ナオジとヨリコ   作:鈴本恭一

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第3話:魔物

 

 10歳の頃、ヨリコは変質者に襲われた。

 

 小学校の校門の、すぐ近くだった。

 ひとりで下校していたヨリコに、突如として男が背後から掴み掛かり、彼女を脇の茂みへ連れ去った。

 茂みは路地から死角を作っており、そのとき周囲に人通りが絶えていたこともあり、男は簡単にヨリコを地面に押し倒すことが出来た。

 

 長いコートを羽織り、顔にサングラスとマスクを装着した男だった。

 それらで顔を隠していたが、ひどく興奮しているのか鼻息が荒い。

 ヨリコは完全に体を押さえつけられていたが、声ひとつあげなかった。

 抵抗もしなかった。

 

 いつもの無表情。

 その顔が驚きのそれに変化したのは、暴漢が不意に悲鳴を上げ、身を跳ね上げた時だった。

 

 暴漢の太股に、一本の鉛筆が刺さっていた。

 暴漢は地面に腰を落とし、そのまま背後を見る。

 

 そこには、今まさに飛びかかったナオジがいた。

 彼女の手には鋭く尖った鉛筆が握られている。

 ナオジは敏捷な動きで、その鉛筆を男の手のひらに突き刺した。

 男はさらに悲鳴を上げた。

 彼は叫びながら立ち上がり、無傷の方の手をコートのポケットに入れる。

 そしてその腕をナオジに向かって振り払った。

 

 暴漢の一撃がナオジの顔に当たった。

 彼女の頬に裂傷が走る。

 男の手にはカッターナイフがあった。

 

 ナオジは怯まず、思い切り勢いを付けて男の股間を蹴り込む。

 激しい痛みに崩れ落ちた男の顎に、ナオジは全力で肘鉄を放った。

 

 男はその打撃で昏倒し、地面に倒れ込む。

 

 息を切らせながら、ナオジはそれを見下ろした。

 そしてそんなナオジを、ヨリコは茫然とした表情で見詰めていた。

 

 その後、巡回中の教職員が男の叫び声を聞き、ナオジ達のところへ駆けつけた。

 失神した男はそのまま警察に引き渡され、ナオジは治療の為、病院に送られた。

 

 男に付けられた頬の傷は意外にも深く、痕が残るだろうとナオジは医者に言われた。

 

 ナオジは神妙な顔でそう告げた医者を鼻で笑ったが、ヨリコの方はそうはいかなかった。

 

 

「ごめんね、ごめんね」

 

 

 ヨリコはナオジに言い続ける。

 どういう表情を作ればいいのか分からない、困惑の貌で。

 それがうるさかったので、ナオジはヨリコをはたいた。

 ヨリコはそれ以上、何も言わなかった。

 

 その事件の後、ヨリコはナオジのあとをずっとついてくるようになった。

 

 

「ナオちゃん、ねえ、ナオちゃん」

 

 

 彼女はナオジを呼ぶ。

 今までになかったその変化にナオジは狼狽したが、先述のように最終的にヨリコの好きにさせることにした。

 

 以後、ナオジの頬には目立つ傷痕ができ、ヨリコはナオジを慕うこととなった。

 

 

 

 

 

    ***** ***** *****

 

 

 

 

 

 ヨリコは退院し、高校へ復学した。

 

 しかしナオジに見えるのは、あの銀髪の子供だ。

 どこで手に入れたのか、学校の制服を子供用にした服で通学している。

 

 案の定、同級生も教師も、その少女をヨリコだと思っていた。

 ナオジだけが、ヨリコに化けたその子供の正体を見ることが出来た。

 

 

「なんなんだよ、くそが」

 

 

 ナオジは屋上で、忌々しく煙草を喫している。

 屋上は普段は閉ざされているのだが、ナオジは職員室にあった屋上の鍵を盗み、合い鍵を作っていた。

 その鍵は外側から閉じることが出来るので、ナオジはよく屋上を独り占めしていた。

 

 フェンスに張られた金網をすり抜ける風を浴びながら、ナオジは屋上でひとり煙草を吸う。

 

 何が起きているのか整理しよう、とナオジは思った。

 

 ヨリコが消えた。

 別の人間がヨリコに成り代わっている。

 そしてナオジにしか、それが分からない。

 

 

「意味わかんねえ」

 

 

 独り言の悪態をナオジは吐き出す。

 煙草を床に投げ捨て、苛つきながらそれを踏み潰す。

 

 

「ヨリコはどこに行ったんだよ」

 

「魔物の城だよ」

 

 

 突然、ナオジの後ろから別の声がやってきた。

 

 

「っ!」

 

 

 反射的に、ナオジは振り向きながら飛び退く。

 その動きは驚かされた野良猫を彷彿とさせたが、驚いたという点ではナオジは否定せざるを得なかった。

 まったく気配を感じさせず、ナオジのすぐそばにそれがいた。

 

