ナオジとヨリコ   作:鈴本恭一

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第8話:ナオジとヨリコ

 

 

 

 展望広場には木造の長椅子が数列、眺望のためか設置されている。

 

 その最前列の椅子に、ヨリコは座っていた。

 横に長い椅子の端。

 広場の入り口から最も遠い場所だ。

 

 ナオジは手にしていた、刃の折れた包丁をバックパックにしまい込む。

 そして意図的に足音を大きくしながら、ヨリコへ歩み寄った。

 

 ヨリコは最初、ナオジを見ていなかった。

 緑の混じった色の瞳は暗黒に魅了されているように、何もない虚空を凝視していた。

 

 しかしナオジが彼女へ近付くと、ヨリコは我に返ったようにナオジへ振り向き、言葉をこぼす。

 

 

 

「……ナオちゃん?」

 

 

 その言葉に対し、ナオジが行動で応える。

 

 ナオジはヨリコを手の甲で叩いた。

 乾いた打撲の音が、薄暗い広場に弾けて消える。

 

 そして音の余韻に飽きたかのように、再び静寂が垂れ込めた。

 

 はたかれたヨリコは何が起きたのか分からないという顔――平手を打たれた頬が赤くなっている――で、ナオジを見詰める。

 ヨリコの小さな唇が半開きになり、言葉を作るべきかどうか迷っているのがナオジには見て取れた。

 

 その様子をしばし眺めてから、ナオジは「よし」と頷く。

 

 

 

「満足した。

 じゃあな」

 

 

 ナオジは背を向け、去ろうとした。

 背中を向けられたヨリコに、慌てる気配が混じる。

 

 

「な、何しに来たの?」

 

 

 背中のバックパックをヨリコに掴まれた。

 行動を制限され、ナオジは舌打ちする。

 

 

 

「高校になってから、お前を殴ったことがないのを思い出した。

 そしたら、殴りに来たくなった。それだけだ。これでいいか?」

 

 

 ナオジは首を回し、顔だけでヨリコに振り向く。

 

 ヨリコは奇妙な服を着ていた。

 長い裾を持つ外套を幾つも重ね着したような姿で、衣服にはナオジの知らない文字や模様が刺繍されている。

 動きにくそうにも思えたが、ヨリコの動作から、見た目より遥かに軽い素材で出来ているのが分かった。

 

 

「変な服」

 

「ナオちゃんこそ、何その格好。

 ヘルメットまで付けちゃって」

 

 

 ヨリコの特に何も考えずに出たような言葉に、ナオジの眉が跳ね上がる。

 

 バックパックを掴むヨリコの手をナオジは払い、体の正面を幼なじみに向けた。

 

 そしてもう一度頭を殴る。

 

 

「いたい」

 

 

 ヨリコが言う。

 けっして悲鳴ではない声で。

 

 

「お前、あの森の中に入ってみろ。

 こっちは死にそうな目に遭ってさんざんだったんだぞ」

 

 

 ナオジはヘルメットを不機嫌に脱ぎ、それをバックパックにしまう。

 冷たい空気がナオジの髪に触れた。

 彼女は自分の黒髪を無造作にかき回す。

 

 ヨリコはいらいらしているナオジへ、不思議そうな表情を作った。

 

 

「森って、どの森?」

 

「知るかよ。

 こっから見える森がそうだ」

 

 

 そう言って、ナオジは広場からの景色を見やる。

 眼が明度に慣れてきたのか、闇の中に輪郭をかろうじて浮かべさせる山稜をナオジは見ることが出来た。

 月光でなんとか判別できるそこへ、彼女は指さす。

 

 

「たぶん、あれ、だ……」

 

 

 ナオジの言葉尻が弱くなった。

 

 原因は、その山が小さく身震いしたからだ。

 峰と思われた暗闇の部分が、ぬっと動き出し、ゆっくりと何かを突き上げる。

 空へ向かって突き上げられたものから、咆哮が。

 それは首と頭だった。

 

 山が、吼えていた。

 

 

「……あれから?」

 

 

 ヨリコもその光景を見てから、ナオジに問いかける。

 ナオジは憮然とした。

 

 あの山のような生き物、または生き物のような山から自分が下りてきたのか、ナオジには自信がなくなっていた。

 だがここに来るまで、様々な危機があったのは確かだ。

 その証拠として、ナオジは包帯の巻かれた自分の右手を、ヨリコへ差し出す。

 

 

「どこでもいい。

 とにかく私は散々だったんだ。

 見ろ、この手」

 

「……」

 

 

