薄暗い廊下を、一人の少女が歩いている。
妖しく揺れるろうそくの炎を身にまとい、高貴なオーラを漂わせながら進む。
暗がりの中で光る紅い瞳は強く、彼女の意志の固さが容易に窺える。
迷路のように入り込む通路を歩いていると、ある一つの部屋の前にたどり着く。
禍々しく邪悪な空気が扉の隙間から漏れており、少女は眉をしかめて舌を打つ。
『やはり、限界だな』
皮膜の羽を揺らした少女──レミリアは、耳に手を添えてそう告げた。
同時に、私の耳へと、彼女の声がやって来る。無線で通じた、イヤーカフスに。
時間の関係で無線機は一セットしか揃えられず、レミリア達の声は私が伝える事になっていた。
改めて、現状の確認をした私は、浅く息を吐いて言葉を返す。
「はいはい、聴こえている?」
『ああ。こちらの声は?』
「ばっちしだよ」
レミリアの問いに頷き、対面にいるパチュリーにオッケーマークを向ける。
興味深げな眼差しを送ってきていた彼女は、その仕草を見て笑みを浮かべ、次いでテーブルの上にある巨大な水晶を撫でた。
「これも、問題なさそうね」
「うん。ちゃんとレミリアの姿が映っているし」
咲夜に釘を刺されてから、暫く経ち。
現在、私達はフランドールの狂気を鎮める、作戦決行日を迎えていた。
私とパチュリー、そして咲夜は大図書館で待機していて、レミリアが一人でフランドールの部屋へと向かっている。
初めは私達も側で見守っていようか、と彼女に提案したのだが。
──これは、私達姉妹の問題だ。せめて、この日ぐらいは私一人に任せてくれ。
と、不敵な笑み混じりで告げられ、こうしてサポートに徹しているというわけだ。
レミリアの耳には私開発の無線機があり、私と声を繋げている。
映像の方はパチュリー制作の魔道具で、これで視覚と聴覚はこちらも把握できるだろう。
咲夜は私達の身の回りの世話と、万が一のためのバックアップ要因だ。
彼女の時間停止能力を使えば、直ぐにレミリアを助けられるだろうから。
ちなみに、小悪魔は妖精メイド達の監修で、美鈴はいつも通り門番を務めて貰っている。
ないとは思うが、勘づいた妖怪を紅魔館に侵入させないために。
「レミリア。もう一度、おさらいしよう」
『まず、フランの狂気を表に出し、それをある程度発散させる。そして、フランが疲弊した頃合を見計らい、この魔道具をフランの腕に付ける──相違はないな?』
「うん、オッケー。ついでに言うと、魔道具の腕輪は予備を含めて三つしか創れなかったから、ドジ踏んで全部壊さないでよね?」
からかいの意を含んで問うと、水晶内のレミリアが鼻で笑う。
こちらまで伝わりそうなほどの威厳を湛え、八重歯を光らせながら口を開く。
『愚問だな。フランのためならば、私は全ての運命を掌握してみせる』
「……あっはっは! いいね、そういう啖呵。嫌いじゃない」
『ふんっ。で、準備はいいか?』
レミリアの問いかけに、私はパチュリー達の方へ目を向けた。
七曜の魔女は澄んだ瞳でこちらを見つめ返しており、身体からは微かに色濃い魔力が迸っている。
底知れぬ威圧を漂わせながら、ただただ静かに私の言葉を待つ体勢だ。
彼女の魔力の余波だけで大図書館は軋み、この場の空気が張り詰められていく。
「問題ありませんわ」
対して、完璧で瀟洒なメイドは、莞爾とした笑みを浮かべたまま、慇懃な礼を示す。
しかし、彼女から感じる鋭いナイフのような気配を考慮すれば、先ほどの笑顔が表面上でしかない事が容易に窺えるだろう。
まさに、冷徹な狩人の如く、敬愛なる主の一挙手一投足を観察している。
些細な問題を見逃さぬよう、己の身を挺して主人を助けるために。
二人の気合いを十二分に受け取った私は、手を鳴らして言葉を返す。
「よっし! じゃあ、作戦スタート」
私の合図を聞き、部屋の扉を押すレミリア。
錆び付いた音を響かせながら、ゆっくりとドアが開かれていく。
まるで、長年封じ込めていた封印を解いた事に、怒り嘆くように。
水晶内のカメラも動き、レミリアと一緒にフランドールの部屋へと移る。
以前私が見た通り、室内の様子はさほど変わっていない。
相変わらずフランドールはベッドに腰掛けており、感情が込められていない目で虚空を眺めている。
