そこら中からか細い、だが獰猛さを感じさせる獣の唸り声が響いてくる。
もはや地上の主と言ってもいい、化け物共の声だ。
「くそっ、ウサギ共がまた集まってきやがったか。見つかってはないようだが……おいジョージ、しっかりしろよ」
少し恰幅の良い40くらいの男が、倒れている若い男の足を布で巻いて押さえながら押し殺した声でそう話す。
「オーウェルさん、俺を置いていってください」
「馬鹿なこと言うなジョージ。お前さん、確か恋人できたんだろう? こんな所で寝てる場合じゃねぇ。なぁ、そうだろう?」
「オーウェルさん……」
ジョージと呼ばれた若い男は、声を震わせながら口を開く。
「ありがとうございます。でも、俺、もう――」
何かに怯えるように口を開くジョージ。
不安なのだ。そう感じた中年男――オーウェルは、言葉を続けようとするジョージの言葉をさえぎるように声をかけ続ける。
「心配するな、絶対助かる。キョウスケが今薬を持ってこっちに来てくれている。なんせ、逃げることはとびきり得意なアイツだ」
「……あの、日系が?」
「あぁ、そうだ。大丈夫。アイツは来ると言ったからには必ず来る。そういう奴だ」
あまりキョウスケを知らないのか、若い男は不安そうに眉を顰める。
オーウェル自身も、少しだけ不安なのだろう。止血する手に更に力を込めながら言葉を続ける。
「なぁ、どんな娘と付き合ってるんだ?」
「え? いや、その……えーと……」
「ほら、思い出せ。帰りを待ってる女がいるんだと思えば、力も湧いてくるだろう」
そうオーウェルが強い口調で言うと、ジョージはどこかバツの悪そうな曖昧な笑みを浮かべる。
「いい子なんです。ちょっと気は強いけど……」
「あぁ、悪くないな。女はちょっと気が強いぐらいの方が色々考えなくて済む」
内心、そいつは苦労しそうだと思うがそれをオーウェルは口に出さなかった。
自分のカミさんも娘も気が強くて、たまに疲れている身として少しジョージの将来を案じてしまったが、自分と違って気は弱いが優しいジョージならば、意外と上手くいくのかもしれない。オーウェルはそう考えた。
「顔は小さくて、でもほっそりしててスタイル良くて」
「あぁ、いい女だな。聞いてるだけで分かるぞ。まるで旧時代のモデルみたいだ」
しかし、コイツとは女の趣味が合わないな。
少しでも安心させるように笑みを浮かべながらオーウェルは内心でそう呟いた。
女は少しふっくらしているくらいでいいのだ。カミさんはともかく、娘は無駄に痩せていて不安になる。
こんな時代だ。食えるときにしっかり食える女の方がいい。やれ見栄えだ健康だ気にする奴は生まれる時代を間違えている馬鹿だ。
娘もしっかり食べる方だが、食った分動きたがる女だ。健康的だと周りは褒めるが、オーウェルからすれば落ちつきのないじゃじゃ馬だ。
「目はパッチリしている」
「なるほど確かに、美人の半分はパッチリしているな」
「あぁ……それで、赤毛で」
「悪くない。ウチのカミさんも赤毛だ。娘もな」
「お、あぁ……背は低いがいつも明るくて元気良くて、でも怒るとおっかなくて……」
「はっは、なんだもう喧嘩があったのか。仲がいい証拠じゃねぇか。しかし、赤毛の子か……ピンと来ないな」
赤毛の女なんて、このポーツマスにもかなりいる。
自警団からシェルター維持のエンジニア、共同食堂の娘達を思い浮かべるが、数が多すぎる。
自慢の髭を触りながら、オーウェルは続ける。
ジョージの目から死への達観が消えつつある。ここで会話を打ち切るわけにはいかなかった。
「髪型は? どんな髪にしてんだ?」
「えぇと……短くしてます。いつも自分で切ろうとして……止めるのが大変でした」
「ハッハッハ、ウチの娘みたいなやつだな。髪を伸ばすのも切ってもらうのも面倒くさがって、いつも家のナイフで適当に切りやがる。おかげで」
「はっはっは……」
「それで、名前はなんていうんだ?」
「あの……ジゼル……って言います」
「そうか、うちの娘の名前もジゼルだ。奇遇だな、ジョージ! ハッハッハッハ!」
「は、はは……」
声をひそめたまま豪快に笑うという矛盾した行為を、オーウェルは容易くこなしてみせる。
そして吐き切った空気を肺に補充するために、深く深く息を吸い込み。