 ナオジがぶっきらぼうにそう言うと、ヨリコは神妙な表情を作り、じっとナオジの右手を見詰める。

 そしてナオジとの距離を不意に縮め、ヨリコはそっとナオジの左頬に触った。

 突然の行動に、ナオジは鼻白む。

 

 

「なんだよ」

 

「顔」

 

 

 ヨリコは言う。

 

 

「顔は、無事だね」

 

「お前の馬鹿にしたヘルメットのおかげでな」

 

「ごめんね、ヘルメット。

 ありがとう」

 

 

 ヨリコは安堵の吐息と共に謝辞を述べた。

 

 

「ナオちゃんを守ってくれてありがとう」

 

 

 心の中心から生み出されたようなヨリコの声に、ナオジは肩をすくめる。

 それから、ちら、とヨリコの白い手を見た。

 左頬に添うよう伸ばされた手を。

 

 

「……疲れた。

 少し休んだら、帰る」

 

 

 ナオジはヨリコの手を払い、長椅子に腰を落とす。

 そうすると、緊張から解放された疲労感がずっしりとナオジにもたれかかってくる。

 ナオジはバックパックを背中から下ろした後、煙草の箱を懐から取り出した。

 

 煙草をくわえたが、ライターを落としていることをナオジは思い出す。

 小さく舌打ちし、ナオジはヨリコに訊いてみた。

 

 

「おい、火、持ってるか?」

 

「ないよ」

 

「だよな」

 

「あ、ちょっと待ってて」

 

 

 そう言ってヨリコは、広場に通じた道、ナオジが辿ってきた路地へ小走りに駆けていく。

 路地にあった薄暗い出店のひとつに、ヨリコは体を屈めて入った。

 しばらくしてから、ヨリコが店から出て、広場に戻ってくる。

 

 

「はい、貰ってきた」

 

 

 ヨリコは手の中に、厚紙で出来た小さな箱を持っていた。

 やはり見たことのない文字で装飾が施されているその箱を、ナオジに渡す。

 

 ナオジは箱を受け取り、それを開く。

 中にはマッチ棒が詰められていた。

 

 

「金とか通じるのか、ここ」

 

「さあ。

 マッチ下さい、って言ったら貰えたよ」

 

「サービスの良いところだな」

 

 

 やれやれと首をほぐしながら、ナオジはマッチ箱からマッチを一本取り出す。

 箱に棒をこすらせ、火を付けた。

 ナオジはそのマッチ棒から火炎が吹き出てきてもおかしくないと身構えていたのだが、予想に反し、マッチの火はごくごく普通のそれであった。

 

 ナオジはその火で煙草を燃やし、煙を吸い込む。

 

 

「……」

 

 

 白い煙が薄闇の中に流れて消えた。

 ナオジは喫煙で気分を落ち着かせながら、さてどうやって帰ったものか、と思案する。

 

 そんなナオジの横に、ヨリコがどさっと深く座ってきた。

 ヨリコはナオジを見て、

 

「私にもちょうだい」

 

 

 と言った。

 

 

「……」

 

 

 ナオジはヨリコの顔をしばし見詰め、それから煙草の箱をヨリコへ放り投げる。

 

 ヨリコはそれを受け取り、煙草を一本取り出す。

 その手つきは慣れたものであることが、ナオジには分かった。

 

 そう思いながら、ナオジはマッチを渡していなかったと気づき、マッチ箱をヨリコへ渡そうとする。

 しかしその前に、ヨリコが煙草をくわえながらナオジに顔を近づけた。

 

 

「火、もらうね」

 

 

 ヨリコの煙草の先端が、ナオジの煙草の燃えている箇所に触れる。

 じ、と火が燃え移った。

 ヨリコは手慣れた動きで、火の点いた煙草を吸い込み始める。

 

 

「吸うんだな」

 

 

 ナオジは特に関心を持たない声音で言った。

 ヨリコは「うん」と頷く。

 

 その動きで、ヨリコの煙草から灰がこぼれた。

 

 

「中学のとき、いろいろあって」

 

「ふうん」

 

 

 ナオジの声は素っ気のないものだったが、ヨリコは構わず言う。

 

 

「バイクの後ろに乗らせてもらったこともあるよ。

 夜は家に帰りたくないから、いろんなとこで遊んでたの」

 

「ぐれてたんだな」

 

「うん、ぐれてたの」

 

 

 ヨリコは言った。

 

 ナオジは頭上を眺める。

 黒で塗り潰された天空に、変わらず望月が君臨している。

 

