美波の奇妙なアイドル生活 作:ろーるしゃっは
──名を、ジェームズ・モリアーティ。
滝の中程に降り立った文香は、眼前に現れつつあるその男の姿に思わず目を見開く。
アップに撫で上げた銀糸の如き色の髪。彫りの深い眼窩の奥より世を覗く、昏い碧眼。オーダーメイドなのであろうか、一目で上質と分かる本切羽のダブルスーツ。ゴート皮の手袋に、左手には重厚さを感じさせる銀の
そう、かの者は高祖父と同等の知を持つ天才にして、表向きは学内でも評判の良い数学教授。また哲学にも長け、更に公私問わず欧州中に幅広い人脈を有する実業家でもあった。が、しかしてそれは仮の姿。品格と教養溢れるその佇まいを一皮めくれば、かつて英国中を震撼させた、札付きの大犯罪者の素顔がある。
ゴクリ、と思わず喉が鳴るのを、対峙する青眼の少女は自覚する。先程の言葉に拠れば、彼もまたスタンド使い。それも恐らく熟練の。思うと同時に教授の背後にも目を向ける。そこにあったのは……異様な面貌のヒトガタだった。
全身を色褪せた裾長の
禍々しくも神々しい、相反する二つの要素が混濁した、奇妙なスタンド。清らかに歪んだソレが、彼の魂の像だとでも?思わず絶句する少女を余所に、探偵は重々しく口を開く。
『……更に補足をしておこう。この空間はあくまで私の過去記憶の投影であり、当時の私の立場を君に置換しているだけだ。スタンドが発現しなければ、どの道君は死を迎える。よってこれから君がすべきは──』
探偵は子孫に語る。みなまで言わずと、分かるだろう、と。
「……自分を土壇場まで追い込んで、スタンドを制御しろ、と?」
『
……単純、だって?なんて、簡単に言ってくれるッ!でも……
(…………やらなければ、死ぬだけ……!)
頭で理解してはいる。しかし心中に募るのは……正直に言えば、恐怖であった。証拠に膝は笑っているし、心拍数だって動悸かと思う程に最高潮だ。
こうやって彼と喋りつつ気を紛らわせてはいるものの、恐らく衝突は約数秒後に迫っているだろうから。
……そんな時、どこか白昼夢を見ているような感覚を覚えていた彼女の脳裏にふとよぎったのは、つい先日経験した、ステージの上からみた景色。そして共に歩いてきた、Pと友人達の顔だった。
スカウトされて出会って、あっという間に親しくなって。レッスンの傍ら同じ大学に行ったり、寮にお邪魔したり、不思議な石の話をしたり。三か月足らずだけど、その経験は今まで本と勉学に没入してきた彼女の人生の中で、考えられないくらい濃密な時間だった。
ライブだって規模こそ慎ましやかなものだったけど、熱狂的で、幻想的で、華やかで、まるでなにか……「魔法」をかけてもらったみたいで。夢みたいな時間だった。
(……夢みたいでしたけど、あれらは確かに「現実」でした。そして────)
──自分が今いる冗談みたいなこの空間も、同じく現実。
少女がふわふわした心持ちを多少落ち着かせると、同時。男の革靴の爪先まで、彼を象る全身が投影され終わったかと思うと、長身痩躯のその男はゆっくりと瞼を二、三度瞬かせる。……投影が、完了されたようだった。
☆
ぱちぱちと目を瞬かせた男の瞳に、電源が入ったかのような意志の光が宿ったに見えた時、彼は出来たばかりのロボットのように眼前の生命体へ挨拶をしてきた。
「……どうやらお待たせしたようだネ、お嬢さん。警察ごっこでもしに来たのかい?それとも……あのいけ好かない探偵の知り合いかね?」
聞こえてきたのは、妖しげな魅力すら秘める妖艶なバリトンボイス。しかも彼の口から漏れ出たのは、ネイティブスピーカーと聞きまごう程の流暢な日本語。一体、どこで?……いや、バイリンガル如き、かの教授ならそれ程驚くには値しないか、と考え直す。むしろ色々と一杯一杯なこっちには、英語じゃなくても対話ができるならその方が好都合。此処はなんとか言葉を返すべきだ。
「……かの探偵の名代として参りました。私怨はありませんが私情により…………」
貴方を、止めさせて頂きたい。言い放った彼女に、紳士は軽妙に口を開く。
「……その発音、やはり見た目からして日本人で当りとみた。しかし……歩き方と筋肉量からして、どうも荒事には不慣れのようだネ」
加えて懐には銃も無いようだし、一体何をしに来たのかね?問われた彼女は思わず返事に詰まる……と同時に気付く。
…………しまった!カマをかけられた上に黙ったら、肯定とほぼ同義じゃあないか!焦燥が浮かんだのを表情から消したつもりではあったが、それも彼にはお見通しだったようで。
「……命のやりとりをするには、君は些か若すぎるきらいがあるねえ。まして……私を止める、などと」
ニィ、と初老の男の口元が半月を形作る。これは──来る……!
「──先ずは小手調べ、といこうか」
台詞と共に彼の後ろにあったヒトガタは音も無く掻き消えたかと思うと……無数の蝶へと瞬時にその姿を変えた。
「我が
昆虫となって飛んで来た飛翔体は、音もなく彼女の近くに寄ってくる。警戒して思わず身を固めるも、よくよく見ればそれは…………
(これは…………黒揚羽?)
