ヴィルマが今も時折思い出すのは、あの海を渡る前の日々――大陸での日々だった。
ありとあらゆるものが不足していたため、布を濡らして体を拭く事すらままならない。
垢と埃でパリパリする肌を揉みほぐしながら、毎日ひたすらたくさんの大人たちと、なるだけ安全そうな建物を探して歩き続けた毎日。
車など無い。いや、使えそうな物があるにはあるのだが、植物が光る雨に汚染されている地上では、燃料になり得るものは水と同じ位貴重なもの。時期によっては、それがなければ死ぬのだ。
ボロボロの建物や古い家具を壊して、どうにか燃やせるモノを探すのはいつもの事だったが、当然かなり危険な仕事だった。
熱を出したり、体調を崩しただけで置いていかれるのも当然だった。例の雨に『感染』したと思われる人間は次々に置いていかれた。
……いや、多分殺されたのだろう。
あるいは……自分からそう頼んだのかもしれない。
何度か、わざわざ『毒』を売りに来る人がいると聞いた事がある。
シェルターが駄目になって外に逃げ出してから、母親のヒルダに『外の物に直接触ってはいけない』と言われない日はなかった。
熱が出たり倒れたりしたら取り返しがつかないから、と。
子供心に、無茶を言うなと思っていた。
今にも空腹で倒れそうなのに。
今にも、汚染されているかもしれない地面でもいいから横になりたいのに。
だからこそ……。そうだ、だからこそ、海を渡って辿りついたこの島国は、自分には理想郷に見えた。
自分達が病原菌の様な扱いをされているのは知っていた。だけど、それで追い出される事はなかった。
安全な地面の下にはいけなかったけど、キチンとした屋根と壁に囲まれた場所で、ちゃんとしたベッドで寝る事が出来た。
何も食べずに過ごす日が無くなった。
水が飲めなくて、麦の粒をしゃぶって唾液を出して喉の渇きを誤魔化す日は遠くなった。
――お母さんが、グループの偉そうな人とこっそりどこかに行く事も無くなった。
――だから……だから……っ
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
あのデカブツの時同様、見通しの悪い時間にこんな戦闘を仕掛けるなんて馬鹿の極みだと、我ながら思う。
特に、襲われたのではなく自分達から襲いかかっているのだ。
もっとも、その暗闇も徐々に晴れてきているが――
「シーナ! 燃料は大丈夫か!?」
闇夜に浮かぶヘッドライトの灯り。
一度は別れたシーナ達の車――いやそもそも俺の車なのだが――との合流に成功した。
徐々に朝日が辺りを照らしだしつつあるアシュフォードの中で、朝霧に照らすヘッドライトの光はなんとも言えず幻想的だった。
その後ろに追いすがる、とんでもなく厄介な緑色の塊を引き連れてさえいなければ。
「……シーナ……ちょっと速度を変えないで」
「OK、ヴィルマちゃん!」
俺の車の荷台で、いつものように固定バリスタの傍にいるヴィルマは、相も変わらず表情を変えずに、お手製の照準器を覗き込んで狙いを定めている。
発射口の上に針金で作った丸に、その中心を示すようになるだけ頑丈な組み紐の輪をくくりつけて十字を付けただけの代物なのだが、意外に才能があったのかヴィルマはあまり無駄撃ちをしない。
「…………ここ?」
ボソリと、ヴィルマが疑問形で呟くのと同時に引き金が引かれ、空を斬る音と共に金属の矢が放たれる。
放たれた矢は、先ほどからグルグルとその周囲を回っている駅の二階、その外壁を撃ち抜き、更にガラスとコンクリートの破片の雨を降らせる。
元々年月と共に風化し、脆くなった建物だ。
先ほどから何度もこうして外壁やガラスを利用した落下物アタックをかましているが、ヴィルマとスナイパーの間が絶妙なために的確に、そして適度にケーシー達の足を躊躇わせている。
「…………矢がもうあんまりない」
現状、十分な数のケーシーを引き連れ、ちまちまと数を減らしてはいる。
作戦通り、シェルターの入口にいた奴らもこっちに来ているようだ。
「キョウスケ!」
「なんだぁ!?」
シーナの運転に合わせて並走していると、そのシーナがキレ気味で怒鳴ってくる。
「あの姉ちゃんはホントに大丈夫なんだろうな!?」
「そっちよりもオットーの方を気にしろよ! 結構うっかりな所あるぞあの人!」
シーナの運転する――つまりは自分のジープの作りは簡単だ。
まず普通のジープ部分があり、荷台部分には装甲板で作った壁と扉――今は開かれている――があり、その更に後ろに貨物やタレット等を乗せる追加荷台を引っ張っている。
その荷台に今乗っているのヴィルマだけで、先ほどまで乗っていた二人の姿は消えていた。
「――ったく……アイツら犬の癖に鼻が効かないって……マジなのか愚弟!」
「マジだよ愚兄!」
「信じられねーよ!」
「じゃあわざわざ聞くなよ!」
一方、こちらの後部席から身を乗り出してライフルで応戦している二人組の内、男の方がシーナに向かって叫び返す。