 その月の下、何か細長いものが月光を浴びるように飛んでいた。

 月明かりを水として泳いでいるかのような動きだ。

 その細長い何かは途方もなく長大で、うっすらと見える地上の山々を簡単に囲えてしまうほどだった。

 

 その細長いが巨大な何かから、閃光が走る。

 ナオジは目を細めた。

 光は稲妻の形となって大地のあちらこちらへ落ちる。

 発光からずいぶんと間を置いて、低く重い雷鳴がナオジの耳に届いてきた。

 

 雲もないのに雷が鳴っていたのは、あれのせいか、とナオジは直感で理解する。

 

 

「わけわかんねえ場所だ」

 

「私には、いつものところと大差ないよ?」

 

 

 ナオジが辟易と漏らした言葉に、ヨリコが応える。

 ヨリコは燃える煙草を口から離し、紫煙をふう、と吹きながら言った。

 

 

「私は生きているのか死んでいるのか、あっちでもこっちでも変わらないの。

 このお城の中でも、学校でも、家でも、どこでも」

 

「……」

 

「私が本当に嬉しかったことは、生まれてから二回しかないんだ。

 人数で言うと、ふたりだけ。

 でももうどっちにも会えなくなったから、私はもうどうでもよくなったの」

 

 

 それだけ、とヨリコは言う。

 ヨリコの声はゆったりとしたゆるやかなものだったが、その顔は何の感情も浮かべていなかった。

 

 ナオジは煙草の煙を吸いながら、横目でヨリコを見る。

 

 

「そのふたりのうちのひとりは」

 

 

 穏やかな口調と無機質な顔付きを浮かべる幼なじみに、ナオジは尋ねる。

 

 

「父親か」

 

「うん」

 

 

 ヨリコは頷いた。

 

 

「小学生の頃の、あのとき。

 ナオちゃんが入院することになっちゃったあの日に、私は生まれて初めて、お父さんに殴られた」

 

 

 ヨリコは煙草を再び口にくわえた。

 それから、軽く吸い、すぐに煙を吐き出す。

 それを何回か繰り返し、煙草はそのたびに短くなっていった。

 

 

「私はお父さんに、何もしてもらえなかった。

 優しくしてもらうことも、怒られることも、声を掛けてくれることも、何も」

 

「知ってる」

 

 

 ナオジが言う。

 ヨリコは頷いた。

 そして続ける。

 

 

「でもあの日に、初めて私はお父さんに触ってもらえた。

 怒鳴られて、殴られただけだったけど、でも私には初めてのことだったの。

 私はお父さんに、見てもらえたの」

 

「……」

 

 

 ヨリコの言葉は、微量だが熱を感じさせた。

 さきほどまでの声の中には発生していなかった、僅少の熱量。

 小さな冷気を浴びればすぐに凍えてしまいそうなその熱に、ヨリコはどれだけの価値を見いだしているのか、ナオジは考えてしまう。

 

 ヨリコが言う。

 

 

「でも、お父さんはいなくなっちゃった。

 お母さんが、別れようってお父さんに言ったの。

 お父さんはそれっきりどこかに行っちゃった。

 私に何かくれたりとか、残したりとか、そういうのはなかったよ。

 あっさり、離ればなれになっちゃった」

 

 

 ヨリコの述懐を耳にし、ナオジはなるほど、と頷いた。

 

「それで、ぐれたのか」とヨリコに言う。

 ヨリコは再び頷いた。

 

 

「男の子とたくさん付き合ったの。

 下心は見え見えだったから、簡単に遊べたよ。

 簡単すぎてつまらないこともたくさんあったけど、でも、誰かといる時はひとりじゃなかったから」

 

「……長続きはしなかったんだな」

 

 

 ヨリコが小さく笑む。

 自虐的な笑顔だ。

 何かを諦めてしまったような、無気力な笑みだった。

 

 

「同じ子と長く付き合ってると、だんだんむなしくなってくるの。

 そのむなしさに怖くなって、私は別の男の子を探した。

 何人くらいと付き合ったのか、もう覚えてないけど」

 

 

 そう言ってから、ヨリコはその自嘲に染まった笑顔をナオジに向ける。

 ヨリコの笑みが深くなった。

 対照的に、ナオジの表情は醒めている。

 

 

「軽蔑した?」

 

 

 とヨリコは尋ねた。

 

 

「興味ない」

 

「何に? 男の子の誘い方? 誰かと寝るときのこと?」

 

「もうひとりは誰だ」

 

 

 ナオジはヨリコの挑発的な言葉を無視し、逆に問う。

 ヨリコの顔から笑みがさっと消えた。

 ナオジはかまわず言う。

 

