君も朔陽の友達。

 それなら俺と君も友達みたいなものだろう?」

 

「! ……は、はいっ」

 

「あはは、まあこの友達の友達理論、現実で成立してるの見たことないけどな」

 

 にこやかに笑う敬刀。

 友達と言われて、和子の中にあった大きな恐れが少し和らいだ。

 

「というか俺、君見たような覚えがあるな。

 中三の時に朔陽の中学に転校して来たんだが、覚えはないか?」

 

「え……覚え、ないです。私と朔陽はずっと学校同じですけど」

 

「そうか。俺が見覚えあっただけか」

 

 和子は敬刀に見覚えがなかったが、敬刀は和子に見覚えがあるという。

 どうやら同じ学校でもあったらしい。

 そう言われると、和子もなんだか敬刀に見覚えがあるような気がしてきた。

 

「あれだ、そうじゃないと思って聞くけど、朔陽とは付き合ってるのか?」

 

「! ……っ! つ、付き合ってないです。です。

 剣崎さんがたぶん予想してる通りに、朔陽の方が、そういう気持ちじゃなくて……」

 

「分かるよ、俺もあいつが恋人作った姿とか想像すらできないからさ」

 

「うぅ」

 

「恥ずかしがる必要なんてないって。頑張りなよ、恋する女の子。俺は応援してるぜ」

 

 かあっ、と和子の顔が赤くなる。

 通常の高校生のクラスともなれば、人並みの恋愛力と人並み以下の顔面力を持ち合わせた高校生女子の集団が、こういう純情な恋心をひっかき回して台無しにしてしまうことも珍しくない。

 足が速ければそれだけで小学生男子を好きになる、チーターみたいな小学生女子の恋愛感情よりかはマシかもしれない。だがマシなだけだ。

 

 和子にとっての幸運は、そういうチーターが少し進化した程度の恋愛観しか持たない女子高生生物が、クラスには一人も居なかったことだ。

 そして、からかわずに応援してくれる敬刀のような男子も、クラスには何人か居てくれていたということだ。

 このクラスは、単純に人柄だけを見れば、和子にとってそれなりに恵まれた環境にある。

 

(うん、サクヒの言う通り、いい人そう)

 

 和子は"自分から話しかける"という超困難ミッションの相手に、敬刀を選んだ自分の判断力と洞察力を自画自賛する。

 私凄い。

 私やるぅ。

 私サクヒに褒められてもいいんじゃない?

 とウキウキしている内に、ふと、ある記憶を思い出した。

 

「……あ」

 

 "剣崎敬刀に会ったことはあるか?"という形で記憶を探っても、何も無かった。

 だが"剣崎敬刀に見覚えがあるんじゃないか?"という思考で記憶を探れば、和子の中の薄れた記憶の中に、それはあった。

 学校で見た記憶ではない。

 ニュースサイトの中で、ほんの一瞬だけ見た記憶だ。

 

「雪印中学校の、いじめられてた人?」

 

「―――」

 

 思い出せなかったことを思い出せた瞬間に感じる、人の脳が発する快感。

 "思い出せた!"という喜びが、和子の注意力を一瞬だけ引き下げてしまい、その一瞬に敬刀の雰囲気が変わったことを、気付かせなかった。

 

「そうだ、ニュースにもなってた、ひどいいじめの被害者だった人」

 

 和子の脳裏に次々と記憶が蘇る。

 見るだけで嫌悪感をかき立てる、いじめっ子の所業の数々。

 いじめを辟易する文章。

 そして、いじめっ子にいじめられっ子が攻撃されている動画。

 四年ほど前に一度だけ見た数秒の動画の中で、いじめっ子に攻撃されていた子供の顔が敬刀のそれであったことを、敬刀は思い出したのだ。

 

「私も、あれは酷いと思った」

 

「……」

 

「だから、お気に入りの携帯電話で、ニュースの記事とかに全部コメント残してた」

 

「……」

 

「いじめは悪いこと。

 あれは悪者だった。

 皆で一致団結して、それは悪いことなんだって言ってた。私もそうだった」

 

「……ああ、そう」

 

「あなたは私のこと知らなかったけど、私はあなたの味方だった。うん、そうだった」

 

「……」

 

