ゼーゼマンさんに奴隷身分から解放されたその日の夜、僕は、44番と45番を連れて、奴隷の競売の会場に来ていた。
「南方は銀の国の男。このたくましい体で農耕から剣闘まで何でもこなすよ。こいつは金貨450からだ」
「455!」「460!」「500!」
「500! ないか? 500ないか?」
「650!」
「650! ないか? 650! では650で、アブサロム様に!」
木槌の乾いた打擲音が場内に響く。
一人の男奴隷の競りが終わった。
「4……、ハジメ、娘たちを…、ヴィオレッタとサラをどうか、どう……か」
俺の胸倉を頼りなく掴んでいたゼーゼマン氏の手の力が抜けて行く。
「ゼーゼマンさん!」
「旦那様!」
「ヨハン様!」
僕らのキャラバンのリーダーだったヨハン・ゼーゼマン氏は、あっけなく死んだ。ぼくは、人間の重みをひしひしと感じていた。
債権者の皆様が、ゼーゼマン商会の店舗兼屋敷の隅から隅まで蝗のように漁り、金目のものを奪って行くのを、お屋敷のエントランスホールで僕たちは黙って見ていた。
命がけで運んできた、東方の特産品はもとより、お屋敷の家財道具や美術品貴金属類も全部持っていかれた。
「ヨハン! こんなんじゃとても足りないぞ!」
債権者の一人が叫ぶ。
「こ、この屋敷が売れれば、まとまった金になる。それまで……」
「残念だがそれは無理だよヨハン。ウチだって、君が儲けると思って借金して投資したんだ。今回収できなければ、私も家族ごと身売りしなきゃならんのだよ」
「ゼーゼマン! きさま、奴隷はどうした? きさまのところにはけっこうな数の奴隷がいたはずだが?」
「そうだ、それを売れば、けっこうな金になる……。セコハンだから、使い潰し用になるが、いい値段がつくはずだ……まさか」
ゼーゼマン氏は俯く。
「解放したのか? 全員? なんて馬鹿なことを!」
「きゃあああッ!」
ゼーゼマン氏のお屋敷のエントランスホールに女性の悲鳴が響いた。
「なら、ゼーゼマン! 娘たちを貰って行くぞ」
ヴィオレッタお嬢様とサラお嬢様が下卑た薄笑いを浮かべた債権者に、髪の毛を掴まれ引き摺られるように連れ出されてきた。
「おお、ヴィオレッタ、サラ!」
ゼーゼマン氏はお嬢様方の名を呼びはしたものの、連れて行こうとする債権者の行動を阻止する様子はなかった。
「くッ!」
僕の手は、雑嚢に着けている短剣に伸びていた。
お嬢様方の目を覆いたくなるような近未来が簡単に予測できたからだ。
442番の愛用の短剣は鉈のように分厚く重い。
ヨーロッパの詩人みたいな名前のウルトラマッチョヒーローがジャングルで活躍する映画の4本目で、主人公が自ら鍛えたって言う設定のでかいナイフみたいなゴツイ逸品だ。
短剣の柄を握った右手に力が入る。革鞘に収まった刀身を固定している金具を外す。
ヴィオレッタお嬢様の髪の毛を掴んでいる男まで一足飛び。首に斬り付け、振り向いてサラお嬢様を引き摺っている男の胸を突き刺す。
護衛に殺されるまでに何人道連れにできるかシミュレーションを始める。
ちょ、ちょ、待って。僕、なんでそんな物騒なこと考えられるんだ?
僕は安全安心コンビニな国で生まれ育った軟弱ものですよ。通常の三倍が出てくるあのアニメだったら、軟弱者! って罵られて、ビンタされちゃうくらい惰弱ですよ。
そんな僕がどうして、歯を食いしばって、でかい鉈みたいな刃物振り回そうとしてる?