 

「父親の他に、もうひとりいるとか言ってたな。

 誰だ」

 

「分かってるくせに」

 

「言ってみろ」

 

「……」

 

 

 ヨリコは押し黙る。

 

 その沈黙を守りながら、彼女はゆっくりと指を向ける。

 ナオジへ。

 

 

「指でさすな。言えよ」

 

「恥ずかしいからやだ」

 

 

 面倒くさい女だ、とナオジは心の中で悪態をつく。

 

 それから、ナオジはヨリコがぼそり、と何かを呟くのを聞いた。

 

 

「……なんだよ」

 

「なんで、あのとき」

 

 

 ヨリコはナオジへ向けた指を、少しだけ動かす。

 彼女の細く形の良い指先が、ナオジの頬、左側のそこを示す。

 

 

「なんで、あのとき私を助けたの?」

 

 

 あのとき。

 

 それが何の話をしているのか、もちろんナオジには分かった。

 ナオジの左頬がうずく。

 今度はナオジが押し黙る番だった。

 憮然とした感情をヨリコへ発散させながら、ナオジはしばらく沈黙する。

 

 ヨリコはじっとナオジを見詰めた。

 まっすぐに視線をずらさず、逃げず。

 目線を外したのは、ナオジの方だった。

 彼女は諦める。

 こういう根比べでヨリコには勝てないことを、ナオジは知っていた。

 

 

「……よく覚えてねえよ」

 

「うそだ」

 

「本当だ。

 昔の話だし、あのときも、別に何か考えてたわけじゃない。

 たまたま、学校の脇の茂みにお前が連れて行かれるのを見かけた。

 けど私には関係のないことだったから、そのまま帰ろうともした」

 

 

「じゃあ、なんで? どうして助けてくれたの?」

 

「それは……」

 

 

 ナオジは黙った。

 彼女の脳裏に、そのときの場景が映し出される。

 

 ひとりで下校していたナオジは、人通りの絶えた校門前で男に連れ去られるヨリコを見た。

 

 自分には関係のないことだった。

 ヨリコがどんな目に遭おうが、泣こうが叫ぼうが。

 

 しかし、ヨリコは泣きも叫びもしなかった。

 連れ去られる一瞬だけ見た、ヨリコの顔。

 

 そのときのヨリコの表情を思い出し、ナオジは高校生のヨリコに言った。

 

 

「あのときお前が、なんにもない顔をしてたと思った。

 そう思ったら、どういうわけか、私は茂みに向かって走り出してた」

 

「私には何もないことなんて、ナオちゃんは知ってたじゃない」

 

 

「今でもよく分からない。

 なんでお前を助けたのか」

 

 

 ナオジは紫煙を吐き出す。

 目線をヨリコから逸らし、かぐろい虚空に向けて言う。

 

 

「何もないことが、許せなかったのかもしれない」

 

「なんで」

 

「……私には、遺言があった。

 けどそれがなかったら、どうなっていたのか分からない。

 お前みたいになってたのかもしれない。

 それが、いやだったのかもしれない、気がする」

 

 

 ナオジが自信なさげに言うと、ヨリコはどういうわけか、ふふっと笑った。

 

 

「あわれんでくれてたんだ」

 

「知るか。

 自分でもよく分からないんだ」

 

「きっと、ナオちゃんも怖かったんだよ」

 

 

 何が、とナオジは問うた。

 尋ねながら、ナオジはヨリコを見る。

 ヨリコの表情には先程までの自虐や自嘲がなくなり、わずかではあったが、明るみに近い色が浮かんでいた。

 

 

「何もないのが、怖かったんだ」

 

「分かったような口をやめろ」

 

「私を、あなただと思ったの?」

 

「黙れ」

 

「遺言がなかったら、信じられなくなったら、何もかも無くなっちゃう。

 それが、怖かったんじゃない?」

 

 

 殴打の音が、広場に響く。

 

 ナオジは、ヨリコを殴った。

 目には苛立ちと不愉快をありありと浮かばせている。

 だが、再び殴られたヨリコは、穏やかな表情を作っていた。

 慈しむように、彼女は言う。

 

 

「何もなかったの」

 

 

 優しい声色であるにもかかわらず、その声はどこまでも虚ろに沈んでいた。

 ナオジは、これがヨリコの心の声なのだと分かった。

 再会してからずっと感じていた、空虚な感情の色彩。

 

 

「私には何もなかったの。

 けど、あのとき、ナオちゃんは助けてくれた。

 お父さんは私に触ってくれた。

 それが、きっと他の人には理解してもらえないほど嬉しかった。

 嬉しかったんだ」

 