宵闇がごとき黒を湛えた中に、コバルトブルーに似た青を散りばめた揚羽蝶。戦場とは不釣り合いな美しさを備える無数のそれに瞬く間に取り囲まれた、その時────
『────ソイツから距離を取れッ!!』
叫んだ彼に襟首を掴まれ抱えられた、と思った矢先。目の前で瞬きする程の時間で蝶が粒子になったかと思うと、大気に溶けるようにして掻き消えた。瞬間。
「……なッ…………!?」
横合いから殴られたかのように、唐突に視界がグラリと傾いた。後方へ着地すると共に咄嗟に前へと崩折れて、地面に手をやり息を吐く。
……何だ、今のは?少し近づかれただけなのに、まるでそう、何か得体の知れない劇物でも吸い込んだかのような………………まさかッ!?
『その通り、毒だよアレは』
彼女の思考を予測したのか、背後より明察な声が耳朶を打つ。
『一見蝶に見える
「……そ、それじゃあまるでBC兵器じゃないですか……!」
鏡がなくとも、自分の顔が青ざめていくのが分かる。であれば自分はたった今、あわや死ぬかも知れなかったのだ。
にしてもなんてえげつない。もし人口密集地で一斉散布されれば、凄惨なテロすら起こりかねない代物だ。そして、よりによってわが高祖父は、そんなのと一戦交えろと!?
(ど、どうやって勝った……いや、引き分けたんですか、確か)
移動しながらも敵のスペックを吹き込んでくれる彼の話によれば、殺人の手段として彼が生前よく使っていたらしい手口の一つがあの蝶である、との事。成る程、遠隔操作でアリバイが確保できる上、肝心の証拠となる凶器は霧散する。まともなDNA鑑定も無い時代だ、完全犯罪は高確率で可能だっただろう。
そもそもスタンドの存在自体がほぼ知られていない時代、名士であった彼は警察の嫌疑の対象にすらならなかったのだろう。しかし事実は彼の風評と全く裏腹。そしてそんな男、モリアーティが駆使したのが……
『群体型スタンド、アステロイド。毒の効果範囲は1羽あたり半径15cmが関の山。また同時に展開出来るのは精々10羽が限界だ。がしかし、当のスタンドの…………』
「……折角だ、私がスタンドを使役出来る有効
引っ張られるように回避を行ったからか、息があがっている文香に呼びかける探偵の声。それをまるで聞こえているかのように遮った、教授の言葉の続きは。
「…………300kmさ、お嬢さん」
即ち、何処へ逃げても無駄な足掻き。この距離からでは…………逃げ場は、ない。
☆
『──おっと!危ない危ない』
咄嗟に彼女を抱えて再び後方へ跳び跳ねる探偵。されるがままの少女の顔色は、既にして蒼白だった。思わず涙目を高祖父に向ける文香。……先のジャブだけでもう、その心はあっさりと折れかけていた。
『闘らなければ死ぬよ。それでも……かい?』
心中を見透かすように言われた当の彼女は、彼女なりに必死だった。殺気にアてられた、といった方が正しいだろうか。恐慌と焦燥とが心奥を支配する。
怖い。怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い!喉元を蝶が掠め、実体あるそれが高速で飛び交う影響か、捲れ上がった石飛礫が頬に向かって弾け飛び、一筋つつ、と血が垂れる。
…………これが、闘い。いや、命の奪り合い。そもそも斬る?撃つ?殴る?そんな切った張ったが、私に出来るわけ……。
カチカチと、歯が鳴っているのが自分でも分かる。そんな時だった。
『……すまないが出来るだけ急いでくれ、フミカ。思ったより私の磨耗が激しいようだ。もうあまり時間がないぞ──』
いつの間に、いや闘っている最中からだろうか。彼の身体はまるで、希釈でもされているかの如く徐々に薄くなってきていた。それは……表立って現れた、言わば魂の綻び。
実に四半世紀ぶりとなるスタンド能力の使用。堅牢な空間を展開し、強大な敵を自らの精神力を贄として顕現させる。加えて係累とはいえ他者の魂までをも招聘し、それを抱えて逃げ回る。
並のスタンド使いなら行使すら難しいそれらを、顔色一つ変えずに並行して行う彼の精神力の強さは、恐らく星の一族が持つ黄金の意志にも匹敵するであろう。ただし、それも全盛の頃なればの話。戦場から離れて数十年。止まった時間の中にいた筈の彼の魂は間違いなく、いやここにきて「時間」という原理に晒され、急速に衰弱しつつあったのだ。
錯乱に近付きつつあった彼女の精神は、彼を蝕む新たな変事によって急速に冷却されていく。
「…………それって、どういう…………」
……どういう、事ですか。振り返ってそう問いかけるも、見る間に彼のシルエットは淡く疎らになっていく。
『卑近に言えば──「天国」に行くのさ。尤も、私は敬虔な信徒とは言い難かったがね』
言葉の意味するところは、つまり。……でも、そんな時でもいつもの物言いを欠かさない彼が、どこか今は憎らしいくらいで。
『元よりいずれ私は此処から消える定め。第一にだ、死んだ人間の魂がいつまでも幽霊よろしく現世に留まっているなど、本来不健全極まりない。よって……』
「でも、でもそれじゃあ……!」
言わんとする事は…………いやでも分かってしまう。先程まで心に去来していた嵐とは、全く別の感情が音を立てて迫りくる。名を……惜別。
『何、君の処遇は心配しなくていい。命に賭けても助けるさ。だから……そんな顔をするんじゃあない、
女一人抱えて尚、労わるように声をかけてくる。しかし呼びかけられた少女の瞳には、いつのまにか大粒の涙が溢れていた。
……違う。今聞きたかったのは私の事じゃない!それが分からない彼じゃあないだろうに。
何のことは無い、「君が呼んだから出て来れた」、なんて最初から、彼が気を利かせた戯言だ!今ならば理解できる────彼の命と引き換えに、私は助けられたのだと!それに……今、今気が付くなんて!やっと、人の事を初めて名前で呼んだくせして!