「ウサギ共ぉぉぉぉぉぉっ! 今すぐ新鮮な肉をくれてやるからこっちに来ぉぉぉぉぉぉぉぉいっ!!!」
「ちょとおぉぉぉぉぉぉぉうっ!!!???」
骨折及び出血など忘れたかのようにジョージはガバッと上半身を跳ね起こしてオーウェルにしがみつく。
「何デカい声出してんですか!? 元はウサギですよ! ウ・サ・ギ! あのデカい耳見りゃ耳良さそうってふわっと分かりません!? 本にも書いてることですよあいたたたたぁっ! 足、足が握りつぶされ――!」
「えぇいやかましい! 貴様ジョージ! 俺の娘に手を出しやがったなっ!?」
「出してませんよ! 出す前に別れました!! あ、ちょ、足が――」
「んだと貴様ぁっ! ウチの娘みたいなじゃじゃ馬じゃあ貧弱坊やのお眼鏡にかなわなかったってか!!?」
「ひとっことも言ってないじゃないですかそんなことっ!! 振られたんです! この間!!」
「ほっほーぅ! さすがウチの娘だ! 気の迷いはあっても男を見る目はあるらしい! なんて言われた! なんて言われて振られたんだ! ほれ言ってみろ! ほれぃ! ほれぃ!」
「悪魔かアンタ!!?」
これまでの潜伏モードはいったい何だったのかと言わんばかりの大声で喧嘩を始める二人。
「あれだろう! 大方覇気がないとか頼りないとか女々しいとかそんな所だろう! えっ!?」
「なんで正確に分かるんですか!!?」
「馬鹿野郎、アイツの父親だぞ!? アイツの言いそうなことは全部分かるわ! 俺が家で言われていることだからな! これで貴様も俺と同じ汚物を見る目で見られる存在だなざまぁみろ!!」
「アンタそれでいいのか!?」
やはり多少は痛むのだろう。顔をしかめながらジョージは自分で布の上から足を押さえて止血する。
先ほどまでの生を諦めそうな雰囲気はない。そういう意味ではある意味この会話は成功だったと言える。
「あぁ、ちくしょう! えぇそうですよ! 俺みたいな男は話しても面白くないらしいですよ! どうせ一緒になるなら、外を一人で歩き回れるくらい気概のあるやつがいいらしいです!! あの日系みたいな! あの日系みたいな!!」
「――なんだと?」
ピクリ、と頬を引き攣らせたオーウェルがそう問い返した瞬間、何かが空を斬る音が微かに響く。
咄嗟に音のする方に目を向けたオーウェルとジョージの二人の目に入ったのは、こちらに向かって牙をむいて飛びかかってくるアルミラージ
――の、頭が吹き飛ぶ瞬間だった。
一拍遅れて鳴り響く轟音。まるでそれに殴られたかのように横に飛んでいく、皮膚がただれたようになっている紅い角の生えた巨大ウサギ――アルミラージ。
その後ろから、大きさは違うが同じアルミラージ二匹が飛びかかってくる。
だが、その横から人影が飛び出してくる。
ぶっ放したライフルを、その反動を利用するように背中の大きなホルスターに素早く背負い直し、そして懐から素早く両手それぞれで拳銃を引き抜き、それぞれで二連射する人影。
その銃から放たれた2×2=4発の弾丸は綺麗にデカいウサギの頭と足を撃ち抜く。
「よし、無事だな?!」
大きな声で、だが圧ではなく気遣いを感じさせる声が、先ほどの音――弾丸が空を斬る音を塗り潰すように響く。
少し違和感のある英語だがハッキリと伝わるソレは、ジョージにはなじみが薄く、だがオーウェルには聞きなれた声だった。
「てめぇキョウスケ! よくもノコノコと出てきたな娘に色目使いやがって今すぐその首ねじ切ってやるから覚悟しろおらぁぁぁっ!!」
「――えぇ……?」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
救出に向かったらいきなり罵倒された。まぁ、この短気な自警団のオッサンはいつものことだ。
一昨日は酒の好みでまた違う若い自警団員と怒鳴り合っていた。
「貴様、本当に娘とは何もないんだろうな!?」
しかし今日は一段としつこい。
「そもそも娘って誰だ?」
「貴様、俺とアイツが欠片も似てないって言うのか!?」
「少なくともアンタみたいに髭の豊かな赤ら顔の女は見てないな」
痛み止めの分量間違えそうだからちょっと静かにしてくれませんかね。
ある程度は医者から習ってるけど、精々がなんちゃって看護師なんだから結構怖いんだよ。
「足の骨折か。アルミラージにタックルでも喰らったのか?」