 

 けど、とヨリコは言う。

 

 

「もう無いの。

 何も。

 お父さんに殴られて嬉しかった私を、ナオちゃんは怒った。

 私はナオちゃんを裏切った。

 だから、もうナオちゃんといられない。

 お父さんも、もう会えない。

 私には何もないの」

 

 

「……」

 

 

 ヨリコの言葉が、終わる。

 

 それと同時に、ヨリコの煙草が燃え尽きた。

 ナオジの煙草も。

 ナオジは吸い殻を床に投げ捨て、踏み潰す。

 ヨリコは吸い殻を手にしたままだった。

 

 ナオジは髪を掻き上げる。

 何も口にしなかった。

 ヨリコも視線を床へ下げ、黙する。

 

 無音に近い寂寥の冷風が、ふたりを撫でた。

 

 しかし違う、とナオジは思う。

 ナオジはこの痛覚を刺激するまでの静けさと冷ややかさを、この広場に来るまで充分に味わってきた。

 そのため、この広場にある独特のものを感じ取ることが出来た。

 

 ヨリコの呼吸する音や、体温、そういったものが混じって出来た、人間の気配。

 誰かがいるということ。

 

 それが、ナオジを人心地につかせていた。

 彼女は自分をさらに落ち着かせるため、二本目の煙草を取り出す。

 

 

「酒とかねえかな」

 

「お酒は嫌い」

 

 

 ヨリコは顔を下に向けたまま、その顔を横に振る。

 

 

「煙草は吸うくせにか」

 

「色々あったの」

 

 

 ふうん、と言いながら、ナオジはマッチで煙草に火を付けた。

 紙と草の焼ける匂い、煙草独特の臭味を感じながら、ナオジはヨリコに言う。

 

 

「私にも、色々あったよ」

 

 

 ヨリコは顔を上げなかった。

 ナオジは言葉を続けることに抵抗を感じた。

 つい口を閉ざして、夜空を見上げる。

 

 月明が微塵の温もりもないほど冴えていた。

 その光の源の周囲を、例の巨大な細長い存在が舞っている。

 細長いそれの先端には、頭部のような輪郭があった。

 角や牙、長い髭のようなものも見えた。

 

 竜、という単語を、その浮遊する影はナオジに連想させた。

 あれが舞い遊ぶ空の下を、ナオジはくぐり抜けてやってきたのだ。

 はあ、と紫煙をくゆらせながら、ナオジは言う。

 

 

「気付いたら、私は丸くなってた。

 小学生の頃は平気で出来たことも、どんどん疲れてきた」

 

 

 煙草を指に挟んで弄ぶナオジ。

 儚く昇る白い煙へ、ナオジは吐息をぶつけてかき乱す。

 

 

「疲れて仕方なくなっていって、高校に上がったら、もうどうしようもない感じでいっぱいだった。

 私は遺言を守っているだけなのに、どうしてこうなったんだ?」

 

 

 その言葉を聞いて、ヨリコが顔を上げた。

 柳眉を訝しく歪め、ヨリコはナオジに訊く。

 

 

「ナオちゃんは、ひとりで生きてたんじゃないの?」

 

「なんで私は、ひとりで生きてるんだ?」

 

「……それ以外の生き方、知ってる?」

 

「いや」

 

 

 ナオジは首を振った。

 ヨリコは

「じゃあ仕方ないね」

 

と言う。

 

 

「仕方ないんだよ。

 私は誰からも必要とされないし、ナオちゃんはひとりで生きていくしかない」

 

「私には遺言があるから、そうかもしれない。

 けどお前は……」

 

「私が誰からも好かれないことは、ナオちゃんだって知ってるじゃない」

 

 

 何を当然のことを、という態度でヨリコは断言した。

 

 

「お父さんにもお母さんにも好かれなかったのに、なんで、全然、赤の他人が私を好きになるの?」

 

 

 不思議そうな顔をするヨリコに、ナオジは憮然とした表情で返す。

 自分の傷ついた右手を向けながら、ナオジは告げた。

 

 

「もし本当にそうなら、私はここにいない」

 

 

 あと、とナオジは付け足す。

 

 

「お前の母親にも、あれは見えていないはずだ」

 

「なんで」

 

 

 急に、ヨリコの声が語気を増す。

 口調が硬質化し、不快と怒りに似た面持ちをヨリコは取った。

 ナオジは聞く。

 

 