(……なら、ここで、私が立ち上がらなければ……!)
……でも、怖い。勇を示してくれた高祖父に応えられない。この頃に及んでそんな自分が嫌になる。そも訳も分からぬまま、茫漠とした状態でここまで来てしまった自分に、出来るのか?
(……闘うのは、正直言って怖い……です……)
正真正銘の土壇場。そんな文香の脳裏に浮かんできたのは走馬灯……ではなく、やはりというべきか今まで経験してきた、たくさんのヒトと場所の記憶だった。
鮮やかに蘇る、友人達と家族、叔父にプロデューサーの表情。慣れ親しんだ郷里の風景に、学内のキャンパスと研究室、お気に入りの古本屋と服屋に喫茶店。渋谷たるき亭に346プロ。眩いばかりのステージと、笑顔の観客達。
(…………でも、これから先にあるのでしょう、たくさんの感情と出来事を皆と共有出来ること。それを…………
虫をも殺せぬ、心優しき少女の魂は。
(そして今の私では……此処で死なせたくない人を、助けられない…………!)
自身の勇気を見つけることで『変質』する。
(自分ではない誰かのためなら、知り得ぬ多くを識るためならば、きっと私は………………!)
────スタンドの制御には、闘争心が必要不可欠だという。ならば自分がそれを奮い立たせるにはどうすれば良い?
……正直な心と、向き合えば良い。無理に虚勢を張らなくていい、はたまた
(……私は、此処で結ぶ……!)
悪寒は留まるところを知らない。毒と熱とで疲労困憊。寄る辺をなくした身体はフラフラ。それでも、それでも…………!
思い出せ。緋色の研究、巌窟王、エトセ、etc。書に記された彼の姿を、今やらなくて、今喚べなくていつ
求めるのは、自分自身の魂の
(───来て下さい、私のスタンドッッ!!)
「
既にソレは、絶叫に近かった。生まれて初めて、喉が壊れるくらいに腹の底、心の奥から只々叫んだ。
そうして、一瞬だろうか、或いは永遠とも思われた刹那の瞬間に終局が齎された、その時だった。
『わふ』
────どこか間の抜けたそんな声と共に、黒くて大きい、一匹の犬が少女の
☆
子象程の大きさはあろうかという体躯。烏の濡れ羽色をした毛並み。犬というより狼にも似たスマートな風貌に、知性すら感じさせる碧く輝く瞳。全身から立ち昇る、闘気にも似た陽炎のような青いオーラ。
それは一匹の巨大な…………犬だった。具体的に犬種を添えるとラブラドール・レトリバーみたいな。
「え…………?」
緊迫した場面にも関わらず、少女の喉から思わずそんな声が出た。いや、状況的に多分……私のスタンドだと思うのだけど。……あ、目が合った。結構つぶらで可愛い。
「隠し玉は何かと思ったら、珍妙な犬を喚び出すとは……」
これは傑作だ、と声がする。彼女の鼓膜にそう届いたのは他でもない、酷薄な老紳士の声。弾かれたように文香が立ち上がる……より早く、音の発せられた方から彼女を守るかの如く、黒き守護者は少女の前へと進み出た。と認識する間も無く、息を吸い込んだかと思うと…………
『──Gaaaaaaah!!!!!!』
「ッッッッ!!??」
音のブレスとでも呼ぶべき凄絶な
耳鳴りという思わぬ余波が自分自身にまで及んだ文香は、遅ればせながら咄嗟に耳を両手で押さえる。土埃まで待っているのだ、物理干渉できる何がしかも能力としてあるのだろうが、時間稼ぎにも丁度良い、と判断したのだろうか。
……数瞬のちに、土埃が収まった。目を擦りつつ果たして音撃の飛んだ先を見てみると…………萎びるように地面に落ちた、いくつもの蝶の姿があった。
(……今ので、スタンドを無力化したのですか……!?)