「信じられない縁。私達、きっと友達に……」

 

 和子は一歩踏み込む。一歩分距離を縮める。一歩だけ歩み寄る。

 

 そんな和子の首に、怒れる敬刀は、殺意を込めた竹刀の先を突きつけた。

 

「……え」

 

「触るな。近寄るな。俺の手が滑って、君を斬り倒す前にな」

 

 本気だ。

 今の敬刀の周りの空気には、斬りたくないという理性の発露と、それ以上近付けば斬るという感情の爆発がせめぎ合っている。

 これ以上近付けば、確実に斬撃が飛んで来るだろう。

 否応なく、容赦なく。

 

「なんで……? 私、何か悪いことした……?」

 

「……さあ、悪行か善行か、俺にも正直分からないさ。でも、俺は、『それ』が嫌いだった」

 

 目の色が違う。

 声色が違う。

 態度が違う。

 雰囲気が違う。

 和気は殺気に変わり果て、善意は殺意に変貌し、友愛は憎悪に転化している。

 朔陽が言った"滅多に怒らない"という人物評が、根本から引っくり返ってしまいそうな、あまりにも攻撃的な剣気が迸る。

 

「正しいことしてる気分だったんだよな?

 いじめられてる弱くて哀れな俺の味方をするのは、いい気持ちだったんだよな?

 正しい人とか優しい人になってる気分に浸るのは、気持ちよかったんだよな?

 だから皆大好きだもんな、かわいそうないじめれられっ子の味方しようとするのはさ」

 

「それは、どういう……」

 

「でもさ、何か顧みなかったのかい?

 ニュースで知って、ネットとかでいじめっ子を叩きのめしてた君らは……

 いじめっ子をいじめてるだけの、ただのいじめっ子にしか見えなかったよ」

 

「―――!」

 

「俺は、当時いじめっ子が大嫌いで……

 いじめっ子をいじめてる君達のようないじめっ子も、大嫌いだった」

 

 敬刀は過去の想い出から湧いてくる憎悪に突き動かされ、竹刀を強く握る。

 

「ネットなんて知らなきゃよかった。

 あんなもの見なきゃよかったと今でも思うさ。

 けど、けどな……

 そうやって知った君らみたいな奴らを、俺が好きになると思うか?

 俺をいじめてた奴らを攻撃してくれたから敵の敵は味方、ってなると思うか?」

 

「そ、それは」

 

「嫌いに決まってるだろ!

 憎いに決まってるだろ!

 俺をいじめてた奴らの一人は、お前らに追い込まれて自殺したんだぞ!」

 

「―――え」

 

「『いじめっ子は何をしてもいい悪者だ』。

 そういうレッテル貼られて、住所とかネットで拡散された奴がどうなったか知ってるか?

 悪者を攻撃する正義気取りの奴らが、いじめっ子の家に何したか知ってるか?」

 

 敬刀の声には、激しい怒りが込められている。

 

「いじめっ子の家は石投げられて割れてて。

 塀はスプレーで落書きされまくってて。

 庭は変なものが撒かれて、もうどうしようもなくなってて。

 不審者がうろついて、写真撮ってネットに上げてて。

 まだ子供だったいじめっ子は、登校するだけでも身の危険があるくらいだった」

 

「わ、私は……」

 

「俺は知ってる。

 お前らはいじめられっ子の味方じゃなかった。

 いじめっ子の敵だっただけだ!

 ただ傍観して、楽しく気楽に罵倒して、そのくせ俺を助けようとはしてなくて……!」

 

「そんな、そんなつもりで、いじめが悪いって言ってたわけじゃ……」

 

 敬刀の声には、深い悲しみが滲んでいる。

 

「外野が吠えるな!

 語るな!

 俺の味方面をするな!

 首を突っ込んでくるな!

 悪者を攻撃すれば無条件で善行だなんて、んなわけあるか!