「なんで、あのひとが出てくるの。

 あのひとが私に構うはずないじゃない。

 あの人に頼まれて、ここまで来たの?」

 

「いや、全然。

 ただ、お前の母親にはあの魔物が見えていた。

 それは本当だ」

 

「……うそだ」

 

 

 震えた声で、ヨリコは否定した。

 彼女は唇を強く結び、肩口は何かに堪えるように震えている。

 そんなヨリコへ、ナオジは「本当だ」と言い放った。

 

 

「うそだッ!」

 

「殴るぞ」

 

「そんなわけない、絶対にない。

 だって、今までそんなことなかったのに、なんで、なんで今頃……」

 

 

 ヨリコはうつむく。

 小さな嗚咽をナオジは聞いた。

 闇に溶けていく啜り泣き。

 目には映らないそれを眺め、ナオジはヨリコに言う。

 

 

「変わったのかもしれない」

 

 

 ヨリコの泣き声が、凍り付いたように止まる。

 

 

「時間が経って、あの頃とは違うようになったのかもしれない。

 変われるのかもしれない。

 ただの邪推だけどな」

 

「何が、言いたいの?」

 

「私達はもう高校生になった。

 あの団地にいた頃とは違う」

 

「ナオちゃんは、変わりたいの?」

 

 

 ヨリコが顔を上げ、涙に濡れた表情で尋ねる。

 ナオジは肩をすくめた。

 

 

「分からねえ」

 

 

 そうナオジが応えると、ヨリコは自分の頬に滴った涙を乱暴にぬぐう。

 こすった後が赤くなっていた。

 そんな赤い顔で、ヨリコは笑った。

 

 あの中身の感じられない、空漠とした笑顔だ。

 

 笑まうヨリコはナオジへ言った。

 

 

「ナオちゃんは、変われるかも」

 

「なんでだよ」

 

「さあ。

 でもナオちゃんは私じゃないから」

 

「どういう意味だ」

 

「私は変われないけど、ナオちゃんは私じゃないから、変われるかもね」

 

 

 その言葉は、どこまでも続く空洞を内包しているような響きでナオジの耳に届く。

 ナオジは目を細めた。

 わびしさばかりが鼓膜に残るヨリコの声。

 再会してからずっと聞いている、変わることのない声音だった。

 

 そんな声で、ヨリコはナオジに「ねえ」と物問う。

 

 

「ナオちゃんは、変わりたい?」

 

 

「……お前は、どうなんだ」

 

 

 問いかけに問いかけで返し、ナオジは応えを濁した。

 ヨリコはその声と同じ性質の危うい表情で、笑う。

 

 

「分かんない」

 

「じゃあ、私もだ」

 

 

 そうしてふたりは再び沈黙した。

 

 ナオジは煙草を喫し、ヨリコは吸い殻を手の中で遊ばせる。

 ただ黒色の時間が過ぎた。

 ナオジは黙したまま、頭上を仰ぎ見る。

 

 空は月以外、全くの無明だ。

 金と銀を混ぜ合わせたような真珠色の光が、満月から降り注いでいる。

 その燦々とした有様は、ナオジには薄気味悪いほどだった。

 そんな空を見上げているうち、ナオジは自分の煙草がフィルター近くまで燃え尽きていることに気付く。

 ずいぶんと短くなった煙草をそれでも吸っていたが、結局ナオジは吸い殻を床へ吐き捨てた。

 

 

「ねえ、ナオちゃん」

 

 

 二本目の煙草をナオジが捨てた時、ヨリコが呼びかけてくる。

 ナオジはヨリコを見た。

 ヨリコから、例の笑顔が消えている。

 まるであの尋常ならざる月光によって、表面にしか張られていない笑顔の膜が溶かされてしまったかのように。

 

 何の表情も作らないまま、ヨリコは言った。

 

 

「もし変われるのなら、ナオちゃんはどんな人になりたい?」

 

「変わるとしたら、か?」

 

「うん」

 

 

 問われ、ナオジは沈思する。

 そして首を横に振った。

 

 

「変わることは出来ない。

 遺言がある」

 

「まるで呪いだね」

 

「そう思われたくないし、思いたくないから、私は遺言から背けない」

 

 

 ナオジはヨリコに言って、それからふと自分の母親の言葉を思い出す。

 自分は意識していなかったことを、ヨリコは意識していたのだろうか。

 

 そう思ってナオジは訊いてみた。

 

 

「お前は、あの団地の頃、私といた頃、どうだったんだ?」

 

「なに?」

 

「あの頃は、ひとりじゃなかったのか?」

 

 

 尋ねたナオジに、ヨリコは言葉を返さない。

 

