「お兄さん、お兄さん!」
馬車から降りて肉屋に向かっていた僕を呼び止めたのは、バゲットを抱えた油屋のおかみさんだった。
市場の道はけっして広くはないから、三十人近くがゾロゾロとねり歩くのはどうかと思い、僕とリュドミラ、サラお嬢様で買出し隊を編成、残りは、ゼーゼマンさんのお屋敷に先に行って、助け出した女の子たちのしばらくの間の寝床を整えようということにした。
ちなみに寝室寝台寝具は、僕ら使用人が使っていた使用人部屋と戻って来た三段ベッドが使えるので大丈夫だ。
「こんにちは油屋のお姉さん、こないだはどうも」
少しわざとらしいと思うけど、最初にこの人にそう話しかけたのでそれを通す。
「あははは、ヤトゥでいいよ!」
「ははっ! ヤトゥさんおいしそうなバゲットですね。僕のことはハジメと呼んでください」
焼きたてのバゲットの香ばしい匂いが、数メートル離れている僕に届いている。
「あいよ、ハジメちゃんだね。ところで、ちょっと寄っていってくれないかい?」
「ええ。でも、オリーブオイルはこないだのがまだありますけど?」
「ちょっと……ね、面白いもんがあるんだ」
それは聞き捨てならない。
僕はおいしいものと面白いものには目がないのだ。
それに、この油屋のおかみさんこと、ヤトゥさんには、つい一昨日、オリーブオイルを一壺買ったときにごま油をオマケしてもらっている。
だからというわけじゃないけれど、この人が面白いものというのならなんか本当に面白いような気がする。
「へえ、なら、寄らせてもらいます。サラ、リューダ、ちょっと寄り道をしよう」
「うん、ハジメ様!」
「ええ、ご主人様の思し召しととおりに」
「おやおや、あんたハジメちゃんの奴隷だったのかい」
「ちがいます! むしろ僕が使用人ですから!」
光速で否定して、僕はヤトゥさんの後に続く。
その後ろを、サラお嬢様とリュドミラが笑顔でついて来る。
二人の笑顔に僕は胸がじんわりと温かくなるのを感じた。
「さあ、ついた。ここだよ」
「え? こないだの屋台は……?」
ヤトゥさんに案内された僕らが到着したのは、立派な店構えの油問屋だった。
「「「おかえりなさいませ」」」
店員さんたちが口々にヤトゥさんにあいさつをしている。
開いた口がふさがらない。
「ありゃ、趣味だ。初心忘れるべからずっていうだろ。亭主とこの商売始めたばっかりのころを思い出すために、たまにやってるんだ。ついといで」
ヤトゥさんが店の奥へと手招きをする。
人がすれ違えるくらいの広さの廊下を通り、油屋さんの倉庫に通された。
「これなんだけどね」
ヤトゥさんが指し示したものを見て、僕は鳩尾が締め上げられるような感覚に襲われる。
手足がぶるぶると震え、視界が涙で滲む。
僕の目の前には、樽が二つと俵が鎮座していたのだった。
「内海を挟んだ向こう側の南大陸の東の外海の浜に、見たこともない船が流れ着いたのが半年前。その船に生きている人間は乗ってなかったそうだ。で、あたしの知り合いの交易商人が、その船に積んであったこれを手に入れて、土産にくれたんだけどね。売れたらその値段の三割をやることになってる」
「へ、へえ、め、珍しい形の樽ですね」
「変な形だわ、転がしにくそう」
「ほんと、見たことないわ」
サラお嬢様たちの声が遠い。声が上ずってるのが自分でもわかる。
僕は明らかにうろたえている。
その樽は、横から見たシルエットが下窄まりのゆるい台形で、タガがこの国では一般的な鉄の輪ではなく、竹を編んだものだ。
僕らが住んでいるヴェルモンの街がある国はもちろん、僕たちがキャラバンで旅をしてきたどこでも見たことがない形のものだ。
それは、たしかに、この大陸では見たことがない形の樽だった。
が、『僕』にとっては、身近とは言わないまでも、見覚えのある形の樽だった。
「ああ、こんな形をした樽、見たこともないよ。タガなんて木の皮みたいなものを編んだものみたいだね。こっちなんて、藁を編んだ入れ物みたいだけれど、藁なんてブリトン人が屋根に使ってるのしかみたことないよ」
俵をぽんぽんと叩きヤトゥさんが笑う。
「うかつに開封して価値が下がったらアレだってんで、口を切らずにもってきたんだ。だから、中身が何なのかわかってないってわけさ」
その中身は一体なんだろう米か炭かはたまた芋か?