「これは……」
彼女の姿をこの目で確認するのは、初めてだったのだろう。
パチュリーは驚きの声音を漏らし、対する咲夜は痛ましそうに目を伏せるのみ。
私も前に会ったとはいえ、幼い少女のこんな姿を見てしまうと、胸を痛めてしまう。
あの時は、フランドールを心底どうでも良いと思っていた……しかし、現在の私はレミリア達と言葉を交わした。
少なくとも、私は彼女達を友だと思っていて、好ましく思っている。
そんな今だからこそ、以前までの私の思考が許せず、自然と自嘲の笑みを零す。
『過去は過去だ』
「えっ?」
『昔のお前がどう思っていたか、というのは些末な問題だろう。私が知っている今のお前は、赤の他人の家族問題を無償で助けてくれる、どうしようもないバカで救いようのないお人好しだ』
「レミリア……」
私の雰囲気を敏感に感じ取ったのか、偉大なる吸血鬼は真紅の瞳を細め、皮肉げに口角を上げた。
表情は向いていなくとも、彼女の言葉は無線を通じて私に届いていた。
それがレミリアなりの激励だと理解し、思わず目を濡らしてしまう。
──過去を振り返る暇があれば、今のお人好しとして私を支えろ。
無言の背中からそう伝わり、私は目元を拭って気合いを入れ直す。
レミリアにそこまで頼られたのなら、頑張らなくてはならない。
この作戦が成功するように、吸血鬼姉妹が一緒に笑え合えるように。
私はただ、レミリアのサポートに徹するだけだ。
『お姉様?』
気持ちを切り替えていると、不意にフランドールの声が響いた。
彼女はレミリアの方に顔を向けており、可愛らしく目を見開いている。
七色の羽根は嬉しげに揺らめき、ぱっと表情に満面の花を咲かす。
自分の衝動に突き動かされるよう、ベッドから飛び降りたフランドール。
しかし、直ぐに立ち止まり、飛び退いて空中でレミリアを見つめる。
『フラン、久しぶりね』
『だ、ダメ! お姉様来ちゃダメ!』
私が初めて見た慈愛の微笑みを浮かべたレミリアは、静かな歩調でフランドールとの距離を詰めていく。
怯えた形相で後ずさる、自身の妹の声を無視して。
零れんばかりの愛を胸に秘めた様子で、真紅の吸血鬼は澄んだ瞳で愛する家族と目を合わす。
優雅に手を胸元に添えながら、どこか贖罪する口調で喉を震わせる。
『ごめんなさい。今まで、貴女には酷い事をしたわ』
『違う! お姉様は悪くない! 私が、自分からここにいるんだもん!』
『元々、フランに地下室へ行くよう言ったのは私だわ。貴女は私に罪悪感を抱かせないようにするために、私の提案を遮って自分から行ったんじゃない』
『違うっ! 違う違う違う! お姉様はなにも悪くない!』
『いいえ』
『っ!』
言葉少なく、それ以上に思い強く否定の声を上げたレミリア。
揺るがぬ瞳は紅く輝き、その固い意志を湛えた眼差しは、フランドールへと注がれている。
吸血鬼としての威厳に満ち溢れ、しかしどこか暖かみのある視線。
自身の言葉を曲げるつもりは微塵もない、といった様子が傍目からも一目瞭然だ──間違いなく、今のレミリアは幻想郷でもっともカリスマ性があった。
そんな凄まじい姉の想いを受け取ったからか、フランドールは言葉に詰まり、次いで俯いて肩を震わせていく。
『私が未熟なばかりに、貴女に辛い思いを味あわせてしまったわ。ずっと独りで、地下室に籠らせて』
『………………て』
『きっと、フランは私の事を恨んだでしょう。妬んだでしょう。憎んだでしょう。自分はこんなに寂しいのに、姉はのうのうと外で皆と楽しく過ごしているに違いない、って』
『…………めて』
フランドールの全身から、邪悪な妖気が零れ出ていく。
抱えた頭を弱々しく振るその様子とは裏腹に、徐々に禍々しい気配が強くなっている。
当然、レミリアも気がついているのだろう。しかし、彼女は一人の姉として話すのをやめるつもりは毛頭ないようで、自分の不甲斐なさを嘆くように胸元に添えていた手を握り締めた。
骨が砕ける音が響き、レミリアの右手から血飛沫が飛び散る。
血塗れた自身の手を翳すと、彼女は自嘲の笑みを零して言葉を繋ぐ。
既に手は再生され始め、治りかけていた。
『吸血鬼として優れた力を持っていながら、大切な妹一人救えない。なにが、誇り高き吸血鬼かしら。我ながらバカバカしくて、滑稽よね』