「カスタムした銃の試し撃ちも兼ねて化け物共の習性の研究はずっと前からやって来たんだ! 俺を信じろってば!」
何をやってんだお前と突っ込みたいが、それらのメモを各シェルターにて大量の水やパーツ、資材と引き換えにしてきた身なので強くは言えない。
(こいつ、ソールズベリーにいる『
あの手この手でクリーチャーを調べている『魔女』とは調査、研究の方向性がかなり違うが……。
「なにはともあれ、二人に期待するしかないか……っ」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「……気配はなし。やはり、これだけ広くても屋内にはいない、か」
「追ってくる時とかはともかく、平常時は大抵外にいるのがケーシーだからねぇ」
朝日がうっすらと差し込みつつある駅構内。そこに、一組の男女がこっそりと潜入していた。
「もっと資材――というか機材があればな、スイッチ一つで起爆できる仕掛けもセットできたんだろうが……」
「ねー。それねー。そんなんあるなら俺もバンバン使ってバンバン連中を吹っ飛ばしていきたい所なんだけど……」
片やクールビューティ、片やほぼテロリストという異色のコンビは灯りを付けずに素早く、そして物音もほとんど立てずに移動する。
駅を吹き飛ばす作戦として、弓を使った爆薬を使用するというのも作戦の一つだったが、それはどちらかというと補助。
的確に崩壊させるには、この建造物を支える重要な支柱を確実に破壊する必要があった。
二人は、そのための仕込みをしている所だった。
「それにしても、車から飛び降りる羽目になるとは……私の雇い主も、あの運転手も無茶な作戦を提案してくる……」
「しょーがないって。駅に忍び込むにはどんだけ忍び足でも周りのケーシーが邪魔で、かといってこの近くじゃ隠れる場所が少ないし、引きつけて駅を完全に空っぽにする囮は必要だった」
「飛び降りるタイミング一つ間違えれば私達が大怪我するか、あるいは奴らに見つかって踏みつぶされて餌になる所だったがな……」
無論、キョウスケとシーナは目潰しをしてくれていた。
貴重な火炎瓶を投げつけて足を止めると共に目をくらませ、ハンドルを切ってケーシーの視界から外れた所で僅かに減速。その間に二人は飛び降り、そのまま駅構内へと姿を隠したのだ。
「ま、ま、そこはもういいじゃん。とにもかくも爆発物設置して、線路を辿って来るだろうキョウスケ達を援護出来る用意をしないと」
こちらが合図を出せば、あの二台の車は線路を辿ってこの駅構内を爆走する。後ろに緑色の脅威を引き連れて。
そのタイミングで屋根を落とし、更にそれを燃やす事で可能な限りの数を殺す。
そこまでが既定路線だ。
問題は――
「仮にタイミングを成功させたとして、問題はどれだけの数が生き残るか……」
「そして、それを殺し切れるだけの兵力が揃うかだけど……」
先ほどから二人とも音には警戒している。
基本的に屋内にはあまり入らないケーシーだが、万が一がある。
加えてキョウスケ、シーナが今どこらを走っているのかを、エンジン音とその後ろに続いて鳴り響く足音で判断するしかない。
「どうだい? 君達のお家の玄関の様子は?」
「気配なし。まぁ、今の段階で出てこられても助かるから別にいいけど……」
オットーは眉に軽く皺を寄せながら、支柱に爆発物をくくりつけていく。
「シェルターから兵隊たちが来てくれないとこっちも動きようがないんだよなぁ……北の即席防壁も不安だし」
今の所、遠くの方から先日設置したタレットが起動したような気配はない。獣の遠吠えやうなり声もしない所をみると、予想に反してまだ連中はこっちの騒ぎに気付いていないのだろう。
だが、それも時間の問題だ。日が高くなればなるほど、ケーシーという個体は動きが活発になるらしい。ルカの調べによると。
「ふむ……」
そんなオットーの言葉に、周辺に油を撒いていたスナイパーはタンクを振りまわす手を止めてしばし考え込み。
「オットー、君はシェルター出入り口付近の、監視カメラの位置は把握しているかい?」
「んん? あぁ、電子機器関連のメンテとか修理やってたの俺だから」
「そうか……なら」
スナイパーは、ボロボロのマントを開いて見せる。
マントの内側には、彼女が縫い繕った簡単な物入れがいくつかあり、その中には二丁の小さな銃が収まっていた。
戦闘に扱うようなそれよりも小さく、銃口も大きいそれに、オットーはニヤリと顔をゆがめる。
「キョウスケ達への合図用以外に持ってたんなら教えてちょうだいよ」
「打ち合わせでは必要ないだろうという話だったからな」
そのうちの一丁をスナイパーから手渡されたオットーは、中身が込められているかを確認して再びニヤリと笑う。
「ちょっと席外すよ」
「パーティーには遅れないでくれよ?」
「あぁ、大丈夫」
「――ちゃんとゲストを呼んでくる」