米であってほしい。
できれば未精米の籾状態が希望だ。
いや、俵に入っているのが米だとしたら籾状態の確率が高い。なぜなら、米は、精米したとたんに鮮度が急降下するからだ。
そっと、【鑑定眼】を発動。
俵と樽を鑑定する。
【四斗俵】
内容物:米種籾60キロ
【四斗樽】
内容物:清酒
【四斗樽】
内容物:醤油
膝がガクガクと震え始める。
米と醤油と日本酒だ!
「た、た、た、た…たしかに、面白いものですね。きゃ、キャラバンでもみたことがない」
「ハジメ?」
「どうしたのかしら? ハジメ」
僕のあからさまなうろたえ具合に、サラお嬢様とリュドミラが気がついた。
ヤトゥさんが口の端を吊り上げる。
「ハジメちゃん、あんた、この樽の中身わかるだろ」
「どっ、どうしてですか?」
「一昨日あんたにオマケした油あるだろ」
「ええ、たしか、エルルの油っていってましたよね」
「ああ、あのエルル油ね、じつは、同じ難破船に積んであったものなんだ。エルルの実は内海の向かう側の大陸でもとれるらしいんだけどね。この国じゃ、まだまだ知られていないものなのさ。あんた、あの油を一目見てなんの疑いもなく貰ってくれたろ。ふつうは、あんな得体の知れないものわたされたら困った顔するもんさ。だから、あんたはあのエルル油の使い道を知っていると踏んだわけなのさ」
サラお嬢様とリュドミラが間抜けを蔑むような湿った視線を投げつける。
これから作る料理に大活躍してもらう予定だったんだけどな。エルル油ことごま油には。
「あんたにオマケしたエルル油ね、樽のタガが緩んで染み出してたんで中身がわかったんだ。だけど、この樽はしっかりしてて、臭いさえ染み出してこない。ゆすってみるとちゃぷちゃぷいうんだ。中身が油だったらたっぷんたっぷんって感じなんだけどね」
「そ、それは買い被りですよ。僕は解放奴隷ですから」
傍にいるサラお嬢様とリュドミラが盛大に溜息をつく。
呆れてるんだろうな。
「そこで、あたしはあたしは思ったのさ。あんたならこの樽と藁の入れ物の中身がわかるんじゃないかってね。で、あんたの今のうろたえ方ったら……、この中に入ってるのがお宝だって言ってるようなもんだよ」
僕は大きく溜息をついた。
一緒にサラお嬢様とリュドミラも、もう一度溜息をついた
「はあ、ハジメって絶対商人には向いてないわ。ほんっとバカ正直なんだから。腐った水に砂が入ってるって言えば、二束三文で買えたのに」
「そうね、こんなバカ正直者、商人になんてなれやしないのだわ」
二人の褒め言葉に肩をすくめ、僕はヤトゥさんに向き直る。
「はあっ、仕方ないですね。樽の方は、酒か調味料。そっちの藁の入れ物……俵っていうんですけど、さわってもいいですか?」
鑑定眼があることは内緒にしておきたいから、これから中身を検証するふりをする。
「あはははっ! やっぱりか! 判るんだね! いいよ触ってみな」
ぽんぽんと叩いたり撫でたり押してみたり……。
医者が触診するみたいに俵と樽を触る。
「俵は、米の可能性が高いですね。そして樽はやっぱり酒か調味料だと思います」
「米!」
「お米?」
「米だって?」
な、なんだなんだ?
ヤトゥさんが色めきたった。
サラお嬢様にリュドミラまでもが目の色を変えている。
そんな僕のポカンとした顔を見てサラお嬢様が耳打ちしてくれる。
「ハジメ、お米なんて王様だって何年かに一回食べられればいいって言うくらいの超高級食材よ」
僕は目の前が真っ暗になった。
それじゃ、僕なんかが食べられるわけないじゃないか!