高校生のヨリコが交通事故に遭い、入院した。
ナオジは病院の廊下で、幼かった過去を振り返る。
今はもう高校一年生になる。
あの団地にナオジは未だ住んでいるが、ヨリコは小学校卒業を待たずに転校した。
この町唯一の高校で、ナオジはヨリコと再会したのだ。
病院の空気は独特だ、とナオジは思う。
神経質に潔癖さを保持しようとする空間は、彼女にさらなる過去を思い返させた。
ヨリコの父親との争い。
割れたナオジの手。
唯一の入院経験。
笑っていたヨリコ。
「……くそ」
ナオジは黒々とした自分の髪をかきむしり、意識を現在へ引き戻す。
教えられた病室へ足を伸ばす。
見舞いの品などない。
ただ一度顔を見て、そうしたら帰るつもりだった。
だが、そんな簡単なことにはならなかった。
病室は六人用の大部屋で、最奥の病床がヨリコに割り当てられている。
そういう情報を病室の入り口に記されたプレートで確認し、ナオジは部屋に入った。
そして足早に、ヨリコのいるベッドに向かう。
そこに、ヨリコはいなかった。
「……」
ナオジは鼻白む。
そのベッドは不在ではなかった。
入院用の患者服をまとった人物がいたが、ヨリコではない。
もっと年齢の低い、小学生にしか見えない少女だ。
白に近い銀糸のような髪、その髪よりさらに白い、血の気のない肌。
妖しげな輝きを帯びた金色の双眸を持つ、人間とは思えないほど整った顔立ちのその子を見て、ナオジは自分がどこにいて何をしに来たのか一瞬忘れてしまった。
しかしすぐに踵を返し、病室の入り口にあったプレートの記載を確認する。
ナオジの記憶に間違いはなく、ヨリコがいるはずの病室だった。
そしてヨリコのベッドには、あの少女がいる。
「ねえ」
病室の奥から、ナオジは声を掛けられた。
鈴を鳴らすような軽やかな声。
ナオジはついその声の主へ顔を向ける。
「そんなところにいないで、こっちにおいでよ。
ヨリコに会いに来たんでしょう、お見舞いで」
くすくす笑いを含んだ声質に、ナオジは眉根を寄せながらも再び病室へ足を踏み入れた。
病室のベッドは白いカーテンで仕切られているが、その少女はカーテンを全開にし、自分の姿をまるで隠そうとしなかった。
「誰だ、お前」
ナオジは詰問する。
少女はふふっ、とやはり羽根のように軽い声で応える。
「私は」
そして少女はがらりと口調を変えた。
「吾輩は、魔物」
途端、その少女からナオジまでを隔てる限定的な空気の気配も変貌する。
ナオジはその空気に触れ、言いようのない感覚に肌寒くなった。
少女は言う。
「貴様の大事な娘は吾輩が預かった。
返して欲しくば、我が城へ危険を顧みず参上せよ」
「……」
なんの冗談だ、とナオジは思った。
「ヨリコをどうした」
空気が粘りけを帯びたように、ナオジの全身が見えない何かに絡みつかれる。
それらははっきりとした意思を持ってナオジにまとわりつき、その意思の中心が目の前の少女なのだとナオジは確信する。
「娘は願った。
吾輩がそれを叶えた。
故にこの世界にはもはやおらぬ」
羽毛の軽さで声を紡ぐ少女が、ナオジの問いかけに応える。
ナオジには理解できない内容の言葉を。
「なんなんだ、お前。
ヨリコはどこだ」
「娘は魔界の我が城へ移り住んだ」
ナオジは不気味な性質に変化してしまった空気をかきわけ、ベッドににじり寄ると、少女の胸ぐらを掴みあげた。
「ここは精神病棟じゃない。
くそ面白くもねえことばかり口にしたら、そのちっせえ歯をへし折るぞ」
間近で睨み付けるナオジに対し、少女は小さな唇の端を細く吊り上げる。
笑った。
「ここにあるのは、彼(か)の娘の代わりを演じる人形。
魔物の人形だ。
吾輩はここにいてここにおらん。
この人形をどうしようと、何も変わらぬ」
「……」
ナオジは少女の頬を拳で殴る。
ベッドに殴り飛ばされた少女。
くすりくすり、とその身から笑みがこぼれていた。
「なにしてるんです!」
不意に、新たな声がナオジにかかった。
振り返ると、看護士の女性がひとりいて、驚きの表情を浮かべている。
「あなた、ヨリコちゃんに何してるの!」
ナオジはその看護士の言葉を聞いて、再度、少女に振り向く。
頬を殴ったはずだが、少女にはその痕跡ひとつ見つからない。
ただおかしそうに笑っている。
「出て行きなさいっ! ヨリコちゃんは怪我してるの、見て分かるでしょう!」
どよどよと、病室がざわつき始めた。
ナオジの起こした騒動が原因だと彼女には分かっていたが、そのナオジ自身は困惑でいっぱいだ。
この看護士には、あの少女がヨリコに見えている。
ナオジは直感でそう理解した。
周りの人間達も、誰一人としてヨリコのベッドに別の少女がいることを指摘しない。
彼らにも、ヨリコのベッドにはヨリコがいるように見えている。
そこにいる少女はヨリコではない、ヨリコとして見えないのは、ナオジだけだった。
ナオジの理知は混乱を始める。
そして頭が考えるよりも早く、足がベッドからその身を遠ざけていた。
ナオジはそのまま足早に病室を去る。
ついに頭がおかしくなった、と彼女は思った。