推察する彼女の予測が正しければ、正に願った通りの能力を手に入れたことになる。が…………
「吠えるだけの虚仮威しなら興醒めだ。勿論、これだけではないんだろうね?」
遠くから、そんな声と姿が見えた。顔をしかめて耳を押さえる、宿敵は未だ健在のよう。……些かの痛痒は与えたようだが、決定打には至らずか。
「ならばそろそろ私も……奥の手を開帳しようか」
彼の背中に再びスタンドが出現したかと思うと、幽体の背に人間大の巨きさをした、青アゲハの羽が顕れる。急拵えの紛い物の翼をはためかせるそれに抱えられたかと思うと、彼は。
「飛ん、だ…………!?」
バサリ、と音を立てて一気に中空に飛んだ彼の周りに、行きつく間もなく再び蝶が形成され始める。
……上空から、一方的に攻撃する気か!敵の真意に気付いた彼女の、脳裏にはためく警告音。地を這う獣が、空飛ぶ相手に勝つ術はない。単純だが強力だろう手段に万事休す、と彼女が感じたその時だった。
……黒き獣は、彼女の傍を風のように走り抜けると、瞬く間に対象を見据え、そこに向かって……飛翔に近いレベルの、勇断な跳躍をみせた。
ついでとばかり更に空中で一回転、まるで朝飯前とでもいうかのように、蝶の右羽とスタンドの片腕とを────まとめて
「何ッ……!!?」
刹那の瞬間に強大な
「いけない!」
文香の口から、またも大声。彼女に彼を二度も殺す気はない。あくまでスタンドの制御が出来れば良いだけなのだ。駆け寄った滝の際から覗くと──崖から自生する木の枝に服が引っかかった、教授の姿がそこにあった。
右腕からは夥しい量の出血が見受けられる。……スタンドの負ったダメージの、フィードバックが本体に来たのだろう。早急に手当てをしなければ……恐らく長くは保たない筈だ。
「…………ふん、こうもあっさり、やられるとはね」
口から一筋の血を流す男は、それでも少女を見上げて気丈に語りかける。形勢は、余りにあっさりと逆転の機を得たのだ。
「最後だ……名前だけでも、教えてくれ。自分を殺める者の名を、ね」
苛烈にも聞こえる問いに、私は貴方を殺める気など……と少女が返そうとした時。
『わん』
その声に背後を振り向いた少女は、顔に渋面をつくっているーどうやら不味かったらしいー犬と再び目が合った。……自分が代わりに答える、とでも言いたいのだろうか。
……すると何ゆえか、天啓の如く少女の頭に意思が伝わってくる。まるで秘められたスタンドのチカラが、直接転送されてくるかのよう。この技能、それは…………
「……鷺沢、文香。スタンドの名を『ブライト・ブルー』。特性は──」
『分析と、分解』。
自分で考えるというより、映像を拾った受像器の如く彼女の口から漏れ出たそれは、奇しくも冒頭の問い掛けへの意趣返しのような言葉。
謎を主食とし、それを解き明かし食らう異形のスタンド『ブライト・ブルー』。たおやかな年若い少女に似つかわしくないだろう獰猛さをも秘める四つ脚の幽体は、しかし絶妙なバランスでもって彼女との調和を為していた。
更に、スタンドの捕食と時を同じくして少女の手元に顕れたのは、手のひらサイズ程の青く輝く栞。「
「……投降して下さい、プロフェッサー・モリアーティ。私は……貴方を殺める気は無いのです」
追い詰め発したその問いかけに、一瞬瞠目した彼はというと。既にして死地にある筈なのに。絶体絶命の状況にも関わらず、其処でフフ、と微笑って呟いた。
「甘っちょろいねえ、お嬢さん。しかし……その甘さは、いつの日か自分を殺すぞ?──こんな風に、ね」
──
『!!』
危機の再来に刹那の差で風の如く割り込んだのは、やはりというべきか彼女のスタンド。獰猛な唸り声を短く挙げ、対象を噛み殺さんとするも。
「待って!」
すんでのところで割り込んだ後ろからの文香の叫びに、獣はぴた、とその動きを止めた。見上げる形のモリアーティは、
「……お嬢さん、君は今、確かに一度死んだ。かの男の血を引く者など本来なら殺し尽くしてやるところだが……しかし初陣で胆を示すその心根に敬し、此度は君を殺めない」
それだけ言うと銀髪の老人は、意志表示とでも言うかのように二羽の蝶を霧散させた。悪魔の名を冠された毒の化身の消失。手加減とでも言うべき驚きに眼を見開く文香に対し、ニヒルな笑みを貼り付けた壮年の伊達男は、掠れた声で言い残す。
──さよならだ。次に逢ったら今度こそ……佳き死合をしようじゃないか。
さながらそれは、老境に差し掛かった男の死に際の妄言か、はたまた二度目の遺言か。言い放った男は枝を掴んだ左手を放し、至極あっさりと崖の下へと落ちていった。
「…………駄目、でしたか……」
死闘の終わりは、存外に呆気ないものだった。哀しさも篭った少女の独白と同時、パキン、とガラス細工のような音を立てた手元の栞はその形を崩し、大気の中へ跡形もなく溶けていった。
☆
そうして、ナポレオン・オブ・クライムと呼ばれた男は奇しくも二度、速度を緩める事なくして、深い滝壺の底へと落下。さしのべられた筈の
奈落の如く口を開ける死に吸い込まれていった彼を見下ろす、彼女の額に皺が寄る。其れは安堵と……韜晦の表れだった。
……なんとなく、分かってはいた。相手は、こんな年端もいかない小娘の言うことを素直に聞いてくれるような人間ではない。結局彼が何を思って私と一戦交えてくれたのか、何故敢えて手心を加えてくれたのか、いまだに多くの疑念を残したままに。
…………ともあれ、一応。
「勝った、とはいえませんね…………」
先程まで我慢していた倦怠感が嘘のように、心身共に──ーいや今は厳密にいえば魂だけなんだけど──快調かつ冴え渡っている。スタンドの制御に成功したことを示すのだろうが、心に去来するのは安堵と、どこか後味のよくない感触であった。