『……やめて』
『でもね、フラン。こんなどうしようもなく未熟な私を、支えてくれている人達がいるの』
そこで言葉を区切り、視線をカメラのある方に向けたレミリア。
少し照れ臭そうに頬を赤らめながらも、誇らしげに胸を張っていた。
「レミィ……」
固唾を呑んで見守っていたパチュリーは、その言葉に感動した様子だ。
目元を潤ませており、頬が緩んでいた。
また、咲夜も感無量といった様子で、ハンカチを目に当てて涙を拭っている。
かく言う私も、レミリアの独白を耳にし、泣きそうになるのを堪えていた。
あの、誰よりも誇りを大事にしていた彼女が、吸血鬼としての矜持を持っていたレミリアが。
他人には決して言えないような胸の内を、告げてくれたのだ。
心ない人なら、今のレミリアを弱いと評するだろう。
だけど、私はそうは思わない。自分の弱さを認めた上で、大切な人がいてくれると胸を張れる心根──私ならば、レミリアをこう認識する。
誰よりも誇り高く、それ以上に心が強い吸血鬼、と。
『ねぇ、フラン。彼女達のおかげで、貴女の狂気をなんとかする方法が見つかったの。だから、一緒に外へ──』
『やめてッ!』
一人の少女が、慟哭の声を響かせた。
顔を上げた彼女の目は血走っており、レミリアを強く睨んでいる。
急変したフランドールの姿に、レミリアは目を見開いて一歩踏み込む。
その姉の行動を見とがめる様子で、妹は犬歯を剥き出しにして口を開く。
まるで、自分に言い聞かせるように。
『やめてやめてやめてやめてッ! 違う違う違う違うッ! お姉様はそんな事言わないッ! お姉様は強くて、誇り高くて、カッコよくて、私の憧れなのッ! だから、だから、お姉様はそんな弱音なんか言わないッ!』
『フ、フラン……』
突然のフランドールの言葉に、レミリアは声も出ないようだ。
唖然と佇んでおり、じっとフランドールを見つめている。
しかし、そんなレミリアの反応すら気に食わないのか、フランドールは再び頭を抱えて苦悶の声を上げる。
同時に、漏れていた妖気が、爆発的に膨れ上がっていく。
『やめろやめろやめろ壊したくない壊したくないこわしたくない──』
『フラン!』
焦った表情で、フランドールの元へ飛んでいくレミリア。
伸ばした彼女の手が触れる刹那、顔を上げた幼き吸血鬼は涙を流していた。
『──たすけて、おねえさま』
フランドールがそう呟いたのが合図だったかのように、彼女の無邪気な瞳が濁る。
輝く宝石が泥まみれになったかの如き仄暗く澱み、彼女の意志が消え失せていた。
「っ!」
「早まるな!」
視界の端で、咲夜が動いた。
すかさず手で制し、振り上げられたナイフを握り締める。
右手が裂けて血が飛び、鋭い痛みに私は眉をしかめた。
鉄の臭いが辺りに充満し始め、冷徹な瞳で睨むメイドと目を合わす。
「何故、止めたのでしょうか?」
「今の咲夜が行っても、レミリア達の邪魔にしかならないからだよ」
横目で水晶内を窺うと、フランドールの貫手をレミリアが躱していた。
彼女は苦渋の表情を浮かべており、対するフランドールは無邪気な笑顔だ。
文字通り満面の笑みだったが、それはどこまでも攻撃的な意しか含まれていない。
子供がアリを踏み潰すような、なんとなくといった様子で、哄笑を上げている。
『アハハハハッ! 楽しい、楽しいお姉様? わたしはとっても楽しいよ!』
『……ええ、私も楽しいわ。フランと遊べるんだもの。楽しくて楽しくて、仕方がないわ』
二人の吸血鬼が激突するたび、部屋に亀裂が走って崩れていく。
既に無事な家具は一つもなく、壁も瓦礫へと変貌していた。
技術が微塵もない、純粋な力と力のぶつかり合い。
己の特性を十全に活かした戦闘に、種族の規格外さが窺えるだろう。
「歯がゆいわね。見ているだけなんて」
「それは私も同じ気持ち。だから、咲夜。とりあえず抑えて」
「…………承知いたしました」
目を細めながら爪を噛むパチュリーと、渋々といった様子で矛を下ろした咲夜。
直後には私の右手に包帯が巻かれ、的確な治療が施された。
笑顔で礼を告げた後、私は無事な左手で顎を撫でつける。
「予定とは違うね」
「そうね。元々は、妹様と弾幕ごっこで戦う予定だったのだけれど」
