それは秋と冬の境目の季節だった。
小学校で五年生になったナオジは、その日も例のようにヨリコの母親から夕食に招待されていた。
時季外れの寒波のため団地全体が異様に冷やされた夜に、ヨリコの母親はシチューをナオジに振る舞った。
ヨリコは黙々とそれを食べ、ナオジも適当にヨリコの母親と会話を合わせながら食していた。
そこに、ヨリコの父親が帰ってきた。
彼は自分の家にナオジがいることに激昂し、またナオジも彼へ悪態と嘲笑を投げつけた。
彼と彼女は罵り合い、暴力を互いに振るう。
その様を、ヨリコとヨリコの母親は見守るのみ。
これもいつも通りだった。
しかしその日に起きた、普段と決定的に異なる出来事は、ヨリコの父親がナオジへある罵倒の台詞を吐き捨てたときに起こった。
彼はナオジに憎悪を込めてこう言った。
「その薄汚い頬に、新しい傷をつけてやろうか」
その言葉はナオジにとって取るに足らない戯れ言であった。
実際に彼女はそう罵られても特に心を痛めることも気にすることもなかった。
劇的に反応したのは、ナオジではない。
ヨリコだった。
「やめて!」
ナオジは最初、その大声の叫びが誰のものか分からなかった。
ヨリコの大きな声など聞いたことがなかったからだ。
そしてそれはヨリコの父親も同様であったらしく、彼は一瞬だが虚を突かれた表情を浮かべていた。
だが次の瞬間、ヨリコの父親は苛立たしげに
「うるさいっ!」
と吼え、ヨリコを殴り飛ばす。
ヨリコの小さな体が床に崩れ落ちた。
床へ倒れ伏すヨリコ。
一拍の間だけ、その場が沈黙する。
ナオジも、ヨリコの両親も、ヨリコ自身も、誰ひとり声を発さなかった。
その沈黙を破ったのは、他ならぬヨリコだった。
ヨリコは床に倒れた姿のままで。
笑った。
笑い声を、上げたのだ。
「―――」
はっきりとした声で、大きく、高らかに。
嬉しそうにヨリコは笑い続けた。
「……」
あまりに朗らかなその笑声が、鼓膜を通じてナオジの脳に届く。
ナオジにはどういうわけか、ヨリコの笑い声が非常に不愉快だった。
ヨリコの声質は爽やかで、風の音のような清涼さをナオジの耳は感じていたというのに、ナオジの心には濁った感情が次々と湧き始めていた。
その濁流の情念に突き動かされるまま、ナオジはヨリコに歩み寄る。
「黙れよ」
ナオジはヨリコを踵で蹴り付ける。
肩や腹、腕、足、どこであろうと蹴り込んだ。
それでヨリコは黙った。
しかしナオジの激情は止まらなかった。
なおもヨリコを蹴り続ける。
それでも生まれてくる鬱憤は、ナオジの理性を凍結させた。
彼女は本能と衝動に身をゆだねる。
ナオジの視界に映るもの、全てが不愉快だった。
小さめの食卓、その上の食器類、それらの向こうのタンス、カーテン、壁紙、天井。
ナオジは発狂者のような叫び声をあげて、目に映るあらゆるものを殴りつけた。
壁であろうが家具であろうが蹴り付け、ひっくり返し、拳で叩く。
物であろうと人間であろうとかまわず。
ヨリコ、ヨリコの父親、ヨリコの母親。
誰でも彼でも。
ナオジは暴れ回った。
その時の記憶はナオジ自身曖昧で、自分が何をしているのか理解しきれてはいなかった。
血が頭に集結していたのだと彼女は思う。
何も考えられず、ナオジは手当たり次第に殴り飛ばした。
手が鈍く痛みを訴えたが、気にしなかった。
ただ、そうやって暴れているうちに、いきなり自分の視界が空転したのだけは覚えている。
でたらめに暴れたせいで足を滑らせてしまったのだと分かったのは、後日のことだ。
その時のナオジに分かったのは、薄く汚れた天井が目に入ったこと。
そしてあとは、床にうずくまるヨリコの姿が視界の端に映ったことだけだ。
ナオジは足を滑らせ、床に強く頭を打った。
目の前が真っ暗になる。
意識も消えてしまった。
失神。
次にナオジが目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。
頭と右腕が痛んだ。
医者の診察によれば頭部にこぶが出来、右手の骨にひびが入っているらしい。
数時間だが意識不明だったので、何日か精密検査のため入院しなければならなかった。
その間、ヨリコの家の人間は誰一人として見舞いに来なかった。
ナオジは退院後、自分の入院中にヨリコらが団地を引っ越していたことを知った。
誰にも告げず、消えるかのように去ってしまったと、ナオジの母親は言っていた。
そうして、ナオジはヨリコと別れた。
ヨリコの笑顔を見たのも、ナオジが心の底から怒り狂ったのも、それが最後だった。
***** ***** *****
ヨリコが突然ナオジの前から去ったのは、これで二度目だった。