 あの、銀髪の少女。

 

 

「……てめえ」

 

 

 ナオジは相手を睨み付けながら、ちら、と屋上の入り口を見やる。

 ドアノブの鍵が開いているのが分かった。

 

 

「どうやってここに入った」

 

「魔物の持ってる月光の魔剣に頼んだら、開けてくれた」

 

 

 ナオジには全く理解できない単語で説明しながら、少女は床に視線を落とす。

 

 

「未成年の喫煙は、体に悪いよ?」

 

「うるせえよ、お前こそ何なんだ。

 ヨリコじゃねえのにヨリコのふりしてまで学校に来やがって、糞餓鬼が」

 

 

 刺々しい口調で少女に噛み付き、ナオジは出来るだけ相手の眼から目をそらさずにいようと試みた。

 奇妙な瞳だった。

 見たことのない、黄金の色をしたその目は底なしの沼のようで、ナオジはその沼に身も心も沈められてしまう自分を錯覚してしまった。

 

 

「私は、ヨリコの代わり。

 ヨリコが戻るまで、ヨリコを演じていないといけないの」

 

「そのヨリコは、あの馬鹿はどこ行った」

 

「だから、魔物の城だってば」

 

 

 同じ言葉を繰り返すのが楽しいのか、少女はおかしそうに笑う。

 その仕草にナオジは苛立ち、無造作に彼女へ近付く。

 ナオジは少女を拳で殴った。

 

 

「いい加減にしろよ」

 

 

 殴った感触がナオジの手に残る。

 しかし、それはすぐに消えた。

 少女は何事もなかったかのごとくそこに立って、変わらず微笑んでいる。

 

 

「あなたこそ、いい加減、認めちゃいなよ」

 

 

 柔らかな声色で少女はナオジに言う。

 その穏やかな口調がナオジをさらに苛つかせた。

 

 

「何をだ」

 

「私達が、人間じゃないってこと」

 

 

 さらり、と少女は言う。

 

 ナオジは怪訝に眉根を寄せた。

 頭のおかしな子供だと彼女は思う。

 

 そして、頭がおかしくなっているのは自分の方なのか、とも思った。

 

 

「認めなさい、認めなさいって。

 おかしなものが目の前にあるの。

 おかしなことが起きてるの。

 その原因は、あなたの目の前にいる私達だってことを認めなさいよ」

 

 

 ナオジの心を見通しているのかのように、少女の声音は優しかった。

 諭しに似た話し方で、少女はナオジに言う。

 

 

「……お前らは、何がしたい。

 ヨリコに何をした」

 

 

 なんとか絞り出したような自分の声が、ナオジには我ながら情けなかった。

 そんなナオジの問いかけに、少女は口を開く。

 

 

 「あの子は」

 

 

 その瞬間、空気の質量が変化した。

 

 ナオジは不意に大量の重しが自分に乗せられた気分になる。

 空間が重さをともなっていた。

 重圧感のある風がどうしようもなくナオジの体を締め付ける。

 

 

「かの娘は願った。

 吾輩はそれを叶えた」

 

 

 少女の口調が、尊大なものに変貌した。

 表情も不遜きわまりない傲慢な顔付きになり、謎の圧力に苦しむナオジを嘲笑っている。

 

 

「此の人形は魔界への門。

 現世に接する門を潜り、貴様の知る娘は魔界の我が城へ移り住んだ」

 

 

 少女の言葉ひとつひとつに、言い知れない圧迫感があった。

 まるで声そのものが固体となってナオジにぶつけられているようで、ナオジはその声の主に怯まぬよう、自分を鼓舞した。

 

 

「ヨリコが、お前に何を願ったって?」

 

 

「此の世から去ることを、だ」

 

 

 魔物を名乗る少女は応えた。

 

 そうして応えてから、魔物はにやつき、嘲る。

 

「その理由を、貴様は知っているはずだ」

 

 

「……」

 

 

 ぐさりという音を、ナオジは聞く。

 音ではな音だ。

 途端、不愉快な気分に陥る。

 心の裏側を覗き見られた、そんな感情が涌き上がった。

 その感情を力に変えて、ナオジは魔物に問う。

 

 

「お前は、死ぬまでヨリコのままか」

 

「娘が戻らぬ限り、そうだ」

 

「死んだ後は?」

 

「また別の人間に取って代わる」

 

 魔物は応えた。

 

 

「吾輩は、現世から去ることを望む人間を魔界へ住まわす。

 己を世界から不要と思い、しかし生きるしかない悲嘆に暮れる者。

 そんな者達を救う、魔物だ」

 

「なりすます人間がいなかったら?」

 

「人間にそんな時代はない」

 

 

 魔物はきっぱりと言い切った。

 ナオジはその断言に目を細める。

 

 

「もし人間がひとりもいなくなれば、お前はどうなる」

 