「ソイツァ
「それは……本当に運が良かったな」
ケーシー。一言で言えば緑色の犬だ。ただし、その大きさは牛ほどもある。今回は小型だったらしいので個体の殺傷力も低かったのだろう。
ゲーム内では序盤――開始位置にもよるが、割とすぐに遭遇する。ある程度ゲームに慣れてきて遠出しようとしたプレイヤーを発見次第一斉にタコ殴りにして、対多数戦と防御スキルの大事さを叩きこんでくれる素晴らしいモンスターだった。通称ケーシー先生。
碌に装備も防具も用意しておらず、拳銃だけで採取ポイント探索に出かけて一瞬でHPを削られたのは今となってはいい思い出だ。買ったばかりの防具の耐久も一瞬でギリギリまで溶かされた。
ドロップもショボイので、一週間もするとサブマシンガンやライフル持ちに蹴散らされた死体がよく消えるまで散らばっていたが、全てが現実となっているこの世界ではかなりの脅威だ。
なにせ、向こう側から襲ってくるときはどんなに少なくても5匹――酷い時は20匹近くの群れで囲んでくる。
「こっちに来るまでにはアルミラージ以外は見ていない。本当にはぐれだったんだろうな」
離れた所では、展開して設置したボックスタレットが『タッタッタッタッタッタッ!!』とセンサーに引っかかった方向目掛けて弾丸をばら撒いている。
ゲームだと一定時間弾を撃ち続けてくれる、序盤の、特にソロプレイではほぼ必須と言っていい野戦アイテムだった。
こちらだと継戦能力にこそ難はあるが、弾を補充さえすれば長く使える防衛装置だ。
「おい、あのタレットはどれくらい持つんだ?」
「撃ちっ放しで3分ほど。本来ならばベルトリンク付けてもっと弾薬をばら撒けるんだが……まぁ、持ち運んできたからな。このままアレを囮にして、その間に後退しよう」
「いいのか?」
何がだ。
「あのタレット、ぶっ壊されるぞ」
「そりゃ、囮だからな」
「商品だったんだろう? それに、結構資材使ったんじゃねぇのか。この間も物が足りないって嘆いてたじゃねぇか」
「まぁ、そこは確かに頭が痛いが……俺のモットーは?」
「……そうだな、そうだった」
そもそもタレット一つくらいなら大した損害じゃないし、どちらにせよここの守りを固めるために作ったのだ。十分その役目は果たしている。
「おい、ジョージだっけか。足以外に痛む所はないか?」
「あ、あぁ……」
どこかで見た、多分俺より少し年下の自警団員は、痛みをこらえながらそう答える。意識がはっきりしているのは幸いだ。時間が経っているのが不安だが綺麗な水で洗って消毒。そして添え木を当てて布で固定する。
「これでよし。残念ながら完全麻酔じゃない、痛みを少し和らげるぐらいしか注射していないが……大丈夫か?」
「大丈夫だ。その……ありがとう、ジャパニーズ」
「気にするなイングリッシュ。今度ウチの店を使ってくれりゃあそれでトントンだ」
ゲームの便利な回復アイテムと違い、傷が瞬く間に回復するわけじゃない。
となると運ばなくちゃいけないが――
「オーウェル、彼を背負って歩けるか?」
「たりめーだ。コイツとは鍛え方が違うんだ。なんなら走ってみせようか?」
「いや、必要ない。仲間の待つ陣地まで、クリーチャーと命をかけた極限の逃走劇――そんなハリウッド展開は要らないだろ」
ライフル置いてくりゃ良かった。ひょっとしたら役に立つかもしれないと思ったけど実際いらなかったな。
やっぱり基本的に遊撃よりも陣地に引き籠って撃ち漏らしを仕留める方が向いているらしい。
「ここはイングランドだ。スマートに行こう」
「ジェームズ=ボンドのようにか?」
「あぁ」
「この前慰問会であのフィルム見たが、……本当に旧世界のスパイってのはあんなんだったのか?」
「……さぁ? 昔の人間に聞いてくれ」
いいじゃんボンド。カッコ良いじゃんボンド。俺毎回映画見に行ってたよ。というかこの世界にあったのかよボンド。ちょっとそのフィルム売ってくれませんかね。
「あぁ、そうしよう。できれば女の口説き方についてもご教授願いたいもんだ」
「おい、妻子持ち」
娘さんは知らねーけど奥さんいい人じゃん。アンタと同じく恰幅いいけど、優しいおばちゃんって感じで嫌いじゃねーぞ俺。
――あ、
「そういや聞きそびれたな」
「あん?」
「娘さんだ。名前は? ひょっとしたら知ってるかもしれない」