パチュリーの言う通り、本初の想定では弾幕ごっこだったのだ。
これは、レミリア達が怪我をしないためでもあるし、なにより幻想郷のルールに従ったからでもある。
幻想郷の賢者である紫……実は、今回の事は彼女に告げていない。
伝えるタイミングを逃していたし、万が一この作戦を止められる可能性があったからだ。
「無線機はまずいよねぇ……」
紫は過度の技術革新を良しとしていないので、自分で使う分はともかく、他人に使わせるのは問題があるだろう。
だから、刺激しないよう弾幕ごっこにする予定だったのだが……まあ、所詮予定は予定だったという事である。
「っ!」
「どうしたの?」
「いや、なんでもないよ」
パチュリーの疑問にそう答えつつ、私は密かに胸を撫で下ろしていた。
神経が過敏になっているのだろう。いないはずの紫がいたような、錯覚に陥ったのだから。
感じた気がする気配は既になく、私達以外誰もこの場にいない。
『もっと! もっと、お姉様の力を見せてよ!』
大きく裂けた唇を震わせ、フランドールはレミリアに突貫。
鎌鼬が起きるほどの速さで足を振り上げ、風切り音を鳴らす。
しかし、レミリアは流麗な動作でその蹴撃を受け流し、返す拳でフランドールを吹き飛ばした。
武道としての理にかなった動き──ではない。
貴族がダンスを披露するかのように、気品溢れる所作で戦っているのだ。
吸血鬼の力で絶大な畏怖を、レミリア自身の行動で心からの敬服を、フランドールを見つめる視線で止まらない親愛を。
この戦闘を通して、私達に伝えていた。
「ねぇ、まだなの!」
「まだだよ! まだ彼女の狂気が強すぎる!」
苛立つ様子で催促するパチュリーに、私はテーブルにある計測器を一瞥してそう返した。
フランドールの狂気を大まかに測る機械を造っていたのだが、それが示す値が規定値に達していない。
せいぜいが四十パーセント、といったところか。
この状態で魔道具を嵌めても、直ぐにフランドールに壊されてしまうだろう。
思わず歯を噛み締めながら、耳に手を添えてレミリアに声を掛ける。
「聴こえていたよね? もう少し保たせて」
『くくっ。保たせるもなにも、今の私は絶好調だ。フランのためならば、永遠に踊ってみせよう』
「そりゃ頼もしい返事だね」
口角を吊り上げたレミリアは、今の言葉を証明するように勢いを増していく。
吸血鬼としての特性を十全に活かし、鋭角な軌道で飛翔して相手を惑わせる。
対するフランドールも、ますます笑みを深めてレミリアを追いかけていた。
この光景だけを切り取れば、姉妹でじゃれ合っているとしか思えないだろう。
しかし、フランドールが殺傷力の込められた弾を撃ち出していたり、レミリアがそれをバレルロール等で躱していなければ。
既に場所は移り、咲夜の能力で拡張された通路で行われている。
あちこちを破壊しながら飛んでいるうちに、吸血鬼姉妹は大きな空間へとたどり着く。
『さあ、フラン。鬼ごっこはおしまいよ。次はなにして遊びましょうか?』
空中で振り返り、微笑を零したレミリア。
慈しむ眼差しでフランドールを見つめており、腕を組んで彼女の言葉を待っている。
対して、フランドールはギリッと歯ぎしりを鳴らし、瞳に宿る殺意を高まらせていく。
ただただ暴力的に、獣としての本能が全面に現れた殺気へと。
『その余裕がムカつく! ムカつくから、お姉様をこわしちゃうね!』
狂的に嗤うと、おもむろにフランドールが右手を掲げた。
まるで、レミリアの命は自分が握っていると示すように。
恐らく、あそこにフランドールだけが見える“目”があるのだろう。そして、それを握り潰してレミリアを殺すつもりなのだろう。
ゆっくりと、閉じられていくフランドールの右手。
無邪気な破壊者が勝利を確信した様子で、邪悪にほくそ笑んだ──
『甘いわね』
──瞬間、すぐ側に現れたレミリアに、右手をはたかれた。
目をこれでもかと丸くしたフランドールは、ポツリと呟きを漏らす。
『なんで?』
『四百九十五年』
『えっ?』
『貴女の姉でいる年数よ。確かに、私はフランを地下室に閉じ込めたわ。でも、それだけで私がなにもしなかったわけないでしょう。ずっと……それこそ、気が狂うほど、貴女の事を見ていたの。だから、貴女の考えなんて簡単に読めるし、死角を突くなんて朝飯前よ』