最初は小学生の転校、そして次は現在の怪事件。
夕暮れが過ぎ、完全に夜の帳が降りていた。
ナオジは部屋の明かりを点けようと、暗い部屋の中を進む。
幼い頃からここで育ったのだ。
目を閉じていてもスイッチの場所までナオジは行くことが出来た。
しかし、ナオジが押すよりも先に部屋が明るくなる。
なんだ、とナオジは思い、部屋の入り口を見やった。
そこには外出着を纏った母親がいた。
「……早いな」
ナオジは意外な声を上げる。
父が亡くなった後、母親が夕暮れの時間帯に帰宅するなど過去にあっただろうか。
「今日は早く退社できたの。
久しぶりに、料理でも振る舞ってあげようと思ってね」
そう言う母親の手には、何かを入れたビニール袋がある。
ナオジはその中身をすぐに察した。
「冷凍ものじゃないか」
「私、包丁を持ったことがないのが自慢なの」
すごいでしょ、と屈託なく母は言う。
自慢になっていないとナオジは心の中で溜息をつく。
その様子を見て、母親は子供のように口を尖らせた。
「なによ、じゃあ手元の覚束ない私の手料理と最近のレトルト、どっちがおいしいと思ってるの?」
「後者だな」
「でしょう?」
なぜそこで胸を張るのだろう。
娘ながらナオジは思う。
「あんたのお父さんが生きてたら、もっと美味いもの食べさせられたんだけどねえ。
食にうるさいくせに体弱かったから」
世間話をするように、冷凍食品を食卓に並べながら母親は言った。
そこに哀しみや淋しさといった色合いはない。
彼女は鼻歌を歌いながら、台所のコンロで湯を沸かし始めていた。
「……料理が美味かったから、結婚したのか?」
その気楽な様の母親を見て、ナオジは尋ねる。
「そうよ」
こともなげに母親は応えた。
彼女の目は冷凍食品に記載された説明文を眺めている。
「家に帰ったら美味しいものが私を待ってたの。
それが楽しみで仕事を切り上げてたんだから」
「もうそれもなくなったから、仕事に専念し始めたってわけだ」
「分かってるじゃないの」
母親は電子レンジに冷凍食品を入れ、各種のボタンを操作し始めた。
電子レンジがほどなくして唸りを上げ、食品を熱していく。
「育児放棄だな」
「だってお父さんの遺言、守ってるんでしょ?」
母親のその台詞に、ナオジは言葉を詰まらせた。
肯定して良いのかどうか、迷う気持ちがナオジの中にあったからだ。
その僅かばかりの逡巡を、ナオジの母親は気付いたのか、
「もしかして」
と茶化した口調でナオジに言う。
「そろそろ辛くなった?」
「なにが」
「ひとりで生きてくこと」
「……あんたは私があの遺言を守ってることに、何も言わなかったな」
ナオジは食卓の椅子に腰を落とす。
母が昔から冷凍食品好きであることは知っていたので、あとはただ待つだけで良かった。
その間、この際に訊いてしまおうと思ったことを尋ねてみた。
「友達も作らない、喧嘩ばかりする、そんな子供に育って、あんたは良かったのか?」
問われて、母親は即応する。
「あんたがひとりでいたいなら、別に良いんじゃない?」
彼女は言った。
「あんたはあの遺言を守ってたからね。
何言ったって聞かなかったでしょ。
忘れたの?」
「……そうなのか」
「そうなの。
でもあんたは全然、人の話に耳を貸さなかったから、もうあんたが飽きるまで好きにさせることにしたの」
「結局、育児放棄じゃねえか」
「育児するはずだったあの人に言いなさいよ。
死んだあの人が悪いの」
レンジがアラームを鳴らす。
母親はそれを聞いて、電子レンジから解凍された食品を取り出し始めた。
食器にさまざまなものが並べられる。
野菜炒め、スープ、腸詰め、御飯。
そういったものを一通り食卓へ出すと、ナオジの母親も娘と同様、椅子に腰を下ろした。
「じゃ、いただきます」
ナオジの母親は言う。
ナオジは黙ってそれらに箸を伸ばした。
夕食が進む。
ナオジの母親は何が楽しいのか、鼻歌交じりに咀嚼していた。
食事をしながら鼻歌をするのが、母の昔からの癖だ。
ナオジは幼い頃、まだ生きていた父親が、品が悪いからやめなさいと母に注意していたことを思い出す。
そして娘に、
「ああなっちゃ駄目だぞ」
と言っていたことも、おぼろげだが覚えている。
「あんたら、よく結婚できたな」
昔のことを思い出すのは、ナオジにとって久しぶりだった。
元気だった父親を思い出すこと自体、もう何年も記憶の底にしまって忘れていた。
「あんたはお父さんに似たのね」
母親は鼻歌と食事する手を止め、唐突に言う。
「なにが」
「ひとりでも生きていこうとしてるところが、お父さんとそっくり」
「それは……」
遺言のせいだ、と言おうとし、ナオジは口を閉ざす。