 その代わり、ヨリコはナオジへ手を伸ばした。

 ヨリコの繊手は壊れ物を扱うような、一種の神聖さに触れるようにナオジの左頬に触れる。

 

 

「あの頃、私の唯一はこの傷痕だったの」

 

 

 ヨリコは言った。

 

 

「この世でこの傷より綺麗なものも、醜いものもないって思ってた。

 今でも、そう思ってる。

 ナオちゃんのその場所を汚すものは、絶対に許さない」

 

 

 ヨリコの言葉は、長い間を虚ろで過ごした弱々しい魂が、それでもなんとか全霊を振り絞って生み落としたような声で出来ていた。

 言葉に全ての心と力、神経や精神というものを使い果たしたのか、ヨリコの表情や瞳にはやはり何の色も形も宿っていない。

 

 そのヨリコの様を見て、ナオジは得心がいった。

 ヨリコの父親とナオジが起こした最後の闘争の日に、叫びに近い大声を上げたヨリコ。

 

 あの日ヨリコは、得て、そして失ったのだ。

 

 ナオジは、どうしてか分からないが、ヨリコの今までの日々を顧みてしまう。

 他人のことなど関係ないはずであるのに、どうしてかヨリコのことを考えてしまう自分がいた。

 

 そしてナオジはヨリコが伸ばした手を掴む。

 

 

「ヨリコ」

 

 

 ナオジは名前を呼んだ。

 

 名を呼ばれ、ヨリコの表情に色が走った。

 白と黒、もしくは灰色しかない寂寞の顔から、鮮やかな色彩へ変化したように、ヨリコはナオジをはっきりと見詰める。

 

 

「なあに」

 

 

 ヨリコが応えた。

 ナオジは言う。

 

 

「もし変われるなら、お前はどうしたい?」

 

 

 ナオジに問われ、ヨリコは口を閉じた。

 

 が、彼女はナオジに握られた手をゆっくりと自分に近づけ、頭を前へ傾ける。

 ヨリコの額が、ナオジの手に触れた。

 祈りに似た姿勢をして、ヨリコは口を開く。

 

 

「欲深くない人間になりたい」

 

 

 紡がれた言葉の意味を、ナオジは尋ねようとした。

 

 しかしその前に、ヨリコが答えを示す。

 

 

「誰も私に何も与えてくれなくても、平気な人間になりたい。

 ひとりぼっちでもさびしくない人間になりたい。

 私は―――」

 

 

 一拍だけ空白を作り、ヨリコは言った。

 

 

「私は、他人から何かを欲しがる欲深い人間に、なりたくない」

 

「……」

 

 

 ナオジはヨリコをじっと見詰めた。

 ヨリコの姿は、心の中心を宣告する人間そのものだった。

 ヨリコは何かを信仰している、とナオジは思う。

 まるでその御神体がナオジであるかのように、ヨリコは祈祷している。

 

 祈りの先にあるのは、ナオジか、ナオジの傷痕か。

 ナオジは考えた。

 どちらでもいい、と彼女は自分の脳に告げる。

 

 ヨリコはナオジの問いに応えた。

 であるならば、致し方ない、とナオジは覚悟する。

 ヨリコの手を握りしめた。

 温度があった。

 体温。

 ぬくもり。

 他人。

 ナオジはヨリコへ言った。

 

 

「私も、もし変わるのなら」

 

 

 ヨリコが顔を上げる。

 緑色を含んだヨリコの瞳が、月光を照り返してナオジの黒瞳と重なった。

 ナオジは逃げ出そうとする視線を固定し、目に力を込める。

 

 

「変われるのなら、ひとりでなくても生きられる人間になりたい」

 

 

 そのナオジの言葉に、ヨリコは驚きの表情を作った。

 

 ヨリコからそういった表情を作られ、ナオジは精神に衝撃を覚える。

 それが何に起因するものか、ナオジには分かっていた。

 

 ヨリコは、ひとりで生きたいと言った。

 ナオジは、ひとりで生きていた。

 だから、ヨリコはナオジに祈った。

 

 それを、ナオジは壊した。

 

 

「ひとりになりたいのは、ひとりじゃないときの自分が怖いからだ。

 だから、私は気付かないふりを続けた。

 ひとりでないときなんか無かったって、自分に言い聞かせた」

 

 

 言って、ナオジはヨリコをぐっと引き寄せた。

 顔が近くなる。

 ヨリコの瞳が、すぐ間近にあった。

 驚きで漏らしたヨリコの吐息さえ、ナオジは完全に感じることが出来た。

 それほど近づけたヨリコへ、ナオジは胸裡を吐露する。

 