「吾輩は変わらず魔界の城にいるだけだ。

 が、此の人形は、忘れられた者達の領域へ漂い去るだろう」

 

「……そこへ、行きたくないのか」

 

「それが此の人形の願いだ。

 その為に吾輩と契約した。

 人間の中にいたい、と」

 

 

 魔物はそこでいったん言葉を切った。

 束の間だが、ナオジは正体不明の重圧から解放される。

 

 しかしすぐに、少女の姿をしたそれが口を開く。

 瞬間的に、ナオジの身が強張った。

 

 

「人間。

 貴様の知る娘も、人間の中にいたかったようだな」

 

「なに?」

 

 

 魔物のその言葉に、ナオジは訝しむ。

 それは矛盾だと思ったからだ。

 

 

「ヨリコはもう生きたくなかったんだろ。

 なのになんで、他の連中の輪にいたかったんだよ。

 変な話じゃねえか」

 

 

「願った、されど叶わなかった。

 その為に悲嘆した。

 それだけの話にすぎん」

 

 

 そして吾輩が手を差し伸べた、と魔物は言う。

 

 魔物が続けた。

 

 

「吾輩の人形が取って代わっても、何も変わらぬ者では我慢ならんかったらしい。

 その様な物では御免被るそうだ」

 

 

 くく、と魔物は笑う。

 愉快げに。

 ナオジはその笑い方がどういうわけか気に入らなかった。

 

 

「名声を得られるのであれば、はたまた、慈悲になる心に因って、どのような者でも救おうという輩に、吾輩の人形を目にすることは出来ぬ」

 

 

「なんのことだ」

 

 

「視ることが出来るのは、故ある為だ」

 

 

 ナオジは、この魔物が何を言いたいのか察した。

 よけいに気分が悪くなる。

 

 憮然とした声で、ナオジは魔物に言い放つ。

 

 

「私はあの馬鹿が生きてようが自殺しようが、どこに行こうが、知ったことじゃない」

 

 

「虚言だ」

 

 

 魔物はこともなく嘲る。

 

 ナオジは「なにがだ」

 

と言い、魔物の言葉をはね除けようとした。

 しかし魔物はそんなナオジの抵抗を微塵も意に介さず、彼女へ言う。

 

 

「吾輩は人間ではない。

 貴様がどれ程に自分の心へ偽りを重ねようと、虚言の群れで幾重にも囲い込もうと、吾輩には通じん。

 吾輩は魔物だからだ」

 

 

 魔物は悠然と、傲慢にナオジを弄ぶ。

 言葉だけで。

 

 それから逃れるため、ナオジはポケットから煙草を取り出し、火を付けた。

 指先が震えていないことを確かめて、少しだけナオジは安堵を感じる。

 

 煙をゆっくり肺に入れ、同じように時間を掛けて紫煙を吐き出した。

 魔物はその間、何も言わずナオジを見詰めていた。

 その視線がナオジから落ち着きを奪い去ってしまう。

 

 

「……魔界っていうのは、どんなとこだ」

 

 

 ざわつく心を誤魔化すために、ナオジは魔物へ問いかける。

 魔物は一拍の間も置かずに応じた。

 

 

「飢えることも渇くこともない、眠らずとも良く、老いや病にも無縁だ。

 物質的な要求であれば可能な限り応える。

 吾輩の招いた客であれば」

 

「まるで天国だな。

 戻りたくないわけだ」

 

「そういった人間の場所へ、吾輩は赴く」

 

 なるほど、とナオジは思った。

 

 

「お前は、魔物だ」

 

 

「ようやく認めたか」

 

 

 魔物は唇を三日月の形に歪ませ、笑う。

 

 そして、その笑みを唐突に消す。

 するとそれまであった重圧が嘘のように消えてなくなり、ナオジは思わず前のめりになってしまった。

 口から煙草を落としてしまう。

 

 

「ヨリコは自分じゃ戻らないよ。

 誰かが連れて戻さないと」

 

 

 尊大な口調は消え、憐れみのある穏やかな声で、銀髪の少女が告げた。

 

 

「私は門。

 魔界へ人間を送ることも、その逆も出来る。

 あなたにその勇気があるのなら、私に声を掛けて」

 

 

 そうして、少女はナオジへ背を向ける。

 彼女は魔法のように軽やかな足取りで屋上の出入り口に去っていった。

 

 ナオジは、ひとり残される。

 粘つく油が胸の内側に溜まっている気分だった。

 

 

「勇気だと?」

 

 

 無理矢理に唾を出し、吐き捨てながら独白する。

 

 

「なんで私が、あいつのために、何かしなくちゃいけないんだ」

 

 

 風が吹き、ナオジの独り言をさらっていく。

 その風を冷たいとナオジは感じた。

 

 頬が、うずく。

 左頬。

 傷痕が。

 

 ナオジはしばし、ひとりでそこにいた。

 

 


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