「……もし知ってたら首をねじ切ってやる」
オーウェルはジョージをゆっくり、丁寧に背負い、
「ジゼルだ。赤毛で、髪は短く切ってる」
「ジゼル……赤毛……」
その条件に合致する知り合いをパパッと脳内でスキャンする。
というか、すごく聞き覚えはあった。ただ、この人の娘ということで変な先入観があったのかすぐには出てこなかったが、ようやく思い出せた。
「あぁ、昨日一緒に行商したいって言ってきた子か」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「キョウスケから戻るって通信が入って5分か」
「えぇ……待ち遠しいですか?」
「あぁ、もう一時間は待っている気さえしてくるぜ」
キョウスケからタレットの起動スイッチを預かった商人は、キョウスケが走り去っていった方向をじっと見ながら仲間とそんな会話をしていた。
「通信の声、少し焦っていましたね」
彼の話相手をしている女性は、行商をしているキョウスケから品を仕入れている商人だった。
彼女だけじゃない。キョウスケが比較的安全な道を見つけているとはいえ、他の街まで出向いて商売をする人間などほとんどいない。新しい物や不足している物を手に入れようとなると、車か防衛手段か、あるいは両方を持っている人間は非常に貴重なのだ。
それが独占意識など一切なく、頼んだ物は可能な限り探す努力をしてくれる奇特な男となれば、繋がりを持っておきたいと思う人間は非常に多い。
「あぁ……ひょっとしたら群れに襲われてるかもしれねぇ」
あの男に限ってまさか、とは思う。
だが、昨日まで共に飯を食っていた人間があっさり消えるのがこの時代だ。
「ひょっとしたら、この前刺激しちまったクリーチャーがこっちに来ているかもしれねぇしな」
ここポーツマスは、かつてこの国が大英帝国という看板を背負っていたときの軍港の街だった。
その名残として、あの『青い雲』が出現しだした頃も、海軍や海兵隊の基地、造船所、そして司令部が残っている。
――そんなすげぇ所なら、資材や機材……いや武器や弾薬だって大量にあるはずだ! 回収できれば暮らしは一気に良くなる! そうだろう皆!!
そう言って若い連中を煽った馬鹿がいた。
30になったばかりの、それなりに場数を踏んだ自警団員だ。そう、それなりに。だからこそあんな軽率なことを考え、そしてそれに乗る奴らも出てしまったのだろう。
自警団の団長や市長が止める間もなく、ソイツは賛同した連中を連れて海の方へと進軍し――そのほとんどは帰ってこなかった。
生き残った奴が言うには、造船所も基地も、そして破壊されていない船にも厄介なクリーチャーが大量に住み着いていたらしい。
今のところ、アルミラージとケーシー以外の目撃報告は来てないが……。
「……おい、あれジャパニーズじゃないか!!?」
そんなとき、身を物陰に隠しながら銃を構えて外の様子を窺っていた自警団の一人が声を上げる。
それを聞くのと同時に、何人かは素早く『本当かっ!?』とそちらに目を向ける。
個人的に恩義がある者もいれば、キョウスケのような商人が自分達の生命線だと知っている者もいる。だが、少なくとも彼の身を案じているというのは間違いない。
「おい、後ろで何かモゾモゾした塊がおっかけてきてんぞ! ひょっとしなくてもあれ全部アルミラージか!?」
「なにぃっ!?」
自警団の人間が双眼鏡で状況を確認する。
「キョウスケとオーウェル……ジョージも無事だ、足やられてるがオーウェルが運んできている!」
「おいアンタ! ちょっと貸してくれ!」
商人は自警団の男から双眼鏡をひったくる。
自警団の男はなにか言いたそうにするが、すぐに踵を返して三人の援護を指示し始める。
「――あんの野郎、やっぱり見つかっちまったか!」
双眼鏡に、自分の眼球を押しこまんばかりに勢い良く押し付ける。
いた、キョウスケだ。間違いない。
「おい、キョウスケ! そのまま真っ直ぐ走ってこい! 自警団の連中がお前さんのタレットと鉄条網で迎撃準備を整えている。まっすぐこっちにくりゃ後ろのモゾっとしたフットボールをストーンヘンジの向こう側までぶっ飛ばしてやる!」
返事をする余裕があるかどうかは分からないが、商人は無線機のスイッチをいれて必死に怒鳴りつけていた。
