「な、なんということだ! 終わりだ……。私は、私は……」
僕たちの主人であるところのゼーゼマン氏が、脂汗をかいてうろたえている。まるでこの世の終わりを垣間見てきたヨハネみたいに青ざめ、何かに救いを求めるように視線を空中に彷徨わせていた。
僕にはよく判らないけど、ゼーゼマン氏の様子からして、よっぽどな事態が進行していることは確実だった。
僕が、442番という荷役奴隷の青年に転生してきてからこっち、僕らが所属している交易商人ゼーゼマン氏が率いる商隊は、僕が巨大な毒蛇に咬まれ、生き返ったことのほかは、事件らしい事件も起こらず、順調に旅程を重ね、途中に寄った町々でも商売をして、本拠地の町に帰ってきた。
そうそう、クレウスさんら冒険者さんたちが解体したケニヒガブラの有用な部位のうち、けっこうな価値のある上顎の毒牙は僕がもらえることになった。
一番の手柄にその獲物の一番価値がある部分が分け与えられるのは、当然なのだそうだ。
だから、今僕のウェストバッグには、今、僕の体をやすやすと貫いた牙が丸のまんま入っている。
……実は牙をしまうときに、ウェストバッグになにやら違和感を感じて調べてみた。そしたら、僕の……442番のウェストバッグは、元いた世界の国民的マンガにでてくる猫型ロボットのお腹についているポケットみたいになっていた。
これって、イフェ様が言っていたオマケなんだろうな。
そして、その中には、自分自身を瞬時に買い戻して奴隷でなくなるくらい簡単にできてしまうくらいのお金が入っていた。
これは、442番が自分を買い戻すためにこつこつとためてたお金なんだろうか?
このお金は何なのか後で神様に聞いてみよう。もっとも、神様が僕の質問に答えてくれる位にヒマしてたらだけど。
それまでは、ちょっとおしいけど、四○元ポケット化した腰の雑嚢のこやしだね。
本拠地の街に帰還した僕は、ゼーゼマン氏の屋敷の倉庫で、香辛料や、絹、その他諸々の東方の特産品が入った木箱を、せっせと整理していた。
それこそ本当に命を懸けて運んできた、大事な大事な商品だ。僕は作業を神経質にすぎるくらい丁寧にやっていた。
そこへ、ゼーゼマン氏が、同じ年恰好のおそらく取引相手の商人を連れて来て、木箱から東方の特産……香辛料や砂糖メノウの工芸品を次々と見せては、何事かを話し込んでいた。
それが、いきなり取引相手が何事かを口にしたとたん、ゼーゼマン氏が青ざめ、うわごとのように「終わりだ」をエンドレスリピートし始めたのだった。
「旦那様は、いったいどうしたの?」
僕はゼーゼマン氏の最終防衛ライン、44番と45番に何が起こっているのか聞いてみた。
「詳しくは判らないけど、事態はものすごく深刻みたいだね」
44番が、爪を噛む。
「旦那様お仕えして、何度も遠征したけれども、ケニヒガブラにお嬢様が襲われそうになったときでさえ、あんなに取り乱されはしなかったわ」
45番はその大きな瞳に剣呑な光を宿し、ゼーゼマン氏を見つめる。
「「お父様!」」
ゼーゼマン氏の愛娘にして、キャラバンのアイドル(俺が勝手にそう思ってる)ヴィオレッタ様とサラ様姉妹が息せき切って倉庫に現れ、ゼーゼマン氏に駆け寄った。
お嬢様方は何らかの事情を把握しているみたいだ。
「おお、ヴィオレッタ、サラ……」
ゼーゼマン氏は二人を抱きしめた。
「すまない、本当にすまない。まだまだ先のことだと思っていたことが、起きてしまった」
「はい、お父様、クレウスさんたちが、冒険者ギルドにクエスト達成を報告に行って聞いてきたそうです」
「お父様……」
ゼーゼマン氏はお嬢様方二人を抱きしめたまま、僕たちのほうに向いて告げた。
「44番、45番、みんなをここに集めておくれ。債権者たちが来る前に奴隷の皆を解放する」
債権者が来る前? ってことは、ゼーゼマン氏は破産したのか? 負債を抱えて?
ゼーゼマン氏は、44番と45番に、奴隷のみんなをここに集めるように指示を出すと、倉庫の中にある事務室へと入っていく。
「奴隷契約解除の儀式を行うよ。今、道具を持ってくるからね」
「ゼーゼマンさん!」
僕は、思わず叫んでいた。
ゼーゼマンさんは振り返って微笑む。そして。
「南回りの東方への航路が発見されたんだ。その艦隊が持ち帰った品々のおかげで、東方の特産は軒並み大暴落してしまったよ。今回の遠征の資金を集めるためにあちこちに借金をしていたんだ。暴落さえしてなければ、借金を返してなお莫大な利益がでるはずだったんだけどなぁ」
ゼーゼマンさんは「くッ」っと呻いて、事務室に入っていった。
「太陽と月の神にかけて印された隷属の契約をここに廃する」
ゼーゼマンさんが首の辺りを榊の様なもので撫でる、そこが微妙に熱くなり、パキンと音がして、奴隷の証の首輪が砕けた。
ゼーゼマン商会の倉庫はいまや、解放された奴隷たちが自分たちの行く末を心配する場となっていた。
そりゃそうだ。衣食住が保障されて、些少なりとも給金が出ていた身分から、自由を得る代わりに衣食住が不安定供給な立場にジョブチェンジだもの、不安な気分になることうけあいだ。
首をさすっていると、ゼーゼマンさんが微笑みながら、話しかけてくれる。
「442番……いや、ハジメ、今までよく勤めてくれた。娘たちの命の恩人には本来なら餞をするところなのだろうが、今はそんな余裕がない。代わりにこの二人を譲渡する。この二人の隷属契約だけはお前たちと違って、本殿でなくては解除できない特別なものなのだ。このふたりの登記の名義変更ならばすぐにできるから受け取って欲しい。44番45番、いいな、これからはハジメがお前たちの主だ」
「「はい、ゼーゼマン様。ハジメ様、これより我らふたり、あなた様にお仕えいたします。幾久しくお願いいたします」」
さっきまで対等だった44番と45番との立場が、瞬時に主従になってしまったことに、僕は少なくない衝撃を受けてしまった。
だって、いきなり、ケモミミっ娘奴隷のご主人様ですよ、この僕が。
僕だって年頃の男ですから、奴隷という言葉には頭の中にピンクの靄がかかってしまう。
「よ、よろしく」
そう言うだけで、いっぱいいっぱいでした。
「「「ゼーゼマン!」」」
僕たちの他の解放奴隷たち全てが、ゼーゼマン商会から出て行ってから少しして、倉庫の中を、野太い聞いていて、あまり楽しい気分になるわけでもない声が満たした。
債権者の方々のご登場だった。
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