 ……警察とかでもない外野(おまえら)が関わって、悪化した事はあっても、改善なんてしなかった」

 

「あ、うっ……」

 

「……いじめっ子は、一人死んだ。

 残りも全員引っ越して、転校した。

 俺は……連中に仕返しすることも、見返すことも、許すこともできなかった……」

 

 いじめをやって自殺に追い込まれた子と、敬刀と、和子。

 敬刀が和子を猛烈に口撃している今、その全員を加害者で被害者であると見ることができる。

 そして、いじめっ子といじめられっ子(敬刀)の両方に消えないトラウマを刻みつけた、ネットと現実でいじめっ子を責めた攻撃者達も、明確には加害者であると断言し辛い。

 一人一人の攻撃は小さなものだった。

 だがそれが日本中から集まり、積み重なったことで、見るに耐えない醜悪と化した。

 

 人は小さな石を投げる。責め苦と共に人に投げる。

 "このくらいでは人は死なない"と思って投げる。

 そう思って、千人が、万人が、同時に投げる。

 投げられた人間は壊れるか、あるいは死ぬ。

 人の世界は、時々そうなる。

 悪だと思った相手なら、人は石を投げることを躊躇わない。

 

「俺からすれば……

 俺のこといじめてたことを後悔して、謝ってきたあいつらより……

 ……人一人殺しておいて、罪悪感も後悔も何も無いお前らの方が、醜く見える」

 

「……う」

 

「いじめの報道は長かった。何度も報道されてた。

 いじめっ子の自殺はそんなに報道されなかった。

 ……いじめは、死んで償わないと償えない罪だって、皆、そう思ってるのか……?」

 

 敬刀は『いじめっ子』の全てが嫌いだった。

 自分をいじめた同級生達も。

 薄々気付き始めていたが本腰入れて調査はしなかった教師も。

 自分の周囲を片っ端から責めていた自分の親も。

 "いじめが起きた"ことを飯の種にするために大げさに報道したマスコミも。

 通学路でのいじめは常に無視して、いじめ報道が始まったら味方面してきた近所の大人も。

 いじめっ子をいじめているだけの、正義気取りのネットの皆も。

 いじめられっ子に可哀想と言って優越感を得て、楽しそうにいじめっ子を攻撃している赤の他人の皆も、全て、全て。

 それら全てが、敬刀の目に映るいじめっ子だった。

 

 全てが、嫌いだった。

 

 敬刀には、極限に嫌っている人間達が居る。

 敬刀は人間の低値を知っている。

 最大級の怒りを、憎しみを、軽蔑を、体験として知っている。

 

 この程度じゃ嫌いにならないさ、もっと最低な人間を知っているから、と言える。

 このくらいじゃ怒らないさ、もっと酷いのを見たことがあるから、と言える。

 弱い人の味方をしないと、俺にはその痛みが分かるからさ、と言える。

 

 だからこそ、敬刀の人格に対する周囲の評価は高く。

 敬刀の寛容さや優しさは、極めて限定的な例外である和子に対して働かない。

 彼は痛みを忘れない。

 彼が他人に優しくあれるのは痛みを忘れていないからで、その痛みを刻んできた者への憎悪を忘れることも、またないのだ。

 

「お前達みたいないじめっ子になりたくなかった。

 お前達みたいないじめっ子が関わってくる隙を作りたくなかった。

 強くなりたかった。

 何もできない、同情だけされる存在のままで居たくなかった。

 俺の学校のいじめっ子も、ネットを通して現れるいじめっ子も……

 全部『ふざけんな』って吹き飛ばす力が欲しくて、俺は、剣を習い始めた!」

 

 彼の剣をこの域にまで押し上げたのは才能ではない。

 良い師匠ではない。

 練習の効率を上げる環境やライバルでもない。

 

 強迫観念だ。

 『強くならければいじめられる』という思考が常に頭に浮かぶ。

 『弱いままではまた同じことになる』という思考に背中を押され、走り続ける。

 『悪いことをした自覚が無いやつが憎い』という気持ちが、彼の中でいじめっ子に定義される非常に広範囲の者達への憎悪に変わり、彼を強くした。

 

「消えろ」

 

 和子からすれば、過去に味方をしていたつもりの少年から、抜き身の憎悪を向けられた形。

 友達になりたい、そう思って歩み寄って、勇気を振り絞った一歩で恐怖を越えたその先で、最悪の拒絶を叩きつけられた形だ。

 少女の目元に涙が浮かぶ。

 何も言えない。

 何も謝れない。

 言い訳することも、激怒して反抗することも、涙ながらに許しを請うこともできなくて。

 