一拍置いて、マイク部から『ざざっ』というノイズが走る。そして――
『タレットを囮にしようって言っただろう見つからないように行こうって言っただろうスマートに行こうって言っただろう!? なんで大声あげて敵をこっちに呼び寄せた!!? 結局ハリウッド張りの逃走劇になってんじゃねーか! しかもアクションじゃなくてコメディの方の!!』
『やかましいジャパニーズ! 貴様がなんと言おうとジゼルは渡さん!!』
『だから持ってくつもりねーって言ってるだろうが! おいジョージとやら、なにか言ってやれ! ついでにそのままソイツの首を絞めて黙らせてやってくれ!』
『あぁ、もう駄目だ、なんか綺麗な花畑の向こうで誰かが手を振ってる……俺もそっちに』
『ジョーーーーーーーーーーーーゥジっ!? しっかりしろ、あとちょっとで陣地内だから!! あとちょっとだから!!!』
「………………」
商人は片手でレシーバーを耳に押し付け、もう片手でレシーバーを耳に当てたままピクリとも動かない。
レンズによって、三人の様子は距離に関係なくよく把握できる。
キョウスケは怒鳴りながら手にしたハンドガンを後ろに向けて撃ちまくり、一方で赤ら顔のオーウェルはジョージを背負って走っている。ジョージは真っ青な顔で死にかかっている。
「これは……どういうことなんでしょうか?」
女の方は、様子こそ見えていないが無線機から零れた声だけは聞こえたのだろう。
頬に一筋の冷や汗を流しながらそう尋ねる。
そして、同じく聞こえていたのだろう自警団の面々は『あぁ、あの親バカまたやりやがった』と言うような諦めに近い気配が漂ってくる。
「……酒が欲しいな」
「飲まなきゃやってられませんか?」
「いや、瓶口に布詰めて火を付けた物をあの馬鹿の目の前に叩きつけてやりたくてな」
通称モロトフ・カクテル。俗にいう火炎瓶である。
「……気持ちは分かりますけど実際にやらないでくださいね? 私、キョウスケに頼んでる物がいくつかあるんですから」
「はっ、アイツに頼みごとをしたことない商人ってのがいたら見てみたいもんだ」
無線機を腰に戻し、双眼鏡を女商人に押し付けてから商人は葉巻――先日キョウスケからポーカーで勝ち取った戦利品の口をナイフで切り落とし、火を付ける。
それをくわえて空いた手にはスイッチ――自警団が管理しているモノとは別の、キョウスケ自身が仕掛けた『箱』の起動スイッチが握られている。
「……あのブロックを越えてから10秒くらいか」
体力馬鹿のオーウェルと、意外と身体を鍛えているキョウスケだ。互いに重い物を持っているとは言え、速度はかなり速い。キョウスケも弾が尽きたのか、走ることに専念しだした。
「……8……7……6……」
双眼鏡の必要もなくなってきた。必死に腕を振って走る二人、その背後には目を爛々と輝かせた化け物ウサギの群れ。その牙をむく声すら聞こえてきそうだ。
「……3……2……1っ!」
商人がスイッチを押す。
二人が走ってくる真っ直ぐな道――そこにある廃墟のバルコニーや屋上、そこらに設置されていた『箱』が一斉に開き、中から鳥の頭に似たガンタレット部が展開される。
「キョウスケぇっ!!!!」
叫びが届いたのか、キョウスケとオーウェルはさらに速度を上げる。
――ぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱっ!!!
そして、その後ろ――ちょうどウサギの群れの先頭少し後ろ辺りに、上から弾薬の雨が降りしきる。
『ぎぃぃぃぃぃぃっ!!!????』
兎の群れは戦闘組とその後ろに分かれ、だがそれでもキョウスケ目がけて襲ってくる。
だが、
「オーウェル! さっさとその赤いラインを越えろ!」
「言われんでも分かってるわ!!!」
既に左右に展開した自警団が援護射撃を始めている。それを指揮している男の叫びにオーウェルは怒鳴り返す。
そのまま二人は走り、そして倒れ込むように地面にチョークで書かれた赤い線を飛び越え、そして――
「展開っ!」
ちょうど、赤い線の上に置かれていたタレットが次々と起動し、更にまっすぐ向かってくるウサギの群れを包むように展開されたタレット網。それが一斉に起動し――
――弾丸と血液の暴雨が、ポーツマスの道で吹き荒れた。