そう、闘って得られたのは陶酔でも高揚でもなく、ひたすらに苦い心持ちだった。自分に酔うには余りに賢く、敵にも拠るほど余りに繊細。それが、鷺沢文香という少女の形質なのだから。
奇しくも初めて命の遣り取りをし、見事に初陣を白星で飾った少女は地べたにも構わずぺたり、と土の上に座り込む。ああ、そうそう、目下のところの問題はもう一つ。
『わおん』
この黒くてデカくて毛並みの良いわんちゃんをどうするか、である。恐らく……というか間違いなく自分のスタンドで確定なのだろう。何せ自分の体調が段違いに良い。制御に成功した証だ。
てことで早めに此処から出る為にも、意思疎通が相互に出来れば助かるんだけど。
「人語を解するのは兎も角、話すことは……流石に難しいですか」
『容易だが』
「ええっ!?」
☆
思わず座ったまま器用に後退り。瞬きして此方を見つめる黒犬は、どうやら人の言葉を喋るようだった。
『てっきり分かっていると思ったのだが……ふむ、犬語は理解出来ないかね?』
「無理です…………ってその口調、まさ、か…………」
彼女の目の前にあるのは一見すれば、器用に後ろ足で顎をかきながらあくびをする大型犬。しかしその口から飛び出てきたのは、不遜ともとれる明瞭な語り口。二回目の欠伸を噛み殺した四つ足の理知ある獣は、さも当然のことのように言葉を続けた。
『そのまさか、さ』
犬になるとは流石に想定外だが。述べた声と口調は、先程別れを告げた筈のソレそのものだった。奇跡、というにはあまりに都合が良すぎるだろうか。祈るように、どこか確かめるように少女は近づいていく。
「ほ、本当に…………『貴方』、なんですか……?」
恐る恐る、尋ねたところ。二つ目の欠伸を噛み殺した大型犬から返ってきたのは、
『高祖父を犬にするとは、とんだお転婆娘だね。でも……「有難う」、とも言わせてもらおう』
姿は全く違うもの。しかし外見が変われど、それでも再会を半ば諦めていた少女にとって、予期せぬ二度目の邂逅は嬉しくてたまらなかった。
「…………良かった、本当に…………!」
叶ったのだ、私の叫びは。キセキみたいな確率を、どんでん返しを引き寄せた。喜びの勢いのまま彼女にしては珍しく飛びついて、気付けば犬を抱擁する……にはちょっと大きすぎたので、傍目からみるとモフってる絵面になる。
一方で、犬の方はというと。
(獣の如く振る舞える一方で、基本的に私の知性はそのまま、か。本来は声帯の構造的に無理な筈だが、犬の姿のまま人の言葉も喋れるようだ。待てよ?ならば人の姿にも戻れるのか?試しに……そうだな、スタンドを使う要領で強く念じてみるか…………)
玄孫に飛びつかれようとどこまでもマイペースのまま、思いつきで考えたことを実行する。
……すると、ポンと空気の抜けたような音を伴って、これもまた拍子抜けする程にあっさりと人の姿に戻れてしまった。
『ほう。一瞬戸惑ったが、なってみたらみたで便利なものだ。犬型であり人型のスタンド、か。暫くは私自身が良い探求材料になりそうだ…………どうした、フミカ?』
「〜〜〜〜〜〜!」
声にならない声を出し、先程から自分の首筋に顔を埋めてフリーズしている、玄孫に思わず言葉をかける。…………スリーピースを着た眉目秀麗な若い男を思い切り抱き締める、スキャンダラスな新人アイドルの姿がそこにはあった。気のせいか顔が赤い。
『生前は謎を紐解き、死しては謎を食むとはね。これは実に面白い』、などと述べてカフカよろしく、突然動物に変貌したのに対した動揺もせず順応し、むしろ楽しんでいる彼の方がアレなのだろうか。
独り言を呟く彼に、急な衝撃からやっと立ち直った少女はおずおずと話しかける。流石に抱擁し続けるのは辞めた上で、だ。そもそも自分の先祖に恋慕する程、彼女は倒錯してはいない。ないったらない。
「……あ、あの、犬が混じっちゃったのは多分…………」
『バスカビル家の魔犬だろうね。因みに実に良く似ているよ』
水溜りを湖面の鏡代わりに彼は呟いた。
それもあるけど、小さい頃私がテレビで見てた擬犬化ホームズアニメの影響もあったかもしれません、と言いかけてやめた。…………多分これは、墓の下まで持っていく秘密になるだろう。
というかシャーロック・ホームズをイメージした筈なのに、蓋を開けたら黒ラブが出て来るとは我ながら予想外だった。一応眼が青いから
…………なんだろう、俵万智のサラダ記念日みたいだ。
『しかし驚いたよ。まさか私の
言いながらも興味深げに自分の身体を眺めつつ、また犬の姿に戻って浮遊してみたりする名探偵。適応するのが早すぎである。
『……恐らくだが、魔本に残した残留思念たる私の魂が消えると同時、私は完全に消滅する筈だった。しかし土壇場で君が深層心理に描いた私のイメージに、この魂自体が引っ張られた、と。案外と無謀な賭けをするねえ、君は』
嫌いじゃないけどね、そういうのは。付け足した彼は、頼りない残滓が漂っているのみだった数分前と比して、今やさっきよりもずっと確かにはっきりと、青いオーラを纏いつつ、カタチをとって存在している。漏れ出す強い力は、彼女が示した覚悟の成果とも言えよう。
「お褒め頂き光栄です」
どうやら少女の「彼を助ける」という意志は、予想外の方向ではあったが無事に結実したようだ。
そして、日頃控えめな文香にしては珍しく、心なしか力強く彼に問う。
「では…………改めて『契約』致しましょう、Mr.ホームズ。貴方は今日より本の妖精さんではなく、
──死出の旅に漕ぎ出されるのは、まだ早いのではないですか?