「俺の前から、消えろッ!」

 

 和子は、目元に溜めた涙をこぼしながら、敬刀に背を向け逃げ出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少しばかり、時間が流れる。

 敬刀は中庭の木に背中を預け、竹刀を抱くようにして目を閉じていた。

 罪悪感か、後悔か、自己嫌悪か。

 何にせよ、先程和子を責めたことを気にしているのは間違いない、そういう雰囲気だ。

 

 馬車で屋敷に急いで戻って来た朔陽は、雰囲気から敬刀の精神状態を読み取っていた。

 

「やあ」

 

「……」

 

「和子ちゃんから大体事情は聞いたよ。

 もー急いで戻ってきた。本当に急いで帰ってきちゃったよ。

 和子ちゃんが僕に抱きついてわんわん泣いて、振り解くのに少し時間かかっちゃってさ」

 

「……」

 

「どうにも離れられなかったから、通りすがりの寧々さんの力借りたんだ。

 巧みに騙してもらって、寧々さんに和子ちゃん預けてきちゃった。

 寧々さんは入れ替わりにも違和感持たせないから凄いよね。

 和子ちゃん多分、まだ僕に抱きついて泣いてると思ってるよ」

 

「……」

 

「でもさ、今は言葉にならない泣き方してるけど……

 多分ほどなく、また僕に何か言おうとすると思う。

 泣きながら僕に語り続けると思う。

 その前に戻らなくちゃいけないんだ、僕は。あの子の話、ちゃんと受け止めてあげないと」

 

「……俺のことはほっといて、さっさと戻って、慰めてやれ」

 

「できるかぎり早く戻って慰めるってのは、そうだね。そうすることにする」

 

 だんまりだった敬刀が、ようやく口を開く。

 

「敬刀くん、和子ちゃんは君を傷付けたかったわけじゃない。

 ましてや悪意があったわけでもない。

 数年前の和子ちゃんも、今の和子ちゃんも変わらないよ。

 彼女はただ、いじめられている誰かの味方になってあげたかっただけなんだ」

 

「分かってる」

 

「考えが足りなかっただけで。想像力が足りなかっただけで。

 優しいだけの女の子を泣かせるのは、よくないことだと思わない?」

 

 朔陽の言葉が、敬刀の心に染みる。

 敬刀の頬の内側が、感情の爆発によって噛み締められた歯に噛みちぎられ、血が染み出す。

 

「放っておいてくれ」

 

 敬刀は朔陽に背を向け、走り出す。

 後を追う朔陽だが、剣道部の脚力に敵うはずもない。

 逃げるように走り出した敬刀は、朔陽が10m進んだ頃には、もう目で追えないほどの遠くにまで逃げ切っていた。

 

「俺はお前が思ってるほど良い奴じゃない。

 若鷺さんは、俺が罵った内容ほど、悪い人じゃない。

 だけど俺は、お前みたいに寛容にはなれない。嫌いなものは嫌いなんだ。

 一度でも加害者になった奴相手ならいくら攻撃してもいい、なんて奴らには、絶対……!」

 

 悲しそうに、悔しそうに、無力感を噛み締めながら、朔陽はその背中を見送る。

 追いつけなかったがために、見送るしかなかった。

 

「敬刀くん……」

 

 髪をくしゃくしゃにするように頭を掻いて、後悔しながら朔陽は空を見上げる。

 

 すると、落ち込む朔陽の耳に、いつの間に屋敷に帰って来ていたのか、どこぞの部屋からクラスメイト達の声が届いていた。

 

「至高は貧乳だろ!」

 

「巨乳こそ究極だ!」

 

 野球少年・井之頭一球。

 異世界転移小説大好き、異世界のプロ・野口希望。

 巨乳派の一球と、貧乳派の希望による、仁義なき一騎打ちがそこで繰り広げられていた。

 

「デカい乳とか垂れるだろ。

 それのどこがいいんだ?