 

「私はお前から逃げたい」

 

 

 ナオジの息づかいが、ヨリコにかかる。

 

 

「私をひとりにさせてくれ。

 誰かといることが、私は怖いんだ」

 

 

 ナオジは自分の声が、懇願に近いものへ変わっていることに気付く。

 恐怖していた。

 本音を口にすると言うことがこれほど勇気の要ることだとは、ナオジは知らなかった。

 

 

「だから私は、ひとりでも怖がらない人間になりたい」

 

 

 しかしナオジは本心を言葉にする。

 

 それが出来たのは、何のおかげだろう。

 ナオジは考えあぐねた。

 煙草の成分か、不思議な異界の月夜のためか、身体中に負った傷のせいか。

 

 それとも、ヨリコと手をつないでいるからか。

 

 

「ヨリコ」

 

 

 ナオジは再び、彼女の名を呼んだ。

 ヨリコは名前を呼ばれるたびに、表情の色合いの明度を上げていく。

 

 ヨリコは微笑みながら、「なあに」と同じように応えた。

 

 

「私と一緒にいたいか?」

 

「それは、私に訊くことじゃないよ。

 ナオちゃんは、私といたい?」

 

「……考える時間をくれ」

 

 

 ナオジは渋い感情が身体中に広がるのを感じる。

 

 答えが分からない。

 ひとりでいたいのか、そうでないのか。

 

 そう悩むナオジに、ヨリコは表情を綻ばせた。

 

 

「よかった」

 

「何がだ」

 

「私といたくない、って言われなかったから」

 

 

 安らぎという翼で軽くなったヨリコの声に、ナオジは力が抜けてしまう。

 ナオジを苛んでいた緊張と苦悩が、なぜかほぐれた。

 それを誤魔化すために、鼻を鳴らすナオジ。

 

 

「単純なやつだな」

 

「無欲でいたいの」

 

「さっきお前、自分は変われない、みたいな台詞を吐いてなかったか?」

 

「ナオちゃんは別格だから。

 他の人なら色々もらいたいけど、ナオちゃんにはいっぱいもらったから」

 

 

 ねえ、とヨリコは言う。

 

 

「もしナオちゃんが変わりたいなら、私は手伝うよ」

 

「どういう意味だよ」

 

「ナオちゃんは、ここにいちゃ駄目ってこと。

 ここはナオちゃんのいる場所じゃないよ」

 

 

 ナオジはヨリコの言葉に舌打ちする。

 近づけていた顔を離し、ナオジはそのまま椅子から立ち上がった。

 

 見上げるヨリコへ、ナオジは言い放つ。

 手を握ったまま。

 

 

「お前と私は違う」

 

「うん」

 

「私が変わるかどうかとか、変わりたいかどうかとか、もっと時間を掛けて考えたいんだよ。

 けど、ここでじゃない。

 そんなこと、お前なんかに言われなくても分かってる」

 

 

 そしてナオジはヨリコの手を引き、彼女を強引に立ち上がらせた。

 無理な引き寄せ方をし、ヨリコは姿勢を崩してしまう。

 ナオジの上半身がヨリコを支えた。

 ナオジの心臓の位置に、ヨリコの頬がぶつかる。

 

 ナオジはそのヨリコを引き寄せた。

 ヨリコの頭を抱え込む。

 自分の顔を、ヨリコに見られないようにするためだ。

 

 密着したナオジは、ヨリコへ囁く。

 

 

「もし変わろうって気に私がなったとき、お前がいないのは、きっと、つらい」

 

 

 ヨリコの体が、動きを止めた。

 

 その硬直が何を意味するものなのか考えたくなく、ナオジはしばらくその状態を維持する。

 しばらくすると、ヨリコは体の重さを意図的にナオジに寄り掛けてきた。

 ナオジはそれを反射的に支える。

 ナオジのそんな行動に対し、ヨリコは小さいが明らかな笑声をこぼした。

 

 

「なんだよ」

 

 

 不満の声をあげるナオジへ、ヨリコは応えなかった。

 ただ微かに笑いながら、ナオジに寄り添う。

 ヨリコが何も言わないので、しばらくの間ナオジは好きにさせることにした。

 

 自分でも奇妙なことだと彼女は思う。

 

 

 しかし全てあの奇妙な月や空、森や城のせいにしてしまうことに、ナオジはした。

 

 

 こんなおかしな場所なのだから、自分がほんの少しおかしくなってもいいだろう、と。

 

 


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