そう告げると、レミリアは儚く微笑んだ。
姉としての不甲斐なさ、フランドールの姉という強い自負、彼女をやり込めた事へのしてやったり感……様々な感情が入り混じる、不思議で魅力的な笑顔だった。
『……』
「レミリア。規定値に達した。彼女に魔道具を」
フランドールの心に影響されたからか、思ったより早く予定の値までいった。
今の立ち位置は絶好のチャンスだし、これならば上手くいきそうだ。
パチュリー達も安堵した様子で息を吐いており、辺りに弛緩した空気が流れ込む。
『さあ、フラン。これを付けて──』
『うるさい』
『──えっ?』
ブレスレットを取り出したレミリアの右手を、フランドールが握り潰した。
私の耳にも嫌な音が届き、思わず眉をしかめて立ち上がる。
水晶内の映像からでは、影に隠れて二人の姿が詳しく窺えない。
だから、自然とパチュリー達は私を見やり、なにがあったと無言で問いかけてくる。
「……レミリアの、手が潰された」
「レミィの手が!?」
『うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいッ!』
『ぐぅっ!』
咄嗟に両腕をクロスにしたレミリアは、フランドールに殴り飛ばされた。
あっという間に壁まで吹っ飛び、激突して蜘蛛の巣状の亀裂を走らせる。
同時に、フランドールが更に濃い妖力を放ち、そのオーラにあてられた水晶にヒビが入ってしまう。
「レミリア!」
私が悲鳴を上げ、パチュリーが冷や汗を垂らし、そして咲夜の瞳が冷めていく。
瀟洒なメイドが吸血鬼の忠犬に変わる──直前、壁から抜け出たレミリアが吼える。
『貴様らは動くなッ!』
声が届いた私はもちろん、聞こえないはずのパチュリー達までもが、その言葉に固まった。
場の全員が水晶内のレミリアを見つめ、今の発言の真意を窺う。
折れた両腕を壁に叩きつけ、無理矢理元の形に戻していたレミリアは、口元の血を拭って不敵に笑む。
毅然と佇みながら、突っ込んでくるフランドールを静かに見守っていた。
「お嬢様!」
「待って! レミリアには、どうやらなにか考えがあるらしい」
「ですが……!」
私の言葉を聞いても、咲夜は表情を歪めて今にも突撃しそうだ。
従者として主の命令を守るか、咲夜としてレミリアの元に行くか。
仕事と私情──二つの感情に心を板挟みにされ、瀟洒なメイドの仮面が剥がれていく。
しかし、咲夜が行動を決定するのは、僅かに遅かった。
『アハハハハハ!』
醜く口の端を広げたフランドールが、赤黒い妖気に身を包みながら、飛翔する速度を増す。
既に音速近いスピードになっており、飛ぶ余波で物凄い風が巻き起こっていた。
レミリアとぶつかふのも、もはや一秒にも満たない。
私の思考速度は彼女達の行動を捉えているが、今の咲夜では時間を止める時に発する思考のせいで、二人の戦闘に横槍を入れる事は不可能だろう。
もはや、人間の立ち入る領域ではなく、私達はレミリアの無事を祈る事しかできない。
仮に、この場に紫がいたのなら、能力を行使して片手間に対処できたはずだ。
しかし、それは仮定の話。動く様子のないレミリアを見れば──
「へっ!?」
私達の目に、予想だにしない光景が映った。
空間の反対側までフランドールが吹っ飛んでおり、翼を広げて怒りの形相を浮かべている。
レミリアが今のを対処したのだろうか──いや、彼女の前にもう一人、新たな人物がそこにいた。
『くくっ。姉妹の遊戯に乱入するとは、不粋な輩だ』
『申し訳ないです』
『構わん。お前がこの場に来ることを、私は見えていたからな』
『あはは。バレちゃってましたか』
燃えるような赤髪は薄暗い場に栄え、隙のない構えは幾百年も経た老木の如し。
笑顔は陽だまりのような暖かみがありながら、フランドールを見つめる視線は鋭い。
全身からは恐ろしく清廉な気迫が漂っており、我が主を何人たりとも触れさせぬ、といった不動の佇まいだ。
玄武を思わせる堅い戦闘態勢を取っているのは、紅魔館の門番で侵入者を迎え撃つ華人小娘──
『お嬢様の危機に、参上いたしました!』
──紅美鈴だった。