俺は、腰の雑嚢につけてある、鉈みたいな短剣に手を伸ばす。
留め金を外し、いつでも抜けるように構える。
「ふふふ、あ……ハジメ様、楽しそう」
ヴィオレッタお嬢様が歌うように言う。
そのとき初めて俺は、自分が笑っていることに気がついた。
俺は、そんなに好戦的な人間じゃなかったはずだがな。
まあ、それは置いておいて、だ。
「お嬢様、俺に様つけるのナシにしませんか?」
お嬢様はかすかに頬を膨らませ、応える。
「わたくしたちは、貴方が亡くなるか、貴方が解放してくださるまで、貴方の奴隷です。さっきそう契約しました。主様に尊称をつけないのは、作法に悖ります」
俺的には、奴隷を所有し、使役することのほうが人道に悖るんだが、まあ、この世界は奴隷制度も重要な社会のシステムのひとつみたいだから、アブラハムくん(南北戦争をおっ始めやがったアメリカ第16代大統領。奴隷解放は、南部に戦争を吹っかけるための口実にすぎなかったんじゃね。と、俺は思っている)みたいなことはやらないことにしよう。郷に入っては郷に従えだ。
「それから……」
お嬢様はまだ続ける。
「お嬢様はやめてください。どうかわたくしのことは……」
ヴィオレッタお嬢様は、44番と45番に視線を投げて、軽くうなずく。
「3番と、サラのことは4番とお呼びください」
え? 1番と2番じゃないのかな?
「1番と2番は、44番と45番です。たしか、ハジメ様が解放されたときに父がお譲りしたかと……ですから。ハジメ様が初めて所有された奴隷はヨハン・ゼーゼマンの奴隷44番と45番になるのです。ですから、わたくしと妹は3番と4番ということになります」
今まで、お嬢様とお呼びしていた方を、奴隷になったからといって、番号で呼ぶことに、僕は、正直抵抗感がある。
だが、そうするのがこの世界の決まりなら、とりあえずが従っておくのが得策だ。
「わ、わかりました。僕も心構えを新たにしなくてはいけないので、ちょっとだけ待っていただけますか? いままで、お嬢様とお呼びしていた方をいきなり番号でなんて、ちょっと、尻込みしてしまいますから慣れるための猶予をください」
お嬢様の奴隷としての矜持を伺っているうちに、頭に上った血が下りてきた。
こうなると、とたんに、僕は元の臆病者の僕になる。自然、短剣から手が離れる。
そして、頭に血が上っている最中は気にならなかったあることが、気になって仕方なくなってくる。
お嬢様は俺のそういう小さな変化を気に留めるでもなく、続ける。
「あと……ですね。名乗りを許されていない奴隷の名を主が口にするのは、閨房に限られるという決まりもあるのですよ。お忘れですか?」
け、けけけけけいぼうって、寝室のことですよね。主に夫婦の。転じてナニをするための部屋って意味もあったりしたはずですよね。
別の意味で頭に血が上り。心拍数が跳ね上がる。今度は不整脈なんてないぞ。
早鐘を打つ心臓を落ち着かせようと、深呼吸する。
そして、強引に話を変える。
「それにしても……」
僕は、ついさっきから気になり始めたことを口にする。
頭に血が上ったり。頭を使うことをすると、特にそうなるんだ。
「お嬢様……、お腹空きません?」
「え?」
ヴィオレッタお嬢様は、鳩が豆鉄砲をくらったような顔を僕に向ける。
「僕、かなりお腹空いてます。お嬢様方が、あの蝗どもに連れてかれた、お昼前から、なんにも食べてないんです。この街って、何がおいしかったんでしたっけ? 早くこれ終わらせてごはんにしたいです」
この街は南欧地中海風のオレンジ色の瓦と白い壁の家屋が目立って多い。って、ことはソーセージとビールぐらいはあるに違いない。地中海風の料理があるような文明の程度なら、牛のワイン煮込みポレンタ添えもあるかもな。
スパゲッティもあるといいな。肉料理をおかずにぺペロンチーノなんて最高だ。
考えただけで、涎が口の中をいっぱいにしてくる。
こんな厄介ごとは、とっとと全部片付けて一刻も早くごはんにしたい。金貨はまだ、四百枚あるから、5人で毎日かなり豪勢に食べても、しばらくは大丈夫だ。