おまけに一言、付け足すことも忘れずに。先ほどまでテンパっていた女子と同一人物とは思えない。一方言われた彼はというと、思わず心中で破顔していた。
(……まるでよくある、安い喜劇の結末のようだね。まさか、こんな年端もいかない少女に命を助けられるとは。それも、かのシャーロック・ホームズが、だ!自分の子孫とはいえ、感動的な別れを演じて冥府の旅に漕ぎ出さんとする筈が……分からないね、人生とは)
眼を閉じ、一瞬後に見開く。見据えるのは、自らの瞳と同じ輝きを宿した、若き少女の大きな碧眼。
『いいだろう、乗りかかった船だ。手を貸すよ、我が玄孫よ。これでいいかい?』
「はい。……破ったら、承知しませんよ?」
そういう彼女は、しかし口調に違わず穏やかな笑みを浮かべていた。
(……このやり取り、まるで
名探偵は心中で、密かにそんなことを考える。…………格好が犬だからいまいち締まらない絵面なのは、ひとまず横に置いといて。
☆
移動の安定化まで少し待っていてくれ、と彼が述べた空間で、彼女は激闘も冷めやらぬ中、名探偵から注釈を受けていた。制御は無事に成功したし、彼女の本体も平熱に戻りつつあることだろう。ちなみに注釈の主題は、かの教授についてである。
『私の調べた限りでは、彼にスタンドが発現した時期は21歳の時だ。当時アリゾナ砂漠に旅行に出かけた彼は、恐らくそこでスタンドを発現した。それから程なくして英国王立アカデミーに「小惑星の力学」という奇怪な論文を上辞。やがて……』
「……ロンドン最悪のスタンド使いになった、というわけですか。ですが…………何故彼はそうまでして凶行に?」
そう、未だにネックとして引っかかる。先ほどまで話していた「彼」の瞳には狂気だけではない、理知の心も確かに宿っていた。快楽殺人者といった風情でもないし、金も名誉も地位もある。ロンドンでは名の知られた名士だったのだ。そんな人間が、一体どうして犯罪なんて……?
『分かたれた「聖人の遺体」を渡さぬため。生前彼はそう言っていた。ブラフで述べたデタラメの可能性もあるが、彼の言葉の意味することがもし本当なら……』
そこまで言った彼は、まるで「しまった、言い過ぎた」とでも形容できるような、苦虫を噛み潰したような表情を一瞬浮かべた。
「……聖人?」
文香の頭に疑問符が浮かぶ。安直だが、かのイエス・キリストのことだろうか。考え込み始めた玄孫をみて、まあこれに関しては機を改めて話すよ、とホームズ改めブライト・ブルーは述べる。
『そんなこんなで、彼には実に手を焼かされた。私の妻、ああ君の先祖でもあるんだが……彼女を彼の一派に攫われたりとか、実に色々とあったんだ。もっともそれが切欠で連れ合いになったのだから、人生何が起こるか分からないとはよく言ったものだね』
何ですかそれ。初耳なんですが。
「すみません、その人ってもしかして…………」
『
そう言って珍しく微笑んだ彼だが、子孫の方はやっぱり気が気じゃない。諦めかけてた自分の血のルーツの全容が分かりそうなことに、新たなびっくり。
(ということは、探偵と女探偵のラブロマンス……?から生まれた子供が私の曽祖母だったと。成る程、我が家系は謎解き一家だったのですね。ならさしずめ、私は平成のホームズという事ですか……?……いや、この称号はあまりよろしくないような…………)
因みに、この世界線に米花町は存在しない。日頃暮らしているだけで身の回りでしょっちゅう陰惨な殺人事件が発生するなんて町は、かつての杜王町くらいである。
まあモリアーティやら切り裂きジャックが暗躍していたかつてのロンドンなら兎も角、現代日本にそんな物騒な町が沢山あっても困るのだが。
(……今更ですが、女性にあまり興味がないキャラクターだったと思うんですけど実態はどっちだったんですか……むしろ女嫌いの気があった、とまで言われてるのに……ええ……?)