僕の逡巡をよそに体はどんどん戦闘準備を整えてゆく。
雑嚢に着けた革鞘から短剣を抜き放とうとしたそのとき。
その手が温かく柔らかなもので押しとどめられた。
「いまはだめ」
44番が耳元で囁く。
「でも……」
「今暴れたら、みんなお尋ね者になっちゃうよ。あたしや45番はかまわないけど、旦那様とお嬢様がたはかなりしんどいことになるよ。いいの?」
「でも……」
お嬢様方を連れて行こうとしている男たちは、口々に下衆な言葉を投げつける。
「このお嬢様方は、この街でも有名な上流階級のご令嬢様だ。そのブランドに大金を払う好き物は大勢いるだろうさ。没落伯爵家のご令嬢並みの値がつくぜ」
後ろから、ヴィオレッタお嬢様の……む、胸を鷲掴みにして、好色そうな笑いを浮かべて、皮算用を並べ立てる。
「い、いやぁ」
「お姉様から手を離して! お父様、助けて! お父様!」
お嬢様の声がエントランスホールに響く。
だが、その声に応えるのは、債権者の邪な笑いだけだった。
「俺の見立てじゃ、こいつら、まだ、男を知らんみたいだぜ。こいつらの水揚げ代だけで、全債権の三割は返済できるぞヨハン!」
「娼館に売れれば負債の半分、水揚げ代で更に三割だ。八割をこいつらで返済できるぞヨハン!」
お嬢様方は、ずいぶんと高値で売られるみたいだ。
確かにきれいな方々だとは思っていたけど、そんな値段がつくなんて、僕は、半ば呆れて脱力してしまい、抜きかけていた短剣から手を離した。
ホッと安堵のため息が、二つ聞こえた。
「さっき差し押さえた諸々と合わせれば、全額完済だ否も応もないだろ、ゼーゼマン!」
「お嬢さん方、飲み込みな、今まで贅沢ないい暮らししてきたんだからよ、ぐへへへ」
「お父様、お父様!」
ゼーゼマン氏を呼ぶサラお嬢様の声が、どんどん小さくなってゆく。
「お父様……」
諦念を含んだヴィオレッタお嬢様の声が、涙とともに床を濡らす。
「なあ、おい、奴隷商のところに持っていく前に俺たちで味見……」
「ばかやろう! そんなことしたら値が下がるじゃねえか!」
「奴隷商人のニンレーは店にいたっけか? 今夜の競売にこいつらを出したいな」
「大丈夫だ、ヤツは仕入れから帰ってきたばかりで、酒場で飲んでたのを来る途中に見かけた」
「「お父様ああぁッ!」」
ゼーゼマンさんは俯いてヴィオレッタお嬢様とサラお嬢様への謝罪の言葉をうわごとの様に繰り返すばかりだった。
「すまない、すまないヴィオレッタ、サラ……」
そうして、二人のお嬢様が、連れて行かれ、ゼーゼマン氏の屋敷のエントランスホールはしんと静まり返った。
「ああ、なんということだ、なんということを私はしてしまったのだ……。ああ、私はどうすれば………………ッ! うぐッ! ぐふぅ! ぐ、ぐ、ぐぉ……ぐうッ!」
聞き覚えがある呻き声。胸を押さえて倒れこむゼーゼマン氏。
「旦那様!」
「お、ぐ、ぐうッ! ……っは…、ぐ、ぐ、ぐぅッ!」
「ゼーゼマンさん!」
俺はゼーゼマン氏を抱き起こす。
ゼーゼマン氏は俺の胸倉を掴み、絶え絶えの息で俺に懇願したのだった。
「どうか、娘を、娘たちを……ハジメ……」
全身から力が抜けぐったりとしたゼーゼマン氏を仰向けに寝かせ、胸に耳を当てる。
鼓動は聞こえない。僕が死んだときと同じ状況なことは一目瞭然だ。
ウェブ上で得た心停止の際の応急手当を実行する。
すなわち、心臓マッサージと人工呼吸。
「ハジメ!」
「ハジメ様!」
どれくらいの間、それをやっていたのか、わからなくなるくらいの間、救命行為を続けた。
「ゼーゼマンさん! 戻って来い! ゼーゼマンさん!」
「ヨハン様!」
「旦那様!」
「戻って来い!」
ああ、あのとき、僕の心臓を直にマッサージしていた薄緑の割烹着の人はこんな気持ちだったんだ。
僕はゼーゼマンさんの名前を呼びながら、胸を押し続けた。
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