自分がまるで、父親の遺言を守ることが悪いことだと言わんばかりだったからだ。
「迷ってるんでしょ」
そんなナオジの迷いを、母親は目ざとく射貫く。
ナオジは鼻白んだ。
「何のことだよ」
「ひとりで生きてていいのか、迷ってるんでしょ?」
「全然」
ナオジは言い切る。
しかし母親はなおも自信を崩さず、
「あんたはひとりじゃなかったよ」
とナオジに言った。
ナオジは何を言っているのか分からず、眉根を寄せる。
母親は顎に両手を添わせ、食卓に肘をつきながら続けた。
「ヨリコちゃんがいたからね」
「あの馬鹿がなんだってんだ」
ナオジは自分でも驚くほど語気が荒くなることを自覚する。
そのナオジの様子に、母親は小さく笑った。
「出会っちゃったから」
「だからなんだよ」
「出会っちゃったから、ひとりじゃなくなっちゃったの。
本人達が望むと望まないにかかわらず、そうなっちゃったのよ」
「……」
ナオジは母親の言葉に、どう返せばいいのか分からない。
母親はそんなナオジをまっすぐ見詰め、笑みを保ったまま言った。
「でも、またひとりになっちゃった」
ナオジの母親は言う。
「ひとりでいたときと、ひとりになっちゃったときは違うものだって、ようやく気付くの。
出会わなければ分からなかったことを、そのときになってやっと知る。
経験ね」
母親は席を立ち、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してきた。
ナオジの母親は売店で扱っている飲料水を好んで飲んだ。
水道水で充分であるナオジには、彼女の嗜好が分からない。
しかし自分で稼いだ金を母親が何に使おうと、口出しする謂われはないとナオジは思った。
うまそうにその水を嚥下する母親へ、娘が訊く。
「あんたも経験したのか」
「だから結婚したの」
そう言って母親は首肯した。
なので、ナオジはさらに問う。
「父さんも、そうだったのか?」
「あの人は、ひとりで生きたかったみたい。
だから何度も私から逃げようとした。
でもいつも戻ってきた。
そのたびに、つかれた、って言ってたわ」
「何に、疲れたんだ?」
「さあ。
あんたの方が分かるんじゃない?」
問い返され、ナオジは何も応えることが出来なかった。
だが、ふと彼女は思う。
もしも父親が生きていたのなら、自分の中のこの徒労感が何によるものなのか、教えてくれたのかもしれない。
いや、それはないか。
ナオジは自分の考えを掻き消す。
父親が死なずに生きていれば、あの遺言はなく、もっと熱心に育児へ取りかかっただろう。
父親が生きていた頃、自分は父の作ったもので育った。
おそらく父の言うことにも素直に従ったはずだ。
そうなれば、違うナオジが出来上がっていただろう。
そして、もしそんなナオジがヨリコと出会っていれば、どうなっていたのだろう。
ナオジはそんな考えを思いつく。
思いつくが、すぐに打ち消した。
何の意味もないからだ。
父親は死に、自分は乱暴者になり、そしてヨリコと出会った。
ヨリコ。
ナオジは彼女のことを想った。
ヨリコも、ひとりで生きたかったのか。
きっとそうだとナオジは思う。
それが出来なかった。
だから、人間の群れの中に入ることに決めた。
人の中に入るになんでもした、と確かに言っていた。
ヨリコは、本当はそう生きたくはなかったのか。
ナオジはヨリコの気持ちが、少しだけ分かった気がした。
ひとりで生きたいが、生きられなかったのだ。
だから、嘆いた。
そうして彼女は去ってしまった。
「……馬鹿が」
ナオジは母親にも聞こえないほど小さな声で、こぼす。
それからふと、魔物の言葉を思い出す。
故ある為に視えるのだ、という言葉。
故。
理由。
それは何だとナオジは自分へ尋ねる。
だが、尋ねてはいけないと、無意識に警告する心があった。
その理由に気付いてはいけない、と。
しかし、その警告の気持ちで、逆にナオジは理解してしまった。
諦観の感情が生まれてしまう。
それと心の中で戦いながら、彼女は母親へ言った。
「ヨリコのやつ、帰ってきた。
この町に」
「え、そうなの?」
ヨリコのことを母親に言う気も機会もなかったが、今なら言っても良いかとナオジは思った。
「同じ高校。
ついでにクラスも同じ」
「あらあら、じゃああんた何か持っていきなさいよ」
「何を」
「再会を祝して何か持ってくものなの」
大げさなものだ、とナオジは辟易した。
そして同時に、母親にヨリコのことを言えば、こうなることも予想していた。
そのために言ったのかもしれない、とナオジは感じる。
ヨリコの家を訪れる口実が、出来てしまった。