 貧乳は変わらない。それは永遠の美しさだ。貧乳は永遠なんだよ」

 

「花は散る。雪は溶ける。命は終わる。

 だが、いつか終わるからこそ美しい。

 造花にも、雪の絵にも、永遠の命にも美しさはない。

 俺達は儚さに美しさを見る『人間』だからこそ、理解できる。

 巨乳はいつの日か垂れる儚きもの、だからこそ美しいんじゃないか」

 

 うっ、と希望が押し込まれる。

 

「貧乳とか死にサイズじゃないか。デスサイズだよデスサイズ。

 思い出せよ、柔道部の津軽の平たい胸を。男の希望を刈り取る形をしてるだろ?」

 

「馬鹿野郎! 何も無くたっていいだろ!

 いつだって無限の可能性は、何もない場所から生まれてくるんだよ!」

 

「無いだろ可能性。小さい子ならともかく……

 第一運動してるから脂肪と一緒に可能性燃焼してる可能性もあるのでは?

 デスサイズから更に減る。デスサイズヘルだよデスサイズヘル。

 大きくなる可能性を喪失してしまった右乳と左乳が奏でる悲しいデュオだよ」

 

 一球は学年九位の学力を駆使し、普段野球にだけ使っている頭脳を、巨乳の論理的擁護のために使っていた。

 

「貧乳は感度が良いからいいんですー」

 

「貧乳が巨乳より感度が良いという科学的根拠は? 証明は?」

 

「……ッ!」

 

「根拠の無い妄言で好きなものを飾るな。後で後悔するのは自分だぜ」

 

 ソースがない、論理的根拠がない話を主張の論拠に使ってしまった時点で、野口希望の敗北は確定的だった。

 

「おっぱいなんて飾りだ、偉い人にはそれが分からないんだ……

 なんて、言う奴も居るがな。着飾るからこそ、女の子は美しいんじゃないのか」

 

「―――」

 

「おっぱいは艶やかな服と同じで、あればあるだけプラスな飾りさ」

 

 希望は敗北しかけていた。……だが。

 

「……それでも俺は、貧乳は感度がいいと信じる」

 

「お前、まだそんなことを」

 

「女騎士のアナルが弱いと、誰が証明した?

 若くて美人な女教師の実在を、誰が証明した?

 違うだろ! 証明してないことが真実でないなんて、そんなことあるわけがない!

 それは『ロマン』なんだよ! そこにあるのは『そうであって欲しい』という祈りだ!」

 

「―――!」

 

 諦めない心は、奇跡の論理を産む。

 

「乳の大小なんて所詮ロマンだ! ロマンに小難しい理屈を持ってくるんじゃあないッ!」

 

 小難しい論理を乳のロマンに持ってきた時点で敗北だと、そう証明する。

 その論理をぶつけられた時点で、一球は己の敗北を確信してしまっていた。

 

「負けたな。今日は俺の負けみてえだ」

 

「いや、俺の勝ちでもない」

 

「?」

 

「乳に好き嫌いはある。だが勝ち負けはない……そうだろ?」

 

「……ああ!」

 

 ガシッ、と二人は握手する。

 一球と希望の友情が、より強固なものになった音がした。

 朔陽はそれを呆れた目で見ている。

 朔陽の肩の力がガクッと抜けて、その全身にドッと疲れが湧いてきた。

 

「……みんな、君達みたいに肩の力抜いて生きられたらいいのにね」

 

「は?」

「は?」

 

「「俺達がお気楽組みたいな言い草やめろ!」」

 

 深刻な雰囲気で鬱々しい話をやられるより、こういうバカっぽい雰囲気で楽しく生きていてもらうほうが、朔陽としては気楽である。

 だが、そう簡単にそうもなってくれないわけで。

 人間というのは難しい。

 

「何も考えず楽しく生きていられるなら、それ以上の幸せってそうそう無いと思うよ」

 

 朔陽のその言葉は、一球と希望に対する掛け値なしの賞賛だった。

 

「おいおい、どうした? お疲れか? 肩でも揉もうか?」

「ところでサトーって貧乳と巨乳のどっちが好きだ?

 いい子ちゃんぶって『女の人の魅力はそこじゃない』とか言うなよ?」

 

「僕は貧乳でも巨乳でも勃起します。はい、これでいい?」

 

「「おおぅ……」」

 

 疲れてんなこいつ、と、一球と希望の内心の声がハモりにハモる。

 

 クラスメイトが深刻な問題を抱えていても、おバカ組は今日も平常運転だった。

 

 

 


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