全シリーズを読破してることもあり、なまじ詳しいばっかりに子孫の思考がぐるぐるしてるとはつゆ知らず、当の高祖父は悠々自適とばかりまた言葉を切り出す。
『さて……うん、大丈夫そうだ、フミカ。それじゃあ──』
彼の言葉と同時、青い輝きと共に空間は流転し、元の書斎へ立ち戻る。いつの間にやら椅子に腰掛けていた彼は、音もなく立ち上がると一つしかない部屋のドアへと歩を進め、そのまま──実際はベイカー街への出口だろう──ドアノブを回す。
しかしドアの先にあったのは、やはり眩いばかりの青い輝き。ほら、とばかり彼は文香に片手を差し伸べる。階級社会の上層社交界で培われた英国紳士のエスコートに、彼女は思わず手を取っていた。
────そろそろ外へ、戻るとしようか。
☆
扉を潜るとあら不思議、そこには見慣れたいつもの部屋が待っていた。そして──
「や、やっと戻れました…………」
思わず自分の身体を両腕でかき抱く、黒髪少女の姿と。
『結果オーライ、というやつか。何故か僕のスタンドも生きているのは想定外だが』
スタンドを使役するスタンドとは、僕自身が実に興味深い珍品じゃあないか、などとのたまうホームズの姿があった。そんな彼の言葉に釣られて、文香はふと彼の
綴じた筈なのに開かれていたページには文字が一切なく、代わりに写真と見まごうほど精巧な、先ほど通り抜けた覚えのある、一枚の扉の絵が描かれていた。本を所持して以来十年余りだが、こんな箇所は初めて目にした彼女だった。正直言って疲労困憊……というか、もう色々とお腹いっぱい。しかしそれでも頑張って問うてみる。
「……あの、こんなページ、ありましたっけ……?」
『隠しページさ。仕込んだ
希書にして古書、そして魔本にして聖典。そう彼は嘯いた。他にも認識阻害で誤字をわざと表記したりする機能とかがある、とのこと。どうやらこの本、思ったよりもとんでもないものだったらしい。擬似的などこでもドアまで内蔵しているとは恐れ入った。
にしてもいい加減身体が重い。眠気も疲労も限界だ。そろそろ起きているのがつら、く…………
『ただフミカ、君は根本的に「人を殴る」意志が欠けているな。これではバリツを教えても……フミカ?』
「…………きゅう…………」
何やら彼が解説を始めんとしたその時、玄孫は目を回してへたり込んでしまった。咄嗟に抱えるとぐったりしている。……どうやら、ここにきて疲労が一気に押し寄せたらしい。額に手を当ててみると、平熱ではある。が……
(……虚弱体質……ではないか。血色は悪くなく呼吸と脈拍は正常。本人からは酒気も感じない)
そこまで考えるはいいがその後、彼お決まりの観察癖が首をもたげる。ついでとばかりにやるそれら、文字に起こせば……
(……肌、髪共に艶があり服装は清潔。歯並びは良好で欠損もみられない。部屋に酒瓶と灰皿は無く、念のため両腕に注射痕や自傷痕は……ないな。となれば勘案して洗濯、入浴、歯磨きは習慣付いており、加えて酒も煙草も薬物もやっていないか。結構結構)
そして悪癖を通り越し、もはや技術と化した彼の推理はこれだけに飽き足らない。
(抱えた重量感からしても、やや軽いが十分健康体の範疇。常備薬の類は部屋に無く、恐らく持病持ちでもない。若く基礎体力もあるなら、この程度で重篤な事態に陥ることはほぼ無い。要するに…………)
疲労だな。ならば休養が必須か。ほとんど一瞬でそこまでの思考を終えたのち、眉を跳ねさせた若々しい高祖父は結論を秒で導いた。
(問題は発汗か。汗を流すか拭くかして水分補給に努めるべきだが……)
いやしかし。彼なりに気を使う時もあるのだ。疲れ切って寝ている子を起こすのもなんだかなと。それに。
『困ったな。玄孫とはいえ年頃の婦女子、私がひん剥いて風呂に放り込む訳にもいかない。どうしたものか』
名探偵でも、上手い解法が出てこない時はあるらしい。
☆
「成る程、だからタオルケットをかけてしばらく放っておいたと」
きっかり30分後に目覚めた後に入浴を済ませ、濡れた髪を乾かしたのち今度は化粧台の前で顔に化粧水を薄く塗っている彼女、鷺沢文香はそう述べた。肌の手入れは女性の嗜みである。尤も昨今は男でも大勢やってるが。
『まあね。何、もし寝ながら嘔吐でもしたら回復体位をとっておくくらいのことはするさ。
飛んできたのは絶妙に斜め上の返答。誰がしてもいない寝ゲロの対応について話せといったのだろうか。
「……多分、お世話になることはないと思います。…………しかし、なぜわざわざこんな手の込んだことをしたのですか?」
渾身のスルー力を発揮して聞きたいことを聞く彼女の疑問、それももっともだ。彼曰く、「通常は所有者が死亡すれば同時に消滅する」筈のスタンド。それに延命措置を無理やり施すような真似をしてまで、意識として留まっていた理由とは?
『記憶の継承。ただそれだけさ』
「……え、本当にそれだけですか……?」
『ついでに未来を少しばかり見学したかった、というのもあったがね。結果として係累の危機も救えたことだし。ただ……』
見ていて思ったのだけれど、君は……どこか私に似ているね。青い瞳の男は語る。
『一見柳腰だが、君の内面はまるで私を観ているようだった。「探求のためなら、一般的倫理観を投げ捨てられる」点など特にね』
言われて彼女は思わず黙考。身を危機に晒しても知を、理を、解を求めるその姿勢。それは別段普通のこと…………いや、本当にそうか?