まあ、その前に、ゼーゼマン氏の死を、お嬢様方に知らせるっていう、つらくて大事な任務があるんだけど……。
と、突然馬車が大きく揺れる。
「へ、へ、へへへへ……みーつけたぁ。お前を連れて行けば、カバチーンの旦那に金貨百枚もらえるんだ。げひゃひゃ……」
大男が下卑た笑みを浮かべ、後ろから馬車の荷台に乗り込もうといていた。
「チッ!」
その口の端から涎をたらしただらしない顔の大男に、俺は頭に血が上り舌打ちをした。
と、同時に大男の顔面に蹴りをくれてやっていたのだった。
「ぷぎゃんッ!」
豚みたいな叫び声を揚げ、大男は歯と血と涎と涙を撒き散らしながらすっ飛んでいった。
「なんと……!」
俺は、男が荷台に乗り込んでくるのを阻止したかっただけだったんだが、敵戦力の漸減に協力した形になった。
「旦那様! ハジメ様!」
44番と45番。もとい、1番と2番がこちらに駆け寄ってくる。
馬車の中から辺りを見回すと、ガバチーンといわれていた陰鬱な声の男以外の反社会的組織の構成員と思われる二十人からの男たちがそこいらじゅうでノビていた。
うん、予想通りだ。元ゼーゼマンさんのゴールキーパーは、本当に優秀だ。
「あーあ、こんなにしちまいやがって、これだけあつめるの大変だったんだぞ。ウチに逆らったこと、きっと後悔するからな」
捨て台詞を残して、男は再び路地裏の闇に紛れていなくなる。
僕は、ふううううううっと、深いため息をついた。
「こんな辺境に王都のヤクザが出張に来るなんて……だねぇ」
44番改め1番がつぶやく。
「大方、王都の新しい娼館かボスのハーレム用に女をを集めに、あちこち行ってるんでしょうね。それより、ハジメ様、お怪我はございませんか?」
いや、そこは俺よりも元主の娘を案じるのが筋ってもんじゃないのかな?
そんな俺の顔色を察したヴィオレッタお嬢様こと、3番が応えてくれる。
「1番2番が、他の誰をもさておき、ハジメ様を案じるのは当然でございます。それが、わたくしたちハジメ様の奴隷の在り様なのです」
いや、そうなんだろうけど……。
「もう、お家に着いたの?」
寝ぼけ眼をこすりながら、サラお嬢様こと4番が起きた。
「まだですよ4番。それよりも、主様に契約していただいたお礼を、申し上げていませんでしたよ。あなた、契約の最中に気絶していたのですから」
「あ、そうだ、いけない!」
そう言って、サラお嬢様こと4番は馬車の荷台の床に膝をつき、頭を垂れた。
「ハジメ様、このたびはわたしを買っていただきありがとうございます。一生懸命働きます。これから、末永く御願いいたします」
サラお嬢様こと4番に追従して、1番2番3番も膝をつき、頭を垂れる。
「ま、まあ、こんなところでそういうのもなんですから、とりあえず帰りましょう」
「そ、そうですね、お父様が心配しているわきっと。ハジメ様、父のこともよしなにお願いいたします」
「ああ、うん……」
僕は言いよどむ。
「3番4番……ヨハン様は……」
1番こと、44番がウサギの耳を揺らして、姉妹奴隷を大きな吊り上がり気味の目で見つめる。
「お父様になにかあったのですか1番!」
「その……」
ウサ耳が言葉に詰ってユラユラしている。
「あの……ですね」
2番こと45番が引き継ごうとするが。こちらも垂れた耳を揺らすばかりになってしまう。
「はあ……」
俺はため息をついて、意を決する。
「3番、4番、聞いてください。じつは、ヨハン様は、お亡くなりになりました。お嬢様方が連れ去られてすぐのことです。突然胸を押さえて、苦しみ始め、手当ての甲斐なく……。」
お二人の顔が急激にくしゃくしゃになってゆく。
四つの瞳がみるみる涙で溢れかえる。
「そん……な。そんな。いや。いやぁッ! いやあああああああああ!」
「うそ? やだ、やだ、やだやだ! やだあああああああああああああああああああああッ!」
お二人は、その場に折り重なるように泣き崩れる。
僕は、そんなお二人の背中を擦ってあげるしかできない。
馬車は、ゆるゆるとゼーゼマン商会のお屋敷を目指して、石畳を走るのだった。
お読みいただき誠にありがとうございます。