例えば、だ。普通の人なら、殺人犯に会った時はどう反応するだろうか?……示すのは拒絶か恐怖、或いはその両方だろう。ペストのように一般から隔離し、断種されて当然の部類に入る生命体。それが
だと言うのに自分は恐怖さえしたものの、彼を忌避するどころか対話を試み、あまつさえ…………その心情を識ろうとしていた?
『フミカ。君のような優しい子は、スタンド使いには本来向かない。闘争心がなければ御しきれないからね。敵にすら情けをかけるなど、本来は唾棄されて然るべき考えだ。でも、君は生きて今此処にいる。その理由を求めるならば、君の優しさこそが答えなんだろう』
碧眼の少女は未だ知る由もないが、栗色髪の親友・美波の祖母も、文香と似て優しい性格の持ち主であった。しかし闘いなど望まぬが故に、DIOの影響を受けて目覚めたスタンドの萌芽を御しきれず、一時は命に関わるような状態にまで陥ってしまったのだ。
思わぬところで自身の常人と外れた感性を指摘された彼女は、正しく自分自身に戸惑っている最中だった。これが私の一側面?
『省みず知を求める心は、君の危うさであり強さでもある。現時点で自覚できたのは僥倖だ。くれぐれも──
同時にそれはどこぞの天才とはまた別種の、彼女自身のアビリティ。そして自分で喋ってもないのに明確に他人の内心を言い当てる、読心術でも持ってるのではと思う推理力こそ、このスタンドが正真正銘「彼」そのものである証左。
「それが、いや、貴方が──」
────私のスタンド、
思わず漏れ出た独り言に、精神体は当然とばかり胸を張る。
『応とも。君が己を貫くならば、君が天寿を全うするまで、私は君を影より
「…………!」
なんだか、格好いい。素直に認めざるをえない。もっとも姿が犬だからギャグパートでしか無いんだけど。今人型じゃなくてよかった。
『ところで、フミカ』
「何でしょう?」
『この家にはコカインは無いのかね?』
君は服用していないようだが、などと付け加えて彼はそんなことをのたまった。……ああそう言えば、そんな描写もあったなあと文香は思わず額に手をやる。格好いい、と思った次の瞬間にこれとは。全くもっててんで締まらないご先祖である。
「……日本では所持も、服用も違法です」
というかいきなりシャブを所望とは、やっぱり現代人とは感性がちょっと違うようだ。
『む、そうか。ならばアヘンは』
「むしろ何故許されると思ったんですか……」
『なんと!アレらは中々に良いモノであるのに、実に勿体ない!』
依存性などニコチンやアルコールとさして変わらんだろう、と言われてもダメな物は駄目である。アイドルであろうがなかろうが、薬物乱用は警察のお世話を免れない。「ダメ、ゼッタイ」というキャッチコピーで乱用防止の啓発をしてた元アイドルだって捕まったのだから間違いない。第一あったとしてもスタンドが服用出来るのか疑問だ。意思を持つ守護霊とやらじゃあなかったのか。
『バリツを生んだ国がなんと嘆かわしい…………よかろう、さすれば矢張りブリテンに戻るより他に無し。荷物をまとめなさい、フミカ。我々は英国に向かうぞ』
「イギリスでも違法です」
玄孫の容赦ない一言に崩折れるホームズ。なんて時代だけしからん、私が愛した大英帝国はもっと寛容だった筈だ、とぶつくさ文句を言っている。
「……晩年は足を洗って、養蜂を営んでいたのではなかったのでは?」
『それはそれ、これはこれさ』
堂々と開き直る世界的名探偵。それでもなんだか様になるのは素直に認めるけれど。
『そうだ、なら葉巻を吸わせてくれ!この店にもパイプくらいは置いてあるだろう?』
「なっ、当店は禁煙です!古本屋ですよ!」
取り扱うものがモノゆえ火気厳禁。柄にもなく大声を出す文香の姿は、普段の彼女を知る人が聞けばさぞ驚くことだろう。む、それもそうだなとあっさり納得しだす彼。
(……大丈夫なんでしょうか、この
小説と違わぬフリーダムぶりは、どうやら真実だったようで。果たして頼れる相棒なのかどうなのか、一抹の不安を抱えはじめた彼女。子孫の煩悶などやっぱりお構いなしに高祖父は尚も喋り続ける。
『しかしだ、私がこうして出てきたとなると、もう片方も息災か気になるな』
「?……どう言う意味、ですか?」
『いや何、空手やら柔道やらを習う内に日本文化に嵌まり、それが高じたのか晩年は日本に住むまでになった
緑茶の?それって。そう思った後、年若い友人の姿が脳裏に浮かぶ。彼女の出身地って、確か……いや、まさか。
幾ら何でも出来過ぎというものだろう。アニメや漫画じゃあるまいし。気付けばあれだけあった熱が嘘のように引いている自身を意識することもなく、思わず戸棚にしまった頂き物のお茶っ葉を、振り返ってはたと見つめる。
……いくらなんでもそんな偶然、と思いながら。
・《アステロイド》
群体型・遠隔操作型。全七二羽の蝶で構成され、所有者とは視覚を共有している。毒を上手く用いれば完全犯罪も可能。能力を応用すれば飛行も出来る。
・《ブライト・ブルー》
動物型。接触したスタンドならなんでも捕食し分解出来る。自動操縦型でもあるので本来五感共有は不可。ただしホームズの魂が癒着した副産物か、彼を介して情報をリアルタイムで交信できる。